わたしの神様
(2017/06/19)
『神様はいるよ』
ザッザザッと云う電子音に紛れて、柔らかい男性の声が聞こえる。その奥では幼子の泣き声と悲鳴。それに加えてぎちぎちと、人の体を締め付ける音。通信機の向こう側の痛ましい情景が、ありありと目に浮かぶようだった。
目に浮かぶようでありながら――然し私はそれを聞く表情を、一粍足りとも動かさない。
ただ手摺に肘を突きながら、漫然と空に浮かぶ雲の群れを見上げる。
探偵社の屋上から見る横濱の空は澄み渡って蒼い。
『けど、君を愛してはいない』
耳を刺す絶叫が一際大きくなる。呪われてあれ、と血を吐くように醜く響く呪詛の言葉。組合の青年が黙ってその場を離れる気配。そこまで聞いて、私はうーんと一つ息を吐いて受信器を外し、衣囊の中へと突っ込んだ。痛みに喚く子供の絶叫が耳障りであったし――何よりこれ以上両者の会話から得られる情報が無さそうだったからだ。盗聴器は以前Qと接触したときに仕掛けたものだったから、恐らく組合の人間の盗聴には使えないだろう。Qの大方の居場所と、本命の人形が別の場所にあると云うことを知れただけでも収穫だった。
然しQの詛いを増幅させる手はずは思いの外早く進んでいるらしい。
眼下の町並みに、じわりと黒い詛いの気配が滲み出す。
「却説。如何にかして止めなきゃなあ……」
目を閉じる。空に浮かぶ白鯨には今、組合の頭に攫われた中島敦が乗っている筈だった。恐らくあの忌まわしい人形も一緒に。自分が拾った後輩の姿を瞼の裏に思い描く。心配はしていなかった。彼ならばきっと、この混乱の原因である人形を私の元へ届ける為に、必ず己の力で脱出せしめるだろうと云う確信さえあった。
ならば私のしなければならないことは、白鯨から脱出し、空から落ちてくるだろう後輩を確実に受け止めることだ。敵の狙撃手の目を眩ませる準備は出来ているから、後は落下地点を見極めれば善い。
それと次善策の準備。Qの居場所の更なる特定。
詛いの進行を止めるには、Qの人形に触れて詛いを無効化するか――或いはQを殺すしか無いからだ。
出来れば後者の手段は面倒だから取りたくないなと思いつつも、Qに同情は無かった。
如何して僕ばっかり。
そうQは云った。何時の時代だって子供は大抵そう云うものだ。他の人間が背負っている不幸には目も呉れず、ただ己の背にある重石の存在のみを主張する。如何して僕ばっかりこんな目に遭うの。如何して僕ばっかり、神様に愛されないの。
どうして私ばかり、神様に愛されるの。
「……ちょっと気晴らしに、この辺りで飛んでみようかなぁ……」
フェンスの向こうの足下に広がる無機質な混凝土の街に、誘われるように呟く。
けれどその程度の自殺では、太宰治と云う男は、残念ながらちっとも死ねる訳が無いのだった。
◇ ◇ ◇
いつかの仮定の話だ。
「若しこの世に神様なんてものが居るとしたら」ぼんやりと天井を見上げながらそう切り出した。「私はその神様ってやつに、ものすごく愛されてると思うんだよね」
そう云うと、相棒が煙草を吸う手を止めて少しだけ首を傾けて此方を見た。サイドランプに浮かび上がる琥珀色の瞳が、夜の寝室の中でゆらゆらと陽炎のように揺れていたのを覚えている。それが情事の後の熱が残ったままに、私の姿を映し出す。
そのまま言葉の意味を捉えかねて数秒、思い付いたようにぽん、と一つ手を打った。
「『どっかの宗教団体の教祖と寝た』?」
「ぜんぜん違う」
「あ、そう」
それだけ云うと、相棒――中也は興味を失ったのか、再び煙草をふかす体勢に戻った。何となく所在無げになって、その気怠げな背中を眺める。ベッドサイドに腰掛ける中也の背中は細身な割に意外と筋肉が付いていて、それでいて豪胆なほどに傷だらけだ。真新しい引っ掻き傷の下には銃創やら刃物傷やら、中には確か命に関わる深さの傷だってあった。ポートマフィアなんて組織に身を窶していれば、多かれ少なかれ誰しも皆負う傷だ。それでも中也が生き延びているのは、ただ単に運が良かっただけ。無論瀕死の中也に救命措置を施したことなど数知れないが、一歩間違えれば死んでいてもおかしくなかった場面は幾つもあった。
然し自分にはそれすら無い。
中也の背中を羨みながら、シーツにくるまった自分の体をなぞる。私には、運のよさをはかる傷さえ無いのだ。異常、だと思う。自分でも。包帯を暴かれた下にあるのは、自傷による傷ばかりだ。
「……あ、て云うか服取ってよ、服」
夜気が傷に染みて思わず顔を顰める。見れば中也はちゃっかり下ばきをはいて自分の分の珈琲を入れたりしているので暫く前から起きていたのだろう。私一人抱かれたときのまま無防備なのは些か不満ではあったが、ぐたりと体に残る気怠さで未だ起き上がれそうになかった。まったく、中也も気が利かない。水でも呉れれば善いのに。思っていると口を塞ぐように吸いかけの煙草を突っ込まれる。
「うぇ、けほ、」
何、と払うと夜の中で琥珀の瞳が呆れたように揺れる。
「『何』は此方のセリフだ。手前と言葉遊びする積りは無えぞ」
「死ねない理由を考えていたのだよ」
「聞けよ」
「私、実は自殺愛好家なんだけれど」
「知ってる」
「今日も銃撃戦の中に飛び出したのに死ねなくて」
一拍、中也の相槌が遅れる。「ふぅん」、煙と共に吐き出されたのは感情の薄い声。
「なのに私以外の他の人間は皆面白いほどばたばたばたばた死んでいくんだよ。おかしいでしょう、こんなの、死にたくないと命乞いをする人間は幾らでも居るって云うのに、こんなにも死を希う私には傷一つ付きやしないんだ……」
異常だと思う。自分でも。己の意志では如何にでも出来ない、何かしらの意志の介在が其処にはあるように思えてならなかった。そうでなければ、疾っくに自殺など成功させている。
「だから、私は随分と神様のお気に入りなんだなあって……」
「若し神様、とやらが居るとして、だ」遮るように中也が云う。「愛してるってんなら如何して手前を殺さない。手前は死にたがってんだろ」
その言葉にぱちりと瞬いた。意外だった。真逆この相棒の口から、その類のべき論を聞くことになるとは思わなかったから。
「……ふぅん。君は、愛とはそう云うものだと思うんだ」
「違えのかよ」
面倒そうに応える中也に何故だかふふ、と笑みが漏れる。そっかそっか、中也はそうなんだ。
愛しているなら、殺すんだ。
「私はね、別に、愛する人には生きていて欲しい、なんてことは思わないのだけれど」だってポートマフィアなんて組織に居てそんな願いを持てば垣間見るのは凄惨な地獄に他ならない。マァ愛する人など居ないから無意味な仮定なのだけど。「この世には、愛した人を自分の元に留めておいて、そうして自分のことで思い悩んで、いっぱいいっぱいに苦しんで欲しい、そういう愛の種類もあると私は知っているよ……」
ふうん、と頷いた中也は果たして聞いていたのか如何か。煙草を躙った彼の一言はこうだ。
「悪趣味」
ただ、私自身はそのときの会話をすっかり忘れ去っていたのだ。何故なら中也の云う通り、純然たる言葉遊び、単なる退屈を紛らわす為の下らない雑談に過ぎなかったのだから。
奥底に仕舞い込んでいた記憶が、中也の一言でゆっくりと鮮明に引き出される。
「神様に愛されてたんじゃあなかったのかよ」
その囁くような声は、思ったよりも優しい色を孕んでいた。じっと熱を持った煙草の先から紫煙が月夜に立ち上っているのが見える。これが寝台の上なら雰囲気も抜群に善かったのだろうが生憎此処は廃工場で私はシーツではなく自分の血にまみれて横たわっているのだった。外套が血を吸って重くなっていくのを感じる。同時に自分の中から多量に血が抜けていくのも。痛みはあったが何処が痛いのか判らない。若しかしたら体の一部が欠損しているのかも知れない。
死ぬのかも知れない。
「若し、居れば、の話ね……」
辛うじて声は出た。肺は傷付いていないらしい。けれどとても寒い。震えていると、中也が黙って外套を脱ぎ、私の体を包むようにして掛けた。
それでも体に纏わり付いたひんやりとした死の匂いは払えない。
中也は、それ以上は何もしてこなかった。
「一応止血はした。後は手前んとこの応援待ちだ」
「そう……」
中也は珍しく、何の表情も浮かべてはいなかった。瓦礫に座って膝を組み、ただ白い月の光の中で氷みたいな無表情を怜悧に浮かび上がらせていた。
それがぽつりと口を開く。
「手前は死ぬのかな」
「私は、死ぬのかな……」
気休めの答えは返らないと知りながら、私は鸚鵡返しに応えた。それでも善いと思った。やっと神様は私を手放して呉れる気になったらしい。死の近くにあって漸く感じ取れた人並みの生に少しばかり安堵する。死ぬことも許さずただ漫然と生き長らえさせるこの気紛れから逃れられるのだと思えば、肩の荷も下りると云うものだ。自分の命くらい自分で自由にさせて欲しいんだ。このまま見知らぬ誰かの慰みものにされ続けるなんてのは真っ平御免なんだ。
運を天に見放されたことの証左のように、じわじわと全身から力が抜けていく。
そのとき、ぼんやりと月夜を見上げていた中也が、ふと此方を見下ろす気配があった。
「……俺が愛してやろうか」
平坦な声だった。
言葉の意味が飲み込めず、傍らの相棒を見やる。
帽子の下から私をじっと覗き込むのは、透明な琥珀の瞳だ。
それで云う。
「神様に愛想を尽かされた手前を、俺が愛してやろうか」
相棒の唇がその言葉を形どった瞬間、ぞわっと血の足りないのとは別の寒気が全身を襲った。鳥肌が立つ。息の出来ないくらいに心臓を締め付ける感覚は紛れも無く拒絶反応だ。冗談じゃない。くらりと目眩がして、意識を保つのが難しくなる。反射で距離を取ろうと身を捩れば痛いばかりで動けやしなくて、そうこうする内に指先をまるで恋人のように黒手袋に絡め取られてしまった。本気で止めて欲しい。弱々しく見上げると相棒はそんな私の様子が心底可笑しいのか、にやにやと意地悪く嗤っている。
「君、私にトドメを刺す心算なのかい……」
気力だけで正常を保っていた視界が僅かに霞んだ。私は死ぬのかも知れない。いや死ぬ、絶対死ぬ。確信して覚悟を決めている間にもよいせ、と中也に横抱きに担ぎ上げられる。
「ちょっと、なに、するの……」
「いや、神様がもう要らねえってんなら、俺が貰っても善いかと思って」
全然善くない。反論の代わりに喉から出たのはぜいぜいと云う掠れた呼吸音だけだった。それでも云いたいことを察したのか中也が顔を寄せてきて、もう黙ってろよと宥めるように柔くキスをされる。
酸素が足りなくてくらくらした。
「……大体、君は、私のこと、嫌いなんじゃあなかったの……」
「そうだな」
精一杯の抗議は、実に何でもないことのように流されてしまった。それはこの男が私を――曰く、愛する――のに、さして重大事ではないらしい。それどころか、「今なら神様とやらの気持ちも判るな」などと訳の判らないことを嘯く有様だ。
私を抱えた中也は笑っていた。月を映した湖上を跳ねるような軽やかな足取りで瓦礫の山を越えていく。私は腕の中で中也の体温を感じながら、その独白を聞いていた。
「なにせ善く考えりゃあ、俺も手前が死ねずに苦しんでるのを見るのは大好きだから」
薄れ行く意識の中で届いた相棒の言葉に対して、私は口を開いた。そのまま声が出せたかは定かではない。云いたかったのはただ一言だけ。吐き捨てるように口にする。
「……悪趣味」
◇ ◇ ◇
あれから随分経ったけれど未だに死ねないまままた歳を重ねてしまったなあと私はぼんやりと河原を見やった。それから自分の足下を。地面にぺたりと座り込んだ私の足には藻やら何やらが絡み付いて、入水を少し後悔するほどにはドブ臭い。
私の陰鬱な気分に反して見上げれば広がるのは突き抜けるような晴天だ。組合を退けた横濱の街は今日も束の間の平和を謳歌している。
傍らで苛立ちも露わに水を払っている元相棒以外は。
「ねえ中也」
呼ぶとギロリと睨まれた。思わずうふふと頬が緩む。そんな顔をするのなら、川へ身を投げた私のことなんて放っておけば善いものを。
けれどこの男はそれをしない。
「前にさ、話したこと覚えてる? 若し」自分でも、確かめるように唇をなぞりながら云う。「若し、この世に神様なんてものが居るとしたら……」
「そいつは手前のことが気に入りなんだろ」
如何やら問答は不要なようだった。ち、煙草が全滅じゃねえかと眉を顰めながらへたり込んだ私の脇へと立つ。
眩いばかりに降り注いでいた陽光を遮る影。
「でも俺が貰ったからなァ」
その影の中であって、相棒はにやりと悪どく笑っていた。所有欲を存分に満たしたような表情だった。
釣られて私も笑みを零す。
「愛しているなら殺すんじゃあなかったの」
「俺が手前を、そんな訳無えだろうが」
それとも愛して欲しかったか、と皮肉げに笑われる。神様の代わりに愛してほしかったか、と。
それは私の心底求めるものだ。私は乞うように腕を伸ばして中也の首へと齧り付いた。中也も応じるように少し屈んで私の唇を強引に塞ぐ。地面に押し倒されるような形になって、ぐちゃぐちゃと二人分の外套が吸った川の水が重たい水音を垂らして擦れる。
「もう暫くは返してやんねえから」
その言葉に笑って目を瞑る。折角解放されたと思ったのに、また随分と厄介な神様に愛されたものなのだった。
『神様はいるよ』
ザッザザッと云う電子音に紛れて、柔らかい男性の声が聞こえる。その奥では幼子の泣き声と悲鳴。それに加えてぎちぎちと、人の体を締め付ける音。通信機の向こう側の痛ましい情景が、ありありと目に浮かぶようだった。
目に浮かぶようでありながら――然し私はそれを聞く表情を、一粍足りとも動かさない。
ただ手摺に肘を突きながら、漫然と空に浮かぶ雲の群れを見上げる。
探偵社の屋上から見る横濱の空は澄み渡って蒼い。
『けど、君を愛してはいない』
耳を刺す絶叫が一際大きくなる。呪われてあれ、と血を吐くように醜く響く呪詛の言葉。組合の青年が黙ってその場を離れる気配。そこまで聞いて、私はうーんと一つ息を吐いて受信器を外し、衣囊の中へと突っ込んだ。痛みに喚く子供の絶叫が耳障りであったし――何よりこれ以上両者の会話から得られる情報が無さそうだったからだ。盗聴器は以前Qと接触したときに仕掛けたものだったから、恐らく組合の人間の盗聴には使えないだろう。Qの大方の居場所と、本命の人形が別の場所にあると云うことを知れただけでも収穫だった。
然しQの詛いを増幅させる手はずは思いの外早く進んでいるらしい。
眼下の町並みに、じわりと黒い詛いの気配が滲み出す。
「却説。如何にかして止めなきゃなあ……」
目を閉じる。空に浮かぶ白鯨には今、組合の頭に攫われた中島敦が乗っている筈だった。恐らくあの忌まわしい人形も一緒に。自分が拾った後輩の姿を瞼の裏に思い描く。心配はしていなかった。彼ならばきっと、この混乱の原因である人形を私の元へ届ける為に、必ず己の力で脱出せしめるだろうと云う確信さえあった。
ならば私のしなければならないことは、白鯨から脱出し、空から落ちてくるだろう後輩を確実に受け止めることだ。敵の狙撃手の目を眩ませる準備は出来ているから、後は落下地点を見極めれば善い。
それと次善策の準備。Qの居場所の更なる特定。
詛いの進行を止めるには、Qの人形に触れて詛いを無効化するか――或いはQを殺すしか無いからだ。
出来れば後者の手段は面倒だから取りたくないなと思いつつも、Qに同情は無かった。
如何して僕ばっかり。
そうQは云った。何時の時代だって子供は大抵そう云うものだ。他の人間が背負っている不幸には目も呉れず、ただ己の背にある重石の存在のみを主張する。如何して僕ばっかりこんな目に遭うの。如何して僕ばっかり、神様に愛されないの。
どうして私ばかり、神様に愛されるの。
「……ちょっと気晴らしに、この辺りで飛んでみようかなぁ……」
フェンスの向こうの足下に広がる無機質な混凝土の街に、誘われるように呟く。
けれどその程度の自殺では、太宰治と云う男は、残念ながらちっとも死ねる訳が無いのだった。
◇ ◇ ◇
いつかの仮定の話だ。
「若しこの世に神様なんてものが居るとしたら」ぼんやりと天井を見上げながらそう切り出した。「私はその神様ってやつに、ものすごく愛されてると思うんだよね」
そう云うと、相棒が煙草を吸う手を止めて少しだけ首を傾けて此方を見た。サイドランプに浮かび上がる琥珀色の瞳が、夜の寝室の中でゆらゆらと陽炎のように揺れていたのを覚えている。それが情事の後の熱が残ったままに、私の姿を映し出す。
そのまま言葉の意味を捉えかねて数秒、思い付いたようにぽん、と一つ手を打った。
「『どっかの宗教団体の教祖と寝た』?」
「ぜんぜん違う」
「あ、そう」
それだけ云うと、相棒――中也は興味を失ったのか、再び煙草をふかす体勢に戻った。何となく所在無げになって、その気怠げな背中を眺める。ベッドサイドに腰掛ける中也の背中は細身な割に意外と筋肉が付いていて、それでいて豪胆なほどに傷だらけだ。真新しい引っ掻き傷の下には銃創やら刃物傷やら、中には確か命に関わる深さの傷だってあった。ポートマフィアなんて組織に身を窶していれば、多かれ少なかれ誰しも皆負う傷だ。それでも中也が生き延びているのは、ただ単に運が良かっただけ。無論瀕死の中也に救命措置を施したことなど数知れないが、一歩間違えれば死んでいてもおかしくなかった場面は幾つもあった。
然し自分にはそれすら無い。
中也の背中を羨みながら、シーツにくるまった自分の体をなぞる。私には、運のよさをはかる傷さえ無いのだ。異常、だと思う。自分でも。包帯を暴かれた下にあるのは、自傷による傷ばかりだ。
「……あ、て云うか服取ってよ、服」
夜気が傷に染みて思わず顔を顰める。見れば中也はちゃっかり下ばきをはいて自分の分の珈琲を入れたりしているので暫く前から起きていたのだろう。私一人抱かれたときのまま無防備なのは些か不満ではあったが、ぐたりと体に残る気怠さで未だ起き上がれそうになかった。まったく、中也も気が利かない。水でも呉れれば善いのに。思っていると口を塞ぐように吸いかけの煙草を突っ込まれる。
「うぇ、けほ、」
何、と払うと夜の中で琥珀の瞳が呆れたように揺れる。
「『何』は此方のセリフだ。手前と言葉遊びする積りは無えぞ」
「死ねない理由を考えていたのだよ」
「聞けよ」
「私、実は自殺愛好家なんだけれど」
「知ってる」
「今日も銃撃戦の中に飛び出したのに死ねなくて」
一拍、中也の相槌が遅れる。「ふぅん」、煙と共に吐き出されたのは感情の薄い声。
「なのに私以外の他の人間は皆面白いほどばたばたばたばた死んでいくんだよ。おかしいでしょう、こんなの、死にたくないと命乞いをする人間は幾らでも居るって云うのに、こんなにも死を希う私には傷一つ付きやしないんだ……」
異常だと思う。自分でも。己の意志では如何にでも出来ない、何かしらの意志の介在が其処にはあるように思えてならなかった。そうでなければ、疾っくに自殺など成功させている。
「だから、私は随分と神様のお気に入りなんだなあって……」
「若し神様、とやらが居るとして、だ」遮るように中也が云う。「愛してるってんなら如何して手前を殺さない。手前は死にたがってんだろ」
その言葉にぱちりと瞬いた。意外だった。真逆この相棒の口から、その類のべき論を聞くことになるとは思わなかったから。
「……ふぅん。君は、愛とはそう云うものだと思うんだ」
「違えのかよ」
面倒そうに応える中也に何故だかふふ、と笑みが漏れる。そっかそっか、中也はそうなんだ。
愛しているなら、殺すんだ。
「私はね、別に、愛する人には生きていて欲しい、なんてことは思わないのだけれど」だってポートマフィアなんて組織に居てそんな願いを持てば垣間見るのは凄惨な地獄に他ならない。マァ愛する人など居ないから無意味な仮定なのだけど。「この世には、愛した人を自分の元に留めておいて、そうして自分のことで思い悩んで、いっぱいいっぱいに苦しんで欲しい、そういう愛の種類もあると私は知っているよ……」
ふうん、と頷いた中也は果たして聞いていたのか如何か。煙草を躙った彼の一言はこうだ。
「悪趣味」
ただ、私自身はそのときの会話をすっかり忘れ去っていたのだ。何故なら中也の云う通り、純然たる言葉遊び、単なる退屈を紛らわす為の下らない雑談に過ぎなかったのだから。
奥底に仕舞い込んでいた記憶が、中也の一言でゆっくりと鮮明に引き出される。
「神様に愛されてたんじゃあなかったのかよ」
その囁くような声は、思ったよりも優しい色を孕んでいた。じっと熱を持った煙草の先から紫煙が月夜に立ち上っているのが見える。これが寝台の上なら雰囲気も抜群に善かったのだろうが生憎此処は廃工場で私はシーツではなく自分の血にまみれて横たわっているのだった。外套が血を吸って重くなっていくのを感じる。同時に自分の中から多量に血が抜けていくのも。痛みはあったが何処が痛いのか判らない。若しかしたら体の一部が欠損しているのかも知れない。
死ぬのかも知れない。
「若し、居れば、の話ね……」
辛うじて声は出た。肺は傷付いていないらしい。けれどとても寒い。震えていると、中也が黙って外套を脱ぎ、私の体を包むようにして掛けた。
それでも体に纏わり付いたひんやりとした死の匂いは払えない。
中也は、それ以上は何もしてこなかった。
「一応止血はした。後は手前んとこの応援待ちだ」
「そう……」
中也は珍しく、何の表情も浮かべてはいなかった。瓦礫に座って膝を組み、ただ白い月の光の中で氷みたいな無表情を怜悧に浮かび上がらせていた。
それがぽつりと口を開く。
「手前は死ぬのかな」
「私は、死ぬのかな……」
気休めの答えは返らないと知りながら、私は鸚鵡返しに応えた。それでも善いと思った。やっと神様は私を手放して呉れる気になったらしい。死の近くにあって漸く感じ取れた人並みの生に少しばかり安堵する。死ぬことも許さずただ漫然と生き長らえさせるこの気紛れから逃れられるのだと思えば、肩の荷も下りると云うものだ。自分の命くらい自分で自由にさせて欲しいんだ。このまま見知らぬ誰かの慰みものにされ続けるなんてのは真っ平御免なんだ。
運を天に見放されたことの証左のように、じわじわと全身から力が抜けていく。
そのとき、ぼんやりと月夜を見上げていた中也が、ふと此方を見下ろす気配があった。
「……俺が愛してやろうか」
平坦な声だった。
言葉の意味が飲み込めず、傍らの相棒を見やる。
帽子の下から私をじっと覗き込むのは、透明な琥珀の瞳だ。
それで云う。
「神様に愛想を尽かされた手前を、俺が愛してやろうか」
相棒の唇がその言葉を形どった瞬間、ぞわっと血の足りないのとは別の寒気が全身を襲った。鳥肌が立つ。息の出来ないくらいに心臓を締め付ける感覚は紛れも無く拒絶反応だ。冗談じゃない。くらりと目眩がして、意識を保つのが難しくなる。反射で距離を取ろうと身を捩れば痛いばかりで動けやしなくて、そうこうする内に指先をまるで恋人のように黒手袋に絡め取られてしまった。本気で止めて欲しい。弱々しく見上げると相棒はそんな私の様子が心底可笑しいのか、にやにやと意地悪く嗤っている。
「君、私にトドメを刺す心算なのかい……」
気力だけで正常を保っていた視界が僅かに霞んだ。私は死ぬのかも知れない。いや死ぬ、絶対死ぬ。確信して覚悟を決めている間にもよいせ、と中也に横抱きに担ぎ上げられる。
「ちょっと、なに、するの……」
「いや、神様がもう要らねえってんなら、俺が貰っても善いかと思って」
全然善くない。反論の代わりに喉から出たのはぜいぜいと云う掠れた呼吸音だけだった。それでも云いたいことを察したのか中也が顔を寄せてきて、もう黙ってろよと宥めるように柔くキスをされる。
酸素が足りなくてくらくらした。
「……大体、君は、私のこと、嫌いなんじゃあなかったの……」
「そうだな」
精一杯の抗議は、実に何でもないことのように流されてしまった。それはこの男が私を――曰く、愛する――のに、さして重大事ではないらしい。それどころか、「今なら神様とやらの気持ちも判るな」などと訳の判らないことを嘯く有様だ。
私を抱えた中也は笑っていた。月を映した湖上を跳ねるような軽やかな足取りで瓦礫の山を越えていく。私は腕の中で中也の体温を感じながら、その独白を聞いていた。
「なにせ善く考えりゃあ、俺も手前が死ねずに苦しんでるのを見るのは大好きだから」
薄れ行く意識の中で届いた相棒の言葉に対して、私は口を開いた。そのまま声が出せたかは定かではない。云いたかったのはただ一言だけ。吐き捨てるように口にする。
「……悪趣味」
◇ ◇ ◇
あれから随分経ったけれど未だに死ねないまままた歳を重ねてしまったなあと私はぼんやりと河原を見やった。それから自分の足下を。地面にぺたりと座り込んだ私の足には藻やら何やらが絡み付いて、入水を少し後悔するほどにはドブ臭い。
私の陰鬱な気分に反して見上げれば広がるのは突き抜けるような晴天だ。組合を退けた横濱の街は今日も束の間の平和を謳歌している。
傍らで苛立ちも露わに水を払っている元相棒以外は。
「ねえ中也」
呼ぶとギロリと睨まれた。思わずうふふと頬が緩む。そんな顔をするのなら、川へ身を投げた私のことなんて放っておけば善いものを。
けれどこの男はそれをしない。
「前にさ、話したこと覚えてる? 若し」自分でも、確かめるように唇をなぞりながら云う。「若し、この世に神様なんてものが居るとしたら……」
「そいつは手前のことが気に入りなんだろ」
如何やら問答は不要なようだった。ち、煙草が全滅じゃねえかと眉を顰めながらへたり込んだ私の脇へと立つ。
眩いばかりに降り注いでいた陽光を遮る影。
「でも俺が貰ったからなァ」
その影の中であって、相棒はにやりと悪どく笑っていた。所有欲を存分に満たしたような表情だった。
釣られて私も笑みを零す。
「愛しているなら殺すんじゃあなかったの」
「俺が手前を、そんな訳無えだろうが」
それとも愛して欲しかったか、と皮肉げに笑われる。神様の代わりに愛してほしかったか、と。
それは私の心底求めるものだ。私は乞うように腕を伸ばして中也の首へと齧り付いた。中也も応じるように少し屈んで私の唇を強引に塞ぐ。地面に押し倒されるような形になって、ぐちゃぐちゃと二人分の外套が吸った川の水が重たい水音を垂らして擦れる。
「もう暫くは返してやんねえから」
その言葉に笑って目を瞑る。折角解放されたと思ったのに、また随分と厄介な神様に愛されたものなのだった。
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