【再録】When They Were There.



 誰かに呼ばれたような気がして、俺はふっと意識を深い眠りの底から引き摺り上げた。ガタンゴトン、ガタンゴトンと未だぼんやりとしたままの意識が揺られる。手に触れる椅子の感触は、毛足の短いモスグリーンのモケット。四人掛けの座席の一つで、俺は眠い目を擦る。
 ふと顔を上げると、右手に広がる青が見えた。硝子越しでも判る、波の白の混じったコバルトブルー。俺は急いで窓に手を伸ばした。がたがたと、硝子の嵌め込まれた枠を何度か揺らして持ち上げる。途端、潮のにおいが電車の中にまで運ばれて来る。
 海だ。
「……好いもんだな」
 俺は身を乗り出して、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。人と車が大勢行き交う都会のにおいとは違う、もっと澄んだ、緑と青の入り混じったにおい。寝起きの頭に、風が心地良い。
 誰も見てやしないから、と子どもの頃を思い出しながら思い切り前のめりに体を乗り出すと、いたずらな風に帽子を攫われそうになり、俺はその愛しい恋人を慌てて引き戻した。こんな遠く離れた地で離れ離れになってしまっては堪らない。
 ガタンゴトン、ガタンゴトン、と電車は俺を運んで行く。車内に次の駅を読み上げるアナウンスが流れる。俺はそれが自分の降りるべき駅の名前であることを確認し、使い古したスーツケースをガタリと網棚から下ろした。

 この街への赴任を聞かされたのは、凡そ一週間前のことだ。いきなり首領の部屋に呼び出され、黒服の男達に囲まれ、首領が「君に残念な御知らせだ」と重々しく云うものだから、嗚呼、俺の命も此処で終いか――と死を覚悟して生唾を飲み込んだ処でこの異動を聞かされた。正直拍子抜けだった。それで首領が、「うふふ、吃驚した?」等と云うものだから、はい、吃驚しました、あんまり吃驚したものだから口から心臓が飛び出るかと思いました、と答えた。「出して呉れても善かったのだよ」と笑った首領の真意は未だ判らない。兎も角、俺はこうしてこの街に異動と相成ったのだった。
 異動――果たして異動と云う表現で良いのだろうか? 俺が所属しているのはマフィアなんて日常から掛け離れた組織であるのに、そう云ってしまうとまるで一般企業と変わらないようで少し可笑しい。けれどこの街に支部が在り、本部から支部に配属が変わるのは、矢張り異動と云う他無かった。
 俺の異動が、栄転なのだか左遷なのだか、その辺りは良く判らない。左遷をされるような派手な失敗をやらかした覚えは無かったが、栄転と云うにも、如何にも周囲の反応が鉛を打ったように鈍かった。然し、態々幹部候補の自分をこうやってこの街に遣ったのだから、この街には何か在るのだろうとは思っていた。俺の前任は死んだと聞いた。敵対組織に殺されたのだと云う。自分に求められているのが犠牲なのか英雄行為なのか、俺には判別が付かなかった。あの首領ならば何方も有り得るから油断ならない。別に、首領の為なら命なぞ幾らでも捨てる覚悟くらい在ったし、首領が如何考えているにせよ部下として合理的に最大限の努力を為さねばならないことに変わりはなかったが、それでも葉巻よろしく一本吸って捨てられるのは嫌だった。せめてあの人の、煙管くらいにはなりたいもんだ。俺はひっそりと溜め息を吐く。

 俺はガタン、とスーツケースと共にタラップを踏み、その駅に降り立った。駅の造りは小さく、人も疎らだ。ホームの屋根から、海ほどは青くない、浅葱の空が覗いている。改札が此方側に二つ、線路を挟んだ向こう側に二つ。辛うじて電子カードリーダーは付いていて、自動券売機も在る。俺以外に降りたのは婆さん一人だけで、自分が降りる序にひょいと荷物を持ってやったら「有難うねえ」と林檎をひとつ貰った。おいおい、今時ドラマでも見ない展開だ、と思いながら俺は「ありがとな、婆さん」とそれを受け取る。良く熟れた林檎だ。一口齧ると口の中に甘みが広がって、俺は至極上機嫌になった。美味い空気に美味い食い物。これ以上に何か必要なものが在るだろうか。人間、生きてるってのは素晴らしいもんだ。自然、鼻歌が漏れる。
 却説、「着いたら迎えを寄越す」と聞いていたが、それらしき人間が居ねえな、と俺は林檎を齧りながら辺りを見渡した。その時、改札の向こうに丁度『迎え』らしき人影が見えた。黒服の男が三人。何処の街でもマフィアってもんは、黒服であることは変わらないらしい。それが慌てて、黒塗りの車から出て来た。俺もその集団に合わせて、ゆっくりと街への改札を潜る。
「御屋敷へご案内致します」
 そう云って開口一番、性急に俺を連れ去ろうとする黒服を俺はやんわりと引き止める。着いて早々、そりゃあ無えだろう。然し、せめて自己紹介くらいして行こうや、と云い出せる雰囲気でもない。表情のぴくりとも動かない黒服を見て、俺は苦笑した。まったく、マフィア業は役所仕事じゃねえんだぞ。
 然し下っ端には下っ端の云い分が在る。一般構成員は、その命に代えても忠実に任務を遂行することこそが仕事だ。それを俺が妨げないようにしなくてはならない。
 俺は少し迷って、「要は、最終的に俺が五体満足に屋敷に辿り着けば善いんだろ?」と手元の荷物を黒服の一人に手渡した。序に、食べ終わった林檎の芯も渡す。「手前の身くらい、手前で守れる。だから先に行ってて呉れ」止めようとする将来の部下達を背に、俺はひらひらと手を振った。
「屋敷の前に、街を見て行きたい」

「お兄ちゃん、もっと飲みなよぉ」
「良いのか? 悪いな」
 気風の良い掛け声と共に、目の前のジョッキになみなみとビールが注がれる。俺がそれを一気に煽ると、おお、と周囲からどよめきが上がった。兄ちゃん、好い呑みっぷりだ、もっともっと。そうしてまた目の前のジョッキが満たされる。酒は嫌いじゃあなかったが、怪我をせずに屋敷に帰ると約束した手前、此処で浴びるように飲み、前後不覚になる訳にもいかない。俺は少し、酒の速度を落とす。
 俺が街に降り立って、最初に足を運んだのは或る酒場だった。別に、その酒場に狙いを定めて行った訳じゃない。情報の集まる場所なら何処でも良かったのだ。その酒場を選んだのは、単なる偶然。最初に声を掛けられただけ。「お兄さん、好い男だねえ。此処らじゃ滅多に見ないくらいの漢前だ!」褒められて素直に気分の良くなったのが半分、なるほど詰まり、余所者はひと目で判るってことか、と有益な情報が得られる匂いのしたのが半分。
 日のそろそろ傾こうかと云う時間帯で、未だ空は赤く染まり切ってはいなかったが、酒場内は既に人で賑わっていた。店を切り盛りしている店主夫婦、陽気なアルバイトの青年、鉱山から帰って来たと思しき働き者の男達。此処は無類の鉱山街だ。行き交う人々も自然、鉱夫が多くなる。この街は海が近い為に、生産物の輸送に事欠かない。
「俺、この街に来たばかりだから判んねえことが多くて」充満するアルコールの匂いに僅かばかり酔いながら、俺は首を傾ける。「色々教えて貰えると嬉しいんだがな。何処の店の酒が美味えとか、何処のは呑めたもんじゃねえとか」
「何云ってんだよアンタ、この店が天下一に決まってるだろ!」
 アルバイトの青年の言葉に、どっと場が沸く。俺は言葉を引き受けて、ジョッキを高く掲げる。
「そりゃあ十分承知だよ。酒は旨いし、おまけに女将がこんなに別嬪さんと来たもんだ」
 やんややんやと、俺の前にジョッキがもう一つ置かれる。おいおい流石に無理だろ、と俺は呆れながらもそれを持つ。活気の在るのは結構なことだ。
「後は――そうだな、お偉いさんの噂話とか?」
 その言葉を口にした途端、酒場内がしんと静まり返った。俺は顔には出さず、ああ、これはしまったかなと内心嘆息した。地雷を踏んだ感触が在った。
「ああ――」水を打ったような空気の中で、酒場の女将が厳かに答える。「兄ちゃんは賢いねえ。そうそう、情報を仕入れに来たんだね。初めての場所でそう云うのは大事だし、なるほどそう云う目的なら、此処へ来たのは正解だよ」
 如何やら俺は、此処の住民達を随分と甘く見ていたようだった。教えて呉れと云えば、何の疑いも無く差し出された情報を得られるだろうと侮っていた。俺は頭を振る。まったく、甘いのは自分の方だ。
「此処へ来たのはそれが半分。もう半分は、美味い酒を飲みに来ただけだ。俺はそれだけでも、十分満足だよ」
 ウインクをしてジョッキを掲げると、店主夫婦は嬉しそうに強張った顔を綻ばせる。それに合わせて周囲の空気も次第に緩み、その口からぽつり、ぽつりと言葉が零れ出る。
「他所から来たアンタには、理解出来ない処も在るかも知れないけど。この街は昔ッからマフィアと仲良くやっててねえ」
 ああ、何となくは聞いてるな、と俺は空惚けた。その俺が此処の次の担当だなんて露ほども知らず、女将は続ける。
「その支部長さんが、えらく人望家でね。町長さんとも懇意にしてて、色んなもんからアタシらを守って呉れてたんだ。ならず者が居たらしょっぴいて呉れたし、大風で家が潰れちまったら、援助して呉れるどころか、一緒に汗だくになって建て直しを手伝って呉れるような人だった」しみじみとした口調で語られるそれは、とてもマフィアの男の話とは思えない。とんだお人好しだ、と俺は微かに瞑目した。例えそれをマフィアとしての打算で行っていたのだとしても、住人にそれを悟らせない時点で、其奴は十分お人好しだ。「それがつい先日、死んじまって」
「殺されたんだ」誰ともなく発されたその声は、黒く憎悪に染まった声だった。この和やかな場に似つかわしくないそれは、鋭く空気を裂く。「彼奴等に、殺されたんだよ」
「こら、滅多なことを云うんじゃないよ!」
 女将にぴしゃりと叱られ、ざわりと嫌な感じに揺らいだ空気が一瞬でぴたりと鎮まった。然し、その視線、その表情まで黙らせることは流石に出来ない。どよりと空気を淀ませるその不満は、誰も彼もが、敬愛する人物を殺害したであろう『彼奴等』に敵意を持っていることを示していた。俺はふぅん、と一つ頷く。
 前任者の人望は、俺の予想を遥か上方に超えているようだった。マフィアなんてものは所詮汚れ仕事で、他人から金を巻き上げて血を搾り取るのが仕事だ。憎しみや嫌悪以外の感情を、受けることなど滅多に無い。それが、その命が無法者の手によって失われたことを、こんなにも怒り、悲しむ人間が居る。俺は素直に感心した。こう云う非合法組織の在り方も在るのか、と。今まで自分が居た本部とは、えらい違いだ。
 そして俺の当面の課題は、その随分と『人望家』な前任の代わりを務めることと、『彼奴等』の徹底排除と云う訳だ。
 それが判っただけでも、今日の収穫としては十分だった。
「……さあさあ! 湿っぽい話は終わりだ終わり! 夜はまだまだこれからだよ!」
 気付けば酒場には、眩しい夕陽の光が差し込んでいた。それが色濃く、内部の人間の影を壁へ床へと描き出す。先程より影の数が増している。きっと仕事帰りの人間が、徐々に増えて来ている為だろう。再び陽気なざわめきを取り戻した店内で、俺は煽られるままに、何時の間にか手にしていた両手のジョッキを飲み干した。
 良い街だ、本当に。前任者の『代わり』になってやろうじゃないかと、奮い立たされるくらいには。

 そのとき、ふと目の端に映り込んだ或る男に、俺はひどく意識を奪われた。
 黒髪の男だった。ひょろりと背が高く、然しお世辞にもその体格は良いとは云えない。それが、カウンターの隅のスツールにすとんとその身を収めている。纏うのはベージュの外套。茫洋とした視線は、憂い在りげに宙を彷徨っている。騒がしい酒場に於いて、その存在は何処か異質だった。
 然しよくよく注視してみれば、おかしなことに誰も、その存在に注意を払わない。酒場の女将も、世話好きの青年も、誰も。そしてそれをその男も意に介していなかった。差し込む夕陽越しに見るその姿は、光の向こうに今にも霞んで消えてしまいそうな希薄ささえ生んでいる。かく云う俺も、今の今までその男の居たことにはまったく気付かなかったのだ。
 その男のほっそりとした手が、彼の目の前に置かれたグラスの縁を音も無くゆっくりとなぞる。す、と立てられた人差し指に、俺はぞわりと背筋を逆立てた。何故だか、ひどく官能的な仕草だった。その男に、自分の首筋をなぞられ、耳元に息を吹き掛けられたような感覚さえ在った。
 気付けば俺は、思わず店主を振り返っていた。
「彼奴は?」
「あいつ? 誰だい?」
「ほら、其処の――」
 振り返り、唖然とする。
 指を差した先には、誰も居なかった。
 ただスツールだけが、その存在を示すようにゆるゆるとゆっくり回っていた。今にも消えてしまいそうだとは思ったが、本当に消えてしまうなんて、一体誰が予想しただろう。恐らく狐に摘まれたような顔をしていただろう俺の背中を、ばん、と数人の平手が叩いた。
「幽霊でも見たんじゃねえのか、兄ちゃん!」
「長旅で疲れたろうからなあ!」
「いや、けどよ……」
 俺はもう一度カウンターを見た。其処には酒の入ったグラスが、ぽつんと一つ、確かに置いてある。からんと氷の溶けて涼しい音の鳴るそれを、俺は指で指し示す。「これ、誰が呑んでたんだ?」「あれ? 五郎の野郎じゃねえの」「いやいや、俺は今日は女房に酒を止められてンだから呑まねェよ」「じゃあその手に持ってるモンは何だよ?」「こッ……これは……麦で出来たジュースだから!」「お前ンとこの女房鬼怖えのに莫ッ迦お前」
 俄に騒ぎ出す周囲を他所に、俺は首を傾げる。本当に見間違い、だったのだろうか? しかし、それにしては細部まではっきりと、その姿を思い描けるような気がした。目を閉じると脳裏に過る、黒い蓬髪。憂いを帯びたぬばたまの瞳。伽羅色の外套。夜の色をしたまあるい留め具のループタイ。
 それに何より、背筋を撫ぜて行ったあの感覚。
「ああ、でもねお兄さん、幽霊は『居る』よ」
「……へえ?」
 余程納得出来ない、と云う顔をしていたのだろう、アルバイトの青年が笑ってこっそり耳打ちをしてきた。まさかこの科学の発達する現代で、幽霊なんて非科学的なものの名前を聞くとは思わなかった。そう青年を半眼で見遣ると、「あ、信じてないねェ」と青年は気を悪くした風も無くけたけたと笑った。
「入江の方に大きなお屋敷が在るの知ってる? マフィアのお屋敷なんだけど、その裏に所謂『約束の丘』ってのが在ってさ。恋人同士が良く約束して其処で逢引きしてんのが由来なんだけど、何十年か前に、その約束を破られて失意のまま死んだ男が、今も夜な夜な、あの辺に出るんだってさ……」
 声を落とし、怪談めいた話をひっそりと告げた青年は、それで満足したのか、最後にあは、と無責任に笑った。
「……ま、俺も実際に見たことは無いんだけどね」

 そのお屋敷に、今から帰んなきゃならないんだがな、と俺は店を出て嘆息した。頭の上は既に薄暗く、然し海の際には未だ太陽が引っ掛かっていて、夜と昼の間にぼやりとした境界線を作り出している。
 カツカツと、屋敷の方へと歩を進める。陽気に騒ぐ街の住人たちの間を縫うように、するりするりと抜けて行く。
 幽霊なんて正直信じてはいなかったが、火の無い処に煙が立たないと云う格言の方は信じてはいた。きっと何か在るんだろう。幽霊が出ると思わせるような、何かが。
 そうぼんやりと歩いていると、何時の間にやらじっとりとした視線が纏わり付いていた。後ろに二人、前に一人。きっと『彼奴等』とやらだろう。俺はぴんと中りを付ける。
 俺が後任であることをもう嗅ぎ付けた、その嗅覚は褒めてやりたかったが、殺気を消し切れていないのが何とも残念だ。素人かよ、と呆れながら、俺は屋敷に向かう足を速めた。
 その俺の鼻先を、微かな火薬の匂いが掠める。
「……!」
 俺は咄嗟に地を蹴って、前方の車の陰へと飛び込んだ。一瞬の後、どん、と背後から耳を劈く爆発音。次に腹を底から揺るがす縦揺れ。背後から襲い来るのは熱風だ。ちり、と肌を焼くそれが、爆弾だ、と判断するのに数秒も要さなかった。少し遅れて、周囲の人間の絶叫が重なる。平和な街中を一瞬にして無慈悲に地獄絵図に変えただろうそれは、明白に『奴等』の仕業だった。
「……おいおい。マジかよ」
 俺は背後を振り返らずに駆け出した。きっと奴等の狙いは俺だ。と云うことは、一刻も早く人気の無い場所に抜けなければ、此処の住人を巻き込んでしまう。
 暫く行くと、狙い通り、三人分の忙しない足音が背後から追って来た。よし、と俺は闇雲に人気の無い方へと走りながら、外套から端末を取り出す。メモも一緒に取り出して、部下の番号を打ち込んで行く。通話釦を押して、三コール。
『如何されました』
「街中で襲われた。俺が囮になって奴等を街から引き離すから、後始末を頼む」
『え、ええー!』部下の悲鳴のような声が端末の向こうから聞こえ、俺は反射的に耳を塞いだ。その声は、最初に真面目ぶって、如何されました、などと訊いて来た人物と同一のものとはとても思えない。『だから真っ直ぐ帰って来て下さいねって云ったのにー!』此奴、こんな奴だったか?
「煩え! 敵がこんな街中で仕掛けて来るような莫迦とは流石の俺も思い至らなかったんだよ、悪かったな!」
『かなり莫迦ですよ彼奴等! 莫迦だから何して来るか判んないんですってばあ! えーじゃあ街の方には我々が至急向かいます、あ、五体満足の約束ちゃんと守って下さいよ!』
「判ってるよ!」
『……信頼、してますからね!』
 ぷつん、と其処で通話は途切れた。当初想定していたよりかなりフランクな喋り口で、俺は口の端が綻ぶのを感じた。悪くねえじゃねえか。こう云うノリは、嫌いじゃあない。
 それと同時に、微かな罪悪感が胸を掠めた。これから自分の部下になる彼等は、一度自分の上司を喪っている。敬愛する上司を守れずに、みすみすと死なせてしまっている。きっと俺がその二の舞になるのではないかと、気が気ではなかっただろう。自分の職務を全う出来なかったときの惨めたらしさは、自分も重々承知している積りだった。悪いことをしたな、と思う。今度、酒でも奢ってやろう。

 そんなことを考えながら疾走していた俺の目の端に、ちらりと見たことの在る影が映り込んだ。俺は通り過ぎた後、はっと息を飲んで急ブレーキを踏んだ。足首が悲鳴を上げる。
 道端の大きな木に、男が首を括って死んでいた。
 いや、死んでいるかは定かではない。筋肉の弛緩による舌の突出は無い。首吊りの際に時折見られる、失禁や射精の跡も無い。今縄を切れば、助けられるのかも知れなかった。
 然しもたもたしていれば『奴等』に追い付かれ、戦闘に巻き込んでしまうだろう。街中で躊躇い無く爆破を決行するような連中だ、何をして来るか判ったものではない。
 俺は迷った。この状況は明らかに自死だ。自死をするような莫迦野郎に、付き合ってやる時間は無い。
 そう思いながらも、然し俺の足は動かなかった。これは後に思ったことだったが、若しかしたら俺は、その男に見惚れていたのかも知れなかった。
 その男は、つい先刻酒場に居た俺の目の前で、煙のように消えてしまった、あのループタイの男だったのだから。
「……ああ、糞!」
 逡巡の後、俺は草叢を掻き分けて、その樹の下へと駆け寄った。外套が枝に引っ掛かって裂けるが、そんなものに構っている余裕は無かった。縄をナイフで一閃、切り落とす。どさ、と重い音と共に、こほ、と咳き込む音がその口から漏れた。ああ、良かった、呼吸している。
「手前一体何やってんだ!」
 その安堵を激情が上回り、思わず低い声で怒鳴り付けてしまった。それを聞き付けたのか、遠くの方で、「此方だ、」などと云う声が聞こえて来る。俺は舌打ち一つ、その場を立ち去ろうと外套を翻した。この場で待ち伏せて相手を返り討ちにし、さっさと殺してしまっても善かったが、此処でそれをすれば確実にこの男を巻き込んでしまうだろう。折角助けた命を無駄に散らすことを、勿体無いと感じる精神くらいは残っていた。俺は踵を返す。
 と、袖をぎゅっと引かれる感覚が在った。思わず足を止める。見れば、濡れた黒真珠のような目が、此方をじっと見上げている。
「……ってめ、」
「追われてるの?」
 静かな声が、俺の耳を打った。離せ、と口から出掛かった言葉が喉に引っ掛かり、俺はひゅっと息を飲む。男の口から漏れ出たその声が、俺がこの男の外見から想像していたとおりの、柔らかく、甘い蜜を含んだ声だったからだ。その旋律が、薄い唇から零れ落ちてそっと空気を震わせるその様に、ぞくりと下肢が震える。
 そんな俺の内心など露ほども知らず、男は小首を傾げ、もう一度同じ問いを口にした。
「追われてるの?」
「あ、ああ……」
 男から漂う煙草の匂いに、何だかくらりと眩暈がする。なんとか絞り出した言葉は、果たして明瞭な音になっていたか如何か。然し男はこくんと頷いて、俺の手を引いた。
「こっち」
 男は立ち上がって、俺の手をすいと引いた。まるで体温を感じさせない冷えた手だった。実体が伴っているかも怪しい。それがぐいぐいと、俺を茂みの奥へ奥へと誘う。俺は黙って、男の後に付いて行く。
 軈て通りからは完全に死角になる場所に引き込まれ、ぐっと背後から抱き竦められた。
「……ッ!」
「静かに」
 口を手で塞がれ、俺はただなされるがままに体重を後ろへと預けた。心臓の音がどくどくと、背中の辺りで波打っている。それが果たして自分のものなのか男のものなのか、俺にはもう判らなかった。肌の触れた部分から、二人分の感覚が混ざり合う。
 耳の上の辺りに、男の黒髪が中る。俺の呼気だけが荒く響く。背後に居る筈の男の息の音は聞こえない。そのあまりの気配の無さに、ともすれば存在も忘れてしまいそうだった。
 暫くの静寂の後、生け垣を隔てた直ぐ横の道を、ばたばたと三人分の足音が過ぎて行った。

 太陽が、最後の光を残して山の向こうにぷつん、と消える瞬間を目にする。そうして男が俺を開放したのは、空が夜の色に塗り替わって少ししてからだった。
「……行ったみたいだね」
 静かに耳朶を打った男の声に、俺ははっと我に返った。何時の間にか、息を止めていたようだった。周囲を確認する為に、俺は男から手早く離れる。
 確かに、俺を追って来ていた奴等はもう周囲には居ないようだった。去って行った方角は街とは反対方向であったから、これ以上無駄な被害が出ることも無いだろう。本来であれば鼠三匹、此処で始末しておきたかった処だが仕方が無い。
 そう、本来であれば敵は始末すべきだったのだ。見知らぬ男に体を委ね、逃げ回っている場合ではなかった。それに幾ら男から敵意が感じられなかったからと云って、無防備に背中を預けるなんて、我ながら如何かしていた。如何にも、この男に触れると思考が鈍くなるような、胸がぎゅうと苦しくなって冷静な判断が出来なくなるような、そんな錯覚に陥る。
 然しそれでも助けて貰ったことに変わりは無い。礼を云わなければ。そう思い、深呼吸を一回。振り返る。
「おい――」

 然し、振り返ったときには既に、男の姿は跡形も無く消え去っていた。
 息を飲んだ俺を残して、潮風だけが、辺り一面の草をそっと薙いでいった。
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