夜に微睡み
(2015/03/04)
夜中にぱちりと目が覚めた。太宰の体はシーツを抱えて丸まっていた。
身を起こせば冷えた夜気が肌を刺した。包帯は巻いていなかったから、肌に直に。寝台から出ようとして、ぴた、と足裏に吸い付いたフローリングの冷たさにそれを一瞬躊躇う。
却説困った。開眼と共に意識はこの上無くクリアに覚醒している。到底二度寝と云う気分ではない。窓の外を見れば真っ暗闇で、寝台の内を見れば己の相棒が寝ていた。その小さな体を丸めて。此方に背中を向けて。数分前の自分と同じように。太宰はぼんやりとそれを見る。くす、と笑いは起こらないでもなかったけれど、気温の低さが太宰の頬を凍らせていた。
照らす灯りはベッドサイドのランプのみ。このご時世、勿論電気製だから、灯りが風に揺れるなんてことは勿論無い。夜の空気と同じように、ただじっと静止した電球色の淡い光が、相棒の白い肌をぼうと夜の闇の中に浮かび上がらせていた。
「……中也?」
夜の静寂を震わさぬよう、そっとその名を呼ぶ。掠れて出たその声に、然し相棒が起きる気配は無い。珍しい。太宰はうーんと少し考えて、再びシーツの中へと潜り直した。少し喉が渇いた気もしたが、それよりも兎に角寒かったのだ。冬の初めの、陽も疾うに沈み切った後のこの時間帯の物悲しい空気は、直接肌に触れて好いものじゃない。体は既に熱を奪われ切っていて、冷たくて寒くて死にそうになる。今は特に、シーツの他に何にも着ていないから余計に。そうして潜り込むとシーツとマットレスの間には未だ二人分の熱の名残が在って、太宰はほっと息を吐いた。
そう言えば、今何時なのだろう。思ったけれど、壁に掛かっている筈の時計を暗闇の中に探すのは億劫だった。どうせ見たって見えやしないのだ。こちこちこちと、上品な秒針の音だけを聞きながらばんばんと枕元を何度か叩く。目的のものは直ぐ見つかった。引き寄せて、釦を一回。端末に映った数字は、丁度きっかり午前二時。うわあ、見るんじゃなかった。太宰は嘆息する。
詰まりまだまだ夜は明けないと云うことだ。日の出まで後五時間近く、太宰は息を殺していなければならない計算になる。
中也が起きないから。
この静寂の中で。
独りで。
「中也、寝てるの、ねえ……」
太宰の声に反して、今夜はとても静かだ。虫の息さえ聞こえやしない。いっそ銃撃の音でも聞こえて呉れた方が、太宰にはずっと楽だった。嗚呼、誰か派手にマフィアの本部とか襲撃して呉れないかなあ。今直ぐ。太宰は物騒なことを思う。この静寂を壊して呉れるなら、誰だって良いのに。
そしたら相棒も起きるだろうし。
でもこんなときに限って何も無かったから、相棒は相変わらずすうすうと寝息を立てるだけだった。規則的な呼吸に合わせて、上下する肩甲骨。太宰に無防備に晒される、相棒の背中。そんなことは珍しくて、太宰は戸惑うしか無い。そう云えば、何時も太宰が起きるときには起きているのだ、この相棒は。特にこんな夜は決まって、太宰の方が先に意識を落っことす。それなのにずるい。如何して今日に限って、私を独りで置いてくの。
君が起きないのが悪いんだよ、と心の中で一言置いて、太宰はするりとその背中を指で辿って撫でる。細い背中だ。けど無駄が無くて、引き締まってて。好きか嫌いかで云えば好き。そう、中也の体は好きだった。中也の体に触れるのも好き。触れられるのも。
――太宰。
そう、太宰の名を優しく呼ぶ声、相棒に触れられた感触が、不意に蘇って太宰の奥の熱が疼いた。つい数時間前のそれが、もう回想の対象だ。寒いから、思い出すだけじゃあ足りなかった。早く起きて。起きなよ、中也。
そうして指先で腰まで辿って行って、其処で太宰の指はぴたりと止まった。引っ掛かったのは包帯。彼の体を包むそれは、常には見られない装飾だ。幸いにも暗くて見えないけれど、其処には血の滲んだ跡が在って、その奥には出来たばかりの銃創が在る筈だった。太宰を庇って受けた傷。自分でも、綻んでいた顔が強張るのが判って、太宰はなんだか可笑しかった。寒さのせいじゃなく頬が凍っていたから、笑うことは叶わなかったけれど。
思い出されるのは昼間の任務。前線で、今度こそ死ねるかなあと囮も兼ねてぼんやりしていた太宰を「莫迦か手前!」と怒鳴りつけ、中也が抱えて逃げた、そのとき。逃げたと云って人聞きが悪ければ戦略的撤退と云い換えたって善い。いや単なる後退? どうせ数百メートルの距離だ。その後立ち止まって、反撃して、敵を殲滅したんだから大差無い。
問題は、その数百メートルの間に中也が被弾したことだった。
常ならば、銃弾なんて玩具が彼に届く道理は無い。
彼の異能に絡め取られるからだ。
けれど、太宰を抱えていた。
太宰を抱えていて、異能が無効化されたから、中也に弾が中ってしまった。
「中也……っ」
そのときの太宰の切羽詰まりようときたら、後々まで相棒に嘲笑われることとなる。まったくあれじゃあ、どっちが撃たれたんだか判りゃあしねえよ、と。
取り敢えずそれ以外は太宰の作戦通りに進んでいたから、敵を殲滅して――中也に弾を中てた奴は特に念入りに念入りに始末して――応急手当てをして。太宰のマンションが近かったから運び込んで、其処で医者を呼んで、本格的に手当てをして。幸い弾は体内には残っていなくて大事には至らなかったから、中也の部屋に寄って着替えなんかを取ってきて。そうして医者が帰ったから、くたりと熱っぽいような顔をしていた中也に太宰は訊いた。
「ええと。する?」
今から思い返せば、ちょっと笑えるくらい間抜けな質問だったかも知れない。
中也は寝台に体を預けていて、少し前まで痛みと発熱に呻いていたのが、鎮痛剤が効いて漸く落ち着いていたようだった。それでも額にはじわりと汗が滲んでいて、「気持ち悪ぃ」なんて云うものだから汗を拭くのを手伝っていたのだ。自分の部屋なのに中也の体の匂いが混ざっているのになんだか興奮したのは否めないけど。中也がその額に手を中てて、次は「頭痛え」なんて呟くものだから、「あれ、頭も撃たれたの」と訊いたら「ネジが外れたのかも知れねえな」と返された。「もう手遅れなんじゃねえか」とも。
「なんでそうなンだよ」
「ほら、なんだっけ……熱が出たら、単純に、一回抜いた方が収まるらしいから……?」
確か、そうだった気がする、うん、と曖昧に頷けば、呆れたような笑いが返った。
「……莫迦だろ、手前」
中也は笑って、それから何も聞かずに太宰を抱いた。
傷が開かないように、ただそれだけの理由だったのだろうけど、何時もより優しく触れてくる指先だとか、中で遠慮がちに揺さぶられる熱だとかに翻弄されて。
それからの太宰の、午前二時に至るまでの記憶は曖昧だ。ただ夢心地の中で、一生分くらい中也の名を呼んでいた気がする。
「……ん」
包帯の上から傷を撫で上げていると、びくりと中也の体が強張った。太宰は驚いて手を離す。痛みが有っただろうか、鎮痛剤が切れたとか? 職業柄、薬の効きは良くないからうんと強いのを打っている筈だけど。
「中也?」
「太宰……?」
もそ、と中也が体を返して此方を向く。とろりと溶けたその声は、彼の意識の覚醒が当分遠いことを如実に示していた。太宰はふ、と息を吐く。目は薄っすらと、開いているのだか閉じているのだか。確認しようと身動ぐと、んん、と不明瞭な唸り声を上げて、そのままぎゅうと抱き込まれる。肋の辺りに、湿った吐息が直に中って擽ったい。
「ちゅうや」
「寝ろよ……夜は寝るもんだろ……」
「それ、君が云う?」
夜はマフィアの時間だって云うのに。
再び手を傷の上に置く。撫でる。無意識にか、中也の眉間の皺がぎゅっと寄った。痛いんだ、きっと。そう思って、ちょっとしたいじわるごころで訊く。
「ねえ、痛まないの、怪我」
「あ……? こんなもん、怪我の内に入んねえよ」
そうはっきり訊くと、痛みが有る筈なのに何とも無いみたいに中也は笑う。皮肉っぽく、口の端を上げる。
「それとも手前の所為だと罵って欲しかったか?」
その問いは、まるで小さな針のように太宰の深奥にちくりと刺さった。
「手前の身も守れねえ能無しとは相棒は解消だって、三行半が欲しかったかよ……」
息が詰まった。やっと温まったと思ったのに、肺まで冷たい空気が入ってくる。けほ、と一つ咳をした。それでもまだまだ冷たさが痛くて、刺すような空気が流れ込んでいるその場所が、肺じゃなく心臓なんだと気付く。痛い。それが、中也から別れを告げられることを想像して痛むのか、中也から別れを告げられないことに対して痛むのか、判らないけど。兎に角痛い。
呉れって云ったら、呉れるのかな。
でもそしたら本当に独りで寝なきゃいけなくなるし。
それはなんだか、嫌だなあ。
そう悶々と思考の迷路に挟まっていると、不意にぐいと後頭部に手が回ってきて引き寄せられた。抵抗する間も無く唇を押し付けられる。柔らかく舐められる。舌が割り込んできて、ああ、拙い、これきもちよくなっちゃうやつだ。そう思っていても止められない。口の中を動き回る中也の舌に、自分のを絡ませて、絡ませられて、散々に貪られて。最後にちゅっと軽い音をして離れるキス。
それから一言。
「……見縊んじゃねえよ。懺悔をしたきゃあ、他所行きやがれ……」
本当に寝惚けてるんだろうな、この男、と半眼で文句をつけてみるものの。
それで沈んでいた思考が引き上げられる自分も存外、単純で。
「もう寝ろ、太宰。中途半端な時間に起きるから、下らねえこと考えんだ」
「……うん」
太宰はぎゅっと相棒の体を抱き締めた。細長い手足で絡め取るように、相棒の体に覆い被さる。中也は横向きに丸まって寝ていて、だから上側は上手く行ったのだけれど、下側にも手を回そうとぐいぐい体とマットレスの間に手を差し込んでいたら相棒が厭がる気配がした。
て云うか厭がっていた。
「痛え……」
太宰は笑う。
「こんなの、傷の内に入んないんでしょ? 我慢してよ……」
そうして漸く通った手を、相棒の背で軽く組む。足で爪先に触れると、末端までは体温が行き渡っていなくって、シーツの中で絡め合うように熱を分け合う。
「……そうだね、別に、罵って欲しくないし、三行半も欲しくない」
目を閉じる。其処に横たわるのは闇だ。暖かい闇。
もう寝ないと。
「でもその代わり、綺麗な体とか、死なない保証とか、そう云うのもあげられないかな……」
だから、御免ね、と夜の闇に乗せて呟くと、「ばァか」と一言返ってきた。うとうとと返されたその言葉にぱちりと目を開ける。腕の中の相棒を見下ろす。
「手前になら……」
「うん?」
すり、と相棒が距離を詰めてきて、ぎゅうと体が密着する。皮膚と皮膚が擦れ合って、熱と熱が合わさって、夜の中でも寒くない。もぞりと中也の手足が、太宰の体を捕らえる。
「手前になら……体くらい、幾らだって……」
くれてやるから。
最後はむにゃむにゃと、曖昧に太宰の耳を過った。なに、と聞き返す間も無く、中也はすうと寝息を立てて、太宰に腕を回したまま寝入ってしまう。柔らかい髪を胸に押し付けられる。額、それから頬。本当無防備だ。信じられないくらい。
けれど、嗚呼、誰か襲撃して呉れないか、なんて莫迦げた考えは疾うに何処かに消えて失くなっていた。太宰は黙ってぎゅうと相棒の熱を抱き締め返す。
後はただ、誰もこの夜を壊して呉れるなと、只管に願うのみだった。
夜中にぱちりと目が覚めた。太宰の体はシーツを抱えて丸まっていた。
身を起こせば冷えた夜気が肌を刺した。包帯は巻いていなかったから、肌に直に。寝台から出ようとして、ぴた、と足裏に吸い付いたフローリングの冷たさにそれを一瞬躊躇う。
却説困った。開眼と共に意識はこの上無くクリアに覚醒している。到底二度寝と云う気分ではない。窓の外を見れば真っ暗闇で、寝台の内を見れば己の相棒が寝ていた。その小さな体を丸めて。此方に背中を向けて。数分前の自分と同じように。太宰はぼんやりとそれを見る。くす、と笑いは起こらないでもなかったけれど、気温の低さが太宰の頬を凍らせていた。
照らす灯りはベッドサイドのランプのみ。このご時世、勿論電気製だから、灯りが風に揺れるなんてことは勿論無い。夜の空気と同じように、ただじっと静止した電球色の淡い光が、相棒の白い肌をぼうと夜の闇の中に浮かび上がらせていた。
「……中也?」
夜の静寂を震わさぬよう、そっとその名を呼ぶ。掠れて出たその声に、然し相棒が起きる気配は無い。珍しい。太宰はうーんと少し考えて、再びシーツの中へと潜り直した。少し喉が渇いた気もしたが、それよりも兎に角寒かったのだ。冬の初めの、陽も疾うに沈み切った後のこの時間帯の物悲しい空気は、直接肌に触れて好いものじゃない。体は既に熱を奪われ切っていて、冷たくて寒くて死にそうになる。今は特に、シーツの他に何にも着ていないから余計に。そうして潜り込むとシーツとマットレスの間には未だ二人分の熱の名残が在って、太宰はほっと息を吐いた。
そう言えば、今何時なのだろう。思ったけれど、壁に掛かっている筈の時計を暗闇の中に探すのは億劫だった。どうせ見たって見えやしないのだ。こちこちこちと、上品な秒針の音だけを聞きながらばんばんと枕元を何度か叩く。目的のものは直ぐ見つかった。引き寄せて、釦を一回。端末に映った数字は、丁度きっかり午前二時。うわあ、見るんじゃなかった。太宰は嘆息する。
詰まりまだまだ夜は明けないと云うことだ。日の出まで後五時間近く、太宰は息を殺していなければならない計算になる。
中也が起きないから。
この静寂の中で。
独りで。
「中也、寝てるの、ねえ……」
太宰の声に反して、今夜はとても静かだ。虫の息さえ聞こえやしない。いっそ銃撃の音でも聞こえて呉れた方が、太宰にはずっと楽だった。嗚呼、誰か派手にマフィアの本部とか襲撃して呉れないかなあ。今直ぐ。太宰は物騒なことを思う。この静寂を壊して呉れるなら、誰だって良いのに。
そしたら相棒も起きるだろうし。
でもこんなときに限って何も無かったから、相棒は相変わらずすうすうと寝息を立てるだけだった。規則的な呼吸に合わせて、上下する肩甲骨。太宰に無防備に晒される、相棒の背中。そんなことは珍しくて、太宰は戸惑うしか無い。そう云えば、何時も太宰が起きるときには起きているのだ、この相棒は。特にこんな夜は決まって、太宰の方が先に意識を落っことす。それなのにずるい。如何して今日に限って、私を独りで置いてくの。
君が起きないのが悪いんだよ、と心の中で一言置いて、太宰はするりとその背中を指で辿って撫でる。細い背中だ。けど無駄が無くて、引き締まってて。好きか嫌いかで云えば好き。そう、中也の体は好きだった。中也の体に触れるのも好き。触れられるのも。
――太宰。
そう、太宰の名を優しく呼ぶ声、相棒に触れられた感触が、不意に蘇って太宰の奥の熱が疼いた。つい数時間前のそれが、もう回想の対象だ。寒いから、思い出すだけじゃあ足りなかった。早く起きて。起きなよ、中也。
そうして指先で腰まで辿って行って、其処で太宰の指はぴたりと止まった。引っ掛かったのは包帯。彼の体を包むそれは、常には見られない装飾だ。幸いにも暗くて見えないけれど、其処には血の滲んだ跡が在って、その奥には出来たばかりの銃創が在る筈だった。太宰を庇って受けた傷。自分でも、綻んでいた顔が強張るのが判って、太宰はなんだか可笑しかった。寒さのせいじゃなく頬が凍っていたから、笑うことは叶わなかったけれど。
思い出されるのは昼間の任務。前線で、今度こそ死ねるかなあと囮も兼ねてぼんやりしていた太宰を「莫迦か手前!」と怒鳴りつけ、中也が抱えて逃げた、そのとき。逃げたと云って人聞きが悪ければ戦略的撤退と云い換えたって善い。いや単なる後退? どうせ数百メートルの距離だ。その後立ち止まって、反撃して、敵を殲滅したんだから大差無い。
問題は、その数百メートルの間に中也が被弾したことだった。
常ならば、銃弾なんて玩具が彼に届く道理は無い。
彼の異能に絡め取られるからだ。
けれど、太宰を抱えていた。
太宰を抱えていて、異能が無効化されたから、中也に弾が中ってしまった。
「中也……っ」
そのときの太宰の切羽詰まりようときたら、後々まで相棒に嘲笑われることとなる。まったくあれじゃあ、どっちが撃たれたんだか判りゃあしねえよ、と。
取り敢えずそれ以外は太宰の作戦通りに進んでいたから、敵を殲滅して――中也に弾を中てた奴は特に念入りに念入りに始末して――応急手当てをして。太宰のマンションが近かったから運び込んで、其処で医者を呼んで、本格的に手当てをして。幸い弾は体内には残っていなくて大事には至らなかったから、中也の部屋に寄って着替えなんかを取ってきて。そうして医者が帰ったから、くたりと熱っぽいような顔をしていた中也に太宰は訊いた。
「ええと。する?」
今から思い返せば、ちょっと笑えるくらい間抜けな質問だったかも知れない。
中也は寝台に体を預けていて、少し前まで痛みと発熱に呻いていたのが、鎮痛剤が効いて漸く落ち着いていたようだった。それでも額にはじわりと汗が滲んでいて、「気持ち悪ぃ」なんて云うものだから汗を拭くのを手伝っていたのだ。自分の部屋なのに中也の体の匂いが混ざっているのになんだか興奮したのは否めないけど。中也がその額に手を中てて、次は「頭痛え」なんて呟くものだから、「あれ、頭も撃たれたの」と訊いたら「ネジが外れたのかも知れねえな」と返された。「もう手遅れなんじゃねえか」とも。
「なんでそうなンだよ」
「ほら、なんだっけ……熱が出たら、単純に、一回抜いた方が収まるらしいから……?」
確か、そうだった気がする、うん、と曖昧に頷けば、呆れたような笑いが返った。
「……莫迦だろ、手前」
中也は笑って、それから何も聞かずに太宰を抱いた。
傷が開かないように、ただそれだけの理由だったのだろうけど、何時もより優しく触れてくる指先だとか、中で遠慮がちに揺さぶられる熱だとかに翻弄されて。
それからの太宰の、午前二時に至るまでの記憶は曖昧だ。ただ夢心地の中で、一生分くらい中也の名を呼んでいた気がする。
「……ん」
包帯の上から傷を撫で上げていると、びくりと中也の体が強張った。太宰は驚いて手を離す。痛みが有っただろうか、鎮痛剤が切れたとか? 職業柄、薬の効きは良くないからうんと強いのを打っている筈だけど。
「中也?」
「太宰……?」
もそ、と中也が体を返して此方を向く。とろりと溶けたその声は、彼の意識の覚醒が当分遠いことを如実に示していた。太宰はふ、と息を吐く。目は薄っすらと、開いているのだか閉じているのだか。確認しようと身動ぐと、んん、と不明瞭な唸り声を上げて、そのままぎゅうと抱き込まれる。肋の辺りに、湿った吐息が直に中って擽ったい。
「ちゅうや」
「寝ろよ……夜は寝るもんだろ……」
「それ、君が云う?」
夜はマフィアの時間だって云うのに。
再び手を傷の上に置く。撫でる。無意識にか、中也の眉間の皺がぎゅっと寄った。痛いんだ、きっと。そう思って、ちょっとしたいじわるごころで訊く。
「ねえ、痛まないの、怪我」
「あ……? こんなもん、怪我の内に入んねえよ」
そうはっきり訊くと、痛みが有る筈なのに何とも無いみたいに中也は笑う。皮肉っぽく、口の端を上げる。
「それとも手前の所為だと罵って欲しかったか?」
その問いは、まるで小さな針のように太宰の深奥にちくりと刺さった。
「手前の身も守れねえ能無しとは相棒は解消だって、三行半が欲しかったかよ……」
息が詰まった。やっと温まったと思ったのに、肺まで冷たい空気が入ってくる。けほ、と一つ咳をした。それでもまだまだ冷たさが痛くて、刺すような空気が流れ込んでいるその場所が、肺じゃなく心臓なんだと気付く。痛い。それが、中也から別れを告げられることを想像して痛むのか、中也から別れを告げられないことに対して痛むのか、判らないけど。兎に角痛い。
呉れって云ったら、呉れるのかな。
でもそしたら本当に独りで寝なきゃいけなくなるし。
それはなんだか、嫌だなあ。
そう悶々と思考の迷路に挟まっていると、不意にぐいと後頭部に手が回ってきて引き寄せられた。抵抗する間も無く唇を押し付けられる。柔らかく舐められる。舌が割り込んできて、ああ、拙い、これきもちよくなっちゃうやつだ。そう思っていても止められない。口の中を動き回る中也の舌に、自分のを絡ませて、絡ませられて、散々に貪られて。最後にちゅっと軽い音をして離れるキス。
それから一言。
「……見縊んじゃねえよ。懺悔をしたきゃあ、他所行きやがれ……」
本当に寝惚けてるんだろうな、この男、と半眼で文句をつけてみるものの。
それで沈んでいた思考が引き上げられる自分も存外、単純で。
「もう寝ろ、太宰。中途半端な時間に起きるから、下らねえこと考えんだ」
「……うん」
太宰はぎゅっと相棒の体を抱き締めた。細長い手足で絡め取るように、相棒の体に覆い被さる。中也は横向きに丸まって寝ていて、だから上側は上手く行ったのだけれど、下側にも手を回そうとぐいぐい体とマットレスの間に手を差し込んでいたら相棒が厭がる気配がした。
て云うか厭がっていた。
「痛え……」
太宰は笑う。
「こんなの、傷の内に入んないんでしょ? 我慢してよ……」
そうして漸く通った手を、相棒の背で軽く組む。足で爪先に触れると、末端までは体温が行き渡っていなくって、シーツの中で絡め合うように熱を分け合う。
「……そうだね、別に、罵って欲しくないし、三行半も欲しくない」
目を閉じる。其処に横たわるのは闇だ。暖かい闇。
もう寝ないと。
「でもその代わり、綺麗な体とか、死なない保証とか、そう云うのもあげられないかな……」
だから、御免ね、と夜の闇に乗せて呟くと、「ばァか」と一言返ってきた。うとうとと返されたその言葉にぱちりと目を開ける。腕の中の相棒を見下ろす。
「手前になら……」
「うん?」
すり、と相棒が距離を詰めてきて、ぎゅうと体が密着する。皮膚と皮膚が擦れ合って、熱と熱が合わさって、夜の中でも寒くない。もぞりと中也の手足が、太宰の体を捕らえる。
「手前になら……体くらい、幾らだって……」
くれてやるから。
最後はむにゃむにゃと、曖昧に太宰の耳を過った。なに、と聞き返す間も無く、中也はすうと寝息を立てて、太宰に腕を回したまま寝入ってしまう。柔らかい髪を胸に押し付けられる。額、それから頬。本当無防備だ。信じられないくらい。
けれど、嗚呼、誰か襲撃して呉れないか、なんて莫迦げた考えは疾うに何処かに消えて失くなっていた。太宰は黙ってぎゅうと相棒の熱を抱き締め返す。
後はただ、誰もこの夜を壊して呉れるなと、只管に願うのみだった。
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