Over and Over
(2019/03/04)
キスをしないと出られない部屋、
と書かれた札が目の前の扉に掛けられていた。額に思わず青筋が立つ。
ふざけてる。
「ウワア最悪」
「こっちのセリフだ莫迦野郎」
隣に居る男の、舌打ちをして不満を表明するのを無視して、俺は先ず真っ先に体に異常が無いのを確かめた。俺とて不本意だ。誰が好き好んで、他人とこんな処に押し込められるか。
ぐっと手のひらの開閉を二、三度。見たところ通常の動作に支障は無い。薬を盛られたりもしていなさそうだ。力を込めるとふわりと帽子と外套の裾が浮いて、此処が異能の効果圏内であることも知れる。
然し数瞬前に俺が立っていた場所とは、如何云う訳だか明らかに様子が異なっていた。そこそこ質の善い生地が使われていたカーペットは真っ白いリノリウムへと姿を変え、両側に客室の扉を携えて奥へと伸びていた筈の廊下はぽつんと目の前に立ち塞がる扉の一つがあるのみだ。俺はただ、手洗いから部屋に戻ろうとホテル内を一人で歩いていただけなのに。それが一転、見知らぬ部屋の室内に変わっている。
何者かに、何か仕掛けられた。
警戒しながらざっと室内を見渡す。部屋の中には驚くほど何も無かった。家具も、窓も、人の滞在している痕跡も。換気口さえ見当たらないのは欠陥建築だろ、と思う。マフィアの地下牢にだってもう少しマシな設備がある。
その為外の様子は窺えないが、少なくとも先程まで滞在していたホテルの客室でないことは確かだった。大体二十畳くらいか、と検討を付ける。家のリビングと似た広さだ。高さは三米無いくらい。部屋の形はきっちり真四角を底面とした直方体で、白い壁紙に白い床、そして何も無い空間。何か仕掛けられていないかと見て回るが、じっと見れば見るほどに上下の感覚が曖昧になってくる。こんな部屋で一時でも過ごすなど気が狂う。
そんな中で、部屋の一辺に立てつけられたごく普通の木製の扉だけが異彩を放っている。
例の札の掛かっている、内開きの片扉。
俺は呻く。気付かず敵に某かの攻撃を許してしまうなど、間が抜けているにも程があった。おまけに、此方は誰がこれを仕掛けているのかさえ掴めていないのだ――元相棒には到底見せられない光景だ。きっと鬼の首を取ったように俺を馬鹿にするネタにするに決まっている。だが一体誰がこんな真似を? 日頃俺に恨みを抱いている人間だろうか。それとも今日取引をした相手方が不満を抱えて? 確かに今日はマフィアに有利な立場で取引条件を決した。だが両者のサインは既に成されている。今更俺を殺した処で、反故に出来るような段階ではなかった。
それに――もし俺を害そうとするなら、気付かず移動させるだけの力を持ちながら拘束もせず危害も加えず、挙げ句異能まで使い放題なんてことがあるだろうか。真逆「何者か」は、こんなもので俺に何かした積りになっているのだろうか。
こんな狭い部屋一つに閉じ込めたくらいで。
「まったく、たまったものではないよ。如何せ閉じ込められるのなら、もう少し可憐な少女とのひとときを期待したけれどね。君とだなんて、神様も残酷なことをするものだよ……」
「…………」
無防備に背を向けぶつぶつと呟きながら、同じく仕掛けを探して壁を辿る砂色外套の男は放っておいて、取り敢えず扉をがんと蹴り飛ばしてみる。びくともしない。コンコンと軽く叩くと音は響いて、扉の向こうに空間があることは察せられる――詰まり土中に埋められている訳ではない。なのに中也の蹴りで壊せない、と云うことは、詰まりこの部屋自体が特殊な成り立ちであると云うことだ。考えられるのは一つ。
矢張り異能だ。
試しに重力で扉についている鍵を操作しようとするが、鍵穴こそついているものの一般的な鍵とは如何やら構造自体が違うようでノブ周りの金属部分はカチャリとも動かない。天井や壁や、扉以外の場所を選んで壊そうとしてもそれは同じようだった。重力を乗せて放った蹴りを壁に跳ね返され、バランスを崩して盛大に蹌踉めく。だのに壁の方は撓みすらしない。少しだけ、黒い汚れがついたのみだ。
其処まで試して、俺は漸く一緒に閉じ込められたもう一人の男と向き直った。
「……おい」
「何だい」
男が振り返った拍子に、ひらりと外套の裾が装飾ベルトを巻き込んで乱れた。包帯まみれの手がそれを丁寧になおすのを、俺は無言でじっと見る。
黒鳶の蓬髪、ほっそりとしたシルエットの砂色の外套。
見慣れた立ち姿だ。自分の昔の元相棒の。
だからこそ、『違和感』が強い。
俺は無言で距離を詰め、「何、」と驚くその男の胸倉を掴み上げ扉にガンと押し付けた。
空いた手でノブを捻りながら押すが微動だにしない。
矢っ張りか。
「……で、手前は誰だ」
「……ッぐ、何、で……」
太宰の姿をした何かは、俺の片手に首を締め上げられて苦しそうに藻掻いた。整った指先が、拘束を解こうとして黒手袋を滑っていく。その歪んだ表情が、元相棒の顔に浮かべられることに良心が痛まないでもなかったが、いやでもこの前自分で毒草を食べてゲロってたときの方が苦しそうな顔してたんだよな此奴、とそのときのことを思い出し、ついでに吐瀉物で汚された気に入りのカーペットのことも思い出され、ついつい苛立ちが拳に籠もる。与えている痛みのことも如何でも善くなる。
別に此奴は本人じゃねえし。
「なんで、だと? なんで手前が偽物だと判ったかか? そんなセリフはもっと気合い入れて化けてから吐きやがれ、先ず本物の観察がなってねえんだよ」だからあの男の特徴を捉え損ねる。「その一。手前が姿を取ってるその男の異能は異能無効化だ。若し手前が本物ならこの扉が開く筈だ。その二。その男は訳の判らねえ状況で俺に無防備に背を見せるほど木偶じゃねえ。その三。女の趣味が違う。……未だ要るか?」太宰の好みはどちらかと云うと年上だ。
一つひとつあげるのが面倒になってその辺りで切り上げたが、大体、表情も立ち居振る舞いも何もかも違うだろう。振り返るときの外套の裾の捌き方、舌打ちの出るタイミング。それに俺が壁を蹴って蹌踉めいていたら茶々の一つくらい入れてくる。神様なんて信じちゃいない。一瞥すれば判るレベルの粗末な仮装を、選りにも選って俺の前に出そうとしたその度胸だけは買うべきかも知れなかった。
「わか、わかっ……たから! 放……」
手を放すと、長身が折れ曲がるようにどさ、と落ちる。ゲホゲホと咳き込む様子がまるで首を絞められ慣れていない素人のそれで、俺は随分と白けてしまった。手袋を脱ぎ捨てる。さっさとこの巫山戯た仮面を剥ぎ取ってやろう、と崩れ落ちた体に跨って、白く透き通った頬の表面にガリ、と爪を立てる。
「い゛ッ……何!? 痛い痛い痛い!」
然し顔をガリガリと引っ掻いてみても、赤い筋がついて皮膚が裂け血が流れるばかりで一向に仮面の剥がれる様子は無かった。妙だな、と首を捻る。変装だとしても、妙に作り物感が無い。
「……そうか、手前も異能の一部か」
「うう……ご主人、この人こわい……」
皮膚を剥ぎ取るのを諦めて、太宰の姿でめそめそと泣く存在を半眼で見やる。詰まりこの部屋の仕掛けと太宰の姿を模った異能とは、一体を成しているようだった。で、そのご主人とやらは誰なんだよ、とここは拷問してでも問い質すべきかとも思ったが、然し明らかによよと泣き崩れる男からはあるべき殺意や敵意などがまるで感じられない。拍子抜けだ。部屋自体に殺傷力のあるガスなんかが仕掛けられているのかも知れない、とも懸念していたが今のところそれも無い。ただ閉じ込めただけだ。敵意があるなら未だ首謀者の当てもあろうものなのに、こんな悪戯半分のような攻撃を仕掛けてくる相手となると、俺には中々心当たりが無かった。
何なんだ。
「それに……何だあの……巫山戯た札は。攻撃にしても半端過ぎんだろ、精神ダメージでも狙ってんのか?」それまであまりにも意図が不明過ぎて考えないようにしていた札を、渋々ながら眺める。「キスをしないと出られない部屋」。目の前の異能とキスをしろ、と云うのは、何か攻撃として意味があるのだろうか? 「だが太宰となんざ今更だしな……それともキスをトリガーにして呪ったり魂吸い取ったりすんのか? だがそれじゃァ態々部屋を作って閉じ込めるなんて手間の掛かる工程を踏む必要も無えしコストも釣り合いが取れねえ……いや確かに昔亜空間内に限定して人型の異能を操る男は居たが……」
然し目の前の異能生命体は、俺の独り言の別の部分に食いついた。
「えっ『今更』?」
「あ? んだよ」
今更。って云ったか俺?
俺は今の自分の無意識の呟きを反芻した。
あの巫山戯た札は何だ。
だが今更だしな。
……太宰とのキスなんざ。
「……えーっと、ご主人が事前に調べてたんだけど、貴方の嫌いなものって……」
「………………太宰の野郎だが」
そう答えると、んん~~~?と目の前の太宰の姿をした何かの首が横に四十五度傾いていく。何だか知らないが、じわじわと墓穴が深さを増していきつつあるような焦りが俺にじわりと冷や汗を滲ませた。何だよ。何か文句あっか。射殺す勢いで睨むが、目の前の太宰の顔か気付く様子は無い。
かと思うと、不意に「成る程」とぽん、と手を叩いた。
「そっか、所謂ツンデ」
「違えわ!」
俺は咄嗟にノーモーションで横蹴りを放った。本物と体重は変わらないのか、ぎゃん、と悲鳴を上げて部屋の隅に吹っ飛んでいく。べしゃ、と受け身を取り損ねて無様に床にへばりつき、異能はそのままウッウッと泣き始めた。同情の余地は無い。
莫迦野郎ツンも無ければデレも無えわ。
「だってぇ僕の姿はご主人が指定するんですよ、この人になってねって、それでご主人は貴方がこの人嫌いらしいからこの人に化けろって」
「なら作戦としちゃあ正解だよ!」
「でも付き合ってるんですよね!?」
「付き合っ……!」てねえ、いや付き合ってんのか?
俺は太宰との最近のやりとりを思い出す。
――君って随分と情熱的なキスをするんだね。知らなかった。
体の関係を持ち始めたのはつい最近だ。でもそれだけで付き合ってるとは云わねえよな、と思う。それだけで付き合ってることになるなら俺も太宰も五十股くらいはしている計算になる。
交際の定義って何だ。
「……てねえ」
「じゃあご主人失敗なんじゃないですか……ご主人かわいそう、この異能本当に僕みたいな異能にキスするまで出られない部屋に閉じ込めるだけだからご主人ったら使い道無くて取り敢えず狙った相手を嫌いな人間にキスさせて嫌がらせばっかりして回ってるのに、そもそも嫌いな人間の選定から失敗するなんて……」
「何だその異能の使い方虚しすぎんだろ」
「嫌な上司に使ってストレス解消してるって云ってました!」
「陰湿だなァおい!」
其処まで云ってからスッと血の気が引く。詰まりこれもストレス解消の一環なのだろうか。部下のうちの誰かが? 把握している限りこんな変な異能を持つ部下は居なかった筈だし、日々部下の仕事のケアには気を遣っていた積りだったが、こんな嫌がらせをしようと思えるほどに不満を募らせている奴が居るのだろうか。自分のマネジメントに不足があったのではと云う予感に、急激に心許無さが暗雲のように垂れ込め思考を満たす。
……いいや、判ってたことじゃねえか。
仲間だと思ってるのは俺だけで。相手はそうは思っていない。
そんなことは善くあることだと。
「あっ別に貴方は違いますね、ご主人貴方のこと知らない人ですけどこの前貴方にカジノで負けてすっからかんになった腹いせだって云ってました」
「自業自得じゃねえかダメ野郎――!」
勢い余って異能の胸倉を再度掴み上げる。わーん、と媚びた泣き声が響くが鎮火するどころかただ俺の怒りに油を注ぐだけだ。
「おいクソ異能、さっさとこっから出せ、それかそのご主人とやらを呼べ。さもなきゃキスで手前の肉食い千切って血祭りにあげてやっからな」
「やだ! この人野蛮! ご主人~~~部屋開けて~~~!!! あっでもご主人自分でも異能解除出来ないって云ってた」
「あァ……!?」
それの意味するところに思い至って絶句する。
何だそれ本格的にポンコツじゃねえか。
「本当だよお! 僕も解除出来ないし、貴方が僕にキスする以外じゃ扉開かないんだってば!」
「だから手前の二の腕辺り食い千切ってやるって云ってんだろうが! それで開くだろ!」
「いや腕って小学生じゃないんだから! 僕の唇にですぅ!」
「は」
思わず俺はまじまじと掴み上げた異能生命体を見た。
嘘を吐いているようには見えない。そもそもこの異能の持ち主に、自分の異能に嘘を吐くなんて知能を持たせられるのか如何か疑わしい。
あっでも唇なら食い千切って善いって意味じゃないですからね、間違えないで下さいね、ほんと僕美味しくないですからね、と涙目で喚いている姿は、本物の太宰ならば絶対に取り得ない態度だ。
別人だ、と思うしその認識は揺らがない。
ただ元が太宰なので顔はいい。
抜群に。
俺は今までの情報を整理する。この部屋は俺の膂力でも異能でも壊せなかった。此処から出る方法は唯一、一緒に閉じ込められた異能と口と口でキスしないといけないらしい。ただ、しない、と云う選択肢もある。この異能が嘘を吐いているのではないか、と仮定して、もう少し別の解決法を探ってからでも遅くはない。だが、俺は先程こうも考えていた筈だ。
こんな部屋で一時でも過ごすなど気が狂う。
じゃあキスすんのか?
この、得体の知れない人型に。
異能も俺の渋面に気が付いたのか黙って、沈黙が部屋に落ちる。そうして居れば違和感は多少はマシだった。そう、ガワが太宰とは云え中身は別人だ――然し、中身が別人とは云えガワは太宰だ。
俺は逡巡した。
多分、やってやれないことはない。
だって、太宰とそう云うことになる前は普通に女ともキスしてた訳だし。
人間じゃねえから多分ノーカンだし。
そう云い訳を必死に連ねる自分を、自覚していない訳ではなかった。何によるものなのかは判らないが、俺は確かに後ろめたさも感じている。付き合ってもねえのに、だ。だが肝心の太宰だって気にしないだろう。多分、知らない方がお互い都合が善い。云わなきゃバレねえし。太宰だって、こんなことがあって、手前の顔した異能とキスした、なんて云われても困るだろう。だから何だと云う話だ。
そう、大丈夫だ。何も問題は無い。
太宰似の女優で抜くのと同じようなものだと思えば。
俺は腹を括った。
「……善いか……顔動かすんじゃねえぞ。大人しくしてろよ……」
「とてもこれからキスをしようとするひとの言葉とは思えない。僕何されるんですか?」
減らず口を叩く頬をぐに、と掴む。薄い唇をじっと見て狙いを定める。大丈夫だ、この前はちゃんと出来てたじゃねえか、今日だって出来る。
異能の後頭部を壁に押し付け、唇に触れようとした瞬間――。
ガチャッ。
「あっ開いた」
そう云いながら扉から顔を覗かせたのは、俺が見間違える筈も無い――太宰治その人だった。
俺は咄嗟に唇を躱し持っていた太宰の体を放り投げた。後ろでぎゃん、と悲鳴が上がるが耳はその音を拾わなかった。バクバクと心臓ばかりが煩い。頭に急激に血が昇って瞠った目が乾く。俺は今しがた入ってきた男の涼しげな顔を盗み見るように見上げる。
見られたか?
今、俺がしようとしていたことを。
俺の動揺を、太宰は知ってか知らずか、「ふぅん」とぐるりと部屋を見渡した。その口元には、これ以上無く「面白そう」と云う根性の悪さがありありと見て取れる。
最悪のタイミングの乱入だった。
「ぷっ、たまたまホテルで君の部下を見掛けたからさあ挨拶がてら誂いに来たのに何閉じ込められてんの中也ァ? こんなダッサイ異能に掛かってさあ! しかもこの札何? 『キスしないと』……? あれ、私だ……ああ、そう云う? えっ誰の恨み買ったの? ウケる」
太宰の顔に一瞬疑問が広がったが、然し直ぐに収束して満面の喜色に掻き消されてしまった。無駄に回転の早い頭で全てを承知したらしい。なんでこんなときだけ物分りが善いんだ、と舌打ちをする。扉が開いた瞬間に、飛び掛かって殴り倒し昏倒させるのが正解だった。然しもう後の祭りだ。
にやにやと、太宰が後ろで伸びている自分の姿を指し示す。
「えー相手私でしょ? キスくらいすれば善かったのにィ」
もうちょっと入るの待てば善かった、などとしゃあしゃあと云う太宰に俺は今度こそ拳を握り締めた。
ふざけんな。
俺がどんな気で居たと思ってやがる。
「……キスくらい、だと?」
俺は大股で太宰に歩み寄ると、先程よりも幾分か乱暴にその襟首を掴んだ。痛みに顔を顰める太宰の無駄に長い脚を払い、跪かせてその顎を掴む。
「ちょっと、な……っ!」
何か云い掛けたその唇を、乱暴に自分のもので塞いだ。
ん、んーッ、と苦しそうに目を白黒させるが構やしなかった。後頭部を抱え込むようにして舌を差し入れ、自分のと太宰のとを絡め、唾液をぐちゃぐちゃとかき回してねっとりと口の中を味わう。太宰の体温は低いが口の中は人並みに温かいのだ。それは何故だか何時も俺の探究心を擽る。この男の奥は如何なっているのだろう、この男はこれをしたらどんな顔を見せるのだろう。俺だけがその秘密を覗き見ているようで。無心に粘膜の辺りを繰り返しなぞっていると、がく、と膝立ちになった腰が震えて僅かに唇が離れる。伝った唾液を追うように食らいついて、更に深く口づける。
「……っ、……っ!!! ……! んっ……、あ」
縋り付いて伸ばされた腕に、答えるようにひときわ強く吸い付いて離した。半開きの口で行われる呼吸は浅い。とろけた瞳でぼんやりと俺を見上げる太宰の表情に、云いようも無い満足感を覚える。先程までの威勢は何処へやら、だ。けどそれは俺も同じで、今はみっともなく太宰に欲情した顔をしている自覚があった。は、と漏らした吐息の熱は、どちらのものか判らない。
「……手前はキスくらいっつうが」数度のキスの後、耳の裏をなぞって、囁くように想いを吐露する。「それでも俺は手前としかしたくねえよ」
「……ん…………」
酸欠なのか、何処かぼうっとして目の焦点をぶれさせる太宰の耳元で、自分の泊まっているホテルの部屋番号を告げる。後で来るだろと云うと太宰は微かに頷いたようだった。くたりとその場に倒れ込む太宰をそっと放す。抱えて持って帰ろうかとも一瞬思ったが、出来る限り邪魔されたくなかったからその排除が先だ。目撃されると煩そうな人間とか、……こんな巫山戯た異能を仕掛けて呉れた人間とか。
部屋を出た。其処はもうホテルの廊下だった。振り返る。真っ白い部屋はもう無い。ただ客室の真ん中で、太宰が寝台にぐったり寄り掛かっていた。見慣れた後ろ姿だ。違和感も無い。やっぱりだよな。足取りが何だか軽い。
やっぱり彼奴とのキスが、特別だよな。
部屋には二人の男が残されていた。そのうちの一人が、そろりと部屋を出ようとする。
「じゃ、じゃあ僕はこれでぇ……」
「……ちょっと待ちなよ」
ドン、と壁についた手で囲まれ、異能生命体はヒッと短い悲鳴を上げた。身長は今は同じ筈なのに冷ややかな視線に見下ろされ、無理に動けず身を竦める。だってこの人の異能!
「あの人云ってましたけど異能無効化ですよね!? やだー! 僕消えるじゃないですか」
「そんなことは如何でも善いんだよ……」
地獄の底から響く声に、あっ僕もう駄目かもしれない、かみさま、と異能生命体は天に祈った。
めっちゃ怒ってる。
「ねえ、君さあ……私あんな、乱暴な真似されるの初めてなんだけどさァ……私の奪われた唇の落とし前、如何つけて呉れんの……?」
「いやぁーこの人もこわい! ご主人ー! 助けてぇー!」
その後、絶対絶命の異能生命体が「でもあの人貴方とのキス好きだから全然嫌がらせになってねえって云ってましたよ!」と云い放って逃亡し果せるのは数分ほど後のこと。
キスをしないと出られない部屋、
と書かれた札が目の前の扉に掛けられていた。額に思わず青筋が立つ。
ふざけてる。
「ウワア最悪」
「こっちのセリフだ莫迦野郎」
隣に居る男の、舌打ちをして不満を表明するのを無視して、俺は先ず真っ先に体に異常が無いのを確かめた。俺とて不本意だ。誰が好き好んで、他人とこんな処に押し込められるか。
ぐっと手のひらの開閉を二、三度。見たところ通常の動作に支障は無い。薬を盛られたりもしていなさそうだ。力を込めるとふわりと帽子と外套の裾が浮いて、此処が異能の効果圏内であることも知れる。
然し数瞬前に俺が立っていた場所とは、如何云う訳だか明らかに様子が異なっていた。そこそこ質の善い生地が使われていたカーペットは真っ白いリノリウムへと姿を変え、両側に客室の扉を携えて奥へと伸びていた筈の廊下はぽつんと目の前に立ち塞がる扉の一つがあるのみだ。俺はただ、手洗いから部屋に戻ろうとホテル内を一人で歩いていただけなのに。それが一転、見知らぬ部屋の室内に変わっている。
何者かに、何か仕掛けられた。
警戒しながらざっと室内を見渡す。部屋の中には驚くほど何も無かった。家具も、窓も、人の滞在している痕跡も。換気口さえ見当たらないのは欠陥建築だろ、と思う。マフィアの地下牢にだってもう少しマシな設備がある。
その為外の様子は窺えないが、少なくとも先程まで滞在していたホテルの客室でないことは確かだった。大体二十畳くらいか、と検討を付ける。家のリビングと似た広さだ。高さは三米無いくらい。部屋の形はきっちり真四角を底面とした直方体で、白い壁紙に白い床、そして何も無い空間。何か仕掛けられていないかと見て回るが、じっと見れば見るほどに上下の感覚が曖昧になってくる。こんな部屋で一時でも過ごすなど気が狂う。
そんな中で、部屋の一辺に立てつけられたごく普通の木製の扉だけが異彩を放っている。
例の札の掛かっている、内開きの片扉。
俺は呻く。気付かず敵に某かの攻撃を許してしまうなど、間が抜けているにも程があった。おまけに、此方は誰がこれを仕掛けているのかさえ掴めていないのだ――元相棒には到底見せられない光景だ。きっと鬼の首を取ったように俺を馬鹿にするネタにするに決まっている。だが一体誰がこんな真似を? 日頃俺に恨みを抱いている人間だろうか。それとも今日取引をした相手方が不満を抱えて? 確かに今日はマフィアに有利な立場で取引条件を決した。だが両者のサインは既に成されている。今更俺を殺した処で、反故に出来るような段階ではなかった。
それに――もし俺を害そうとするなら、気付かず移動させるだけの力を持ちながら拘束もせず危害も加えず、挙げ句異能まで使い放題なんてことがあるだろうか。真逆「何者か」は、こんなもので俺に何かした積りになっているのだろうか。
こんな狭い部屋一つに閉じ込めたくらいで。
「まったく、たまったものではないよ。如何せ閉じ込められるのなら、もう少し可憐な少女とのひとときを期待したけれどね。君とだなんて、神様も残酷なことをするものだよ……」
「…………」
無防備に背を向けぶつぶつと呟きながら、同じく仕掛けを探して壁を辿る砂色外套の男は放っておいて、取り敢えず扉をがんと蹴り飛ばしてみる。びくともしない。コンコンと軽く叩くと音は響いて、扉の向こうに空間があることは察せられる――詰まり土中に埋められている訳ではない。なのに中也の蹴りで壊せない、と云うことは、詰まりこの部屋自体が特殊な成り立ちであると云うことだ。考えられるのは一つ。
矢張り異能だ。
試しに重力で扉についている鍵を操作しようとするが、鍵穴こそついているものの一般的な鍵とは如何やら構造自体が違うようでノブ周りの金属部分はカチャリとも動かない。天井や壁や、扉以外の場所を選んで壊そうとしてもそれは同じようだった。重力を乗せて放った蹴りを壁に跳ね返され、バランスを崩して盛大に蹌踉めく。だのに壁の方は撓みすらしない。少しだけ、黒い汚れがついたのみだ。
其処まで試して、俺は漸く一緒に閉じ込められたもう一人の男と向き直った。
「……おい」
「何だい」
男が振り返った拍子に、ひらりと外套の裾が装飾ベルトを巻き込んで乱れた。包帯まみれの手がそれを丁寧になおすのを、俺は無言でじっと見る。
黒鳶の蓬髪、ほっそりとしたシルエットの砂色の外套。
見慣れた立ち姿だ。自分の昔の元相棒の。
だからこそ、『違和感』が強い。
俺は無言で距離を詰め、「何、」と驚くその男の胸倉を掴み上げ扉にガンと押し付けた。
空いた手でノブを捻りながら押すが微動だにしない。
矢っ張りか。
「……で、手前は誰だ」
「……ッぐ、何、で……」
太宰の姿をした何かは、俺の片手に首を締め上げられて苦しそうに藻掻いた。整った指先が、拘束を解こうとして黒手袋を滑っていく。その歪んだ表情が、元相棒の顔に浮かべられることに良心が痛まないでもなかったが、いやでもこの前自分で毒草を食べてゲロってたときの方が苦しそうな顔してたんだよな此奴、とそのときのことを思い出し、ついでに吐瀉物で汚された気に入りのカーペットのことも思い出され、ついつい苛立ちが拳に籠もる。与えている痛みのことも如何でも善くなる。
別に此奴は本人じゃねえし。
「なんで、だと? なんで手前が偽物だと判ったかか? そんなセリフはもっと気合い入れて化けてから吐きやがれ、先ず本物の観察がなってねえんだよ」だからあの男の特徴を捉え損ねる。「その一。手前が姿を取ってるその男の異能は異能無効化だ。若し手前が本物ならこの扉が開く筈だ。その二。その男は訳の判らねえ状況で俺に無防備に背を見せるほど木偶じゃねえ。その三。女の趣味が違う。……未だ要るか?」太宰の好みはどちらかと云うと年上だ。
一つひとつあげるのが面倒になってその辺りで切り上げたが、大体、表情も立ち居振る舞いも何もかも違うだろう。振り返るときの外套の裾の捌き方、舌打ちの出るタイミング。それに俺が壁を蹴って蹌踉めいていたら茶々の一つくらい入れてくる。神様なんて信じちゃいない。一瞥すれば判るレベルの粗末な仮装を、選りにも選って俺の前に出そうとしたその度胸だけは買うべきかも知れなかった。
「わか、わかっ……たから! 放……」
手を放すと、長身が折れ曲がるようにどさ、と落ちる。ゲホゲホと咳き込む様子がまるで首を絞められ慣れていない素人のそれで、俺は随分と白けてしまった。手袋を脱ぎ捨てる。さっさとこの巫山戯た仮面を剥ぎ取ってやろう、と崩れ落ちた体に跨って、白く透き通った頬の表面にガリ、と爪を立てる。
「い゛ッ……何!? 痛い痛い痛い!」
然し顔をガリガリと引っ掻いてみても、赤い筋がついて皮膚が裂け血が流れるばかりで一向に仮面の剥がれる様子は無かった。妙だな、と首を捻る。変装だとしても、妙に作り物感が無い。
「……そうか、手前も異能の一部か」
「うう……ご主人、この人こわい……」
皮膚を剥ぎ取るのを諦めて、太宰の姿でめそめそと泣く存在を半眼で見やる。詰まりこの部屋の仕掛けと太宰の姿を模った異能とは、一体を成しているようだった。で、そのご主人とやらは誰なんだよ、とここは拷問してでも問い質すべきかとも思ったが、然し明らかによよと泣き崩れる男からはあるべき殺意や敵意などがまるで感じられない。拍子抜けだ。部屋自体に殺傷力のあるガスなんかが仕掛けられているのかも知れない、とも懸念していたが今のところそれも無い。ただ閉じ込めただけだ。敵意があるなら未だ首謀者の当てもあろうものなのに、こんな悪戯半分のような攻撃を仕掛けてくる相手となると、俺には中々心当たりが無かった。
何なんだ。
「それに……何だあの……巫山戯た札は。攻撃にしても半端過ぎんだろ、精神ダメージでも狙ってんのか?」それまであまりにも意図が不明過ぎて考えないようにしていた札を、渋々ながら眺める。「キスをしないと出られない部屋」。目の前の異能とキスをしろ、と云うのは、何か攻撃として意味があるのだろうか? 「だが太宰となんざ今更だしな……それともキスをトリガーにして呪ったり魂吸い取ったりすんのか? だがそれじゃァ態々部屋を作って閉じ込めるなんて手間の掛かる工程を踏む必要も無えしコストも釣り合いが取れねえ……いや確かに昔亜空間内に限定して人型の異能を操る男は居たが……」
然し目の前の異能生命体は、俺の独り言の別の部分に食いついた。
「えっ『今更』?」
「あ? んだよ」
今更。って云ったか俺?
俺は今の自分の無意識の呟きを反芻した。
あの巫山戯た札は何だ。
だが今更だしな。
……太宰とのキスなんざ。
「……えーっと、ご主人が事前に調べてたんだけど、貴方の嫌いなものって……」
「………………太宰の野郎だが」
そう答えると、んん~~~?と目の前の太宰の姿をした何かの首が横に四十五度傾いていく。何だか知らないが、じわじわと墓穴が深さを増していきつつあるような焦りが俺にじわりと冷や汗を滲ませた。何だよ。何か文句あっか。射殺す勢いで睨むが、目の前の太宰の顔か気付く様子は無い。
かと思うと、不意に「成る程」とぽん、と手を叩いた。
「そっか、所謂ツンデ」
「違えわ!」
俺は咄嗟にノーモーションで横蹴りを放った。本物と体重は変わらないのか、ぎゃん、と悲鳴を上げて部屋の隅に吹っ飛んでいく。べしゃ、と受け身を取り損ねて無様に床にへばりつき、異能はそのままウッウッと泣き始めた。同情の余地は無い。
莫迦野郎ツンも無ければデレも無えわ。
「だってぇ僕の姿はご主人が指定するんですよ、この人になってねって、それでご主人は貴方がこの人嫌いらしいからこの人に化けろって」
「なら作戦としちゃあ正解だよ!」
「でも付き合ってるんですよね!?」
「付き合っ……!」てねえ、いや付き合ってんのか?
俺は太宰との最近のやりとりを思い出す。
――君って随分と情熱的なキスをするんだね。知らなかった。
体の関係を持ち始めたのはつい最近だ。でもそれだけで付き合ってるとは云わねえよな、と思う。それだけで付き合ってることになるなら俺も太宰も五十股くらいはしている計算になる。
交際の定義って何だ。
「……てねえ」
「じゃあご主人失敗なんじゃないですか……ご主人かわいそう、この異能本当に僕みたいな異能にキスするまで出られない部屋に閉じ込めるだけだからご主人ったら使い道無くて取り敢えず狙った相手を嫌いな人間にキスさせて嫌がらせばっかりして回ってるのに、そもそも嫌いな人間の選定から失敗するなんて……」
「何だその異能の使い方虚しすぎんだろ」
「嫌な上司に使ってストレス解消してるって云ってました!」
「陰湿だなァおい!」
其処まで云ってからスッと血の気が引く。詰まりこれもストレス解消の一環なのだろうか。部下のうちの誰かが? 把握している限りこんな変な異能を持つ部下は居なかった筈だし、日々部下の仕事のケアには気を遣っていた積りだったが、こんな嫌がらせをしようと思えるほどに不満を募らせている奴が居るのだろうか。自分のマネジメントに不足があったのではと云う予感に、急激に心許無さが暗雲のように垂れ込め思考を満たす。
……いいや、判ってたことじゃねえか。
仲間だと思ってるのは俺だけで。相手はそうは思っていない。
そんなことは善くあることだと。
「あっ別に貴方は違いますね、ご主人貴方のこと知らない人ですけどこの前貴方にカジノで負けてすっからかんになった腹いせだって云ってました」
「自業自得じゃねえかダメ野郎――!」
勢い余って異能の胸倉を再度掴み上げる。わーん、と媚びた泣き声が響くが鎮火するどころかただ俺の怒りに油を注ぐだけだ。
「おいクソ異能、さっさとこっから出せ、それかそのご主人とやらを呼べ。さもなきゃキスで手前の肉食い千切って血祭りにあげてやっからな」
「やだ! この人野蛮! ご主人~~~部屋開けて~~~!!! あっでもご主人自分でも異能解除出来ないって云ってた」
「あァ……!?」
それの意味するところに思い至って絶句する。
何だそれ本格的にポンコツじゃねえか。
「本当だよお! 僕も解除出来ないし、貴方が僕にキスする以外じゃ扉開かないんだってば!」
「だから手前の二の腕辺り食い千切ってやるって云ってんだろうが! それで開くだろ!」
「いや腕って小学生じゃないんだから! 僕の唇にですぅ!」
「は」
思わず俺はまじまじと掴み上げた異能生命体を見た。
嘘を吐いているようには見えない。そもそもこの異能の持ち主に、自分の異能に嘘を吐くなんて知能を持たせられるのか如何か疑わしい。
あっでも唇なら食い千切って善いって意味じゃないですからね、間違えないで下さいね、ほんと僕美味しくないですからね、と涙目で喚いている姿は、本物の太宰ならば絶対に取り得ない態度だ。
別人だ、と思うしその認識は揺らがない。
ただ元が太宰なので顔はいい。
抜群に。
俺は今までの情報を整理する。この部屋は俺の膂力でも異能でも壊せなかった。此処から出る方法は唯一、一緒に閉じ込められた異能と口と口でキスしないといけないらしい。ただ、しない、と云う選択肢もある。この異能が嘘を吐いているのではないか、と仮定して、もう少し別の解決法を探ってからでも遅くはない。だが、俺は先程こうも考えていた筈だ。
こんな部屋で一時でも過ごすなど気が狂う。
じゃあキスすんのか?
この、得体の知れない人型に。
異能も俺の渋面に気が付いたのか黙って、沈黙が部屋に落ちる。そうして居れば違和感は多少はマシだった。そう、ガワが太宰とは云え中身は別人だ――然し、中身が別人とは云えガワは太宰だ。
俺は逡巡した。
多分、やってやれないことはない。
だって、太宰とそう云うことになる前は普通に女ともキスしてた訳だし。
人間じゃねえから多分ノーカンだし。
そう云い訳を必死に連ねる自分を、自覚していない訳ではなかった。何によるものなのかは判らないが、俺は確かに後ろめたさも感じている。付き合ってもねえのに、だ。だが肝心の太宰だって気にしないだろう。多分、知らない方がお互い都合が善い。云わなきゃバレねえし。太宰だって、こんなことがあって、手前の顔した異能とキスした、なんて云われても困るだろう。だから何だと云う話だ。
そう、大丈夫だ。何も問題は無い。
太宰似の女優で抜くのと同じようなものだと思えば。
俺は腹を括った。
「……善いか……顔動かすんじゃねえぞ。大人しくしてろよ……」
「とてもこれからキスをしようとするひとの言葉とは思えない。僕何されるんですか?」
減らず口を叩く頬をぐに、と掴む。薄い唇をじっと見て狙いを定める。大丈夫だ、この前はちゃんと出来てたじゃねえか、今日だって出来る。
異能の後頭部を壁に押し付け、唇に触れようとした瞬間――。
ガチャッ。
「あっ開いた」
そう云いながら扉から顔を覗かせたのは、俺が見間違える筈も無い――太宰治その人だった。
俺は咄嗟に唇を躱し持っていた太宰の体を放り投げた。後ろでぎゃん、と悲鳴が上がるが耳はその音を拾わなかった。バクバクと心臓ばかりが煩い。頭に急激に血が昇って瞠った目が乾く。俺は今しがた入ってきた男の涼しげな顔を盗み見るように見上げる。
見られたか?
今、俺がしようとしていたことを。
俺の動揺を、太宰は知ってか知らずか、「ふぅん」とぐるりと部屋を見渡した。その口元には、これ以上無く「面白そう」と云う根性の悪さがありありと見て取れる。
最悪のタイミングの乱入だった。
「ぷっ、たまたまホテルで君の部下を見掛けたからさあ挨拶がてら誂いに来たのに何閉じ込められてんの中也ァ? こんなダッサイ異能に掛かってさあ! しかもこの札何? 『キスしないと』……? あれ、私だ……ああ、そう云う? えっ誰の恨み買ったの? ウケる」
太宰の顔に一瞬疑問が広がったが、然し直ぐに収束して満面の喜色に掻き消されてしまった。無駄に回転の早い頭で全てを承知したらしい。なんでこんなときだけ物分りが善いんだ、と舌打ちをする。扉が開いた瞬間に、飛び掛かって殴り倒し昏倒させるのが正解だった。然しもう後の祭りだ。
にやにやと、太宰が後ろで伸びている自分の姿を指し示す。
「えー相手私でしょ? キスくらいすれば善かったのにィ」
もうちょっと入るの待てば善かった、などとしゃあしゃあと云う太宰に俺は今度こそ拳を握り締めた。
ふざけんな。
俺がどんな気で居たと思ってやがる。
「……キスくらい、だと?」
俺は大股で太宰に歩み寄ると、先程よりも幾分か乱暴にその襟首を掴んだ。痛みに顔を顰める太宰の無駄に長い脚を払い、跪かせてその顎を掴む。
「ちょっと、な……っ!」
何か云い掛けたその唇を、乱暴に自分のもので塞いだ。
ん、んーッ、と苦しそうに目を白黒させるが構やしなかった。後頭部を抱え込むようにして舌を差し入れ、自分のと太宰のとを絡め、唾液をぐちゃぐちゃとかき回してねっとりと口の中を味わう。太宰の体温は低いが口の中は人並みに温かいのだ。それは何故だか何時も俺の探究心を擽る。この男の奥は如何なっているのだろう、この男はこれをしたらどんな顔を見せるのだろう。俺だけがその秘密を覗き見ているようで。無心に粘膜の辺りを繰り返しなぞっていると、がく、と膝立ちになった腰が震えて僅かに唇が離れる。伝った唾液を追うように食らいついて、更に深く口づける。
「……っ、……っ!!! ……! んっ……、あ」
縋り付いて伸ばされた腕に、答えるようにひときわ強く吸い付いて離した。半開きの口で行われる呼吸は浅い。とろけた瞳でぼんやりと俺を見上げる太宰の表情に、云いようも無い満足感を覚える。先程までの威勢は何処へやら、だ。けどそれは俺も同じで、今はみっともなく太宰に欲情した顔をしている自覚があった。は、と漏らした吐息の熱は、どちらのものか判らない。
「……手前はキスくらいっつうが」数度のキスの後、耳の裏をなぞって、囁くように想いを吐露する。「それでも俺は手前としかしたくねえよ」
「……ん…………」
酸欠なのか、何処かぼうっとして目の焦点をぶれさせる太宰の耳元で、自分の泊まっているホテルの部屋番号を告げる。後で来るだろと云うと太宰は微かに頷いたようだった。くたりとその場に倒れ込む太宰をそっと放す。抱えて持って帰ろうかとも一瞬思ったが、出来る限り邪魔されたくなかったからその排除が先だ。目撃されると煩そうな人間とか、……こんな巫山戯た異能を仕掛けて呉れた人間とか。
部屋を出た。其処はもうホテルの廊下だった。振り返る。真っ白い部屋はもう無い。ただ客室の真ん中で、太宰が寝台にぐったり寄り掛かっていた。見慣れた後ろ姿だ。違和感も無い。やっぱりだよな。足取りが何だか軽い。
やっぱり彼奴とのキスが、特別だよな。
部屋には二人の男が残されていた。そのうちの一人が、そろりと部屋を出ようとする。
「じゃ、じゃあ僕はこれでぇ……」
「……ちょっと待ちなよ」
ドン、と壁についた手で囲まれ、異能生命体はヒッと短い悲鳴を上げた。身長は今は同じ筈なのに冷ややかな視線に見下ろされ、無理に動けず身を竦める。だってこの人の異能!
「あの人云ってましたけど異能無効化ですよね!? やだー! 僕消えるじゃないですか」
「そんなことは如何でも善いんだよ……」
地獄の底から響く声に、あっ僕もう駄目かもしれない、かみさま、と異能生命体は天に祈った。
めっちゃ怒ってる。
「ねえ、君さあ……私あんな、乱暴な真似されるの初めてなんだけどさァ……私の奪われた唇の落とし前、如何つけて呉れんの……?」
「いやぁーこの人もこわい! ご主人ー! 助けてぇー!」
その後、絶対絶命の異能生命体が「でもあの人貴方とのキス好きだから全然嫌がらせになってねえって云ってましたよ!」と云い放って逃亡し果せるのは数分ほど後のこと。
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