【再録】秘密のふたり
一.
「……随けられてんな」
中原さんが静かに呟いたのは、ちょうど俺達の車が高架下を潜ったときだった。見れば後部座席の中原さんは、窓枠に頬杖を突き何処か物憂げな表情を帽子の下に湛えている。辿った視線はサイドミラー。俺は慌てて――然し今まで気付かず運転していたことを中原さんに悟られないよう慎重を装って――バックミラー越しに背後を確認した。随けられている? 一体誰に?
今思えば莫迦な疑問だったかも知れない。俺が連れているのは泣く子も黙るポートマフィアの幹部殿だ。横濱を裏で支配する巨大組織のその脊椎。当然、敵も多い。
どれが"そう"なのか、俺にはひと目見ただけでは判らなかった。サングラス越しに見る車の群れは、どれもこれも普通過ぎて逆に怪しく見えてくる。直ぐ後ろに随けてきているワゴン車だろうか。然し、運転席に見えるのはカジュアルな格好をした男女の二人連れで、何と云うか、尾行と云う行為にはそぐわないように思える。ならばその一つ後ろのトラックか。そうこう考えているうちに、ワゴン車が通りを右折していく。
そのとき、俺は少し車間距離を開けてきた黒のセダンを二つ後ろに見つけた。これだろう。これに違いない。
尾行なんかをしてくる怪しい車は黒のセダンと相場が決まっている。
前方に視線を戻した俺は、重々しく判断を仰ぐ。
「……如何しましょう」
「連中が撃ってこねえうちに、人気の無えとこに回して呉れ」
「え」
簡潔で的確な指示。常であれば、二つ返事で従うべきところだ。そうしなければ直ぐに殺されてもおかしくはない。何せ幹部と云う人種はひどく気が短いものだし、何時癇癪が爆発するか、到底判ったものではないのだ。
けれどそれは、と俺は少し躊躇った。
『撃ってこないうちに』と云うのは、詰まり尾行してきている相手は銃を所持している可能性が高いと云うことだ。そして応戦すべき俺の手元には、悲しいかな心許無いグロックの一丁しか無い。
此処数日で俺の身に起こった出来事を思い返し――俺は決死の覚悟で首を横に振った。
「嫌です」
「……あァ?」
地を這う声。背後から顔を向けずとも判るくらいの殺気を向けられ、俺は恐怖に身を凍らせた。冷や汗がぶわりと吹き出る。指が震えて、ハンドルに吸い付いたまま離れない。其処には、此処数日で見た気の良い青年の姿は無かった。あるのはただ人を殺し慣れた冷えた視線だけだ。ああ、殺される。そう確信した。
それと共に、矢張り、と俺は思った。矢張り幹部と云うのは、どれも似た生き物なのだ。逆らえば碌な事が無い。其処に例外は無かった。あると思った俺が間違いだったのだ。降って湧いた幸運に目が眩んで、つい超えてはいけない線を見誤ってしまった。
けれど嫌なものは嫌だ。やりたくない。
中原さんが冷ややかに口を開く。
「……一応訊くが、理由は」
「俺、今一人で撃退する技量も装備も無いです。中原さんをお守り出来ません。同僚の皆に貴方の死体を持って帰るくらいなら、例え殺されたって此処で本部に回して応援を呼びます」
「……なんだ、そんなことか」
中原さんは、途端つまらなさそうに組んでいた脚を崩して云った。は、と微かに笑う気配さえする。
殺気は既に霧散していた。
「俺は死なねえよ。配属初日に俺が云ったこと、忘れたか? 俺が始末する。其処の倉庫街が善いだろう。回せ」
今度は明確な命令だった。其処に俺の意志は必要無い。俺の手と脚は、気付けば俺の思考を通さず、その声に従って車を人気の無い方向へと走らせていた。
◇ ◇ ◇
――俺のことは守ろうとしなくて善い。
配属初日のことだった。詰まり数日前だ。簡単な打ち合わせとオフィスの案内。手前のデスクは此処、初日の仕事はこれだ、判んねえことあったら彼奴か彼奴に訊け、と云う説明の後、放たれたのがその言葉だった。
俺は最初、聞き間違いかと思った。守ろうとしなくて善い。そんな訳がなかった。一般に、幹部の部隊に配属ともなれば先ず第一に優先すべきは使える主の身の安全だ。寧ろ弾除けにならずに何になると云うんだ。事実、俺の前の主は俺達のことをそうやって使い捨てていた。それか、主の満足の為に気紛れに殺されるかの何方かだ。
俺は訊いた。何か俺の実力に不足があるから、そう云う命令を下すのか、と。
中原さんは、そうじゃない、と首を横に振る。
「これは手前だけじゃねえ、俺の部下になった奴等全員に云って聞かせてることだ。手前等を信頼してねえ訳じゃねえ。ただ、この中じゃあ俺が一番強い。それは歴然とした事実だ。手前等が必死に命張ろうが張るまいが、俺の生死には大して影響なんざ無え。無駄なんだよ。だから余計なことはすんなと、まあそう云うこった」
俺は周囲の人間をぐるりと見回して助けを求めた。この人の云っていることは本当なのか。無知な新人を捕まえて、騙そうとしているのではないのか。
中原さんの言葉が聞こえているのかいないのか――今日から同僚となる人間達は、聞き流して各々の業務に打ち込んでいる。
中原さんはただ続けた。
いいか。自分の身を最優先にしろ。
何故だか未だ俺は生きていて、中原さんに殺されずに云われた通りに車を倉庫街に回した。命令に一度逆らったのに。思考の混乱が限界に達する。叫んで走り出さなかったのは、偏に車を運転していてハンドルから手を離すことが出来なかったからに過ぎない。幸い、休日の昼下がりであるにも関わらず、行楽の渋滞に巻き込まれることも無くスムーズに車を目的地まで走らせることが出来た。
然し誤算があった。
人が倒れていたのだ。
適当な場所に停めて車を降りた俺は、その人影を目にして慌てて駆け寄った。顔はうつ伏せでよく見えない。けれど多分、男の人だ。手足が長い。立てば相当に背が高いだろう。思わずサングラスを畳んで内ポケットにしまえば、色を取り戻した視界が捉えたのは黒鳶の蓬髪とびちゃびちゃに濡れた砂色の外套。今日はこんなにも晴れていると云うのに。
俺は焦って声を掛ける。
「あの。大丈夫ですか」
返事が無い。――死んでいるのでは?
「おい」
中原さんも、さっと外套を翻して車を降りてきた。死体の様子を見に来たらしい。然しその声の調子に、俺は微かな違和感を覚える。別に中原さんは、死体を見て驚いた訳ではないらしかった。それどころか慣れた様子ですたすたと死体の側に歩み寄り、顔色一つ変えずに――ガッ、とその腹を蹴り飛ばした。
「な、中原さん」
今までで一番焦って中原さんの外套の裾を掴んだ。
流石に死体蹴りは、マフィアと云えど人道的にまずい。
けれど中原さんはシッと人差し指を唇に当て、それから死体をつま先でつついた。と、びくっ、と死体が微かに跳ねる。
うわっ。怖。
でもなんかちょっと海老っぽいな。
恐怖と好奇の混じった気持ちで眺めていると、死体がムクリと起き上がった。俺は盛大にビビり散らかして銃を抜く。
そうだよ、この死体生きてる。
「おい、死ねてねえぞ。詰めが甘えんじゃねえか」
「……ゲホッ」
俺の焦りなど露知らず、死体は噎せた。中原さんの声に呼応するように呻き、水を吐き出し、それから浴びた陽光に眩しそうに手を掲げる。膝立ちから座り込み、そこで側に立つ中原さんの姿を認め――状況を把握したのか、びしょびしょのままにこりと笑った。
俺が死体だと思っていたものは、驚くべきことに、恐ろしく整った顔立ちの男だったのだ。
それが甘えるように云う。
「ええー……無理だった? 息止まってなかった?」
「俺に人工呼吸して欲しかったか?」
「やだあ君の肺活量でやられたら肺が破裂しちゃう」
「さぞ汚えバルーンアートになることだろうよ」
中原さんはそう云って肩を竦めた。如何やらこの死体とはお知り合いらしい。下らない軽口を叩く中原さんを、俺はつい物珍しい目で見てしまう。
何と云うか……中原さんが纏う空気が、今まで見た中で一番柔らかく見えたのだ。幹部然とした威圧感が薄くて。
まるで、普通の青年のような。
「善いからさっさと失せろよ糞鯖」
いや空気だけだけれども。
「いいか、一応忠告しといてやるが、もう直ぐ此処ァ戦場になるぞ。死にたくなけりゃあ――いや」中原さんは心底忌々しげに云う。「悪運強く生き残った後、俺に邪魔してんじゃねえよとぶっ飛ばされたくなかったら、今直ぐ此処から失せやがれ」
そのとき、がちゃがちゃと騒がしい音がコンテナの向こうから聞こえてきた。銃の擦れ合う音だ。一緒に甲高く靴底の鳴る音が二人分。車で随けてきていた奴等だろう。
砂色外套の男が小首を傾げて笑う。
「もう遅いみたーい」
「ち」
中原さんがばさっと外套を翻して戦闘態勢に入った。俺も慌てて後ろで銃を構える。『俺が始末する』と云われたものの、真逆上司だけを戦わせる訳にもいかない。俺が撃って、運良く弾丸を当てて殺せるならそれに越したことは無いのだ。
角の向こうから現れた黒服二人と会敵する。
と、相手の男の一人が此方を見て大きく目を見開いた。
「……太宰、治……?」
ダザイ? 何だそれは。
中原さんが、砂色外套の男性にちらと視線をやる。
「知り合いか?」
「いや知らない。まあ一方的に知られてはいるかも。だってこんな美丈夫一度目にしたら中々忘れられないでしょ?」
「云ってろ」
中原さんも蓬髪の男の人も、銃口を向けられているこんな状況だと云うのに軽口を叩けるなんて神経が太いどころじゃない。水道管くらいあるんじゃあないだろうか。
相手の表情が喜色に染まる。
「ちょうど善い――中原を始末した後、貴様にもたっぷり礼をしなければと思っていた処だ! 此処で会ったが百年目!」
「凄いね中也、私あの台詞初めて生で聞いた」
「手前彼奴の母親とでも寝たのかよ」
「いや、私は足がつくようなヘマはしないし」
銃を構えながら、そののんびりとした会話に集中が切れそうになる。多分、もうちょっと真剣に相手の話を聞いてあげた方が善いんじゃあないだろうか。
相手は相手で、感極まっているのかあまり気になっていないようだけれど。
この中で真剣かつ冷静に事態に向き合えているのは、俺ともう一人の黒服だけだ。サングラスの奥の目と目が合ったような気がしたが、直ぐに向こうは相方を止めに掛かる。
「おい! ボスには尾行だけだと云われただろ……! 何で此奴等に姿見せてんだ!」
「煩え、此処でやっちまえば早えだろ! クソ、彼奴等の所為で俺達は散々辛酸を舐めさせられたんだ、ただ殺すだけじゃ収まらねえ……!」
「……成る程。まァ詰まり」云いながら、砂色外套の男は前へ屈んだ勢いでその場からヨイショと立ち上がる。「彼等の狙いは、『私達』だと云うことだね」
「『俺達』ィ?」
「詰まり双黒ってこと。じゃ後宜しく」
云うが早いか、男はぴゅーっと何処かコンテナの陰へ隠れてしまった。
……兎も驚く早さだった。
「善いんですか」
止める間も無く男の消えた方向に目をやりながら、ついぽろっと訊いてしまった。あんなに親しげに中原さんと話していたと云うのに、その中原さんを見捨てて一目散に逃げてしまうなんて、何て薄情なんだ。
けれど中原さんは聞いていなかった。
ただじっと前を見据えている。
「……月日は如何も、感覚をひどく鈍らせるらしい」
低い声。俺は背筋がぞくりと冷えるのを感じた。
車の中で見たのと同じだ。肌を刺す鋭い殺気。違うのは向けられているのが俺ではないと云うこと。
そして中原さんが、口元を歪めて笑っていると云うこと。
「……いや、同情するぜ。俺達が骨身に刻み込んでやった恐怖の味を覚えてたなら、今から泣き叫びながらママに助けを求めずに済んだのになァ」
ふわ、と中原さんの外套の裾が舞い上がったのは風の所為ではない。びし、と足元のタイルに罅が走る。鼻先に異質な空気を感じ取り、俺は慌ててその場を離れる。
「『汚れちまった、悲しみに』――!」
言葉と同時に、ぱんっ、とシャボン玉が弾けたみたいに、その場の空気が弾けた。ドン、と胃に落ちる地面の揺れ。
透明な力の飛沫に触れた相手の黒服二人が、為す術も無く地面に叩き伏せられる。痛みの為か恐怖の為か、ぎゃっと短い悲鳴。余波でびりびりと周囲の倉庫が震える。じわりと黒い異能光が、焼け跡の灰のように滲む。
その中であって、中原さんは腕組みをしてその場を微動だにせず、ただ無様に地を這う男達を見下ろしている。
その姿はさながらこの空間の王だ。
地面はずっと唸りを上げていて、骨にまで来る振動が本能的な恐怖を呼び起こす。唸りが伝播し、その重みが見える程に世界が捻じれ、練り上げられた異能空間。
それは初めて見た、中原さんの異能だった。思わず感嘆の息が漏れる。
「す、ごい……」
と、急にとん、と誰かに突き飛ばされたような衝撃を背中に受けた。と、と……とバランスを取り損ねた俺は、つんのめってそのまま前へと倒れ込む。
詰まり――俺が入ったのは中原さんの異能圏内。
「ぎっ……ガッアっ……ア」
途端物凄い圧力で体を押し潰される。アスファルトの冷たさを感じる機能は麻痺していた。息が出来ない。耳が聞こえない。脳からめしゃりと音が聞こえた気がする。このままいけば、ほんの十数秒で俺の目玉と内蔵がめいめい外へと飛び出してしまう。
「な、か、はらっ……さ……」
地面に爪を立てる。助けて呉れと呼ぶことの情けなさなど如何でも善かった。思考を支配するのはただ死への恐怖だ。
――死にたくない。
はっと中原さんが血相を変えて此方を振り返る。
「――莫迦野郎! 手前、俺の部下を殺す心算か!」
「クッソ……覚えてろ!」
「あっ……おい、待ちやがれ!」
空気の拘束が緩んだ。中原さんが異能を解いたのだろう、急に酸素が肺いっぱいに入ってきて俺は呼吸し切れず盛大に噎せる。ぼやけていた視界が次第に回復してきて、見れば黒服の一人が逃げ去る処だった。あの重力を身に浴びて、未だ逃げる元気があるなんて凄過ぎないか。案外大物なのかも知れない。もう一人は倒れたまま置き去りで、襲撃を提案した方が助かろうとするなんて、薄情だ。
薄情と云えば。
逃げる卑怯者を追おうとした中原さんの、その腕を掴んだのは、意外にも何時の間にか姿を現していた砂色外套の男だった。
中原さんが怒鳴る。
「逃げんだろうが!」
「逃がすんだよ。彼等は本体じゃない」
思考の齟齬が生じた、と思った。それまで、水でくっつけたプレパラートみたいに隙間の無かった二人の意志が僅かにずれた。一瞬、中原さんと男が見詰め合う。その視線の間にどんな言葉が交わされたのか、俺が聞くことは叶わなかった。ただ、何かの確認が成されたのは確かだ。
軈て中原さんが何かを諦めたように戦闘態勢を解き、一つ溜め息を吐いて男の手を振り払う。
「……そう。私達の情報を持ち帰らせる。襲撃は失敗し、私と中也が一緒に行動していると云う情報をね」男はにこりと笑って端末を取り出した。ズレはもう既にくっついている。男はそのまま何処かへと電話を掛け始めた。「もしもし、国木田くん? 済まない、二週間ほど探偵社を空けたいのだけれど……いや、サボりじゃあないよ……疑うなら乱歩さんに訊けば善いでしょう。え? 失踪するときは事前に連絡を入れろと、この前云ったのは君じゃあないか!」
「何だ? 探偵社に被害が行かねえようにか?」俺を助け起こし、悪いな、いけるか? あの黒服拘束して呉れるか、と指示を出しながら中原さんは肩を竦める。「俺を優先してたんだから、俺が死なねえ限りは大丈夫なんじゃねえの」
「それもあるけど」今度は男が肩を竦めた。そこで俺は、あれ、と思う。気の所為だろうか。「あの男、尾行だけだと云っていたろう。今の今まで私達が存在を感知出来なかったと云うことは、相手は奇襲の作戦を練ってる可能性がある。、マァ末端がこの有様だから、程度が低いか人数が多いか、兎も角統制が取り切れていない組織だけれど……その上奇襲が失敗だと知れれば、焦って次の行動に移るだろう。苦し紛れの雑な策ほど、容易に崩せるものは無い」
いやあ、愉快だねえ、と男は両の手のひらを合わせて心底愉快そうに語る。今回の襲撃など、彼にとっては余興の一つのようだった。軽くスキップをして、黒服を拘束する俺の周りをるんるんと回っている。
如何やら狙われていたのはこの人も同じだと云うのに。
「それに、探偵社に持って帰ると"紳士的"な尋問しか出来ないしィ」
「は、それが一番の本音だろ。……出来たか?」
「はい」
俺は未だくらくらする頭を抑えながら頷いた。体をぐるぐる巻きにして、体を起こせないよう手首を後ろ手に拘束している。黒服の目を覚ます気配は未だ無い。或いは、このまま起きない方が彼の為かも知れなかった。言い出しっぺの味方には置いていかれ、これから拷問に掛けられるのだから。
けれど俺はポートマフィアの構成員な訳で、この黒服に情けを掛けてはやれないのだ。
仕方が無いよな、と思う。冷たいかも知れないが、人の人生なんてそんなものだ。死が隣人であるこんな世界では世の常だ。
砂色外套が潮風にはためいて、中原さんの背中に飛びつく。
「ふふ、中也ァおつかれェ」
「手応え無えよ……」
「物足りない? そう云えば今夜久々にセックスする?」
「しねえ。大体、此奴等何処の誰だよ」
「……最近問題になっている、新興組織の人間ではないかと」
お二人が俺の方を見た。俺は何だか先刻聞こえた不穏な単語を聞かなかったことにして、黒服の銃を手に取る。
多分聞き間違いだし。
「最近ウチの帳簿を見ました。この型式の銃の仕入れが予算より少なかったので、資材部に訊いたら新興の組織が強引に買い占めていて何処も在庫不足だと」
「その組織ってのが此奴等ってことか」
「ふぅん。お得意様より新規顧客を優先するなんて薄情な業者だねえ……けど其処なら確か、最近合併して新しい人員が流入していた筈だよ。その中に昔潰した組織の人間が居なかったとも云い切れないかな――ところで」
其処で初めて、男の視線がぐるりと俺を向いた。
「その子、見ない顔だね。新人?」
「ああ、ついこないだウチで預かることになった奴だ。元々Aんとこに居た」
「ああ」
前の主の名を耳にし、俺は反射で息を止めた。体が一瞬痙攣して、指先の感覚がふっと失くなる。俺にとってその名は恐怖の象徴だった。あまり聞きたくない名前だ。
砂色外套の男はそんな俺の様子を気にも留めず、俺を見てふぅんと首を傾げている。俺は何だか居心地の悪さを感じてもぞりと体を動かした。細められた目から、底の見えない沼のような暗い色の瞳が覗く。
「Aかぁ。彼元気?」
「白々しいな、知ってんだろうが。……組織内では、一応自殺で処理されてる」
「自殺!」男は弾けるように笑った。あまつさえ、笑いを堪らえようとバンバンと俺の背中を平手で勢い善く叩く始末だ。痛い。「ねえ、おっかしい、あのプライドの高い自己肯定感の塊が自殺なんてする訳ないのに。ねえ」
同意を求められても困る。俺にはわからない。人なんて、何時死んだっておかしくはないのだから。困惑する俺の耳に、太宰さんの低い呟きが届く。
「……私より先に自死に成功するなんて、ほんと、最期までいけ好かない男」
耳元に落とされた囁くような声に、ぞ、と全身が総毛立つ。
それは純度の高い殺意だった。
車の中で、中原さんが見せたような。
判らない。この人は、元幹部であるA様に対して如何してこんなに恐れを知らない態度を取れるのだろうか。それもただ死人相手に粋がっていると云うだけではない――その傲慢さは確かに自分が格上だと云う確信に基づいたものだ。ポートマフィア五大幹部相手に。一介の探偵社の社員が? その考えを、真逆、と一笑に付すことは出来なかった。男の得体の知れなさに、俺は云いようの無い警戒心を抱く。
如何してA様のことを知っているんだろうか。
中原さんは、如何して『一応』等と付けたのだろうか。
あれは自殺だった。
だって、あのとき引き上げられた船から見つかったA様の死体には、確かに首吊りの痕が残っていたと云うじゃあないか。魚に多少喰われてはいたものの、電気スタンドの電源コートで首を吊っていたと聞いている。私設部隊の何人かの死体が見付からなかったと云うから、A様が死ぬ際に誤って――若しくはA様から何らかの不興を買って彼等は宝石に換えられた。その中に操縦士も居た為、操舵不能に陥った客船は座礁、沈没。同乗していた私設部隊は溺死かそれに類する死因で全滅。それがポートマフィアの公式見解だった。少なくとも、船の入出港の為に陸に残っていて難を逃れた俺達私設部隊の生き残り数人はそう聞かされている。
ただ一つ――A様が捕らえた筈の或る虜囚の死体が、何処にも見付からなかったらしいことが、不自然と云えば不自然だったが。
消えた首輪の跡を擦る。
「……悪い、ブツの回収を頼む、そうだ、場所は……」
倒れた男を運ぶ作業を手配する中原さんの声をBGMに、謎の多い砂色外套の男性は、「そうそう、自己紹介が未だだったね」と云って口元だけで笑った。
「私、太宰治。中也の元相棒だよ。宜しくね」
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