【再録】水底のモノクロオム
一.
足元に、ぽつんと転がった銃を拾い上げる。
回転式の拳銃だ。ポートマフィアでは支給されていない型式だから、重いとも軽いともつかない。持ったことが無かったから。これは重畳だ、と太宰はその銃口を顳顬に中てる。周囲の人間は、誰も太宰の行動に気付かない。
試してみよう、と思ったのはほんの出来心だ。弾が入っているのか如何か、一人ロシアンルーレット。
道端に落ちた饅頭を拾い食いするよりは、幾分か慎ましやかな心持ちだった。この銃は自然発生的な物では勿論ない。正真正銘、この敵のアジトに残された物だった。正確には元、敵のアジト。薄暗い倉庫に、自分達の部下が敵の居場所を問う声が、怒号混じりに響いている。
太宰達が踏み込んだときにもには既に蛻の殻だったから、もう猫の子一匹見付からないだろう。残されていたのは銃の一丁のみ。逃げられたんだ。そう悟った。今回は、相手の方が一枚上手だったと云う訳。
目を閉じながら考える。別に嫌になったとかじゃない。寧ろ気分は高揚していた。私の策を抜けて逃げ果せるなんて、中々やるじゃあないか。そんな賞賛の気持ちさえ有った。
けれどそれさえ詰まらない。今回は上手く逃げられてしまったけれど、太宰が本気を出せば次は無いだろう。現にもう、如何やって仕留めるかのプランが太宰の思考を幾つも並行して走っていた。愉快な方法から詰まらない方法まで。手間の掛かる手段から、一瞬で街ごと焼き尽くす手段まで。
そうなると、後はどれを実行に移すかだけだ。どれを選んだって、得られる結果に大して変わりは無い。精々、死人の数にプラスマイナス数十人――或いは数百人の差が出るくらい。誤差の範囲だ。選ぶのはどれでも善い。
昂った気分に因り彩度を増したかのように見えた世界から、急速に興味が失せていく。敵が手強いと知ったときには少し面白いかな、と感じないでもなかったけれど、行き着く先は同じなのだから見える未来は何時もと同じセピア色。
だったら、今この時、この瞬間を切り取ってしまった方が余程有意義なように思えた。
顳顬に中る、冷えた銃の温度に安らぎすら覚える。
そうして、太宰はその引き金を――。
ぱん、と予想していた衝撃は頭ではなく肘に来た。蹴り上げられたのだ。そう認識する前に銃を取り落とす。からん、と鉄板の床を銃が滑る。弾は出ない。引き金を引く前に防がれた。太宰は一つ舌打ちする。
「何やってる」
視線を上げると、目の前には随分と立腹した様子の小柄な男が居た。怒気がゆらりと背後の空気を揺らしている。その存在が纏う空気は鮮やかな金。宛ら太陽から立ち上るフレアのような。その眩しさに思わず目を眇める。
「なんだ、中也か」
幾分ぞんざいにその名を呼ぶと、男は片眉を跳ね上げた。
中原中也。太宰の相棒。
別に太宰とて好きで組んでる訳じゃない。確かに有能な男だけれど、色々面倒臭いことも有る。
例えば態々云わなくても判るようなことを訊く処とか。
「見て判らない? 自殺だよ」
「判んねえよ、死ぬなら俺の目に付かないとこで死ね」
そう云うなら放っておいて呉れれば善いのに……とぼやきながら肘を擦る。この相棒の靴の先に、鉄板が仕込まれてることを知っている。御蔭で肘が割れそうだ。死なせて呉れないくせに死ねと云うし、蹴られて痛いし。散々だ。文句の一つでも云ってやろうと口を開いた処で、相棒が足元に転がった銃を無造作に拾い上げた。
「あ」
返して、と伸ばした手が空を切る。
中也はそれをしげしげと眺め――唐突に太宰の額に銃口を向けた。
その顔には何の感情も浮かんでいない。
「え、ちょっと待っ――」
ぱん、と。
来るべき衝撃を想像して、反射的に目を瞑った。然し痛みは無い。かちゃ、と軽い音が鳴るだけだ。薄っすらと片目を開く。
弾切れだ。
ぱち、と瞬く太宰を尻目に、相棒がせせら笑って銃を放り棄てた。からん、と今度こそ銃は何処かへ見えなくなる。
「外れだ。残念だったな」
「……君も暇だね。私の純情を弄ばないで呉れ給えよ」
「純情? 善く云う」
は、と鼻で笑われた。それから首根っこをぐいと掴まれる。
「ちょっと付き合え」
◇ ◇ ◇
「つーか三回襲撃して三回とも外れって何だよ? 巫山戯てんのか? あァ?」
「知らないよ私だってえ! 意味判んない、調べたときには本拠地だったんだもの、何で誰も居ない訳? もう面倒臭いから横濱ごと焼き払おうよぉ」
きっかり一時間後、太宰と中也は揃ってべろべろに酔っていた。その頬は血色良く紅潮しており、バー内の薄暗い間接照明の下でもそれと判るほどに赤い。それで呂律の回らないまま、「生一つ」「私もそれ」ともう何度目か判らない言葉を繰り返している。職場の同僚達にでも見られれば五大幹部とその相棒の威厳が失墜することは間違いが無かったが、その心配が少ないのがこの店の利点だった。何せこの横濱で、このバーのようにマフィアの傘下に入っていない店は貴重だ。構成員は大体皆、自分の担当地域の店に顔を出す。傘下でないこの店は知り合いと遭遇する可能性が低い。故に此処は、二人の気に入りの店の一つだった。
店内の雰囲気が物品の受け渡しや密談なんかに向いている関係上、恐らくマフィア以外の組織の利用が盛んなのが難点だが、然程気にする程度でもない。
普段仲が悪いと目されている太宰と中也が人目を気にせず飲み明かすのに、このバーほど適した店は他に無かったのだ。
「次ウイスキーロックで」
「えー……あっじゃあ私ジンバック。甘いのが好い」
バーテンダーも慣れたもので、湯水の如く中身の無くなるグラスを手際良く入れ替えつつ、悪酔いの過ぎた常連が何時暴れ出しても善いよう手早く壊れ物を遠ざけている。太宰と中也が暴れようものならその被害は常人の倍では足りない。一度など、マスターに正座させられてこっ酷く叱られたことが有る。店員は皆壮年の猛者ばかりで、一度マフィアを離れれば幹部と云えど扱いは近所の悪餓鬼と同等だった。
「あ、ねえ中也ほら、バイト募集中だって」ふと壁に貼られた貼り紙を見付けて太宰が喚く。「そうだ、此処で雇って貰おうよ、潜入捜査だ、それで敵の頭首格が飲みに来るでしょ、其処をこう、ぐさっと……」
「ふぅん。で、その肝心の頭首は如何やって呼び寄せんの」
「えっ? うーん……メール送る……『貴様の恥ずかしい秘密をバラされたくなければこのバーに来い』とか……」
「それもう店員に扮する意味無えよな?」
確かに。太宰は酩酊しながら頷く。其処まで弱みを握っているなら、呼び出すのは掃除のし易い路地裏が良い。
「大体顔とアドレスが判りゃ疾っくに手配掛けてるだろ莫迦」
「ひどい! 莫迦って云った!」
「莫迦だろ三回で捕まえらんねえんだからよお。俺の顔も三度までだ……」
「何それじゃあ二回までは中也の顔撫でて善いの?」
「先ず一回目は手前の鼻を折る」
「駄目じゃないかそれ」
太宰はぼやいて目の前に置かれたカクテルをちびりと飲む。透明じみた檸檬色。酔いの回った太宰の頭に合わせて、グラスの中身がゆらゆらと揺れている。
今回、太宰と中也が命じられたのは或る組織の殲滅だ。ポートマフィアを差し置いて、選りにも選ってこの横濱で、武器の密輸入なんかを繰り返している。莫迦な組織だ。元々別の地方から移って来た背景も在るから組織としてはそこそこの規模で、けれどポートマフィアの敵ではなかった。各部署にも応援を求めた大規模な作戦を展開して、十分な戦力規模を揃えて、確実に鏖殺出来る筈だったのだ。
太宰が調べ上げた情報を嘲笑うかのように、アジトが無人でなければ。
太宰は苛立たしさに歯噛みする。
「大体、私が間違ってたんじゃないし……」
「それは知ってる」
からん、と。
中也のグラスの中の氷が涼やかな音を立てて、一瞬二人の間に沈黙が落ちる。
「『知ってる』?」
「手前が掴んだアジトの情報が間違ってたんじゃあねえんだろう」中也がウイスキーを傾けながら瞑目する。「そんなことは判ってんた。詰まる処、じゃあ誰だって話だ」
殺気の篭った声に、ちら、と隣に目を向ける。その瞳は酔いに染まって朦朧としている。然し意識ははっきりしている、ように見えた。思考力も。
「誰って、何が?」
「惚けんな。内通者が、だ」
あは、と太宰は笑った。こうでなくちゃ。覗き込んだ琥珀色の液体に、一瞬中也のぎらりとした目が映る。
「お人好しの君の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。気付いてたの」
「気付いてなくて手前の相棒が務まるか?」
随分と大仰な物云いをする。太宰の相棒なんて、太宰の言葉を理解して、太宰の思う通りに動けば事足りるのに。
でも中也はそれ以上だ。幾ら気に食わなくても、そこは認めざるを得ない。この男の一言でこんなにも気分が高揚する。
そう、太宰の掴んだ情報が間違っていたのではない筈だ。仮に一度目がそうだったとしても、同じ失態を二度犯すほど太宰治は莫迦じゃない。と思う。だったら可能性は一つ。情報が漏れたんだ。マフィアが何時、何処を襲撃するかの情報が。それも内部の人間から。
太宰はうっそりと笑う。これだけ手間を掛けさせて呉れたんだ、余程上手く立ち回ることの出来る者が居るのだろう。そう考えると、追い詰めて、捕まえるのが愉しみだった。
「後、それだけじゃねえだろ……」
「うん?」
未だ何か有ったろうか? 太宰は首を傾げて中也を見遣る。
「……内通者だけじゃねえ。ここ最近、組織の彼方此方で首領に不満を募らせてる奴が居る気がする」その声の調子は何処までも薄暗い。「首領に刃向かう、不逞の輩だ……」
太宰は今度こそ舌を巻いた。相棒は少し眠たいのか、うと、うとと船を漕ぐように頭を揺らしている。溢れる亜麻色の髪の間から、仄かに紅く染まった項が覗く。何時に無く無防備だ。それは彼が懐に入れた人間に向ける信頼だった。常日頃から――それこそ太宰が呆れるほど――味方と見ればその背中を無造作に向けていると云うのに、その実内通者の存在を疑いながら、素知らぬ振りをしていたと云う訳だ。
全く以ってイカれてる。
「君ってば本当、狗だよね。嗅覚だけは鋭いんだから」
「! 喧嘩売ってんのか……」
「それに関しては名簿が有る」
ぽつりと零した言葉に、一瞬遅れて「何?」と中也が顔を上げる。素直な反応に思わず太宰の頬が緩む。
「反逆者の名簿なら有る。安吾印のだ。首領はきっちり把握してる」きゅ、とグラスの淵を指でなぞる。覗き込んだ檸檬色の液体は、太宰の瞳を映して黒い。「君の云う通りだ。内通者は論外として、他にも首領に良くない感情を持っている人間がこの処多い。客観的な証拠の確保が面倒だとか云って、粛清の方法は一任するって云われてるんだけどさァ……」
安吾とは坂口安吾のことを指す。ポートマフィアきっての情報員。加えて今回は太宰と粛清任務を共同で負った同僚だ。
元より相棒には関係の無い仕事だったから、太宰には中也に話す心算は無かった。けれど察しているのなら話は早い。それなら全部話してしまおうと即断する。自分が味方殺しの面倒な任務を負っていること。別に後でバレても亀裂が入るほど、自分達の関係が脆い心算は無いが、話さなかった理由は中也があまり良い顔をしないだろうと思ったからだ。何時だって無防備に、味方に背中を向けていると思っていたから。
けれど変に隠し立てをしても隠し切れない程度には、近い距離を維持している自覚も有る。
「殲滅と粛清と、大きい仕事を二つ抱えるのはやだから全部安吾に押し付けようとしたのに、安吾には上手く逃げられるし……。あ、安心しなよ、名簿に中也の名前は無かったから」
「当たり前だ」
付け加えるように云うと、元よりそんなことは心配していないとぎろりと睨まれる。一瞬瞳を過ぎった怒りの色に、太宰は「そうだね」と苦笑する。中原中也の森鷗外への忠誠は、海の色が青く血の色が赤いことが明白であるように、端から見ても疑いようが無い。彼の名が反逆者の名簿に載るなら、構成員のほぼ全員の名が載ることだろう。正に血の目録だ。然し実際はそうではなかった。
それに太宰には、若し仮に相棒の名前が名簿に上げられていれば真っ先に手を打つ心算が有った。安吾から名簿を受け取って、一番に確かめたのは中也の名だ。自分の名ではなく。そして彼の名の無いことに、安堵したのも事実。
「寧ろ、私の名前も載ってないことに驚いたよね……」
次に自分の名前の無いことを確かめた太宰は首を捻った。まあ反抗心が有ると見做された時点でその仕事が回って来る道理も無いのだが(何せ粛清名簿に自分の名前が載っているなんて、自害しろと云われているようなものだ。喜んでするけど)、私だってマフィアになんて微塵も執着も未練も無いのになァと自嘲すると此方をじっと見る視線が在った。「幹部のくせに何云ってやがる」「階級とか関係無くない?」それで中也の眉間の皺が険しくなる。「手前は此処に居ろよ」かん、と置かれたグラスは既に空だ。相棒の瞳がグラスの中身の移ったように揺れている。「此処に居ろ」何云ってるんだろ、と太宰は思う。確かに忠誠心は薄いけれど、だからと云って直ぐに出て行く訳でもない。酔って冷静でないのだ。そう思って「うん、判った」と適当に頷いて流す。相棒が、此奴絶対判ってねえと云う顔をしたのが甚だ不本意だった。
◇ ◇ ◇
鋭い電子音が鳴ったのはそのときだ。太宰と中也は同時にはっと顔を上げる。少し遅れて、それが太宰の一般用の端末だと認識し、中也は興味を失ったように手を振った。太宰はポケットから端末を取り出し、映った番号を確認する。
「……おや」
「部下か?」
「……否。知らない番号だね」
首を傾げる。登録している番号でもなければ、覚えの有る番号でもない。マァ、此方は相棒との専用回線とは違って一般に公開している番号だったから、知らない身内から掛かって来る可能性もゼロではない。そう納得して通話ボタンを押す。
「もしもし。私……」
『動くな』
ぴた、と息を詰めた。聞き覚えの無い低い男の声。随分と変わった『もしもし』だ。今時の流行なのだろうか。思いながら、ゆっくりと袖を振り、其処に仕込んでいた小型の機械をカウンターの上に落とす。中也がちら、とそれを見遣ったのを目の端に認める。
『狙撃手に狙わせている。命が惜しければ店の外に出ろ。隣の男に気付かれないように、だ』
視線を動かさずに気配を探る。然し殺気を辿るには、この狭いバー内にはあまりに人が多すぎた。屋外から狙われていればお手上げだ。果たして真実かブラフか。
然し中也に気付かれないようにも何も、既に中也は太宰の反応を敏感に察知し、袖から落ちた受信機を嬉々として耳に付けていた。無理な相談だ。太宰は開き直って席を立つ。
「中也ァ。ちょっとお花摘みに行って来る」
「普通に便所って云えよ莫ァ迦」
中也がけらけらと笑う。面白そうな玩具を見付けて、先程までの眠気は何処かに行ったようだった。茶番にも程がある。選りにも選って、中也と一緒に居るこのタイミングで。
外、とは云ってもバーの裏手だ。月光が冴え渡っている。あんまり店舗から離れると、中也が音を拾い難くなる。盗聴器を自分に取り付けながら、足元の空き瓶をカランと転がす。
「――で? 云われた通り中也から離れたけれど、君は一体如何やってこの番号を知ったのかな」白々しく訊きながら、見当を付ける。心当たりは有った。マフィアに内通者が居るのなら、太宰の番号を漏らすことも容易いだろう。「私と君は、お友達ではなかった筈だけど」
『端的に云おう。手を組みたい』
直球だった。もっと搦手で来るかと思っていたのに。太宰は目を閉じ、ひとつ息を吐く。
「……君達はここの処、横濱を騒がせている武器の密輸入組織でしょう? ポートマフィアの幹部が、如何してそんな奴等と手を組むと思った? ――分を弁えろ」
高圧的に問い掛ければ、相手の嘲笑する声が聞こえた。あっむかつく。太宰は足元の空き瓶を蹴り付ける。がちゃんと割れる瓶。盗聴器の向こうの相棒は、きっと今頃大笑いだろう。
『裏切り者の太宰治殿』今度ははっきりと、電話の向こうの男はそう云い切った。耳を疑う。何だって?『そのポートマフィアが尽力して三度とも捕らえられなかったのだ。我々は協力者としては十分ではないか? ……マフィアに反逆したがっている貴方にとって』
「――私が、マフィアに反逆したがってる」自分で口にすると、その言葉は妙に真実味を増して月下に響いた。「一体何処から得たのだい、そんな根も葉も無い情報?」
『或る筋からだ。如何だろう、悪い話ではない筈だ。我等は横濱で商売をするのにポートマフィアを滅ぼしたい、貴方はポートマフィアに反逆したい。手を組むのが利口では?』
「……君達のメリットが読めないな」
『ポートマフィアの五大幹部。敵組織からその戦力を労せず味方に付けることが出来たなら、斯様な僥倖は他に無い』
確かに納得の出来る理由だ。「ふむ。断ったら?」
『そのときは、ポートマフィア共々貴方を滅ぼすだけだ』
過ぎた妄言だ。そう思うけれど、きらと遠くのビルヂングの高層階で反射光が閃くのが見えた。成る程、狙撃手は本当に配置しているらしい。太宰が自殺志願者でなければ、その脅しは頗る有効だったろう。如何しようかな、と首を傾げる。
却説、此処から如何進めようかな、と。
『了承して頂けるならば、その証に一つ頼みたいことが有る』
「なぁに? 聞くだけ聞いてあげる……」一つ欠伸を噛み殺す。退屈なものでなければ良いけど。「何がお望みかな?」
『中原中也の始末』
遠くで虫の声が聴こえる。
ざ、と耳元で血の流れる音が煩く響く。気付けば口角が上がっていた。それは中々、魅力的な提案だ。
「それは詰まり、あの男を殺せってこと?」
『可能ならば』
騒がしい相棒が側に居ないから、夜はひっそりと静かだ。手の平を月に翳す。
「……随分と愉快な提案だ」声に喜色が混じるのを止められない。「けれどそれだと私にはちっともメリットが無いね」
『……此処で無駄死せずに済む』
「それは飴と鞭の、鞭の方でしょう? 私は飴の方を所望すると云っているのだよ」
あ。逆剥け発見。
『……何が望みだ。金か? それとも身の安全の保証か』
「次期ポートマフィアの首領の地位」
間髪入れず答えると、ひゅ、と息を呑む気配が聞こえた。あからさまな動揺に、ふふ、と笑みが漏れる。何吃驚してるんだろう。それくらいの野望が無きゃ筋書きとしておかしいでしょう?
「何怖気付いてるの? やるんでしょう? ポートマフィアに刃向かった以上、君達に残された選択肢は二つに一つ。殲滅するかさせられるかだ。するんでしょう? 殲滅」たっぷり間を挟む。「なら、その後の組織を私に呉れたって善い」
『――随分と意欲的だ』
「持ち掛けてきたのはそっちじゃない。真逆私と中也が犬猿の仲だって、知らないで訊いた訳じゃないでしょう?」
盗聴器の向こうで、笑う中也の顔が浮かんだ。そうだな、俺も手前が大嫌いだよ。あの男ならばそう云うだろう。私達が相棒と云う肩書きにも関わらず嫌い合っているのは身内の中では周知の事実だ。太宰が中也を毀損するのに、積極的でも不思議は無い。
こんな風に、互いに抱く感情の何もかもを共有していると知っている人間は少数だろうが。
『――善いだろう。我等の頭首にも掛け合おう』
「ありがと。じゃあ、交渉成立だ」
ぴ、と通話を切って瞑目する。却説、如何しようか。この会話は己の相棒には筒抜けだ。だからこそ選択肢が生まれる。仕込みは上々。少し遊んでも善い。然し笑って済ませてやるには、些かお遊びが過ぎるようだ。ポートマフィアの幹部を脅そうなんて、恐れ知らずにも程がある。
ぱりん、と足元の破片を踏んで、バーに戻ろうと踵を返す。
却説、如何やって鏖にして呉れようか。
「随分長かったじゃねえか。女とでもしけ込んでたのか」
「まあそんなとこ」
誂うような出迎えの言葉に、鷹揚に笑って頷く。
――中原中也の始末。
今直ぐにでも笑い出せそうな提案だった。そう来るとは、ちょっと予想外だった。この相棒が、そんな簡単に無力化出来れば皆苦労していないのだ。ポートマフィアの狂犬。単騎で骨も残さず潰した組織は、きっと十や二十じゃきかない。
その猛犬が、ぴん、と受信機を弾いて返して来た。それを難無くキャッチする。それから中也の手を取った。小さい割にしっかりとした手。酒精の入った中也の手は、普段と違って熱を持って熱い。
「ねえ中也、二軒目行こ、二軒目。て云うか私の家で宅飲みしようよ」それを揺さぶって、甘えるように強請る。「おつまみ作るからさあ」
中也が半目で太宰を見遣る。
「手前の家ぇ? 何考えてやがる」
「別に何も」その云い方は少し態とらしくないかな、と思いながらちょっと笑う。「あわよくば、襲っちゃおうとか思ってないよ」
「別に襲っても構わねえぜ。噛み千切るから」
「何を!? 怖!」
がたん、と中也が席を立った。その背中からは、隠し切れない高揚と殺気が漂っている。そう興奮していると、敵にバレるからもうちょっと抑えて欲しい。そうは思うものの、太宰だって平静を保てている自信は無かった。
追い求めても捕まえられなかった敵を、今から自分と中也でやっつけに行くのだ。それはひどく心躍る展開だ。
散々に痛め付けて、捕らえて、拷問に掛けて。紅葉の姐さんに引き渡すのも善いだろう。それでアジトの場所を吐かせて、今度こそ殲滅する。
塵も残さず。
中也と二人で。
……本当に? 果たしてそう上手くいくだろうか。太宰は少し考える。今回の相手は危機察知能力の高い敵だ、どうせ今夜姿を現すのも末端の構成員だけだろう。末端になればなるほど忠誠心は低くなるから情報も引き出し易くなる。然し本拠地の場所を知らされていなければ無駄足だ。捕らえた処で意味は無い。
そしてその可能性は大いに有り得た。
だったら策に乗った振りをして、敵の懐に潜り込んだ方が余程効率的に殲滅出来る。何せ折角餌に食い付いた魚だ。簡単に殺してしまっては芸が無い。じっくり甚振って、確実に嬲り殺さないと。
前を行く相棒にそう告げようとして――太宰は開き掛けた口をぱくりと閉じた。
一体自分は彼に何と云う心算なのか。「敵に寝返ったように見せる為に、私にやられて死んだ振りをして呉れ給えよ」? 中也に強いた処で合意を得られるとは考え難い。何よりこの相棒に演技なんてまどろっこしい真似が向いていないことは、太宰が一番佳く知っている。
却説、じゃあ如何すれば一番、効率的に、残虐に、生まれてきたことを後悔するくらい――ひどく鏖に出来るだろうか。ぼんやり考えていると、急に中也が振り返った。「な、何」どきりとする。見透かされただろうか。動揺を押し殺していると、「おら、割り勘だ、手前も払うんだよ」と尻を蹴られた上財布をぶん取られて払わされた。ひどい。質の悪いカツアゲだ。お返しに、反対の手に握られていた中也の財布から少し多めに出しておく。バレて蹴られた。理不尽だ。尻を抑えて中也を睨むと、べ、と舌を出された。不細工。お互いの間抜けな姿に、二人揃ってくすくすと笑う。
酔いはこの上無く良い感じに回っていた。
如何やって仕留めるかのプランが、太宰の思考を幾つも並行して走っていた。
中也と共に敵を捕らえ、拷問に掛けてアジトの場所を吐かせるのでも善いし。中也に死んだ振りをして貰って、敵の懐に潜り込むのでも善い。
後の一つは。
◇ ◇ ◇
バーを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。横濱の街の街灯で星明かりは見えないけれど、頭上には鋭い三日月が冴えている。その直ぐ下を、中原中也が闊歩する。力強く、影を踏み締めるその存在が、その辺りのチンピラ風情如きに容易に損なわれる筈も無い。
……相手がチンピラ風情であれば、の話だけれど。
「……本当に来やがったのか」
中也が喉を鳴らして笑う。はっと顔を上げると、何時の間にか敵に囲まれている。それも複数。けれど動揺するには些か足りない。この程度、太宰と中也の敵ではない。
それに、拍子抜けするほど相手に攻撃の意志は無かった。殺気どころか、僅かな敵意さえ感じない。完全に、太宰が寝返ると確信しているのだ。敵ながら間抜けにも程がある、と中也が嘲笑う気配が在った。敵を前にして様子見だなんて、愚か者の選択だと鼻で笑う。
そうして太宰に送られる無言の合図。太宰はするりと相棒の太腿のホルスターからナイフを抜き取って、標的に狙いを定める。
それをちらりと認めた後、中原中也は朗々と、歌うように声を響かせた。
「手前の命も顧みねえで、俺達の前にその首を晒すとは良い度胸だ……」
低い、滑らかな声だ。それが、研がれた刃が鞘を走り、ゆっくりと空気を撫でるように、月下の夜を支配する。
同時にふわりと外套の裾が翻る。彼の異能だ。重力を操る。それが何者にも害されず、傷付けられることの無い、絶対不可侵な力の領域を形成する。少しの愉快さを含ませながら。
「ポートマフィアに楯突いたこと、後悔させてやるよ。なあ、」
太宰。
そう振り返ろうとしたんだろう。
太宰が中也の腹を刺さなければ。
「あ……?」
どく、と太宰の手の中で中也の鼓動が脈打った。
刃を入れた最初は筋肉が硬くて中々歯が通り難かったけれど、ナイフが入ってしまえば後は簡単だった。今日は中也が防刃ベストを着ていなくて良かった、と安堵する。着ていないだろうと思ったから、仕掛けたのだけれど。
ぐ、と力を入れて刃を押し込むと、ずくずくとナイフが中也の体内に侵入していく感触。手が滑るのは血の所為か。
中也は痛みを感じていないようだった。ぐっ、と細やかな抵抗として手首を掴まれるけれど、その力はらしくなく弱々しい。驚愕に見開かれた金の目から、光が零れ落ちていく。呆然と、太宰のことを見上げる中也。
嘘だろう、とでも云いたげなその表情に、歳相応の幼さが垣間見えて、太宰は思わず笑ってしまった。
「御免ね、中也」
その無防備な顔に、覚えたのは興奮だ。声が上擦る。
反対に、中也は先程までの威勢を何処へやってしまったのか、音を成すのがいっぱいいっぱいのようだった。だざい、と辛うじて己の名を呼ぶ声を聞き取る。
「……だざ……てめ……なん、で」
中也の体が、力無く膝から崩れ落ちる。それを抱き留めようとして、支え切れずに太宰も膝を突いてしまった。そうだった。中也の体は小柄な割に案外重いんだった。石畳の地面に落とさないよう、そっとその体を横たえる。
ちゃき、と周囲から複数、銃を構える音がした。軽く手を上げて、その仕草を制止する。
「ああ、待ってよ。中也の始末は私の仕事でしょ?」
「だが」
「触るな、って云ってるんだよ。君達が中也に手を出すならこの話は無しだと君達の頭に伝えろ」
高圧的に命じれば、途端男達がぴたりと黙り込む。矢張り、其処までの――太宰との交渉を決裂させる権限までは任されていないようだった。その判断を出来る人間は此処には居ない。それを確認して、太宰は懐から自前の銃を取り出す。自動拳銃だ。それを中也に向ける。
中也は倒れ伏したまま動かない。じわじわと、腹の辺りから赤黒い液体が石畳に流れ出している。
「御免ね、中也。ポートマフィアの次期首領の座が、如何しても欲しくってさァ。……君の尊い犠牲は忘れないよ」
中也の俯せた手が、反論するようにぴくりと震えた。違うだろ、とか何とか。体に損傷が無ければ、多分そう云うことを云いたかったに違いない。
手前は首領の座なんかに興味は無え筈だ、と。
佳く判っている、と太宰は笑った。若しかしたら、こんなにも太宰のことを理解し、まるで己の半身のように互いのことを感じられる人間は、後にも先にもこの男だけなのかも知れない。
そう思うと、何だか堪らない気持ちになった。
「ばいばい、中也。ご愁傷様」
夜の闇に、ぱん、と乾いた音が三発響いた。
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