【再録】深色
一度だ。
一度だけ、本能のままに能力を解放したことが有る。
「如何なっても知らねえぞ」
吐き捨てるように云った。警告と云うよりは、半ば自棄で。
「いいよ」
そう云って、目の前の男は笑った。
月のぼんやりと浮かぶ夜だった。ぼろぼろのトタンの屋根の隙間から、漏れるように零れ落ちる月光が俺達を照らしていた。
多分、太宰を殺すと思った。
でもそれでいいんだと太宰は笑った。
「私が自殺志願者なの、知ってるでしょ……」
だから、いいよ、と笑った。その腹からは血が流れ続けていた。這い寄ろうとする俺も足が拉げていた。
「どうせさあ……私達、このまま何もしなくても死ぬでしょ……なら、最期に好きに暴れてもよくない……?」
でも、と太宰は続ける。
「君が若しこのまま、ゆっくり私とお喋りしながら眠るように死にたいって云うなら、それでもいいよ。君は苦しまずに済むし、私も多分、痛くなくて済む」
もう感覚が無いし。それを聞く俺の意識は、水の中を揺蕩うみたいに朦朧としていた。太宰の声もどこか眠たげだ。
「君に任せる」
ああ、でも、と俺に任せたくせに、太宰は妙に饒舌に喋っていた。きっと、口を閉じれば眠ってしまうと思ったからだ。真っ暗闇が、直ぐ其処まで来ていたから。
日が沈んで光が段々失くなって、真っ暗になる意識の中で、まるで恋の話でもするみたいに、俺の相棒は密やかに笑った。
「でも、一つ云うなら、誰とも知れない相手じゃなく、君の手に掛かって、死にたかったかなあ……」
次に目にしたのは、何も無いただ一面の荒野だった。
俺達が身を潜めていた建物はおろか、その痕跡すらも見当たらない。灰色をした、無の世界だ。空には罅が入っていて、少しでも風が吹けば今にも割れてしまいそうだった。
命の気配が枯れ、空気が呼吸を止めていた。
――俺が壊したのだと理解した。
急にがらがらと、足場が崩れ去る錯覚を覚える。息の仕方が判らず地面に倒れ伏す。俺は、俺は人の形をしているか。誰か手を握っていて欲しかった。確かめていて欲しかった。
「太宰……っ」
「いいから」
何時の間にか、太宰のぼろぼろの手が柔らかく俺の体を包んでいた。その体温に、何故だかひどく安堵する。
「いいから。何も考えずに、今は、休んで。中也……」
一度だ。
一度だけ、本能のままに能力を解放したことが有る。それを人は双黒と呼んで称え、力の象徴として畏れた。
けれど、それがそんな輝かしいものでないことは、俺達が一番良く知っていた。
双黒。その言葉が指し示すのは俺達の命の果てだ。
双黒とは太宰と堕ちる奈落の底であり、
汚濁とは命を侵食する毒だった。
それは、俺達が初めて一緒に抱いた死の形だった。
1/5ページ