眠る黒い獣

(2014/07/20)


 未だ夜も明けきらぬ早朝から、中也は相方と二人、駅のホォムに立っていた。
「大人二枚。横浜迄」
 切符を二枚購って、一枚を相方に渡す。昨日の血の雨が嘘の様に、穏やかに晴れ渡る朝だった。地平線の向こう側から、薄ぼんやりと朝日が空を染め上げようとしている。もう数刻もすれば眩しい光が差し込むのだろう其の空は、今は未だ薄暗い。空気が孕むべき熱は夜の間に地面に奪われてしまった侭で、吸う息が冷んやりと肺を刺す。
「こうしていると、私達なんだか駆け落ちしてるみたいだね、中原さん」
 人の居ないホォムでじっと待っていると、ふふっと相方が笑った。真意が読み取れず、「気持ち悪い事云うんじゃねえよ」と一蹴する。男、其れも同業者と駆け落ちなんざ、御免蒙るに決まっていた。

 自販機からがたん、と落ちて来た缶珈琲を二つ、外套に収める。ポケットが熱を持つ。がたんごとん、と列車の此方へ向かって来る音に振り返ると、何を思ったか相方が、正にホォムに滑り込もうとせん列車に向かって歩き出そうとしていたので慌てて引き返した。間一髪の処で、其の首根っこを引っ掴む。
「ぐえ」
「莫迦、死にたいのか」
「そう、死にたいんだよ」
 ぐるりと振り返って、あーあ、如何して死なせて呉れなかったの、とぼやく相方を放り出す。頭の何処かの歯車を落っことしたとしか思えない此の相方は、遠征中も変わらず終始此の調子だ。やれ何処其処の川は入水に向いているだの、やれ薬物自殺ならどの薬に限るだの、へらりと笑って嘯くのだ。死にたいと云う、其の言葉が本気なのか冗談なのか、中也には判別が付かなかったが、時々こうして躊躇いも無く一歩を踏み出す其の頭のイカれ具合だけは本物だった。正体の在る侭首を括れる其の神経が、中也には理解出来ない。
 タラップを踏んで列車に乗り込むと、相方ががたん、と背後で立ち止まった気配がした。見るとトランクが段差に引っ掛かっていて、其の重量を持ち上げるのに随分と苦戦している様だった。中也はひょいと手を貸してやる。片腕一本ではさぞ不便だろう。そう思って何の気無しにトランクを取り上げると、相方は少し驚いた様に目を瞠った後、「有難う、中原さん」と、まるで朝露を浴びて華やぐ様に笑うものだから、中也には此の男の事が益々善く判らなくなってしまうのだった。

 中也は、此の太宰と云う男を善く知らない。出会って二週間、突然幹部候補として首領が拾って来たこと、自殺癖があって頭が少しおかしいこと。知っている事と云えば其れ位のものだ。後は、右目と右腕の包帯の、見た目に反して其のハンディキャップを戦闘時にはあまり苦にしないことと、少なくとも其処等の構成員より余程根性が有ること。其れ等は昨日、共に仕事をして初めて知った事だ。其れと、人を殺すことに躊躇いなんて甘い感情は持ち合わせていないこと。此の業界でやっていくに中って、人を害することに躊躇いが無いのであれば自殺癖や頭のおかしさなんかは然う然う欠点には成り得ない。其の次に死の淵へと足を引っ張るのは、運の悪さ、下らない見栄、引き際を見誤る思い切りの無さと大体相場は決まっている。其の点で見れば此の男は、幾らかマシな様に見えた。然しそうは云っても死が直ぐ隣に在るのが此の世界の常だ。此奴も出来るだけ長生き出来れば善い、と中也はぼんやりと思う。此の男に何か特別な思い入れを抱いた訳ではなく、唯一度相方になった者への、細やかな餞別としての祈りだ。そうして自分の隣に立った人間の死んで行く様を、もう何度も見て来た。

「善いものだね、列車の旅も」
「そうだな」
 四人掛けの座席を、相方と共に占領する。自分達の他に人は居ない。こんなローカル線の始発なんて、誰も見向きもしないのだろう。唯朝のひっそりとした空気だけが其処に滞留していた。右から左に流れる景色を、中也はぼんやりと眺める。薄暗く代わり映えのしない景色だったが、少なくとも前に座る相方の顔をじっと見ているよりは、余程マシだった。
「其れにしても、如何して今回の任務は私達二人だけだったんだろうね」
「さあな」
「まあ、結果的に上手く行ったから善いけど。ね、中原さん」
「……おい」
 探る様な相方の質問は、世間話と云うにはあまりにも粘着質だった。中也の考えを図るような視線が、ひどく鬱陶しい。
「俺は迂遠な質問は嫌いだ」
 面倒臭くなってぎろりと睨み付けてそう云い捨てると、相方は怒るどころか寧ろ喜んだ様だった。「御免御免、で、中原さんは如何思う」と嬉々として質問を投げ返して来る。「矢っ張り、将来有望だから私達二人に任されたのかな」
 何が将来有望だ、と中也は唾を吐きたくなる気持ちをぐっと抑える。俺達が選ばれたのは、偶々手が空いていたからに他ならない。そして二人だけなのは、首領への忠誠心を試されているだけだ。中也はトランクをちらりと見る。此の金を持ち逃げする様な人間は組織には要らない。金に目が眩んで首領に牙を剥く様な事が無いか如何か、確かめられているだけだ。其れを判らない頭じゃないだろうに、此方を試す様な態とらしい演技に、中也はひどく苛立った。
「茶番だな」
 切り付ける様に云い放つと、相方はあれ、と肩を竦めた。
「之も迂遠だった?」
「俺に殺されたくなけりゃ其の口閉じとけ」
 おしゃべりは真っ先に死ぬぞ、と吐き捨てると、雄弁は銀とも云うよ、と減らず口を叩く相方。手前のは単なる無駄口だ――と云いかけた言葉を遮って、丁度タイミング善く、検札の為に車掌がガラリと後方の扉から入って来た。中也は口論を止め、懐から切符を取り出す。

「あれ」
 相方が、素っ頓狂な声を上げる。
「切符失くしたみたい。て云うか、財布ごと無い」
 何やってんだ、と声に出さずに中也は呆れる。抜けているのは頭の螺子だけではなかったのか。あれぇ、おかしいな、とあっちのポケットを引っ繰り返しこっちのポケットを引っ繰り返し、其の間の抜けた仕草は、とても昨晩、温度の無い怜悧な表情で敵を鏖にしていた人間と同一人物とは思えない。
「善く探せ。何時から無い」
「ええと、列車に轢かれようと思った時は在ったんだけど」
 財布の確認をしてから自殺しようとしたって事か? 理解に苦しむ、と中也は苦虫を噛み潰す。そうこうしている間にも、車掌は此方にコツコツと歩いて来ていた。当然だ、他に乗客は居ないのだから。
「んー……」
 す、と相方の目が伏せられる。包帯を巻いた右目の奥で、どんな表情をしているのかは判らない。唯、心底面倒臭がっている雰囲気だけは有り有りと滲んでいた。其の瞬間、如何したものか、と思案する相方から、ずるりと獰猛な獣が這い出すのを、中也は見た。昨日の血の雨を浴びた所為か、血気盛んな様子で其の獣は相方を駆り立てる。伏せられた目が徐々に暗い光を帯び、懐に手が伸びる。
 中也は其の手を咄嗟に掴んだ。
「太宰」
 何故呼び止められたのか、とぱちりと相方が瞬いた。
「金を払えば善い話だ。俺が出すから座ってろ」
 面倒は御免だ。いいな、と噛んで含める様に云い聞かせると、其の言葉を少し咀嚼した後、ゆっくりと其の獣は鳴りを潜めた。懐に伸びていた手が、そっと元の位置に戻る。
「有難う、中原さん」
 そう云って太宰は花の綻ぶ様に笑った。其の笑みに、先程の獣の面影は一筋も無い。中也は掴んでいた手を離した。何時の間にか、じわりと汗が滲んでいた。何故だか其の毒を含んだ相方の笑みは、中也は嫌いではなかった。

「で、如何すんだ手前。無一文じゃねえか、帰れんのか」
 こんな処で騒ぎを起こすのは御免だ、と無事に車掌に一人分の代金を払い、再び二人きりになった車内で、中也はお節介にもつい訊いてしまった。序に、駅で買った缶珈琲を渡す。奢りだ、と云えばひどく嬉しそうにする相方は、プルタブを開けてやろうと伸ばした中也の手を丁重に断り、器用に片腕でプルタブを開けていた。
「そうだなあ、中原さんが養って呉れるか、中原さんが一緒に心中して呉れたら問題無いよ」
「莫迦云え」
 とは云え、アジト迄の旅費は、屹度中也が肩代わりしなければならないのだろう。中也は財布の中身を確認する。幸い今は生活には困っていなかったから、相方をアジト迄送り届ける分には問題無さそうだった。
「こう云う処で心中するとなると、矢っ張り轢死かな……。然し、轢死体はいけない、あれはいけないね、肉の飛び散る様が美しくない事此の上無い」
 相方はトランクの中からよいしょ、とよれよれになった本を取り出し、車窓から差し込む朝焼けの中でうっとりと其れを眺める。自殺の方法の書かれた本などを後生大事に持っている辺り、矢張り此の男は此処迄生きている内に、頭の歯車を二、三取り落としたに違いなかった。然し中也は、其の一見壊れかけに見えるその部品の欠損を、厭わしくもあるが、好ましくも感じている自分を否めなかった。少なくともマフィア稼業をやっていくに中って、此の男の其れは、此の世界で正体を保つのに適当な手段である様に、中也には思えた。
 手前も出来るだけ長生き出来ればいいな、と嬉々として自殺読本を読む男を前に、中也はぼんやりと呟いた。
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