君と僕の帰責事由

(2014/11/16)


 薄暗い袋小路へ一歩足を踏み入れれば、其処には凄惨な光景が広がっていた。KEEP OUTと派手に書かれた無数のテェプの向こう側。雑踏の奥に横たわる沈黙。ひどく篭った血の匂い。日の光は此処まで届かない。
 太宰は敦を連れて軍警に軽く頭を下げ、テェプの下を潜らせて貰う。最早探偵社は顔パスのようなものだ。一瞬、今日はあの探偵小僧ではないのか、と意外そうな顔をされるが、事前に現場の状況を聞いていなかったのだから仕方が無い。初めから怪事件であったならばあの人は喜んで飛び付いただろうが、如何せん此処に居ると聞いた依頼人が持って来たのは小さな調査の依頼のみだ。だからこうして、太宰と敦が追っていた。
 まさか、自分達が依頼されたものを探し当てる前に、依頼人がこんな形で見つかるとは毛ほども思っていなかったが。
 テェプを潜って二三歩進むと、その光景が一層善く見えた。
 其処に散っていたのは、四人分の命だった。四人分の、血と、破壊された頭部と、ぐしゃぐしゃの肉。
「う……」
「……これはひどい」
 隣の少年が口に手を中て一歩後退るのを黙殺し、太宰はその空間に足を踏み入れた。色濃く漂う鉄錆の匂いにくらりと微かに意識が揺れる。視界が真っ赤に染まっていて、壁が、石畳が、血を吸って赤黒く変色していた。其処には死しか横たわっていない。芸術的なまでに、其処は殺人現場だった。
 ひい、ふう、みい。惨殺死体を目にしていると云うのに、何処かでひどく冷静な自分が居た。死体が四体。そう云えば、探偵社に入ってからだって、死体が四人分、と数えたことは無かったように思う。いや有ったかな。善く思い出せない。けれど今回に限っては、死体がよっつと数えたって支障は無い筈だった。よっつのうちみっつが、最早人の形を留めていないからだ。派手に頭の中身をぶち撒け、完全に物体と化している。撲殺なんて生温いものじゃない。何かもっと大きなもので、勢い良くぐしゃりと潰された跡。
 血の海とはまさにこのことだ。お陰で靴の裏側に血の跡を付けずに、現場を検証するのが大変だ。軍警の紅い足跡が、既に落ち葉のように散っていて、石畳全体を覆っていた。嗚呼、この靴高かったのに。そうぼやきながら、ぼんやりと自分の足跡を見下ろす。
 なるほどこれは、手口を知らぬ者から見ればとんと見当も付かない怪事件だ。凶器も不明、殺害方法も不明。乱歩さんを呼ばなきゃあ。冷えた頭の片隅で、そんな冗句が思い浮かんで、太宰はうっすらと口角を持ち上げた。
 そして唯一頭部を破壊されていない、壮年の男性の死体は、先日探偵社を訪れた依頼人だ。否、正しく云えば、破壊されていないのではなく、肉片になっていないだけ。探偵社を訪れたときの顔はそのままに、縁石を噛まされ頭部を蹴られ、顎を散々に砕かれた痕。胸を貫く、銃の三発。
 それが、マフィアの仕業であることを明確に物語っていた。
 う、と背後でえずく声がして、太宰は漸く我に返った。見れば涙目の人虎の少年が、その場にうずくまっているではないか。太宰は慌てて駆け寄り、その背を擦って遣る。
 何も無理をしてこの場に留まらずとも善かったのに。そう云い掛けて、言葉を飲み込む。きっと根が真面目な少年だから、仕事の放棄が出来なかったんだろう。
 気付いてやれなかった、それは太宰のミスだった。
「敦くん」しゃがみ込んだまま動けずにいる少年の体を、半ば強引に立たせてやる。「此処は私に任せて呉れて善いから」日の当たる路地の入り口まで、その少年を連れて行く。
「太宰さん……」
 ぎゅ、と太宰の外套を握るその手が震えていた。無理も無い。幾ら強力な異能を持っていると云っても、この子は普通の、十八歳の少年なのだ。自分とは訳が違う。今の自分とも、十八の頃の自分とも。
 其処まで考え、太宰はふと立ち止まる。はて、昔の自分は如何だっただろうか。例えばこの惨殺死体などを見て、自分は何を思っただろう。強くショックを受けるほど、純粋だった記憶は無いが。
 じっと押し黙った太宰に、縋っていた少年が顔を上げた。
 ぼんやりと、焦点を結ばないその透明な瞳の中に、太宰は自分の姿を見る。
「……なんで」
「うん?」
「だざいさん、なんで、わらってるんです……?」
 虚を突かれた。
 思わず息を呑んだ。
「……え、」
 然し聞き返す間も無く、耐え切れなくなったのか敦はその場を足早に離れ、角の向こうに見えなくなってしまった。少しして聞こえる、げえげえと排水溝に吐く音。その音を聞きながら、太宰は痺れたような思考をなんとか持ち上げ動かした。そうだ、普通の人間がこの凄惨な現場を見たときの正常な反応はそれだ。それは場所や組織が変われども変わらない。マフィアに居たときだって、探偵社に入ってからだって。正常な人間の、反応は。
 だったら――だったら自分は、何故笑っているんだ?
 ぺた、と自分の頬に触れる。口の端が、不自然なほどに緩んでいた。
 それを認識すると同時に、なんだかひどく懐かしい記憶が呼び戻される。

 太宰、と呼ばれて。
 その名を呼び返した、あの――

「警部! 此処、何か模様になっていませんか!」
「あ? これは……文字……か?」
 その声に、太宰は弾かれたように顔を上げた。「退いて」、集る軍警を無理矢理押し退けて指の差された部分を見る。
 色んな血や液体に混じっていたが、壁に残されたそれは血文字だった。血を指に塗り込めて引いた跡。
『C.N.』
「……あは」
 太宰は今度こそ破顔した。軍警の何人かがそれに気付き、気味が悪そうに此方を見る。それでも太宰は、漏れ出る笑い声を抑え切れなかった。なにこれ、莫迦じゃないの。そう笑う。
 これはイニシャルだ。そう直感した。おまけに書いた人間の性質が手に取るように判る。その二文字しか残していないのは、面倒臭かったのか、それだけで伝わると思ったのか。多分両方だ。自分は正しく彼の筆跡、彼の字の癖を覚えている。そのことを彼は知っている。だから残した。確かに彼が此処に居たのだという証拠を。数年経った今も、色褪せず変わっていない性質。もっと気の利いた言葉を呉れたって善いものを。
 太宰は頬を緩めて天を仰いだ。
 血の匂いに悪酔いしたのか、なんだかひどく愉快な気分だった。

     ◇ ◇ ◇

「……い。だざい……おい、太宰!」
 強く肩を揺さぶられ、はっと意識を引き戻す。如何やら秋の空気に流され、うつらうつらと船を漕いでいたらしかった。見れば眉間に皺を寄せて、此方を覗き込む同僚の顔が間近に在る。そうか、此処は探偵社か。「太宰、お前、大丈夫か?」そうぼんやりと現状を把握していると、同僚の方が余程大丈夫じゃなさそうな声を出す。
「嫌だなあ、国木田くん。私が大丈夫じゃないことなんて在った?」
 目を擦りながら冗談めいて太宰は嘯く。普段通り「どの口が」と返って来るかと思ったのに、存外国木田は真面目に心配していたようで、空気の緩む気配は無かった。太宰はあれ、と首を傾げる。
「誤魔化すな。今日のお前は、何と云うか……」そう云い淀み、国木田が、奥歯にものの挟まったような苦々しげな顔をする。「……まるで死人のような顔色だ」
 うーん、と太宰は唸った。鏡を見ずとも、この男が云うのなら本当にそうなんだろう。けれど太宰が自分で把握する限り、体調はそれほど悪くなかった。時計を見ると、丁度十一時半。最後に記憶に在ったのは十時を少し過ぎた時計だったから、一時間は寝ていたことになる。迂闊だった。探偵社のソファが一番寝心地が好いのだから早退させられては堪らないと、太宰は探偵社一の女医の名を呼ぶ。
「与謝野先生ぇー」
「午後休貰って疾っとと帰ってさっさと寝な!」
 一瞥を呉れることも無く一喝された。取り付く島も在りはしない。わあ、与謝野先生冷たい。太宰は顔を覆う。
「寝不足、それと」書類をチェックしていた与謝野が一瞬、手を止める。ちら、と太宰を視線で刺す。蝶の髪留めが揺れた。「心因的なストレスだろう。原因は昨日のアレだね? 妾じゃなく乱歩さんに視て貰った方が良いんじゃないのかい」
「ええ、僕、生憎太宰の為に掛ける眼鏡は持ち合わせてないなァ」
 ぴく、と太宰が体を震わせ横を見遣ると、其処には探偵社の誇る頭脳がソファの側にしゃがみ込んでいた。膝に頬杖をつき、じっと此方を見上げる名探偵。
「て云うか心因的なストレスってさあ」太宰にだけ聞こえる声で、名探偵は囁く。「原因はお前の記憶に在るってことでしょ? ……それでも良いなら『超推理』してやるけど」
 如何する? 太宰。
 にこ、と乱歩が笑んだ。太宰が一番嫌うだろう言葉を選んで紡ぐ小さな口に、太宰はひらりと手を上げて苦笑する。降参だ。まったく、この人には敵わない。
「……乱歩さんに視られては堪りませんよ。午後休を頂きます」ソファから立ち上がった。ふら、と蹌踉めきそうになるが、そんな失態を見せる訳にはいかない。何でもない風を装って、ふあ、と欠伸を噛み殺す。「国木田くん、書類頂戴」
「もう作ってある」
 ぱち。瞬くと、「呆けた顔をするな」と一枚の紙を押し付けられた。太宰治、休暇願、種別、午後半休、理由、体調不良の為。後は判をぽんと押すだけだ。
「流石、優秀」
「嫌味か? ……その代わり、敦の様子を看て来てやって呉れ」
 押印した書類を手渡しながら、太宰は首を傾げた。人虎の少年は、昨日の午後から休んでいた。タフな彼が休むなんて、惨殺死体が余程堪えたらしい。昨日の敦の様子を思い出しながら少し考えて、「ねえ国木田くん、心的外傷を抱えそうなときって何食べさせたら良いのかな? お粥?」と訊くと、「……少なくとも大事なのは、お前のような他人の傷を遠慮無く抉った上に塩を塗り込む人間と一緒に居ないことじゃないか?」と返されたものだから、だったら私お見舞い行けないじゃないと太宰はひどく憤慨した。国木田が自分で行けば善いのだ。そう勝手に結論付けて、太宰は社を後にした。社員寮には向かわず、反対側に歩き出す。昨日の今日だ。多分、それで善い筈だった。

 雑踏が煩くて、人の声が煩わしかった。太宰は人混みを避けるように、建物の影を歩いた。ちらほらと、擦れ違う人間の外套のうち冬物の割合が増えている。そう云えば、数日前から冷え込むとニュースで云っていたんだっけ。それを聞いて、ああ、そう云えば今日飛び込んだ川も大分冷たかったなと云う感想を持ったのを思い出す。途中もこもこに着込んだ女性とすれ違って、太宰はすんと鼻を鳴らした。好い匂いだ。生きた人間の匂い。あの外套の下は、嘸や暖かいことだろう。体温が在って。血の通った肉を孕んでいて。狙うなら心臓か腹。頭は致死率こそ高いものの、命中精度が下がっていけない。そこまで考えて、くら、と眩暈を覚える。
 舗道に落ちた枯れ葉をぐしゃぐしゃに踏んで歩く。ふと思い立って後ろを振り返っても、足跡は付いていない。
 街路樹の側に備え付けの灰皿を見つけ、太宰はふらふらと樹に寄り掛かり、ポケットから煙草の箱を取り出した。性急に火を点け肺に煙を沈める。もう何年も、吸っていなかったような気がした。
 そのまま身動ぎせずにじっと待っていると、見知った匂いが鼻を掠めた。太宰は思わず瞑目する。
 懐かしい、香水と煙草の混じった匂い。
「よお」
 背後からのその声が、迷い無く自分に向けられたものだと判る。音も気配も無く自分の背後を取れる人間など、太宰は一人しか知らない。振り返らずに、静かに視線を落とした。地面を見る。自分の体と重なって落ちる、二人分の影。振り返る必要など無かった。
 手元から、煙草の煙が秋の寒空へと消えて行く。
「……ねえ、楽しかった? 私が動揺してる様」
「茶番だろ? ……まあ、それなりにな」
 ふーっと、背後で煙を吐く音が聞こえた。慣れ親しんだその音が、匂いが、体に染みた。長い時間を越えて、いっそ心地好ささえ覚える。
「……久しぶりに懐かしい気持ちになったよ。あれは一体なんだった訳」
「裏切り者だよ。ヤクを横流ししてた。だから殺した」
「“ついで”に?」
「ああ」
 くっくっと愉しそうな声が、此方を向くのが判る。太宰は動かない。此処で一戦やっても善いが、何分今は分が悪かった。勝てない戦はしない主義。一般人を人質に取られれば、一応何も出来やしない身分だ。とは云え切り捨てたって善い。相手がその気なら、此方も応戦するまでだ。何人死のうが知ったことではない。
 けれどその枷は煩わしいことに変わりはなくて、それは相手も同じなようだった。
「こんなとこで戦りあったって、手前は満足出来ねえだろ?」
 俺もだよ。愛を囁くようなその声に、ぞわぞわと背筋が震える。恐怖なんかでは勿論無かった。太宰はぎゅうと目を瞑る。
 こんなの、欲求不満が募るばっかりだ。
「却説、首領からの言伝てだ」
「うわやだ、何? 聞きたくないなあ」
「だったらその耳削ぎ落としちまえば善い」
 かちゃ、と態と鳴らされる金属音。脳裏に描ける、ナイフの煌き。きっと薄く嗤ってるんだろう。趣味が悪い。
「俺がきっちり貰ってやるよ」
「……それは耳を?」
「他にも貰ってやろうか? いいぜ」
 綺麗な唇が弧を描くのが、手に取るように判った。す、と聞こえる浅い呼吸の音。
「『近いうちに、戻って貰う』だとよ」
「は。君は相変わらず狗やってるんだ」
 莫迦にしたように肩を竦めると、背後で笑う気配が在った。
「それは挑発になんねえよ。……野良犬風情が、吠えやがる」
 突如、殺気が爆発的に膨れ上がる。首筋を撫で行く射殺すような視線に、ぞわ、と背筋が一気に粟立つ。
「じゃあな、太宰。楽しみにしてる。手前が戻るんでも――手前が全力で、抵抗するんでも」
 耐え切れなくなって、太宰はばっと外套を翻して振り返った。然し其処には既に影は無い。
 ただぐしゃぐしゃに紅い落ち葉が踏み躙られていて、それだけが、彼が其処に居た事実を主張していた。

 そして、彼のものではない、此方を伺う気配がみっつ。ポートマフィアではないだろう、その様子はまるで素人だった。太宰は心当たりを考える。昨日の今日だ。依頼人は麻薬の横流しをしていたと云う。だったら客が居る筈だった。
 却説、大事な大事な売人を失ったら、正気を失った客は如何するか?
「……勘弁してよもう」
 大急ぎで煙草を躙り、太宰は手近な路地に駆け込んだ。追って来る気配が在る。どころか、ばたばたと荒い足音まで聞こえて来て、太宰は思わず笑ってしまう。雑魚も雑魚だ。物足りない。
「あーあ、君の所為だよ」
 そうぼやきながら、太宰は銃を取り出した。何処かの組織からくすねた銃だ。足の付く心配は無い。慣れた仕草で弾を確認する。かしゃんと戻るシリンダー。なんだか血が沸き立って仕方が無かった。火照った体を、秋の風に晒して冷やす。同時に冷静な部分で弾く算盤。追手は三人。弾は十分に在った。
 縁石を噛ませて、三発撃つ分くらいの弾は。
「全部全部、君の所為だ」
 太宰は罠を張りながら路地を逃げ、息を潜めて敵を待った。段々と近付いて来る殺気。自分の元相棒のものには及びもしない。そこまで考え、ふいに埃を被った記憶が引き出される。脳裏に蘇る鉄錆の匂い。笑う相棒。一緒にばしゃりと足を蹴り上げ、跳ねて飛び散った血の海の底。
 昔の自分が、果たして惨殺死体を見て何を思ったか、だって?
 太宰はそれを思い出し、そうしてたまらなくなって、抑え切れずに歪に嗤った。
「……石の味は、ちょっと痛いから覚悟しなね」
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