【再録】中原中也を知っているか


第一部 中原中也を知っているか


前夜


 コンコン、と夜の闇に紛れたそのノックの音は随分と控えめだった。太宰は拍子抜けをして、ぼんやりと眠い目を擦る。てっきり蹴破られるものだとばかり思っていた。或いは合鍵を使って入ってくるものかと。
 何せこの武装探偵社の寮にある自室の部屋の鍵を、太宰は既にその男に渡している。
 ……と云うか、施錠をしていたっけ。肝心な処の記憶が無くて、太宰はもそもそと布団から這い出て扉を見遣る。其処にあるのは簡易なサムターン錠だけだ。この古びた集合住宅ではセキュリティなんてあって無いようなものだから、鍵に対する意識がどうも薄くなっていけない。
 コンコン、ともう一度。今度は幾分か強めに叩く音。
「……。開いているよ」
 入ってきなよ、と言外に込めてそう云った。
 事実、好きにすれば善いのだ。太宰は扉の向こうに立っているだろう男に、疾うの昔にそれを許している。部屋に侵入する権利も、太宰の私生活を侵す権利も、何もかも。
 なのに扉の向こうの気配は一向に動く気配が無い。
 何なの、もう。面倒臭い。
 がしがしと乱れた蓬髪を掻いて、ぺたぺたと裸足で畳を越える。木張りを踏む。靴は履かずに腕を伸ばして、ガチャリと扉を押し開く。
 其処に居たのは予想通りと云うべきか、矢っ張り小柄な元相棒だ。ポートマフィアの五大幹部。血と暴力の海を、この男ほど悠然と――時に快楽さえ抱いて泳ぐ人間を太宰は知らない。
 けれど今はその凶悪な覇気は鳴りを潜め、青く冴え渡る月の光に淡く輪郭を炙られている。
 今は虫も寝静まる深夜だ。
「もう、何こんな夜中に……」
 うつらうつらと頭を揺らしながら、突然押し掛けられた心当たりを考える。特に何も、苦情を受けるようなことはしていない筈だ。少なくともここ数日は。殺気立ってないから多分違うんだろう。じゃあ単に戯れにでも来たのだろうか。一人寝がさみしくなったとか。でも此方はセックスしたい気分じゃない。眠いし。帰って貰おう。
「ねえ……」
「太宰」
 ぴたりと噛み殺した欠伸を止めた。
 思わず目の前の男を見遣る。其処に立っていたのは元相棒だ。闇に溶ける黒い外套、何処で購ったんだか判らない何時もの気取った帽子。視線を落とし、太宰の素足をじっと見るその表情は暗さの所為か善く読み取れない。囁くように落とされたその声だけが、何故だか少し硬い。
「中也?」
 名を呼ぶと、強張っていた体が僅かに弛緩した。緊張している? さっと辺りを見渡すが、特に追手の気配は感じられない。危険が迫っている訳ではなさそうだ。
 血の匂いだって薄い。
「……ああ。寝てたとこ悪ィな」
 謝罪を告げる声はもう平常通りだった。けれど一瞬、その声が降雨を求める荒野のように渇いていたのは太宰の気の所為だっただろうか。からからに罅割れたそれは、太宰の鼓膜を確かに引っ掻いた。
 太宰、と。
 ただ一心に太宰を求めるかのような。
 らしくない。
「……邪魔して善いか?」
「……どうぞ」
 戸惑いのまま、腕にその小柄な体を抱くように擦れ違った。中也が靴を脱ぐのを眺めながら扉を閉める。今度はかちゃ、とツマミを捻って確かに施錠。それから背後へ向き直ろうとした処で、背を壁へと強引に押し付けられた。
 けれどその力に反して、重ねられた唇はひどく躊躇いがちだ。
「っん……」
 柔らかく唇を食まれ、その不意打ちに思わず鼻に抜ける息を漏らした。決して強引に押し開こうと云うのではない、甘やかすようなそのキスに逃げるように身を捩る。静かな夜の満ちた部屋に、二人分の服の布の擦れる音が響く。
 急に何。舌先で唇を濡らされ、耳の後ろを確かめるように指でなぞられて、ぞわぞわと背筋が痺れる。誘われるままに口を薄く開いて唾液を交わす。ぬるりと口内を這う舌に、思考が段々と溶けて塗り替えられていく感覚。セックスしたい気分じゃ。なかったのに。否応無く上昇する体温を抑えながら薄っすらと目を開くと、琥珀色の瞳と目が合って、けれどその表層は予想に反して凪いだ海のように静かだ。
 或いは内包した荒れ狂う激情を太宰に悟らせないよう、態と押し殺しているようにも見える。
「中也、……ん……」
 けれど追求は出来なかった。口を開こうとするたびに舌を差し入れられて、上顎の辺りを何度もゆるゆると擦られる。掌を包むように握られて、きゅ、と握られたそれが熱い。
 気が済むまで散々味わわれて、漸く解放されたのはキスを始めて十数分も経った後だった。
「……めずらしいじゃない。君が此方に来るなんて」
 少し舌足らずになるのは致し方無い。ずるずると壁を背にしゃがみ込む。
 体が内側から蕩けるようだった。この男とすると何時もこうだ。だから嫌。思考がぐずぐずになって、掴もうとしても形を失くしてしまうのだ。すとんと尻を冷えた木張りの床についたけれど、それさえ気にならないくらいに熱い。
 熱を逃がすように息を吐いていると、ふ、と微かに落とされた笑みと共に覆い被さられる。 
「……そうだな。久し振りに、顔でも見とこうかと思って」
 そう、今はお互い、所属組織も違えば拠点にしている住居も違う身だ。顔を合わせることなんて一月に一度あるか無いか程度で、この男の云う通り、この逢瀬だって確かに久し振りなんだろう。
 けれど太宰は自身の体に刻まれた元相棒の匂い、声、その仕草を己の意識から離したことは片時だって無かったから、その言葉に少し違和感を覚えてしまう。
 自分達の距離は時間によって阻まれることは無い。
 四年の月日でさえ、自分達を裂くには足りなかったのだ。
 だから顔が見たい、なんて曖昧な理由でその空白を埋めようとする行為に少し戸惑いを覚えた。
 そんな思考を遮るように再び軽く口付けられる。
「ん……何、気持ち悪い……。まるで」その言葉を口にすることを少し躊躇ってから、特に躊躇う理由も無いかと思い直して笑う。「まるで、これから死にに行くみたいなさあ……」
「手前じゃねえんだから死なねえよ」
 そうだね、と二人してくすくすと笑った。そうだ、この男は自分と違って、自殺を好むような嗜癖は無いから。
 ゴツン、と後頭部が床に当たった。見上げると元相棒の顔の向こう側に切れた蛍光灯が見える。このまますると明日は体の節々が痛むに違いない。でも如何でも善いか、とも思う。きもちいいなら何でも。
 するりとシャツの裾から手を差し込まれ、腹をゆっくりと撫でられる。その手の熱に身を委ね、目を閉じながら沈み掛けた思考の欠片を拾う。
 何時になく弱気。直近の任務にそれほど危険なものが入っていただろうか。数日前は確か掃討戦のようなものがあった筈だ。けれど明日は何も無かった気がする。
 ……それも今は善いか。どうせ殺したって死にはしない男だ。太宰が十把一絡げに考える人間なんかとは規格が違う。考えるだけ無駄だろう。
 理屈を放り出すのと同時に、太宰の着衣を暴いていた手がぴた、と止まる。
「……ああ。お風呂入る?」
「ああ、……いや」
 中也は一度頷いた後、躊躇うように首を横に振った。
「手前さえ構わねえなら、このまま……」
 何それ、と太宰は笑った。何時もは此方の事情など構いもしないくせに、今日だけはやけに殊勝なのが面白かった。
「今更そんなもの、構うと思うの」
 身を引こうとした体を抱き寄せるように腕を回した。既に外殻を失くし、夜気の下に曝け出された己の情欲に薄ら寒い気分になりながらも、今日だけは流されてやっても善いかと思った。
 ただの気紛れだ。

「……なあ、太宰。名前を呼んで呉れねえか」
 最中、縋るように云われた。
「な、まえ……?」
「俺の名前」
 云いながらも手は休めないものだから、迫り上がる快感を抑えてまで発声するのは随分と苦労した。
 太宰を抱きながらも満たされず、渇いたような色を見せる瞳を真っ直ぐ見詰めてその名を呼ぶ。
「中、也」
「ああ」
「中也……」
「……ああ……」

 ひどく痕を残すような重ね方をした。包帯を引き剥がした後の皮膚の薄い部分を唇で辿られ、鬱血痕を残されるたび、痛みと快楽に生を感じて堪らない気分になった。
 この熱を、何時までも抱いていたいとさえ、思ったのだ。
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