熱に中った症状として

(2014/07/12)


 通り掛かった八百屋で、西瓜が安かったのだ。一玉九百円也。如何にも其の西瓜は不格好だから、安く売り叩かれて仕舞ったらしい。かんかんと照り付ける日差しの中、此の侭売れなければ廃棄されて仕舞うのだろう。吁、勿体無えな、と中也は思った。熱にやられて今にも燃えそうな程に頭が熱く、体中が水分を欲していた。口の中がからからに渇いていた。だから、つい何となく、一人では食べられもしない一玉を丸ごと購って仕舞ったし、らしくない行動を取って仕舞った。
 蜃気楼の立ち込めるアスファルトの道を、ビニール袋をぶら下げて歩く。今日は任務の無い為に、何時もより少しだけラフな格好をしていた。外套も手袋も帽子も外して、唯一首に残したチョーカーだけが、首筋に汗の存在を訴える。途中、コンビニに寄って、もう一つ袋が増えた。冷えた麦茶が二リットル。五百ミリリットルで善いじゃあないか、と耳元で理性が囁いたにも拘らず、足りない水分を求める様に迷わず背の高いペットボトルを手に取っていた。ビニール袋ふたつ、指に食い込んでじわりと痛む。中也にとっては何でも無い事だったが、持ち手が伸びて裂けないかだけが心配だった。
 そうしてふらふらと何の気無しに辿り着いた古びたアパートの前で、中也は解錠の為に荷物を一旦足元に下ろした。失くしてなけりゃいいが、とキーケェスを取り出す。長らく使っていない鍵だ、知らぬ間に何処かに行って仕舞っているかも知れない。今日此処へ来る事は全く予定していなかったものだから、事前に探しておくこともしなかった。無ければ無いで善い。大人しく此処を立ち去るだけだ。
 果たして、その鍵は在った。
 がちゃり、と音を立てて、ゆっくりと差し込んだ錠が回る。手に馴染む感覚。一年振りに訪れるにも拘らず、最後に此の鍵を開けた時の事が、まるで昨日の事の様に思い出される。
 あの時も、あの男はこう云ったのだ。
「遅いよ、中也」
「……手前を呼んだ覚えはねぇぞ、太宰」
 扉を開けて部屋の中を覗くと、「やあ」と然も当然の様な面で居座っている、元相棒の疫病神の姿が在った。

 古いワンルームタイプのアパートだった。まるで金の無い学生が借りるかの様な。現在の中也の、マフィアの幹部と云う肩書には到底似つかわしいものではない。かと云って、さっさと賃貸契約を解除して仕舞うのも憚られ、手続きが面倒だと云う内にだらだらと借り続けて仕舞っていた。
 家具なんて何も無い此の部屋を中々一思いに手放せないのは、屹度此処に感傷を置き去りにしているからだ、と中也は何と無しにそう思っていた。過去だとか、思い出だとか。そう云った余分な諸々を、此処に放り出しておくのだ。そうして時たまふらふらと此の部屋を訪れては、ぼんやりと時を過ごしていた。年に数度も無かったが、ひとりでぼうとしゃがみこむと、此の六畳一間はひどく落ち着いた。
 ……邪魔者が居なければ、の話だったが。
「中也ー暑いよー、こんなに暑いと私溶けて死んで仕舞うよー、あーづーいー!」
「良い年して菓子売場のガキよろしく喚いてんじゃねえよ」
 ごろごろごろごろばたん、と部屋の端から端まで畳の上を転がる太宰を尻目に、中也は窓を開けて篭った空気の換気を行う。電気は……幸いにも止まっていない様だ。中也は冷蔵庫を開けて、其の可動の状況を確認する。少し古臭い匂いはするが、然して問題も無いだろう、と西瓜と麦茶を放り込む。瓦斯も動いているし、水も止まっていない。屹度其れ等の料金は、中也の口座から今も引き落とされているのに違いなかった。中也は瞑目する。通帳など、久しく確認していない。
「て云うか此の部屋未だエアコン設置してなかったの? 世間では日々熱中症で人がばったんばったん倒れているって云うのに、今時文明の利器の一つも置いてないなんて、人の営みとして如何かと思うよ……」
「扇風機で十分だろうが、オラ退け」
 押入れに仕舞い込んでいた扇風機を取り出し、ぐたりと俯せに動かなくなった太宰に向けて「強」の釦を押し込んだ。本人の性格よろしくふわふわと遊んでいた黒髪が、ぐしゃあと風で押さえ付けられる様に首筋に張り付く。其の襟足の間に汗が光っているのが見えて、中也はぱちりと瞬いた。其れから、嗚呼、と誰に向けるでもなく得心する。嗚呼、そう云や此奴も、汗も掻けば小便もする、血の通った人間だったな。
 太宰に跳ね返った風を受けている内に、急激な喉の渇きを思い出し、中也はシンク周りをぐるりと見回した。埃塗れのグラスが二つ。紙コップも購って来りゃ善かった、と舌打ちをする。幸いにも、食器用洗剤は未だ大分残量に余裕が在ったので、スポンジに洗剤を捻り出す。
「そう云や、手前如何やって此の部屋に入ったんだよ」
 小さい部屋だから、声を張らずとも会話が出来る。其の点に於いては、此の部屋も存外、悪くないのかも知れなかった。然し男二人に六畳一間は少々手狭だったから、一長一短と云う奴だろう。大きなマイナスは、扇風機に向かって云う「ワレワレハーウチュウジンダー」なんて間抜けな声が筒抜けな事くらいだ。
「鍵、変えてから渡してねェ筈だろ」
「ええー……私が如何やって入ったかとか、そんな事如何でも善くないかい……? まあ私が入った方法は中也が此の前の水曜、任務の時に一旦脱ぎ捨ててた血塗れの上着からキーケースをスッて鍵を複製しておいた訳だけど、そんな事しなくてもああ云う古いタイプの鍵はこう、コツを掴めばちょいちょいっと解錠出来ちゃうしさー……」
「……」
 此の狸野郎、後で殴ろう、と強く決意をしながら洗った食器を立て掛ける。透き通る、アイスドリンク用のグラスが二つ。自分の物と、太宰の物だ。皿も二枚、箸も二膳。洗面所に行けば歯ブラシだって二本在る筈だった。其れに反して、シャンプーは一本。布団は一組。西瓜は一玉、麦茶は二リットル。

「中也? なに放心してるの」
「……嗚呼、悪い」
 何で俺はこんなに購って来ちまったんだろうな、とぼやきながら、西瓜を切り分け、グラスに麦茶を注ぐ。まるで判ってたみたいじゃねえか、此の男の来訪が。否、本当は薄々感づいていたのだろうか? 今日、此処に来れば、此の男が屹度居るだろう事を、自分は密かに期待していたのだろうか。
 胸糞の悪くなる思考を振り払って、中也は台所から顔を出した。足元に纏められている縄に躓かない様にして部屋に戻ると、太宰は再びぐたり、と全身を畳の安寧に預けていた。怠惰此処に極まれりと云った風体にむしゃくしゃして、其の邪魔な体を蹴り飛ばす。
「痛い!」
「手前は人んちで寛ぎ過ぎだ」
 ほら、食えよ、と太宰の前に西瓜と麦茶を出すと、生気を失っていた其の顔がぱっと綻んで、「有難う。君にしては気が利くよね」といけしゃあしゃあと宣った。一言多いんだよ手前は、ともう一度、今度は脛を蹴り付ける。ローテェブル、なんて洒落た物は無かったから、皿もグラスも直置きだ。
 しゃくしゃくしゃくしゃく、と二人分の西瓜を食す音と、ぶおおと扇風機の回る音。意識すると、外からじじじじじ……と蝉の鳴き声が聞こえて来て、扇風機の前で其の清涼に少しだけ高揚した気分を萎えさせた。西瓜は安物だった所為か味が薄く、其れでも、からからに渇き切った体には其れで十分だった。口の中に水分が満たされて行く。満足感で、部屋を捉える視界が一瞬、茫洋と滲む。マフィアの自分と、マフィアを裏切った元相棒の男が、何を云うでもなくこうして呑気に西瓜を食しているなんて、莫迦げた光景だと自分でも思う。そんな中、縄に染みた土埃の匂いだけが、この空間に妙に現実感を与えていた。
 ……待て。縄?
「おい、その縄は何だ」
 中也は部屋の隅に打ち捨てられた、見慣れない物体を凝視する。縄なんて持ち込んだ覚えは無い。けれど、其の太さと長さは何処かで見た事が有るような気がして、例えるならばそう、「何か」に適した形で在る様な気がして、中也の胸の裡は嫌な予感でいっぱいになった。持ち主と思しき男は、ああー矢っ張り気になる? と明日の天気の事でも話す様にへらりと笑った。
「いやあ、丁度善い自殺日和だったから、一発中也の部屋で首吊りでもしようかと思ってたんだけど」
「人の部屋で何やってんだ此ンの表六!」
 予想通りの何処までも碌でなしな発言に、中也は思わず食べ終わった西瓜の皮を投げ付けた。其れをひょいと避けて、太宰は心底残念そうに首を竦める。
「でも此処、文机もなーんにも無いからさ、梁に手が届かなくて」
 だから先刻諦めたんだよねー、と西瓜を咀嚼しながら呑気に発された言葉に、中也は思わず頭痛薬を探した。年単位で放置しているとは云え、自分の部屋に帰って来たら此の男の首吊死体がぶら下がっていた、なんて厭すぎる。そんな悍ましい物に遭遇して仕舞ったら、其の場で倫理観なんて丸ごと捨てて、ガソリンをぶち撒けて火を放って仕舞いそうだった。

「あ、そうだ。好い事思い付いた」
 先程勢い良く壁に投げ付けて仕舞い、ぐしゃりと潰れた西瓜の皮を処理しようと中也が立ち上がった処で、唐突に首に縄が回った。咄嗟の事に体が追い付かず、無抵抗に畳に引き摺り倒される。
「っ、だざい」
 伸ばした手は跳ね除けられて空振る。狩りをする獣の様な鮮やかな手並みで体ごと伸し掛かられ、次にナイフに伸ばした手を脚で封じられた。婀娜っぽい笑みを浮かべる其の顔を見ると、如何やら本気で中也の事を絞殺しようと云う訳ではなく、単なる戯れの積りの様だった。だからこそ、反応が遅れた。なんて、云い訳地味た言葉が一瞬頭を過る。実際は茹だる様な暑さで、頭がやられて油断していただけだ。そしてこう云う嫌がらせをする時の太宰は、決して獲物を逃しはしない。
 にこ、と害意なく笑んで首に掛かった縄を左右に引く太宰に、中也は抵抗を示そうとするが、上手く体が動かせない。そうしている間にも、縄はぎりぎりと首を圧迫していく。どくんどくんどくんと、血の流れる音が耳元で響く。
「ぁ、ぐッ……!」
「うんうん。好きでしょ中也、こう云うの」
 喘ぐ様に開閉させた口が、太宰の唇で塞がれた。先刻まで食欲の優っていた感覚を、無理矢理そう云う気分に切り替えられる。けれど過去に何度体を重ねていても、太宰のくちづけに慣れると云う事はなかった。苦痛と快感で頭の中をめちゃくちゃに掻き回される感覚に、意識が霞む。酸素の失くなっていく感覚が、心地好いなんて感じ始めたのは何時頃からだっただろうか。何時の間にか両腕が解放されていて、中也は太宰の背中にしがみ付く様に腕を回した。どくどくと響く鼓動の音とぐちゃぐちゃと犯される口内の音で、あァ、とも、んぅ、ともつかない声が唾液と共に漏れる。後は何も考えられなくなって、中也はただ太宰の服を握り締めた。

 視界が白くなり始めてふっと意識を手放し掛けた瞬間、縄が緩んだ。糸を引いて離れた太宰の口が、ゆるく弧を描く。中也はぐたりと全身を畳に預け、ひゅっ、と呼吸を取り戻した。抵抗する気力は、疾うに失せていた。
「何が……首吊りだよ……家具なんてねぇの、知ってンだろうが……」
 荒い呼吸の合間に、何とか其れだけを絞り出す。太宰は答えない。答えずに薄笑いを浮かべた侭、中也と縄の間に存在するチョーカーに手を伸ばし、柔く撫で、其の拘束を緩めた。肌の触れ合った部分から、二人分の汗が混じってぱたりぱたりと畳に落ちる。中也は朦朧としながら、珍しく熱い太宰の体温を感じ取っていた。背中で擦れる畳の感触。火照った体を撫で上げる太宰の掌。目を閉じると、じじじと囂しい蝉の声が遠い。
 昼日中から、良い大人が一体何してンだろうな、と薄く笑う。暑さを理由に、其の自嘲を放り出す。
 そうして漸く、中也は夏の到来を感じるのだった。
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