仲直りの合図は

(2018/06/24)


「おはようございまーす……」
 欠伸を噛み殺して執務室のドアのノブに手を掛ける。そのまま開けようとして、ああそうだ、今日はこの挨拶に返事は返ってこないんだったなと思い出す。何時もはおれより早く出勤する同僚が二人居て、おれの前の席に座っていて、そうしてああ、おはようと返して呉れる筈だった。それが今日からは居ない。二人とも。
 でも別に銃撃戦で死んだとかじゃあないから気は楽だ。一人は休暇。結婚したからって優雅に一週間のハネムーン中。まったく何時の間に相手を見付けたんだか、昨日なんて何処かのリゾート地の写真がLINEで送られてきていて、美人の奥さんが羨ましくて死にそうだった。おれだって休みたい。おれ達の上司――中原さんは、おれ達みたいな直属じゃない下っ端部署にも目を掛けて呉れる善い人だが、その代わり仕事も山程下さる。別に不満は無いんだけれど。
 居ないもう一人は昇進だ。今週からおれ達の部署の幾つか上、中原さん直属の部隊に配属になったらしい。だから先日から席移動。多分、奴は今頃別の執務室で新しい業務に大わらわなんだろう。此方も死ぬほど羨ましい。おれだって中原さんをお側でお守りしたい。何、あの方は守られるほど弱くない? そんなこと、おれ達が一番良く知ってる。
 そんなことを考えていたからか、気付くのが遅れた。外套を脱いでハンガーに掛け、何故かつけっぱなしの電気と暖房に昨日最後に部屋出たの誰だよ……と愚痴を云い(お蔭で部屋は十分に暖まっていた)、自分の机まで来た処で漸くおれは気が付いた。
 目の前に広がる信じられない光景に。
「……あれ?」
 誰も居ない筈のおれの前の席には、二人の男が座っていた。
 見慣れない蓬髪の男と。
 見慣れた帽子の素敵な上司。
「あれ!?」
 詰まらなさそうに爪を弄っていた蓬髪の方が、「ん?」とおれに気付いてひら、と手の平を振る。
「あっ今日から君の前の席になった太宰だよ。よろしくね♡」
「だァァァ太宰治!?」
 その名を口にした瞬間、かちゃ、と軽い音と共に目の前に死が見えた。
 突き付けられているのは銃口だ。吸い込まれそうな38口径。中原さんの何時も使っている銃に似ている。黒光りするそれに、反射で背筋が冷える。
 銃口から視線をずらすと、奥に光を映さない黒黒とした瞳。
 それがうっすら笑って云う。
「『さん』は?」
「はっ……」
「敬称」
「太宰さん!!!」
 叫ぶように云うと「よろしい」と云う言葉と共に銃口が下げられた。その向こうに見えるのは、にこりと悪魔のような笑みを浮かべる蓬髪の幹部
 いや、『ような』じゃない。悪魔だ。
 そんな人が、なんで。
「何でこんな処に居るんですかァーーー!」
 おれの叫びは、虚しく執務室に響き渡った。

 大体太宰治と云えば、昨年十六歳と云う歴代でも異例の若さでポートマフィアの幹部に成り上がった時の人だ。こんな下っ端の末端部署にそうほいほいと姿を見せて善い地位の人間ではない。
 なのに何故、と丁重に淹れた紅茶を差し出しながら問うおれに、幹部殿は一言。
「えー、私の部屋今日から改装するらしくってさァ。暖房効かないから寒くて」
 だからって選りにも選ってこんな辺鄙な処に来なくても善い。もっと広くて快適で十分なもてなしを受けられる部署など山程ある筈だ。おれの後から来た何人かは、かしこく厄介ごとの匂いを嗅ぎ付けたのか軽く会釈をして挨拶した後は我関せずと云った風に自分のデスクへと向かっている。せめて少しくらい手伝って貰っても。「ねえ君、砂糖が足りないのだけれど」他所見をしていた思考は太宰さんの声によって遮られる。うう、はい、畏まりました太宰さん……。
 いやでも、それこそ隣のお方が立派な執務室をお持ちじゃあないか。暖房だって付くだろうし、云えば給仕係だって幾らでもつけて貰えるだろう。
 買い置きのスティックシュガーを引っ張り出しながら、おれは救いを求めてもうお一人に目を向ける。
「な、中原さんは因みに何故このような場所にいらして……」
 ぎろ、と睨まれてそれ以上の言葉を紡げなかった。思わず逃げ腰になる。
 肉食獣を目の前にしたようなシンプルな恐れ。
 おれを威圧するのは地を這うような声だ。
「……何でだと思う?」
「ちょっとぉ中也、八つ当たりは止めなよ。彼、子猫のように怖がってるじゃない」
 瞬間、バキッとボールペンが中原さんの手の中で砕け散った。
 人の目が無かったら、今すぐ中原さんは太宰さんの首に手を掛けていたんじゃないか。
 そう思わせる程の殺気が其処にはあった。
 そして中原さんのこの苛々の原因が太宰治に有るのも明白だ。何でだと思う。おれは必死に無い知恵を総動員して中原さんの問いに対する答えを絞り出す。
「だ、太宰さんが……中原さんの部屋を爆破された、とかですか……?」
「あっ惜しい。でもざぁんねん、仕掛けたのは催涙ガスだよ♡」
「手前マジでふざけんなよ」
 詰まるところ、太宰さんが戯れに有毒ガスを中原さんの執務室に充満させ、其処での業務を出来なくしたらしかった。如何してそんなことをしたのだろう。おれにはもう何も判らない。ただ、やけに楽しそうに、ぼろぼろ泣く中也の顔ったらなかったなァ、と恍惚にも似た表情で語る太宰さんの横顔はとても輝いて見えた。
 成る程射殺しそうに鋭い中原さんの目元は心無しか赤く腫れている。
 然し、と云うことは、改装もガス抜きも時間のかかるものであるし、暫くこの二人は此処に居座る……と云うことなんだろうか。
 この? 険悪な空気を振り撒いたままで?
 御冗談でしょう?
「因みに、お二人とも、外回りなどされる予定は……」
「無え。謹慎中だ」
「そうだね君が暴れたから」
「あ? 元はと云えば手前が……」
 首領、お願いです首領。お二人の謹慎を解いて下さい。このままだと辞表を書いてしまいそう。
 然しおれのような末端構成員の声が天上の首領に届く筈もない。内心はらはらと儚い涙を流しながら、太宰さんにお茶を出すと云う役目を終えて自分のパソコンに向かっていると、不意に中原さんが書類から顔を上げた気配がした。短く名を呼ぶ。
「太宰」
「それ関連の資料なら私の机の上から二段目にあるけどぉ」
 対する太宰さんは顔を上げずに答える。
「タダじゃやだ」
「……俺をパシろうってか」
「君が勝手に行くんだよ。私の知ったことじゃあない」
「なら入室許可を寄越せよ幹部殿」
「勝手に入れば? 何時もは私の許可なんて無くても踏み荒らすくせに」
「……ああ、そうかよ」
 何だろう、と思って聞いていれば、如何やら中原さんの仕事に必要な書類を太宰さんなら持っていると云う話だったらしい。そうおれが理解したのは、中原さんが椅子を蹴倒す勢いで乱暴に席を立った後だった。バタン、と乱暴に閉まる扉。響く衝撃に、部屋に居たほぼ全員が身を竦ませる。その中で、太宰さんだけがいやに楽しそうだ。
 はあ、と重い溜め息を吐く。こんな調子で、おれは後数日やっていけるのだろうか。



「へー、それは大変だな」
「そーなんだよ! もう何時流れ弾で頭に穴が開くか気が気でなくてさあ」
 あくる朝、別部署の同期と廊下で鉢合わせた瞬間、おれは昨日の出来事を洗いざらい流れるように喋っていた。聞いて呉れよ、何故かおれんとこに中原さんとあの太宰さんが来て。気の置けない仲間に縋り付くように話せば少し楽になって、その上去り際に頑張れよ、と自販機で珈琲まで奢って貰った。冷えた朝の空気の中、ぎゅっと缶を握る。人の温かみとはこんなにも有り難いものだっただろうか。あっ駄目だちょっと涙が出そう。
「せめて、せめて仲直りして呉れねえかな……」
 そうぼやきながら執務室へと向かう。そう、百歩譲って、幹部級の二人が同じ空間で仕事しているだけならまだ善いのだ。いや、物凄く緊張するし、集中出来ないからさっさと何処かへ行って欲しいのは確かなのだが、でもそれは善い。
 然しあのピリピリと殺気立った空気の中では仕事なんて手に付かない。
 反面、如何にもならないのだろうな、と云う諦めもあった。おれはとてもではないが仲直りして呉れなんて進言出来る立場にない。その上太宰さんと中原さんは犬猿の仲と有名だ。
 改装とガス抜きが済むまで、あと数日辛抱しなければならないのだろう。今日も気が重い、と思いながら扉を開く。
「おはようございまーす……」恐る恐る席に着く。デスクで書類を広げた中原さんからは「おう、おはよう」とのお言葉を頂き、太宰さんはと云えば上の空で「うんおはよ」。パチン、パチンと軽い音がするから何かと思えば太宰さんが無心に爪を切っておられるのだった。
 そこで初めて違和感に気付く。
 あれ? なんか……。
 おれは交互にお二人を見やる。お二人は特に目を合わせたりはせず、ただ自分の作業に没頭されている。気の所為だろうか。
 昨日よりも幾分か、空気に刺すような棘が無い。
 それどころか、これは。その。
「太宰」
 戸惑いのうちに、中原さんが太宰さんの名を短く呼んだ。柔らかな声音だ。太宰さんの体が、気の所為か僅かばかり強張る。その後、何でも無かったように太宰さんは爪切り作業を中断して手元の書類を中原さんへと差し出した。目元が何故だか少し赤く腫れている。
「……はい」
「おう、悪いな……」
 その、差し出された書類を受けとるかに思えた中原さんの手は、次の瞬間何を思ったのか太宰さんの手首を引くように掴んだ。太宰さんが電流の走ったように背を硬直させる。ばさばさと、紙の束が派手に床へと散らばる。
 え。何。
「……。…………。離して。仕事出来ない」
「よく云う。仕事してねえじゃねえか」
「今からするの!」
「ふぅん。……爪」
 ふ、っと中原さんが太宰さんの手に息を吹き掛ける。机の向かいからでも、太宰さんの肌が総毛立つのが判った。
 中原さんの声が淡々としている筈なのに何処か甘ったるく耳に絡み付く。
「切ってんだ。昨日立ててたもんな?」
「悪かったって云ってるでしょう!!! やめて呉れる!? もうガスは仕掛けないからさぁ!!!」
 耐え切れなくなったかのように太宰さんが椅子を蹴倒して立ち上がった。顔色は変わらないけれど横から見える耳が少し赤い。それでも中原さんの手を振り切れなくて、罵詈雑言を吐きながら手をぶんぶんと振り回している。その程度は苦でもないのか、中原さんの表情は太宰さんの抵抗なんて何処吹く風で少し楽しそうですらある。
 それでおれは何となく察した。
 察してしまった。
 いや。いやいやいや。せめて仲直りして呉れねえかなあと云ったけども。
 二人の間の空気で胸焼けを起こしそうだ。
 首領、首領。この二人を自室に謹慎させて下さい。同僚。早く帰ってきて。改装工事。なんでこんなタイミングでするんだばかやろう。
 か。
「帰りてェーーー!」
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