匂いおこせよ桃の花
(2014/11/28)
ぎゅうと小柄な体躯を後ろから抱き締めた。
「……んだよ」
あれ? 思っていた抵抗が無くて、私は首を傾げる。もっとこう、間髪を入れず肘鉄が来るかと思っていた。それか背負投げ。ガードに回していた力を抜く。
ちなみに此処は冬の公園のど真ん中である。遊具が少なく何方かと云えば散歩コースみたいなもので、だから子供の姿は無い。大人の姿も。平日の昼間だからこんなものだろう。若しかしたら居たのかも知れない何人かの人影は、大の男が黒ずくめで二人抱き合ってるのを見てそそくさと遠ざかってしまったに違いない。もっと華やかな季節であれば、人の姿が無くても木々や花々が賑やかに空を飾っていただろうに、今は枯れ葉や枯れ草がその寂しさを一層際立てるのみだ。びゅう、と寒風がまた一枚、皺苦茶になった葉っぱを攫って行く。
なのに中也と密着した私は温かいままだ。人の姿が少ないとは云え、屋外だからもっと嫌がるかと思ってたのに。如何云う風の吹き回しだろう?
「抵抗しないんだ?」
「ぶん殴ったって、手前の頭は治んねえだろうが」
中也は呆れたように肩を竦めるだけだった。それから少し体を捩って、おら、寄越せ、と私の胸ポケットに手を伸ばす。距離の近いことを逆手に取られ、胸ポケットから煙草が一本抜き取られて行くのを、私はじっと見守った。別に良いけど。それくらいの餞別。
その代わり、と私は中也の内ポケットに手を突っ込んだ。中也は何も云わない。ジッと煙草に火を点けて、ふーっと煙を吐くだけだ。その呼吸に合わせて上下する胸板の辺りを弄って、目的のものを探り当てる。ああ、やっぱり此処に入れていた。彼が大事なものを何処に入れているかなんて、全部全部知っている。そうして抜き出そうとすると、ジッポを仕舞う中也の手と私の手が僅かに触れ合って、手袋越しなのにひどく熱かった。そんな訳ないのに。首を傾げる。
そうしてひら、とポケットから抜き出したのは、新幹線のチケットだ。新横浜、から西の方に矢印が伸びている。出発時刻は今日の、夜半過ぎ。私は片腕を中也に絡めながら、もう片方の手でひらひらとそれを太陽に掲げた。
「ふーん。今から西方かァ」
「ああ。何日かかるか判んねえけど」弄んでいると、返せよ、と敢え無く奪われる。「まァ、落ち着くまではな」
チケットを仕舞おうと、僅かに下を向いた中也の首元に顔を埋めた。煙草の他に、なんだか好い匂いがする。すりっと額を押し付けると、流石に手の甲を抓られた。
「おい、好い加減気が済んだろ。離せよ」
「でも私、私の居ないばっかりに、中也が犬死にしないか心配で心配で」
「舐めてんのか手前ぶっ殺すぞ」
「ホームシックとかなるんじゃない? 首領が居ないと生きて行けないんじゃないのぉ」
「手前が届けて呉れりゃ、問題無えよ」
ぱち、と瞬く。その一瞬の隙を突いて、中也が私の拘束をするりと抜けた。髪がふわりと鼻を掠めて行って、ああ、何かの花の匂いだと思い至った。なんだっけ。思考に埋もれようとした私の意識は、途端体を這い上がる冬の空気に攫われて見えなくなってしまった。中也が居ないとひどく寒い。凍えそうだ。
ええと、なんだっけ。私が、届ければ?
「何を」
「春を」
私の手を抜けた中也はそのままざくざくざくと歩いて行って、手近な小枝をぱきりと折った。何をするんだろうと思って眺めていれば、またざくざくざくと戻って来て、手にしたそれを私の胸に差し込んで来る。小さな蕾が幾つか付いていて、その縁が桃色に彩られていたから、嗚呼、きっと咲く花も桃色なのだろうなと思った。然しこんなに寒いと、花が咲くのは未だ未だ先じゃあないだろうか。綻ぶどころか、蕾はぎゅっと固く閉じられている。
その小枝をすっと優しく撫でて、中也は笑った。
何時もの、にやにやと悪どい笑みではなく。
まるで開花を促す春の風のように。
「梅じゃねえけど、餞別だ。やる」
そっと囁かれた、そのときの私の顔は嘸や見ものだったに違いない。
自分でも判るくらいに、ぽかんと口を開けてしまっていた。
意味が判らなさ過ぎる。
「……君さあ餞別の意味知ってる? 普通ねえ――」
やっと思考が働いて云い募ろうとした途端、ぐいとループタイを引っ張られて姿勢を崩された。咄嗟に中也の肩を掴んだから、何故だか中也にしがみつくような態勢になる。すごく不本意だ。何するの、と中也を見上げたその口に、ふに、と中也の唇が柔らかく触れて。
目を見開いて硬直すると頭の後ろをがしりと捕らえられ、中也の舌が深い処へと入って来る。冷えた風が頬を撫でて行くものだから、口の中の熱が、中也からの熱が余計に熱い。舌を重ねられ、その煙草の味を貪るように食むと中也が微かに笑いを漏らしたのが判った。腔内を弄られる感覚に、自分の目がじわりと潤むのを自覚する。中也の瞳も濡れているのかしら。そう思って覗き込むと、長い睫毛が瞬いて、金の瞳が私を射抜いた。何故だか胸がいっぱいになる。呼吸が苦しい。胸が苦しい。
散々に口の中を好きにされた後、中也にやっと解放されて、私ははあっと息を吐いた。急に何するの、とじろりと見遣ると、にやりと綺麗に弧を描いた唇に目を奪われた。艶っぽく色づいた、桃色。それが薄く開いて。
「手前から貰いたいものなんざ、なんにも無えよ。精々独りで寂しがってろ」
は? と、疑問符が目から口から溢れ出しそうだった。耳を素通りした言葉を反芻する。寂しい。さみしい? 私が? そんなこと、在る訳ないじゃない莫迦じゃないの。
そうして私が何か云い返す前に、中也がくるりと背を向ける。ひら、と黒手袋をした手が寒空に舞う。
その肩は、僅かに震えていた。勿論、笑いから来るもの以外の何物でもない。
「じゃーなァ、太宰!」
「あーーーっなんなの君! むかつく! ほんッとうむかつく! 大体、君なら春までかかんないでしょ莫迦中也!」
どうせ中也のことだ、花の咲く前に帰って来るんだから、匂いなんて絶対に届けてやるもんか。
訳が判らないのに莫迦にされた感覚だけは如何しようも無く腹立たしくて、私はその場で蹲って、そのむかつく背中にべえっと舌を出した。
ぎゅうと小柄な体躯を後ろから抱き締めた。
「……んだよ」
あれ? 思っていた抵抗が無くて、私は首を傾げる。もっとこう、間髪を入れず肘鉄が来るかと思っていた。それか背負投げ。ガードに回していた力を抜く。
ちなみに此処は冬の公園のど真ん中である。遊具が少なく何方かと云えば散歩コースみたいなもので、だから子供の姿は無い。大人の姿も。平日の昼間だからこんなものだろう。若しかしたら居たのかも知れない何人かの人影は、大の男が黒ずくめで二人抱き合ってるのを見てそそくさと遠ざかってしまったに違いない。もっと華やかな季節であれば、人の姿が無くても木々や花々が賑やかに空を飾っていただろうに、今は枯れ葉や枯れ草がその寂しさを一層際立てるのみだ。びゅう、と寒風がまた一枚、皺苦茶になった葉っぱを攫って行く。
なのに中也と密着した私は温かいままだ。人の姿が少ないとは云え、屋外だからもっと嫌がるかと思ってたのに。如何云う風の吹き回しだろう?
「抵抗しないんだ?」
「ぶん殴ったって、手前の頭は治んねえだろうが」
中也は呆れたように肩を竦めるだけだった。それから少し体を捩って、おら、寄越せ、と私の胸ポケットに手を伸ばす。距離の近いことを逆手に取られ、胸ポケットから煙草が一本抜き取られて行くのを、私はじっと見守った。別に良いけど。それくらいの餞別。
その代わり、と私は中也の内ポケットに手を突っ込んだ。中也は何も云わない。ジッと煙草に火を点けて、ふーっと煙を吐くだけだ。その呼吸に合わせて上下する胸板の辺りを弄って、目的のものを探り当てる。ああ、やっぱり此処に入れていた。彼が大事なものを何処に入れているかなんて、全部全部知っている。そうして抜き出そうとすると、ジッポを仕舞う中也の手と私の手が僅かに触れ合って、手袋越しなのにひどく熱かった。そんな訳ないのに。首を傾げる。
そうしてひら、とポケットから抜き出したのは、新幹線のチケットだ。新横浜、から西の方に矢印が伸びている。出発時刻は今日の、夜半過ぎ。私は片腕を中也に絡めながら、もう片方の手でひらひらとそれを太陽に掲げた。
「ふーん。今から西方かァ」
「ああ。何日かかるか判んねえけど」弄んでいると、返せよ、と敢え無く奪われる。「まァ、落ち着くまではな」
チケットを仕舞おうと、僅かに下を向いた中也の首元に顔を埋めた。煙草の他に、なんだか好い匂いがする。すりっと額を押し付けると、流石に手の甲を抓られた。
「おい、好い加減気が済んだろ。離せよ」
「でも私、私の居ないばっかりに、中也が犬死にしないか心配で心配で」
「舐めてんのか手前ぶっ殺すぞ」
「ホームシックとかなるんじゃない? 首領が居ないと生きて行けないんじゃないのぉ」
「手前が届けて呉れりゃ、問題無えよ」
ぱち、と瞬く。その一瞬の隙を突いて、中也が私の拘束をするりと抜けた。髪がふわりと鼻を掠めて行って、ああ、何かの花の匂いだと思い至った。なんだっけ。思考に埋もれようとした私の意識は、途端体を這い上がる冬の空気に攫われて見えなくなってしまった。中也が居ないとひどく寒い。凍えそうだ。
ええと、なんだっけ。私が、届ければ?
「何を」
「春を」
私の手を抜けた中也はそのままざくざくざくと歩いて行って、手近な小枝をぱきりと折った。何をするんだろうと思って眺めていれば、またざくざくざくと戻って来て、手にしたそれを私の胸に差し込んで来る。小さな蕾が幾つか付いていて、その縁が桃色に彩られていたから、嗚呼、きっと咲く花も桃色なのだろうなと思った。然しこんなに寒いと、花が咲くのは未だ未だ先じゃあないだろうか。綻ぶどころか、蕾はぎゅっと固く閉じられている。
その小枝をすっと優しく撫でて、中也は笑った。
何時もの、にやにやと悪どい笑みではなく。
まるで開花を促す春の風のように。
「梅じゃねえけど、餞別だ。やる」
そっと囁かれた、そのときの私の顔は嘸や見ものだったに違いない。
自分でも判るくらいに、ぽかんと口を開けてしまっていた。
意味が判らなさ過ぎる。
「……君さあ餞別の意味知ってる? 普通ねえ――」
やっと思考が働いて云い募ろうとした途端、ぐいとループタイを引っ張られて姿勢を崩された。咄嗟に中也の肩を掴んだから、何故だか中也にしがみつくような態勢になる。すごく不本意だ。何するの、と中也を見上げたその口に、ふに、と中也の唇が柔らかく触れて。
目を見開いて硬直すると頭の後ろをがしりと捕らえられ、中也の舌が深い処へと入って来る。冷えた風が頬を撫でて行くものだから、口の中の熱が、中也からの熱が余計に熱い。舌を重ねられ、その煙草の味を貪るように食むと中也が微かに笑いを漏らしたのが判った。腔内を弄られる感覚に、自分の目がじわりと潤むのを自覚する。中也の瞳も濡れているのかしら。そう思って覗き込むと、長い睫毛が瞬いて、金の瞳が私を射抜いた。何故だか胸がいっぱいになる。呼吸が苦しい。胸が苦しい。
散々に口の中を好きにされた後、中也にやっと解放されて、私ははあっと息を吐いた。急に何するの、とじろりと見遣ると、にやりと綺麗に弧を描いた唇に目を奪われた。艶っぽく色づいた、桃色。それが薄く開いて。
「手前から貰いたいものなんざ、なんにも無えよ。精々独りで寂しがってろ」
は? と、疑問符が目から口から溢れ出しそうだった。耳を素通りした言葉を反芻する。寂しい。さみしい? 私が? そんなこと、在る訳ないじゃない莫迦じゃないの。
そうして私が何か云い返す前に、中也がくるりと背を向ける。ひら、と黒手袋をした手が寒空に舞う。
その肩は、僅かに震えていた。勿論、笑いから来るもの以外の何物でもない。
「じゃーなァ、太宰!」
「あーーーっなんなの君! むかつく! ほんッとうむかつく! 大体、君なら春までかかんないでしょ莫迦中也!」
どうせ中也のことだ、花の咲く前に帰って来るんだから、匂いなんて絶対に届けてやるもんか。
訳が判らないのに莫迦にされた感覚だけは如何しようも無く腹立たしくて、私はその場で蹲って、そのむかつく背中にべえっと舌を出した。
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