夏の夜、片割れのいない空虚によせて

(2019/04/13)


 その着信は非通知だったが、中也には何となく予感があった。あの男からの連絡だと。
 相棒からの――元相棒からの。
 カラン、と下駄を鳴らして立ち止まる。
「……悪ぃ。先行っててくれ」
 そう云って、一緒に屋台を回っていた部下達から離れ人混みをするりと抜けた。何人かははい、と頷き返したが大半は中也が抜けたことにも気づかなかっただろう。それで善かった。今晩の祭りの見回りは、治安の維持と云う名目があるものの、どちらかと云えば構成員に息抜きをさせる意味合いの強いものだ。店を出す者も居るし、普段仕事上では付き合いの難しい人間と歓談する者も居る。こんな日にまで、上司である中也のことで部下の気を煩わせるのは忍びなかった。浴衣の裾を翻し、祭りの灯りから身を隠すようにして海の方の暗がりへと進む。
 その間も端末は震え続けている。如何やら通話を諦める気は無いらしい。
 大通りの橙の灯火が遠くになり、海の音しか聞こえなくなってから――中也は静かに通話ボタンをタップした。
 聞こえるのは予想した通りの声。
『なァんだ、未だちゃんと生きてたんだ。てっきり私が居なくなれば、早々にドジ踏んで死ぬかと思ったのに』
「その言葉そっくりそのまま返すぜ。手前こそなんで未だ野垂れ死んでない――太宰」
『いやあ、ちょっと思うところがあってね。より善い自殺法を検討中さ』
「自殺に善いも悪いもあるかよ、さっさとおっ死ねよ」
『怒ってる?』
「何に対して」
 云えば電話口の向こうの男が微かに笑う気配がした。同時に自分が同じようには笑えないことに気づいて舌打ちをする。さっさと要件を云え、と思う。まさか本当に、中也が怒っているか如何か気になって電話をしてきた訳でもないだろう。
 この男が。そんな筈もない。
 けれど男の――太宰の話口は終始のんびりとしたものだった。やあやあ最近は暑くて寝苦しくって仕方が無いね、食が細ってこのままだと萎びたミイラになってしまうかも、などと下らないことばかり。とても今逃亡中の身とは思えない。
 数ヶ月前、マフィアを無断で抜けた裏切り者とは。
『嫌になってしまうよね。ところで君今お酒飲んでる?』
「一応素面だ」
『"一応"?』
「雰囲気には酔ったかもな」
 祭りの、と云おうとした後ろで、不意にひゅるるる、と細い音が鳴った。振り返ると同時に、どん、と視界に広がる盛大な花火の大輪。後に続くように立て続けに打ち上げられて、ビロードのような夜空を鮮やかに彩る、白、橙、青、赤。
『……ちょっと、何?』
 気を取られていると耳元で厭うような声音が聞こえ、その表情が用意に想像出来て笑った。こんなに長く離れたことは無かったのに、未だ隣に居るように姿を思い描くことが出来る。
 同時に抱く、寂寞感。
 太宰には、この音は聞こえないのだ。
 思っているより多分、ずっとずっと遠くに居る。
 その事実が、今更ずしりと胃に沈む。
「……花火だよ。毎年だろ」
『あー。もうそんな時期か』
 今度は中也が眉を顰める番だった。この男が把握していないことがある訳がないだろう、白々しい、と云う気持ちと、それすら把握出来ない程に余裕が無いのだろうか、と云う疑問。
 今何処に居る、とか。
 如何して組織を抜けた、とか。
 わだかまりを抱いたままでいるくらいなら、訊くべきだったのかも知れない。この世で最も太宰と云う男が誰にも理解出来ない男であることを理解していると自負している。理屈として割り切っている。
 けれど感情が追いつかない。
 なんで。
「……俺は」
 不意に、ぽろりと意図しない言葉が口をついた。
 パン、ぱらぱら、と上がった花火から光が散ってこぼれ出るみたいに。
「俺は、今年も手前と見るもんだと思ってたよ」
 なのになんで、そうじゃない。
 思い出すのは絡めた手指の温度だ。太宰のそれは夏にしては少し冷たくて、中也の手を暑いと云いながら決して離すことはなかった。人波に揉まれて少し崩れた浴衣から覗く胸元。花火を見上げる太宰の、赤みの差した頬。瞳に映る光。与えられた少しの息抜きの時間に、年相応に子供らしく夜店を回ってみたりなんかして。
 記憶が陽炎のように、中也の脳裏を過って消えた。
 後には、目の前に広がる真っ暗闇な海が残るのみだ。
『……中也』
「……何でも無えよ。悪かったな、近くで話聞いてやれなくて。切るぞ」
『ねえ、中也。静かなところに移動して』
「は? 何……」
『善いから』
「もう居る」
 辺りを見回した。人気は無かった。昼間なら人で賑わっているだろう海辺の公園だが、夜では街頭の灯りも届かない。祭りの音は遠く、聞こえるのは太宰の声と花火の音と波のさざめき。
『中也』
 熱っぽく名前を呼ばれて、不意にかっと耳が熱くなる。
「……なんだよ」
『ねえ、中也』
 如何にも落ち着かなかった。微かな息遣いも聞き漏らさないように息を詰めていると、不意に電話口で軽いリップ音が鳴った。
 軽いキス。
『……これで許してよ』
「……莫ァ迦」
 笑おうとした口元が引きつった。そんなもので満足出来るわけがなかった。今すぐその手を握りたかった。毎年やっていたみたいに。それが出来ないことが、より一層強く中也に渇きを意識させる。
 それでも、そうしたいとは云えなかった。
 太宰の未来の、少しでも妨げになることは。
「手前には俺のゆるしなんざ必要無えだろうが……」
『うん。それでも』
 身勝手な男だ。ただの自己満足。それでも中也は、太宰から与えられるものである限りそれを拒むことが出来ない。
『中也、本当に、――ね……』
 電話の声は、花火の音に掻き消された。あとに残るのは、つー、つーと無機質な電子音が波に攫われる音だけだ。端末を力無く下ろす。
 中也には、聞こえなかった。
 謝罪の言葉なんて、聞かなかったのだ。
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