悪夢に乾杯
(2018/10/12)
中原中也は牢獄に居た。
それが奴の云う対価だったからだ。
◇ ◇ ◇
気付けばマフィア本部のロビーに居た。
そう認識した途端、体に蓄積した疲労の重みがどっと増す。さながら戦場から帰った直後のようだ。俺は先刻まで、一体何をしていたのだったか。けれど思考を凝らしてみても、今まで自分が何処に居たのかがまるで靄の掛かったように上手く思い出せない。まあ善いか、と疑問を放り投げて上階へ向かう。構わなかった。どのみち執務室へ戻って部下の誰かしらに声を掛ければ、今日の自分の動向は知れる。
本部がいやに騒がしいと気付いたのはその道中だ。
曰く『猟犬』が来ている、と。
猟犬と云えば――先日魔人共にハメられて探偵社の逮捕に血道を上げていた軍の特殊部隊の連中だ。あの一件は全て片が付いたと思っていたが、未だ何か余計に嗅ぎ回られる要因があっただろうか。昇降機の階数表示をじっと見ながら考える。けれど夢の中を彷徨っているみたいに、頭が上手く働いていなかった。第一、心当たりを挙げようにも、腐っても非合法組織だ、探られれば痛い腹ばかりだ。恐らく何か追求されたとして、対応は後手に回ってしまうだろう。あまり好ましくはなかった。
最悪組織ごと始末することになりかねないし。
そうなれば一定の被害は覚悟しなければならないだろう。今本部の何処に居るのかは知らないが、首領から呼び出しが掛かれば何時でも動けるようにしておくのが得策だ。相手の力量からしてまず間違いなく召集されるのは自分だと思われた。建物に被害を出さずに、上手く殺せるだろうか。空間転移の異能持ちの奴に、先に話をつけておいた方が善いかも知れない。
そんなことを憂慮しながら扉を開けた。
その男が居た。
「やあ中原さん。この前は如何も」
「げ」
来客用のソファで寛いて――何処からかティーポットまで調達してきて優雅に茶を飲んでいる軍服の男に思わず顔を顰めた。
条野採菊。
正直、不意を突かれなかったと云えば嘘になる。気配は無かった。若し仮に目の前の男が此方に危害を加える気であれば、一撃くらいは貰っていたかも知れない。
加える気があれば。
今は無い。
ただじっと、盲た目の奥から此方のことを伺っている。
成る程、と俺は心中で首肯した。成る程、それでこの男か。
相手が猟犬の中でも未だ辛うじて話の通じる人間で、俺は不本意ながら密かに肩を撫で下ろしてしまった。何しろ猟犬の連中ときたら、生まれ育ちが未開の地か地底かとでも云うくらいに言語も通じなければ行動も意味不明な奴ばかりだ。嫌気が差してうっかりぶっ殺しでもしてしまったら面倒過ぎる。
けれどこの男が来ると云うことは、少なくとも目的には制圧だけではなく情報収集が含まれているんだろう。
「……然し、流石ですね。完全に不意を突いたと思いましたが動揺の音を一瞬で覆い隠すとは。矢張り貴方は油断がならない」
「ああ、そう」
「この間の我々への襲撃も、あれは貴方なのでしょう? ヘリの音で貴方の音は善く聞こえませんでしたが――我々相手に不意を突ける人間など、そうは居ませんからね」
「何の話だか判らねえな」
心にも無い言葉は適当に往なし、俺は男の目の前をすいと外套を翻して通り過ぎた。外套は外套掛けへ。広く取られた大窓、その青く広がる空の前に執務机の椅子を引いて腰掛ける。
重みを受けて、深く沈み込む革張りの座面。
足を組む。
「……で? 軍警最強と謳われる特殊部隊様が、一介の企業の管理職である俺に何の用だ。ウチはクリーンな企業だぜ、独禁法のガサ入れでも頼まれたか?」
「一介の管理職? 真逆貴方が? 謙遜も過ぎれば滑稽ですね五大幹部殿? 此処がマフィアのフロント企業だと云う事実は最早公然の秘密ですよ」
「先刻から手前の云ってることはさっぱり俺の理解を超えるな」
条野の表情は相変わらず雲のように捉え処が無い。戦闘に来た訳ではないだろう。互いに相性が悪いと認識している。俺にぶつけるならあのおっさんかガキ女の筈だ。
ただそれにしても妙だった。この男は本物なのだろうか、とふと思う。外観を擬態した他人である可能性はないのか。幾らか言葉が通じるとは云え、条野とて基本的には猟犬の名の通り、その性質は敵の喉笛に喰らいついて力で捻じ伏せるのを是とするものだ。温和でもなければ、こんな風な直接交渉を好む質でもない。
それとも方針の転換でもあっただろうか。
そう考えていたから不意を突かれた。
「そう込み入った話でもないのです。実は太宰治と云う男に逮捕状が出ておりまして」
「……へえ」
一つ息を吸って、吐く。ここで脈を乱せば、この男の思う壺だ。
平静を装えたかは判らない。
「それで、あの方を捕らえる前に、一応お知らせしておこうかと」
ちら、と条野が此方を伺うのが顔を向けずとも判った。その目を避け、くる、と椅子を回してふいと窓の外へ目を向ける。空は煌々と燃えるような赤に染まっていた。互いに無言だ。茶をずずっと啜る音だけが響く。
ちらちら、視線が煩えな。
「……ふぅん。太宰ってえと……探偵社の一隅だろう。証拠も無えのに、また民間人を強制連行して尋問ってか? 手前等、一回其奴にハメられて、懲りたんじゃあなかったのか」溜め息を吐いて、言葉の続きを引き取った。向き合う。「聞いたぜ、まんまと手掛かりを掴まされて監獄に行く手引きをしてやったんだろう? それとも、猟犬様ぐらいになりゃあ誤認逮捕の責任なんぞは国家権力で簡単に揉み消せるもんなのか」
「却説、口数が多いのは動揺を隠したいからでしょうか」
「手前等を思い切り莫迦にしたいからだよ」
は、と思い切り背凭れに体を預けて鼻で笑う。太宰が魔人に会う為に猟犬を利用したのは知っていた。如何にも奴らしいことだ。相手に主導権を握っていると思わせるのが、相手を上手く動かすコツだよ、とはよく云ったものだ。
「然し、今度は本当ですよ。五年前の要人一家惨殺の容疑だ――死刑は確実でしょう」条野は飲み終わったカップを置き、薄く笑ったまま云う。「今度はムルソーなどに送らせはしません。罪は償われなければならない。悪行の対価は支払われねば」
目を瞑る。あの男が証拠を消し損ねる筈が無い。その確信があった。ただ、万一ミスがあったとしても、たまには思い知れば善いのだ、自分の力の限界を、とも思った。
「……俺は奴の連帯保証人じゃあねえんだよ。対価の取り立てくらい好きにすりゃ善いだろうが」
「『元』相棒の貴方にはお知らせしておくのが筋かなと」
「『現』何の関係も無え奴だから結構だ」
この糸目野郎、嘘を吐けよと心中で嗤う。この前は一言も断りが無かっただろう。
口にしないのは下手に関わりを認めれば後々面倒になるからだ。
その代わりに頬杖を突く。脈を乱さないように息を吐く。
一呼吸。
「俺を揺さぶれば、何か情報が得られると思ったか? 生憎だが、手前の期待するような情報は出せねえよ。手前が俺と彼奴との関係を何だと思ってんのかは知らねえが、俺は一切関係が無え」
「……はて、困りました。貴方も頑固ですねえ。貴方と太宰治が双黒と呼ばれていたこと、別に今更隠すことでもないでしょうに」
ちっとも困ってなどいない顔で、条野は静かに席を立った。残されたティーカップの中で、波々と注がれた紅茶が、表面にゆらゆらと波紋を描く。
淹れたてのように、まだ温かい湯気を上げて。
俺が部屋に入ってきたときから、少しも減っていないままで。
――じゃあ先刻までこの男が口にしていたものは何だ?
ふと窓の外を見た。空は今度は奇妙なクリーム色をしていた。油の膜が貼ったように暗い虹の波がうねっている。感じるのは生理的なきもちのわるさだ。
――此処は何処だ?
「けれど結構ですよ」男の声が響いた。「今日は本当に、伝えにきただけなのです。情報は、貴方から得られずともあの方を捕まえた後でゆっくりと聞けば善い。それこそ無理矢理にでも」
「……待て。手前――」
振り向いて見た目の前の男は、条野の顔をしていなかった。
ただ黒々と、塗り潰されたように其処にある人型の存在を認識出来ない。
異能か、と直感的に理解する。
恐らく俺は今異能に掛けられて居るのだ。空がおかしな色に見えるのも、条野が何か別のモノに視える――或いは何か別のモノが今まで条野に視えていたのもその所為だ。幻覚か、精神操作の類の異能。
この部屋に入ってから、何も口にしてはいない。毒を盛られた訳ではない。然し目の前のこの男の仕業でもない――効果が男の異能の性質ではないからだ。仲間が今仕掛けてきていると云う線も無いだろう。部屋の外に異能の匂いは薄い。詰まり俺は、この部屋に――マフィア本部に辿り着くまでに、既に異能に掛けられていたと云うことだ。
認識した所為か、執務室の全景までがぐにゃりと奇妙に歪む。踏みしめるカーペットの感触が曖昧だ。その中であって、条野であったモノは微塵も周囲の変形を意に介さずに笑っていた。視えはしなかったが、確かに判った。
そうして、太宰を捕らえると云う。
「……手前」どことない焦燥感に駆られて、気付けば口を開いていた。普通の人間相手なら心配などしない。ただ、これが何かの予兆ならば、俺はそれを止めなければならない。「太宰を如何する積りだ」
「云ったでしょう。悪行の対価を支払わせるんですよ。捕らえて自白させる。あの方が嘘を吐いても無駄ですよ――私には、嘘と真実を聞き分けることが出来ますから」
「……知ってるか。この世の中には、自分の生きてる音を完璧に制御出来る人間が居る」
「それは平常時であれば、でしょう? 流石に痛みを与えられ、生命の危機に瀕してなおそんな余裕を持てる人間はそう多くはないのではないでしょうか。……正しく人間ならばね」
「……相手は善良な民間人だ」
「そして悪党だ。自分の手を汚すこと無く過去に何人もの人間を殺した。貴方が一番善く知っている筈でしょう?」
これは罠だ、と思った。相手のペースに飲まれれば、心を喰われてしまうタイプの。
それに異能であろうがなかろうが、この状況を太宰が想定していないとは考え辛い。太宰治は何かもを見通す。此処で俺が何か手を打たなくても、大丈夫な筈だった。
ただ、同時に俺は知っていた。
あの男も体はただの人間だと云うことを。
「悪行の対価は支払われなければならない。そうでしょう?」
その言葉がぐらりと俺に決断を迫る。
太宰が罪に問われることを、俺はこのまま見過ごすのか。
「……けど奴は今となっては善人だ。そうだろう」絞り出すように云う。「仮に過去に何百人殺していたとしても、それ以上の人間の命を救えば善いんだ。命で贖わせるより、生かしておいた方が収支勘定が余程合う」
「ならば今までに殺された人間の無念は如何するのです?」
「死人は喋んねえだろうが」
「野蛮ですね。まるで獣だ。然し此処は人間の統治する社会で、人間の法が守られなければならない」
窓の内と外が混じり合って、何処でもない空間に投げ出される感覚があった。平衡感覚を失う。立っていられない。はっきりと認識出来るのは、目の前の影の存在だけだ。
きっとこの幻覚には俺の精神の不安定さが反映されている。
判っていても止められない。
「却説、私はそろそろ行きます。彼を捕らえないと」
「……いいや。その必要は無え」
気付けば我武者羅に袖を掴んでいた。影が訝しげに振り返る。
「何故です?」
「……その件は」息苦しさに喘ぐように云う。「俺がやったからだ。其奴じゃあなく」
「……庇っているようにしか聞こえない。到底信じられませんが」
「なら俺の家の地下を調べると善い。その要人一家暗殺に使った銃がごまんと出てくる筈だ。手前等が取る自白よりよっぽど証拠能力はあんだろ」
云いながら、手帳にセーフハウスの一つの住所を書いて破った。走り書きのインクが滲む。ついでに奴の手を掴んで、自分の胸に当ててやる。
「ほら、如何だよ。嘘は聞き分けれンだろう?」
「……心音を完璧に制御出来る人間が居ると。そう聞いたばかりですが、まあ、善いでしょう」
目の前の何かは、そうして少し首を傾げて、笑った。
「じゃ、監獄に入ると善い。君が代わりに、彼の悪行の対価を支払うと云うのなら」
「何をやってんだろうなあ、俺は……」
影の充満する冷えた牢獄に、ぼやく声が響き渡った。
最終的に、執務室は地下牢の形に落ち着いた。間違いなく幻覚だが、解除する術は未だ判らない。異能が使えないことだけを確認し、俺は何をするでもなく、ただ膝を抱えて牢に蹲っていた。
こんなことをする必要は無かった。過去のツケなど、あの男自身に払わせれば善いのだ。俺が身代わりになる必要は無い。
なのに自分の預かり知らない処で太宰が加害を受けることを思うと、如何しようも無く胸の奥がざわついた。そんな仕打ちに耐えるくらいなら、代わりに牢にぶち込まれた方が余程マシだった。
自分ならば、多少の既存を受けたとてそうそう死ぬことはないし。異能が異能だけに、直ぐに殺される展開も考え難い。
それに――何時もこう云う場面で、あの男の想定外であったことは無い。これも如何せ、あの男の計算の内だ。
そう考えると、急に全てのことが馬鹿らしくなる。あの男はあの男で勝手にやるだろう。俺は俺のしたいようにすれば善い。
若しかしたら、俺がこうして身代わりになったことはあの男の想定外で、今頃現れない猟犬のことを思って少し慌てていたりもするかも知れない。ざまあみろ、と思う。そうだ、暫く出てやらねえでやろう。それが善い。
心を満たすのは満足感だ。充満する影に身を浸しながら、微かに笑って眠りに落ちる。
「……太宰のクソ野郎は、未だ善人になろうなんざ足掻いてる」
それが可能なのか如何なのか、俺は知らない。でもたった二人魂を分けた相棒が、形振り構わず必死に足掻いているのだ。
「なら後始末くらい、引き受けてやるのも悪くねえんだよな……」
かつての相棒として。
◇ ◇ ◇
「……也。中也、起きて」
カチャン、と軽い音で俺の意識は覚醒した。
見れば開け放たれた牢の外から、元相棒が手招きしていた。何時も通りの砂色の外套で、少ししおらしげな笑みさえ浮かべて。何で此処へ。手前が来たら意味が無えだろう。戸惑っていると、強引に手を掴まれて牢の外へと連れ出される。
触れた太宰の手には温度が無い。
「……太宰。手前」
「中也。助けに来た」
その言葉は、思いの外重みを持って俺の臓腑の奥まで刺さった。
この男が。
俺を助けに?
握られた手に力が籠もる。
「……何処へ行く」
「何処って。逃げるんだよ。君がこんな処に入っている必要ある? ……獄中死がお望みなら別だけどね」
牢を出て、踏みしめた草の匂いが鮮烈に俺の嗅覚を蘇らせた。露が革靴に雫を落とす。そうして俺達は、手に手を取って逃げた。途中、例の影が追ってくる気配があったが、俺と太宰は振り返らずに駆けた。当ても無く。ぐるぐると目まぐるしく周囲の光景が変わる中。二人で。
何処へ行っても逃れられる筈が無いのに。
「中也」
影は何処までも追ってきた。じわじわと、蝕まれるのは体よりも寧ろ精神だ。出口の無い迷路を延々彷徨っていると、目よりも心が先ず暗闇を捉えてしまう。
俺達は追い詰められていた。
けれどその中で、切羽詰まった様子の元相棒の顔だけが何だか妙に面白かった。如何にも、真実味が無くて。
「ごめん、矢っ張り、無理かも知れない。逃げ切れないかも」
微かに息を弾ませて、太宰は苦渋の表情で云った。
「……そうか」
「ねえ、此処で死んでしまったら、私達心中ってことになるのかな? やだなあ中也となんて。来世で碌なものに生まれ変わらなさそう」
「……」
「でもまあ……君となら、地獄も悪くはないのかな?」
太宰が立ち止まる。影は死の気配を振りまきながら、直ぐ其処まで迫ってきていた。振り返ってそれを互いに確認した後、太宰は無邪気に笑った。
俺の、一番すきな笑顔で。
「庇ってくれたり、一緒に逃げて呉れたり。色々付き合わせて、済まなかったね。……愛してる、中也」
そして顔を寄せて口づけようとする、
その唇を手のひらで阻んだ。
「……もう善い。もう、茶番は此処までで」
「何……」
引き摺られないようにきつく目を瞑った。此処は幻覚の中。俺は未だ精神操作の術中。そうだろう。なのに俺はそれを――想像の産物を否定し切れなくて牢獄に閉じ込められたのだ。
然し今度は明確に否定することが出来る。
「……もうちょっと、上手くやれよ。アレは俺を助けにきたりはしない。俺を愛したりは」
キスを求めてきた体を押し返して離す。見上げる顔は、風に揺れる蓬髪も少しの困惑を浮かべる表情も、寸分の狂い無く俺の知っている太宰に酷似していた。
けれど違う。
「後、無効化の異能力者なんだ、こんなとこでふらふらはしねえよ。……手前は俺の願望をなぞっただけのモンなんだろう。牢の中での衰弱が待てずに、心中を装って殺そうってか」
「……ふふ」
瞬間、ざわりと肌が粟立った。太宰が笑ったのだ。先程までの中也の記憶にあるものとは異なる、無機質なガラスを貼り付けたような笑みで。
「手前」思わず全身に警戒を漲らせる。「『何』だ」
「……残念。君の魂はおいしそうだったのに」
後ろから迫ってきていた影は、何時の間にか太宰の形をしたものの足元に収まってゆらゆらと揺れている。牢に充満していたものだ。俺が弱るのを待って、喰おうとしていたもの。
この異能の一部。
俺がそうだと認識した所為か、今は力無い死霊のようにただ主人の足元に寄り添っていた。然しその主人はと云えば、俺を喰らうのに失敗したと云うのに、何故だかきらきらと好奇心に満ちた瞳で俺にぐいと詰め寄ってくる。
「おい……っ」
「おかしいな、如何して失敗したのだろう。手っ取り早く、私の主観を入れたのがまずかったかな。だって、ねえ、君の目には太宰治はこう映るのでしょう……?」
「やめろ、近え、煩え! 実像と虚像は違うんだよ、覚えとけ!」
「大人しく君が弱るのを待っておけば善かった? 捕らえる処までは上手く云ったのになあ、その後君が中々衰弱しないもんだから、私も功を焦っちゃった」
「タネがバレたんだ、さっさとこの下んねえ異能を解きやがれ!」
「はいはい。まあ私もそろそろわたしの宿主が限界みたいだから、どちらにせよ君を手放さなきゃいけないんだけど……まったく、相棒の我慢が利かないと苦労するよ」
「手前選りにも選ってその面で口にすんじゃねえよ態とだろぶっ飛ばすぞ!」
何も減らず口まで本物に近付けなくても善い。俺は思わず親指を下に立てる。
「けれど対価の話は本当だ」
異能で出来た世界が崩れ行く、その去り際に太宰は云った。
「少なくとも、君は深層でそう思っている。何時か彼は、その報いを受けることになるだろうと」
「……下らねえ」
俺は真っ直ぐに俺の幻覚の目を見て云った。
「人を殺すことが悪だと誰が決めた。所詮人の法が定めたルールだ。獣が獣を殺せば裁かれるのか? それとおんなじだろう」
「でも君達が人らしく生きるのであれば、人の法を遵守して、人の法で裁かれなければならないのじゃない?」
「だが手前は俺の願望が作った虚像だ。異能で作られたゆめまぼろし。人じゃねえなら俺達を裁く権利は無え」
「そうだね。でも若し現実で同じように太宰治が人の法で裁かれようとすれば、矢っ張り君は庇うんだろう」
それは。
息を呑んだ。だって、仕方無えだろう。
俺は彼奴の元相棒なんだ。
彼奴のことを、誰よりも一番善く知っている。
夢の中の太宰は微笑んだ。
「君は、そうしたいんだものね。中也」
そこで目が覚めた。
◇ ◇ ◇
目に入ったのは元相棒の横顔だった。中也の横たわる寝台の横で、ぼんやりと頬杖を突いて窓の外を遠く眺めている。場所は中也の部屋だった。空は穏やかな夕暮れ色だ。差し込む夕日の中で、時折ゆっくりと瞬く元相棒の睫毛が透き通ってきらきらと光っている。
と、ふと太宰が中也の方を見た。覚醒に気付いて、微かに目を見開く。シーツを握り締めた手から見えるのは、微かな安堵だ。
気付けば口を開いていた。
「……太宰。俺のこと愛してるか」
「………………かわいそうに、気でも狂ったの。ああ、口開かないで。これ以上無様を晒す前に一思いに縊り殺してあげるから」
ああ、太宰だな。首に伸びてきた手を「要らねえ。正気だ」と払い除ける。
太宰はそれ以上、余計なことを追求しなかった。
状況を確認する。
「じゃあ彼奴は。猟犬の糸目野郎」
「猟犬? ……いいや。君、異能に掛かって眠り続けていたのだよ」
「ああ、じゃあ全部夢か」最初から最後まで。「クソ、それで手前が無効化したのか……」
徐々に記憶が戻ってくる。そうだ、横濱に逃げ込んだと云う異能力者の調査をしていた。恐らくその途中で敵の異能に掛けられたのだ。中也は力勝負では滅法強いが、目に見えない精神への驚異への耐性は流石に人並みだ。其処からの記憶が無い。だから太宰が呼ばれたのだろう。手配をしたのは勝手を知る部下だろうか。それで太宰が無効化した。申し訳が立たねえな、と思う。後で如何礼を入れるか考えねえと。
そう納得した中也を、次の太宰の一言があっさりと覆す。
「ううん、君の部下が私を呼んだ処までは合っているけれど、私無効化してないよ。君を引き取って見てただけ」
「あ!? いや起こせよ!」
「いやだってぇ君がどんな悪夢を見せられてるのかなあと思ったらぁとってもウキウキしちゃってー?」
「……」
様々な罵倒が一気に思考を駆け巡り、一瞬で言葉を喉に詰まらせた。碌でなし。最低野郎。なんでこんな奴の為に、夢の中の俺は体張ってたんだ。
「まあでも、その割に君は満足そうな顔で寝ていた訳だけれど……。どんな夢だった訳?」
「手前の身代わりで牢にぶち込まれて」自棄糞のように吐き捨てる。「そんで助けにきた手前と逃げる夢だよ」
「うわウケる」
「煩えわ! 大体、手前の為に体張ってやったんだろうが」
「はァ? 夢の中で? 要らないよ、頼んでないし。恩着せがましく云わないで」
中也は額に青筋を立てた。
むかつく。
「……然し確かに、悪夢を見せる異能とはひどく悪質だ。私無効化持ちで善かったァ夢で君に会うなんてまっぴらごめんだものね」
その時、微かなバイブレーションの音が聞こえた。中也は自分の端末を確認するが無反応。太宰の端末だ。太宰は中也からふいと顔を逸らし、通話の呼び出しに応える。揺れた蓬髪から、微かに漂う慣れたシャンプーの香り。
『太宰さん』
「ああ、敦くん。悪いね、仕事代わって貰って」
『いえ。お知り合いの方、目を覚まされましたか?』
「ああ。残念ながら後遺症も無さそうだし」
『残念ながら……?』
後輩の怪訝そうな声を笑って流す横顔は穏やかだ。
ポートマフィアでやっていたときと違って。
中也はぼんやりとその横顔を見る。
確かに、この男は人を殺したことがあるし、今だって必要があれば顔色一つ変えず何人だって惨殺出来るだろう。
けれど善人になれと云われたと云っていた。
だったら、今探偵社に居るその意志は、誰にも邪魔されるべきではない。……と思う。
なのに、俺は深層ではこの男が誰かに裁かれるべきと思っているのだろうか。
「それで? 異能の詳細が判ったんだろう、聞かせて呉れ給え」
『あ、はい! 先程ちょうど、太宰さんが捕らえた異能力者の調査が終わったと特務課から通知が来て』弾んだ声が、受話器の此方側まで聞こえてくる。余程元気のいい後輩らしい。『それによるとですね、太宰さんの推測通り『人を眠らせる異能』には違いないらしいんですけど、その……眠っている被害者の人達の脳波を図ってみると、皆さん、すごく幸せな気分を感じているらしくて』
「……うん?」
太宰が何故か、手から端末をするりと取り落とした。中也は慌ててそれを空中で拾う。
何だ? 今、そんなに動揺するような点があっただろうか。
「おい、もしもし? 何だって?」
『だから、この異能は、『その人にとって幸福な夢を見せる異能』らしいんですよ。それで、夢の中に囚われた人は、そのまま抜け出せなくて衰弱して死んじゃうんだとか……あれ、今太宰さ』
電話口の声を最後まで聞かずに、バキッ、と手の中で端末が砕けた。
す、と電源が消えて動かなくなる。
成る程。
次は幻聴か。
「今……何か聞いたか? 手前……」
「……いやあひどい誤情報と云うか、何だろう計器が故障してたのかな? 特務課も予算不足らしいしィ」
「だよなァつーか俺も異能掛かってなかった気ィしてきたわ。単に夢見悪かっただけかも」
「あー、あーそうだね君みたいなガサツで脳みそに筋肉詰めて生きてる人間が精神操作なんて繊細な異能に掛かる訳無いもんね!? まったくなんて人騒がせな」
「うるせえ! 善いか!」
立ち上がって指を突きつける。
そんな異能など、認めない。
「俺がもしそんな下らねえ異能に掛かったら手前なんざ一ミリも出ねえハッピーな夢見てやるからなクソ鯖!!!」
「望む処だこのなめくじ!!!」
中原中也は牢獄に居た。
それが奴の云う対価だったからだ。
◇ ◇ ◇
気付けばマフィア本部のロビーに居た。
そう認識した途端、体に蓄積した疲労の重みがどっと増す。さながら戦場から帰った直後のようだ。俺は先刻まで、一体何をしていたのだったか。けれど思考を凝らしてみても、今まで自分が何処に居たのかがまるで靄の掛かったように上手く思い出せない。まあ善いか、と疑問を放り投げて上階へ向かう。構わなかった。どのみち執務室へ戻って部下の誰かしらに声を掛ければ、今日の自分の動向は知れる。
本部がいやに騒がしいと気付いたのはその道中だ。
曰く『猟犬』が来ている、と。
猟犬と云えば――先日魔人共にハメられて探偵社の逮捕に血道を上げていた軍の特殊部隊の連中だ。あの一件は全て片が付いたと思っていたが、未だ何か余計に嗅ぎ回られる要因があっただろうか。昇降機の階数表示をじっと見ながら考える。けれど夢の中を彷徨っているみたいに、頭が上手く働いていなかった。第一、心当たりを挙げようにも、腐っても非合法組織だ、探られれば痛い腹ばかりだ。恐らく何か追求されたとして、対応は後手に回ってしまうだろう。あまり好ましくはなかった。
最悪組織ごと始末することになりかねないし。
そうなれば一定の被害は覚悟しなければならないだろう。今本部の何処に居るのかは知らないが、首領から呼び出しが掛かれば何時でも動けるようにしておくのが得策だ。相手の力量からしてまず間違いなく召集されるのは自分だと思われた。建物に被害を出さずに、上手く殺せるだろうか。空間転移の異能持ちの奴に、先に話をつけておいた方が善いかも知れない。
そんなことを憂慮しながら扉を開けた。
その男が居た。
「やあ中原さん。この前は如何も」
「げ」
来客用のソファで寛いて――何処からかティーポットまで調達してきて優雅に茶を飲んでいる軍服の男に思わず顔を顰めた。
条野採菊。
正直、不意を突かれなかったと云えば嘘になる。気配は無かった。若し仮に目の前の男が此方に危害を加える気であれば、一撃くらいは貰っていたかも知れない。
加える気があれば。
今は無い。
ただじっと、盲た目の奥から此方のことを伺っている。
成る程、と俺は心中で首肯した。成る程、それでこの男か。
相手が猟犬の中でも未だ辛うじて話の通じる人間で、俺は不本意ながら密かに肩を撫で下ろしてしまった。何しろ猟犬の連中ときたら、生まれ育ちが未開の地か地底かとでも云うくらいに言語も通じなければ行動も意味不明な奴ばかりだ。嫌気が差してうっかりぶっ殺しでもしてしまったら面倒過ぎる。
けれどこの男が来ると云うことは、少なくとも目的には制圧だけではなく情報収集が含まれているんだろう。
「……然し、流石ですね。完全に不意を突いたと思いましたが動揺の音を一瞬で覆い隠すとは。矢張り貴方は油断がならない」
「ああ、そう」
「この間の我々への襲撃も、あれは貴方なのでしょう? ヘリの音で貴方の音は善く聞こえませんでしたが――我々相手に不意を突ける人間など、そうは居ませんからね」
「何の話だか判らねえな」
心にも無い言葉は適当に往なし、俺は男の目の前をすいと外套を翻して通り過ぎた。外套は外套掛けへ。広く取られた大窓、その青く広がる空の前に執務机の椅子を引いて腰掛ける。
重みを受けて、深く沈み込む革張りの座面。
足を組む。
「……で? 軍警最強と謳われる特殊部隊様が、一介の企業の管理職である俺に何の用だ。ウチはクリーンな企業だぜ、独禁法のガサ入れでも頼まれたか?」
「一介の管理職? 真逆貴方が? 謙遜も過ぎれば滑稽ですね五大幹部殿? 此処がマフィアのフロント企業だと云う事実は最早公然の秘密ですよ」
「先刻から手前の云ってることはさっぱり俺の理解を超えるな」
条野の表情は相変わらず雲のように捉え処が無い。戦闘に来た訳ではないだろう。互いに相性が悪いと認識している。俺にぶつけるならあのおっさんかガキ女の筈だ。
ただそれにしても妙だった。この男は本物なのだろうか、とふと思う。外観を擬態した他人である可能性はないのか。幾らか言葉が通じるとは云え、条野とて基本的には猟犬の名の通り、その性質は敵の喉笛に喰らいついて力で捻じ伏せるのを是とするものだ。温和でもなければ、こんな風な直接交渉を好む質でもない。
それとも方針の転換でもあっただろうか。
そう考えていたから不意を突かれた。
「そう込み入った話でもないのです。実は太宰治と云う男に逮捕状が出ておりまして」
「……へえ」
一つ息を吸って、吐く。ここで脈を乱せば、この男の思う壺だ。
平静を装えたかは判らない。
「それで、あの方を捕らえる前に、一応お知らせしておこうかと」
ちら、と条野が此方を伺うのが顔を向けずとも判った。その目を避け、くる、と椅子を回してふいと窓の外へ目を向ける。空は煌々と燃えるような赤に染まっていた。互いに無言だ。茶をずずっと啜る音だけが響く。
ちらちら、視線が煩えな。
「……ふぅん。太宰ってえと……探偵社の一隅だろう。証拠も無えのに、また民間人を強制連行して尋問ってか? 手前等、一回其奴にハメられて、懲りたんじゃあなかったのか」溜め息を吐いて、言葉の続きを引き取った。向き合う。「聞いたぜ、まんまと手掛かりを掴まされて監獄に行く手引きをしてやったんだろう? それとも、猟犬様ぐらいになりゃあ誤認逮捕の責任なんぞは国家権力で簡単に揉み消せるもんなのか」
「却説、口数が多いのは動揺を隠したいからでしょうか」
「手前等を思い切り莫迦にしたいからだよ」
は、と思い切り背凭れに体を預けて鼻で笑う。太宰が魔人に会う為に猟犬を利用したのは知っていた。如何にも奴らしいことだ。相手に主導権を握っていると思わせるのが、相手を上手く動かすコツだよ、とはよく云ったものだ。
「然し、今度は本当ですよ。五年前の要人一家惨殺の容疑だ――死刑は確実でしょう」条野は飲み終わったカップを置き、薄く笑ったまま云う。「今度はムルソーなどに送らせはしません。罪は償われなければならない。悪行の対価は支払われねば」
目を瞑る。あの男が証拠を消し損ねる筈が無い。その確信があった。ただ、万一ミスがあったとしても、たまには思い知れば善いのだ、自分の力の限界を、とも思った。
「……俺は奴の連帯保証人じゃあねえんだよ。対価の取り立てくらい好きにすりゃ善いだろうが」
「『元』相棒の貴方にはお知らせしておくのが筋かなと」
「『現』何の関係も無え奴だから結構だ」
この糸目野郎、嘘を吐けよと心中で嗤う。この前は一言も断りが無かっただろう。
口にしないのは下手に関わりを認めれば後々面倒になるからだ。
その代わりに頬杖を突く。脈を乱さないように息を吐く。
一呼吸。
「俺を揺さぶれば、何か情報が得られると思ったか? 生憎だが、手前の期待するような情報は出せねえよ。手前が俺と彼奴との関係を何だと思ってんのかは知らねえが、俺は一切関係が無え」
「……はて、困りました。貴方も頑固ですねえ。貴方と太宰治が双黒と呼ばれていたこと、別に今更隠すことでもないでしょうに」
ちっとも困ってなどいない顔で、条野は静かに席を立った。残されたティーカップの中で、波々と注がれた紅茶が、表面にゆらゆらと波紋を描く。
淹れたてのように、まだ温かい湯気を上げて。
俺が部屋に入ってきたときから、少しも減っていないままで。
――じゃあ先刻までこの男が口にしていたものは何だ?
ふと窓の外を見た。空は今度は奇妙なクリーム色をしていた。油の膜が貼ったように暗い虹の波がうねっている。感じるのは生理的なきもちのわるさだ。
――此処は何処だ?
「けれど結構ですよ」男の声が響いた。「今日は本当に、伝えにきただけなのです。情報は、貴方から得られずともあの方を捕まえた後でゆっくりと聞けば善い。それこそ無理矢理にでも」
「……待て。手前――」
振り向いて見た目の前の男は、条野の顔をしていなかった。
ただ黒々と、塗り潰されたように其処にある人型の存在を認識出来ない。
異能か、と直感的に理解する。
恐らく俺は今異能に掛けられて居るのだ。空がおかしな色に見えるのも、条野が何か別のモノに視える――或いは何か別のモノが今まで条野に視えていたのもその所為だ。幻覚か、精神操作の類の異能。
この部屋に入ってから、何も口にしてはいない。毒を盛られた訳ではない。然し目の前のこの男の仕業でもない――効果が男の異能の性質ではないからだ。仲間が今仕掛けてきていると云う線も無いだろう。部屋の外に異能の匂いは薄い。詰まり俺は、この部屋に――マフィア本部に辿り着くまでに、既に異能に掛けられていたと云うことだ。
認識した所為か、執務室の全景までがぐにゃりと奇妙に歪む。踏みしめるカーペットの感触が曖昧だ。その中であって、条野であったモノは微塵も周囲の変形を意に介さずに笑っていた。視えはしなかったが、確かに判った。
そうして、太宰を捕らえると云う。
「……手前」どことない焦燥感に駆られて、気付けば口を開いていた。普通の人間相手なら心配などしない。ただ、これが何かの予兆ならば、俺はそれを止めなければならない。「太宰を如何する積りだ」
「云ったでしょう。悪行の対価を支払わせるんですよ。捕らえて自白させる。あの方が嘘を吐いても無駄ですよ――私には、嘘と真実を聞き分けることが出来ますから」
「……知ってるか。この世の中には、自分の生きてる音を完璧に制御出来る人間が居る」
「それは平常時であれば、でしょう? 流石に痛みを与えられ、生命の危機に瀕してなおそんな余裕を持てる人間はそう多くはないのではないでしょうか。……正しく人間ならばね」
「……相手は善良な民間人だ」
「そして悪党だ。自分の手を汚すこと無く過去に何人もの人間を殺した。貴方が一番善く知っている筈でしょう?」
これは罠だ、と思った。相手のペースに飲まれれば、心を喰われてしまうタイプの。
それに異能であろうがなかろうが、この状況を太宰が想定していないとは考え辛い。太宰治は何かもを見通す。此処で俺が何か手を打たなくても、大丈夫な筈だった。
ただ、同時に俺は知っていた。
あの男も体はただの人間だと云うことを。
「悪行の対価は支払われなければならない。そうでしょう?」
その言葉がぐらりと俺に決断を迫る。
太宰が罪に問われることを、俺はこのまま見過ごすのか。
「……けど奴は今となっては善人だ。そうだろう」絞り出すように云う。「仮に過去に何百人殺していたとしても、それ以上の人間の命を救えば善いんだ。命で贖わせるより、生かしておいた方が収支勘定が余程合う」
「ならば今までに殺された人間の無念は如何するのです?」
「死人は喋んねえだろうが」
「野蛮ですね。まるで獣だ。然し此処は人間の統治する社会で、人間の法が守られなければならない」
窓の内と外が混じり合って、何処でもない空間に投げ出される感覚があった。平衡感覚を失う。立っていられない。はっきりと認識出来るのは、目の前の影の存在だけだ。
きっとこの幻覚には俺の精神の不安定さが反映されている。
判っていても止められない。
「却説、私はそろそろ行きます。彼を捕らえないと」
「……いいや。その必要は無え」
気付けば我武者羅に袖を掴んでいた。影が訝しげに振り返る。
「何故です?」
「……その件は」息苦しさに喘ぐように云う。「俺がやったからだ。其奴じゃあなく」
「……庇っているようにしか聞こえない。到底信じられませんが」
「なら俺の家の地下を調べると善い。その要人一家暗殺に使った銃がごまんと出てくる筈だ。手前等が取る自白よりよっぽど証拠能力はあんだろ」
云いながら、手帳にセーフハウスの一つの住所を書いて破った。走り書きのインクが滲む。ついでに奴の手を掴んで、自分の胸に当ててやる。
「ほら、如何だよ。嘘は聞き分けれンだろう?」
「……心音を完璧に制御出来る人間が居ると。そう聞いたばかりですが、まあ、善いでしょう」
目の前の何かは、そうして少し首を傾げて、笑った。
「じゃ、監獄に入ると善い。君が代わりに、彼の悪行の対価を支払うと云うのなら」
「何をやってんだろうなあ、俺は……」
影の充満する冷えた牢獄に、ぼやく声が響き渡った。
最終的に、執務室は地下牢の形に落ち着いた。間違いなく幻覚だが、解除する術は未だ判らない。異能が使えないことだけを確認し、俺は何をするでもなく、ただ膝を抱えて牢に蹲っていた。
こんなことをする必要は無かった。過去のツケなど、あの男自身に払わせれば善いのだ。俺が身代わりになる必要は無い。
なのに自分の預かり知らない処で太宰が加害を受けることを思うと、如何しようも無く胸の奥がざわついた。そんな仕打ちに耐えるくらいなら、代わりに牢にぶち込まれた方が余程マシだった。
自分ならば、多少の既存を受けたとてそうそう死ぬことはないし。異能が異能だけに、直ぐに殺される展開も考え難い。
それに――何時もこう云う場面で、あの男の想定外であったことは無い。これも如何せ、あの男の計算の内だ。
そう考えると、急に全てのことが馬鹿らしくなる。あの男はあの男で勝手にやるだろう。俺は俺のしたいようにすれば善い。
若しかしたら、俺がこうして身代わりになったことはあの男の想定外で、今頃現れない猟犬のことを思って少し慌てていたりもするかも知れない。ざまあみろ、と思う。そうだ、暫く出てやらねえでやろう。それが善い。
心を満たすのは満足感だ。充満する影に身を浸しながら、微かに笑って眠りに落ちる。
「……太宰のクソ野郎は、未だ善人になろうなんざ足掻いてる」
それが可能なのか如何なのか、俺は知らない。でもたった二人魂を分けた相棒が、形振り構わず必死に足掻いているのだ。
「なら後始末くらい、引き受けてやるのも悪くねえんだよな……」
かつての相棒として。
◇ ◇ ◇
「……也。中也、起きて」
カチャン、と軽い音で俺の意識は覚醒した。
見れば開け放たれた牢の外から、元相棒が手招きしていた。何時も通りの砂色の外套で、少ししおらしげな笑みさえ浮かべて。何で此処へ。手前が来たら意味が無えだろう。戸惑っていると、強引に手を掴まれて牢の外へと連れ出される。
触れた太宰の手には温度が無い。
「……太宰。手前」
「中也。助けに来た」
その言葉は、思いの外重みを持って俺の臓腑の奥まで刺さった。
この男が。
俺を助けに?
握られた手に力が籠もる。
「……何処へ行く」
「何処って。逃げるんだよ。君がこんな処に入っている必要ある? ……獄中死がお望みなら別だけどね」
牢を出て、踏みしめた草の匂いが鮮烈に俺の嗅覚を蘇らせた。露が革靴に雫を落とす。そうして俺達は、手に手を取って逃げた。途中、例の影が追ってくる気配があったが、俺と太宰は振り返らずに駆けた。当ても無く。ぐるぐると目まぐるしく周囲の光景が変わる中。二人で。
何処へ行っても逃れられる筈が無いのに。
「中也」
影は何処までも追ってきた。じわじわと、蝕まれるのは体よりも寧ろ精神だ。出口の無い迷路を延々彷徨っていると、目よりも心が先ず暗闇を捉えてしまう。
俺達は追い詰められていた。
けれどその中で、切羽詰まった様子の元相棒の顔だけが何だか妙に面白かった。如何にも、真実味が無くて。
「ごめん、矢っ張り、無理かも知れない。逃げ切れないかも」
微かに息を弾ませて、太宰は苦渋の表情で云った。
「……そうか」
「ねえ、此処で死んでしまったら、私達心中ってことになるのかな? やだなあ中也となんて。来世で碌なものに生まれ変わらなさそう」
「……」
「でもまあ……君となら、地獄も悪くはないのかな?」
太宰が立ち止まる。影は死の気配を振りまきながら、直ぐ其処まで迫ってきていた。振り返ってそれを互いに確認した後、太宰は無邪気に笑った。
俺の、一番すきな笑顔で。
「庇ってくれたり、一緒に逃げて呉れたり。色々付き合わせて、済まなかったね。……愛してる、中也」
そして顔を寄せて口づけようとする、
その唇を手のひらで阻んだ。
「……もう善い。もう、茶番は此処までで」
「何……」
引き摺られないようにきつく目を瞑った。此処は幻覚の中。俺は未だ精神操作の術中。そうだろう。なのに俺はそれを――想像の産物を否定し切れなくて牢獄に閉じ込められたのだ。
然し今度は明確に否定することが出来る。
「……もうちょっと、上手くやれよ。アレは俺を助けにきたりはしない。俺を愛したりは」
キスを求めてきた体を押し返して離す。見上げる顔は、風に揺れる蓬髪も少しの困惑を浮かべる表情も、寸分の狂い無く俺の知っている太宰に酷似していた。
けれど違う。
「後、無効化の異能力者なんだ、こんなとこでふらふらはしねえよ。……手前は俺の願望をなぞっただけのモンなんだろう。牢の中での衰弱が待てずに、心中を装って殺そうってか」
「……ふふ」
瞬間、ざわりと肌が粟立った。太宰が笑ったのだ。先程までの中也の記憶にあるものとは異なる、無機質なガラスを貼り付けたような笑みで。
「手前」思わず全身に警戒を漲らせる。「『何』だ」
「……残念。君の魂はおいしそうだったのに」
後ろから迫ってきていた影は、何時の間にか太宰の形をしたものの足元に収まってゆらゆらと揺れている。牢に充満していたものだ。俺が弱るのを待って、喰おうとしていたもの。
この異能の一部。
俺がそうだと認識した所為か、今は力無い死霊のようにただ主人の足元に寄り添っていた。然しその主人はと云えば、俺を喰らうのに失敗したと云うのに、何故だかきらきらと好奇心に満ちた瞳で俺にぐいと詰め寄ってくる。
「おい……っ」
「おかしいな、如何して失敗したのだろう。手っ取り早く、私の主観を入れたのがまずかったかな。だって、ねえ、君の目には太宰治はこう映るのでしょう……?」
「やめろ、近え、煩え! 実像と虚像は違うんだよ、覚えとけ!」
「大人しく君が弱るのを待っておけば善かった? 捕らえる処までは上手く云ったのになあ、その後君が中々衰弱しないもんだから、私も功を焦っちゃった」
「タネがバレたんだ、さっさとこの下んねえ異能を解きやがれ!」
「はいはい。まあ私もそろそろわたしの宿主が限界みたいだから、どちらにせよ君を手放さなきゃいけないんだけど……まったく、相棒の我慢が利かないと苦労するよ」
「手前選りにも選ってその面で口にすんじゃねえよ態とだろぶっ飛ばすぞ!」
何も減らず口まで本物に近付けなくても善い。俺は思わず親指を下に立てる。
「けれど対価の話は本当だ」
異能で出来た世界が崩れ行く、その去り際に太宰は云った。
「少なくとも、君は深層でそう思っている。何時か彼は、その報いを受けることになるだろうと」
「……下らねえ」
俺は真っ直ぐに俺の幻覚の目を見て云った。
「人を殺すことが悪だと誰が決めた。所詮人の法が定めたルールだ。獣が獣を殺せば裁かれるのか? それとおんなじだろう」
「でも君達が人らしく生きるのであれば、人の法を遵守して、人の法で裁かれなければならないのじゃない?」
「だが手前は俺の願望が作った虚像だ。異能で作られたゆめまぼろし。人じゃねえなら俺達を裁く権利は無え」
「そうだね。でも若し現実で同じように太宰治が人の法で裁かれようとすれば、矢っ張り君は庇うんだろう」
それは。
息を呑んだ。だって、仕方無えだろう。
俺は彼奴の元相棒なんだ。
彼奴のことを、誰よりも一番善く知っている。
夢の中の太宰は微笑んだ。
「君は、そうしたいんだものね。中也」
そこで目が覚めた。
◇ ◇ ◇
目に入ったのは元相棒の横顔だった。中也の横たわる寝台の横で、ぼんやりと頬杖を突いて窓の外を遠く眺めている。場所は中也の部屋だった。空は穏やかな夕暮れ色だ。差し込む夕日の中で、時折ゆっくりと瞬く元相棒の睫毛が透き通ってきらきらと光っている。
と、ふと太宰が中也の方を見た。覚醒に気付いて、微かに目を見開く。シーツを握り締めた手から見えるのは、微かな安堵だ。
気付けば口を開いていた。
「……太宰。俺のこと愛してるか」
「………………かわいそうに、気でも狂ったの。ああ、口開かないで。これ以上無様を晒す前に一思いに縊り殺してあげるから」
ああ、太宰だな。首に伸びてきた手を「要らねえ。正気だ」と払い除ける。
太宰はそれ以上、余計なことを追求しなかった。
状況を確認する。
「じゃあ彼奴は。猟犬の糸目野郎」
「猟犬? ……いいや。君、異能に掛かって眠り続けていたのだよ」
「ああ、じゃあ全部夢か」最初から最後まで。「クソ、それで手前が無効化したのか……」
徐々に記憶が戻ってくる。そうだ、横濱に逃げ込んだと云う異能力者の調査をしていた。恐らくその途中で敵の異能に掛けられたのだ。中也は力勝負では滅法強いが、目に見えない精神への驚異への耐性は流石に人並みだ。其処からの記憶が無い。だから太宰が呼ばれたのだろう。手配をしたのは勝手を知る部下だろうか。それで太宰が無効化した。申し訳が立たねえな、と思う。後で如何礼を入れるか考えねえと。
そう納得した中也を、次の太宰の一言があっさりと覆す。
「ううん、君の部下が私を呼んだ処までは合っているけれど、私無効化してないよ。君を引き取って見てただけ」
「あ!? いや起こせよ!」
「いやだってぇ君がどんな悪夢を見せられてるのかなあと思ったらぁとってもウキウキしちゃってー?」
「……」
様々な罵倒が一気に思考を駆け巡り、一瞬で言葉を喉に詰まらせた。碌でなし。最低野郎。なんでこんな奴の為に、夢の中の俺は体張ってたんだ。
「まあでも、その割に君は満足そうな顔で寝ていた訳だけれど……。どんな夢だった訳?」
「手前の身代わりで牢にぶち込まれて」自棄糞のように吐き捨てる。「そんで助けにきた手前と逃げる夢だよ」
「うわウケる」
「煩えわ! 大体、手前の為に体張ってやったんだろうが」
「はァ? 夢の中で? 要らないよ、頼んでないし。恩着せがましく云わないで」
中也は額に青筋を立てた。
むかつく。
「……然し確かに、悪夢を見せる異能とはひどく悪質だ。私無効化持ちで善かったァ夢で君に会うなんてまっぴらごめんだものね」
その時、微かなバイブレーションの音が聞こえた。中也は自分の端末を確認するが無反応。太宰の端末だ。太宰は中也からふいと顔を逸らし、通話の呼び出しに応える。揺れた蓬髪から、微かに漂う慣れたシャンプーの香り。
『太宰さん』
「ああ、敦くん。悪いね、仕事代わって貰って」
『いえ。お知り合いの方、目を覚まされましたか?』
「ああ。残念ながら後遺症も無さそうだし」
『残念ながら……?』
後輩の怪訝そうな声を笑って流す横顔は穏やかだ。
ポートマフィアでやっていたときと違って。
中也はぼんやりとその横顔を見る。
確かに、この男は人を殺したことがあるし、今だって必要があれば顔色一つ変えず何人だって惨殺出来るだろう。
けれど善人になれと云われたと云っていた。
だったら、今探偵社に居るその意志は、誰にも邪魔されるべきではない。……と思う。
なのに、俺は深層ではこの男が誰かに裁かれるべきと思っているのだろうか。
「それで? 異能の詳細が判ったんだろう、聞かせて呉れ給え」
『あ、はい! 先程ちょうど、太宰さんが捕らえた異能力者の調査が終わったと特務課から通知が来て』弾んだ声が、受話器の此方側まで聞こえてくる。余程元気のいい後輩らしい。『それによるとですね、太宰さんの推測通り『人を眠らせる異能』には違いないらしいんですけど、その……眠っている被害者の人達の脳波を図ってみると、皆さん、すごく幸せな気分を感じているらしくて』
「……うん?」
太宰が何故か、手から端末をするりと取り落とした。中也は慌ててそれを空中で拾う。
何だ? 今、そんなに動揺するような点があっただろうか。
「おい、もしもし? 何だって?」
『だから、この異能は、『その人にとって幸福な夢を見せる異能』らしいんですよ。それで、夢の中に囚われた人は、そのまま抜け出せなくて衰弱して死んじゃうんだとか……あれ、今太宰さ』
電話口の声を最後まで聞かずに、バキッ、と手の中で端末が砕けた。
す、と電源が消えて動かなくなる。
成る程。
次は幻聴か。
「今……何か聞いたか? 手前……」
「……いやあひどい誤情報と云うか、何だろう計器が故障してたのかな? 特務課も予算不足らしいしィ」
「だよなァつーか俺も異能掛かってなかった気ィしてきたわ。単に夢見悪かっただけかも」
「あー、あーそうだね君みたいなガサツで脳みそに筋肉詰めて生きてる人間が精神操作なんて繊細な異能に掛かる訳無いもんね!? まったくなんて人騒がせな」
「うるせえ! 善いか!」
立ち上がって指を突きつける。
そんな異能など、認めない。
「俺がもしそんな下らねえ異能に掛かったら手前なんざ一ミリも出ねえハッピーな夢見てやるからなクソ鯖!!!」
「望む処だこのなめくじ!!!」
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