彼のカメリア

(2016/05/28)


 息を飲んだ。
 部屋に踏み入れた足の爪の先が痺れるように冷えて、おれはひどく後悔をした。静謐な空気が、不純物を含まない分いっそ氷の冷たさをもっておれの肌にぴたりと貼り付く。うっかり息をすれば、その冷たさに気管を焼かれてしまいそう。そう云う類の静けさに、その室内は満ちていた。
 その中心に居る、二人の人影。
 一人は太宰さんだ。太宰治。
 二十歳にも満たないながら組織運営の中核を担う、歴代最年少幹部。何時も怪我をしてぼろぼろなのは、度々自殺を繰り返すからだと聞いている。
 いや、正直太宰さんのことは、見掛けはするが善くは知らないのだ。おれはただ、昨日すれ違いざまに「あっ君この資料明日までに私の部屋に持ってきて呉れる?」といきなりメモを押し付けられただけ。詳細の判らないまま、泣きそうになりながらその書類を必死になって掻き集めてきたのだ。
 けれどかの人は今はソファにその身を投げ出し、普段の痛ましさを感じさせずに静かに横たわっていた。規則正しく胸が上下している処を見ると、どうやら寝ているようだった。
 いや、本当に寝ているのだろうか? おれは首を傾げる。幹部と呼ばれる人種が人前で無防備に寝るものなのか、生憎とおれは知らない。
 然しその顔を覗き見ようにも、おれから太宰さんの顔は見えない。
 部屋の中心に居るもう一人――中原さんが、寝ている太宰さんの顔の両脇に腕を突いて、その顔を覗き込んでいたからだ。
 中原さん。中原中也。幹部でこそないものの、最近はその戦闘力を高く買われて善く任務の取り纏めに奔走している。けれど中原さんの魅力は何も戦闘力だけでないことを、おれ達下っ端は善く知っていた。職位に関わらず努力した者には別け隔てなく善くして下さるから、おれ達はみんな中原さんのことが大好きだ。上の方では色々権力闘争ややっかみなんかも有るようだけれど、激務だろうが出来ればあの人の下に随いて尽くしたいと、四月の人事異動の前には密やかに囁かれるのが通例だ。
 だって、仕方無いじゃないか。
 あの闊達な笑みで、「悪いな」、なんて云われてしまえばこの身を捧げる他仕方無い。
 けれど今、その笑みは鳴りを潜めていた。
 其処に居たのはおれの見知らぬ中原さんだ。ソファの肘掛けの部分に腰掛け、しなだれかかるように座面に両手を突き、太宰さんの顔を覗き込んでいる。気分が悪いのかと思えばそう云う訳でもないようで、ただソファの前に投げ出された足には思いの外しっかりと力が入ってるのがズボンの薄い生地越しにも判った。今日は帽子はしてないんだな。室内だからか。半ば意識が現実から切り離されたみたいにぼんやりと眺めていると、ふと中原さんがこぼれた髪を耳に掛けて、手元を見下ろすその横顔が顕になる。
 多分、誰にも見せることの無い、凪いだ冬の海のような横顔。
 無意識にごくりと唾を飲んでいた。おれは今、見てはいけないものを見ているのではないだろうか――即刻立ち去るべきなのではないだろうか。そんな自責の念に駆られる。例えばどんなに親しい女の子に寝室に上がらせてもらったって、その収納棚を許可無く覗き見たりはしない。どんなに親しい男友達と寝泊まりしたって、お互い自慰をしている処を覗き見たりはしない。誰だって、他人が無遠慮に触れてはいけない部分が有る。
 まして、親しくもない、ただ此方が一方的に憧れを抱いた上司であれば尚更だ。
 見るべきじゃない。
 上司のそんな、無防備な顔を。
 ひゅっと更に息を吸い込む。もう肺はいっぱいいっぱいだ。部屋を間違えたんじゃあないだろうか。おれは太宰さんを訪ねてこの執務室へ来たのに、何故中原さんが此処に居るのだろうか。お二人が相棒と呼ばれているのは知っていたが、同時に犬猿の仲であることも知っている。
 それが、こんな。
 甘やかささえ感じさせながら、吐息を交わらせている。
 寝顔を見守っている、なんて微笑ましいものであれば善かった。唇の触れんばかりの距離に、鼓動が早まると同時に脂汗が滲む。これ以上見るべきじゃない。本能が警鐘を鳴らしているのに、目が釘付けになる。
 中原さんは、太宰さんに触れてすらいない。
 それなのに、口づけどころか――それ以上の行為を感じさせる距離。
 少しでも音を立てれば薄い硝子のように壊れてしまいそうな空気の中で、おれは指一本動かせずに居た。正直、今直ぐにでも部屋を出たい。然し確実にがっちゃんばったんと大きな音を立ててしまうだろう。慌て過ぎて躓いて転んでしまうかも知れない。そうなれば、お二人の間の空気に罅を入れてしまうことは明白だった。
 然しこのまま何時間も居る訳にもいかない。そろそろ足ががくがくと震え始め、書類に手汗が滲み始めているから、何方にせよ長くは保たない。
 それに、これ以上に何かあれば、居た堪れなさに耐えられそうになかった。
 そう、例えば今中原さんがしようとしているみたいに。
 ゆっくりと頬に掛かった蓬髪を払って、太宰さんの唇に、顔を寄せて――。
「あ――あのっ」
 その声が予想より大きく響いて、おれは飛び上がらんばかりに驚いた。莫迦、そんな大声を出してしまったら、お二人が驚いてしまわれるじゃあないか。
 然し期待も有った。おれの声に驚いて、中原さんが弾かれたように顔を上げて呉れれば善い。悪い、気付かなかった、今お前が見たものは気の所為だし何かの間違いだよと、そう云って下されば、おれも、ああ、なんだ、おれの勘違いだったのだ、おれが感じ取った雰囲気は何かの間違いだったのだ……とこの光景を記憶から綺麗さっぱり消してしまえた。
 けれど中原さんはそうはしなかった。
 ただ、太宰さんの顔の両脇に手を突いたまま、ちら、と此方に視線を向けるに留めた。その仕草に合わせて、さらりと絹糸のような髪が肩口から溢れる。
「如何した」
 問い掛けは静かだ。
 自分達が見られていることを判っていて、然しそのことを歯牙にも掛けていない様子。
 そうして何時もの調子で、如何した、何かあったか、と声を掛けて下さる。
 けれどその目だけは、薄いアイスブルーに明確な拒絶を湛えて此方をじっと見詰めていた。
 邪魔してくれるな、と。
 一瞬、死を覚悟する。
「あの――これ、急ぎの資料だと、太宰さんが」
「……そう。そこに置いといてやって」
 静謐な声に、おれは半ば安堵して「はいっ」とその辺の机に慌てて資料を投げ出す。持って来いと云われなくて善かった。これ以上足を踏み入れれば、本当に氷漬けになってしまう。
 振り返ると、もう中原さんの視線は此方には向いていなかった。ただその視線は、一心に手元の男の顔へと注がれていた。おれも、太宰さん以外の何もかも、既に彼の意識の外だ。それが判って、退散するなら今しかないと扉を後ろ手に開き体を外へと滑らせる。
「失礼しま――」
 す、と扉を完全に締めようとして――おれは見てしまった。
 扉の閉まる直前。
 ――他所見、しないでよ。
 太宰さんの唇が微かに動いて。す、っと二本の腕が伸ばされて――中原さんの頬を包んだのを。
 中原さんも、それを受け入れて微かに笑っていたのを。

     ◇ ◇ ◇

「太宰手前!!! 任務には遅れんなってあれほど云っただろうが!!!」
「いや~だって昨晩は川がいい具合だったのだもの、仕方無くない?」
 次の日出勤すると、職場が見るも無残に荒れ果てていた。中原さんが鬼のような形相で太宰さんを追い掛け、デスクやら書類棚やらが倒れてめちゃくちゃになっている。
 その様子をぼんやりと眺め、夢だったのかも知れない、とおれは一人結論付けた。ともすれば、太宰さんから資料を持ってきてと指示を貰ったときから、長い夢まぼろしを見ていたのかも知れない。うん、きっとそうだ。自分で自分を納得させて自席につくと、「あ」と太宰さんと目が合った。
「あっ君、昨晩資料見たよ。ありがと、助かった」
 ぽん、と肩を叩かれて、おれはぎくりと、ああ、はいと曖昧な返事で濁す。そうしてするりと逃げゆく太宰さんを、中原さんが此方を見向きもせずに追っていく。何時もの光景だ。何も不思議なことは無い。双黒と呼ばれるあの二人は犬猿の仲で、お互いをひどく嫌い合っているのは有名な話だ。

 結局、昨日おれが見た光景が何だったのか、おれには未だに判らないのだ。
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