逃げて追って

(2016/04/29)


「ちゅーうやァ、お誕生日おめでとう! ねえ誕生日プレゼント何が欲しい? 何が欲しい!?」
 ばん、と開かれた執務室の扉に反射で撃鉄を起こして発砲する。然し弾が飛んでくることは予測済みだったのか、侵入者は「おっと」と云う声と共にそれをひょいと避けてしまった。全く顔も行動も何もかもが腹立たしい。
 太宰治と云う男は、相も変わらずそう云う男だ。
「俺は手前の死体若しくは手前の居ねえ平穏な日常が欲しいよ」
「またァ私が会いにきて嬉しいでしょ? まあ私は君のそのスカした面見て馬糞でも投げ付けてやりたい気分になったけど」
「何しに来やがった帰れよ手前此処何処か判ってんのか」
 そう、此処はポートマフィア本部の執務スペースだ。背後では部下が忙しく歩き回り、それぞれの仕事に勤しんでいる。中也だって書類確認の最中だった。裏切り者がほいほい来て善い処じゃあない。現に、若手は誰だろう中原さんの知り合いかな等と首を傾げるのみだが、太宰の顔を知っている古株は血相を変えて臨戦態勢に入っている。
 それを片手で制する。
「然し……中原さん!」
「善い。此方で処理する。何時も手間掛けて悪ぃな」
 自分の業務に戻れ、と手を振ると、部下は渋々ながら踵を返した。それを見て太宰がゲッと口元を盛大に歪める。
「相変わらず躾の行き届いた犬だことォ」
「手前みてえな野良犬とは違えんだよ」
 何しにきた、と再度問うと、太宰は目障りな砂色の外套を翻して「何って、だから誕生日プレゼントあげようと思って。だから来たの」と一転、にこりと笑った。その腹の底は読めない。けれど碌でもないことを考えていることだけは嫌と云うほど善く判る。此奴が殊勝にも他人の誕生日を祝おうなどと云う人間ではないことは、出会ったときから百も承知だ。
「だから何が欲しいか教えて」
「……仮に俺が欲しいもんが有ったとして、だ。それを手前に教える義理が何処に在んだよ。云ったら呉れんのか?」
「うんあげるよォ」意外にも太宰はウンと頷く。「ワインならそうだねえ全部先に飲み干してボトルに二糎くらい残ったものをあげるし、ケェキなら喜び給えパイ投げしてあげる! 気になる女性が居るなら抜群の出会いをセッティングしてあげよう但し私がその女性と一晩を共にした後でね! だから教えて」
「嫌に決まってんだろクソ野郎最低じゃねえか」
 一刀両断に切り捨てる。
 けれど中也は同時に首を傾げた。この男の嫌がらせと云うものは、大抵此方が回避不能なまでに手が込んでいるものが大半だ。例えば車の爆破、例えば力を出し尽くして倒れた体の放置。その無慈悲な行為は問答無用で行われる。中也が欲しいものを訊き、それを損なってプレゼントをするなんて、それに比べればお粗末極まりない。答えなければ善いんだから。
 果たして太宰は、ふっふっふ……と意味ありげな笑い声を発しだした。もう善いからさっさと帰って呉んねえかな。
「善いのかなァそんなこと云って。これを見給え!」
 人の気も知らず、太宰はそう云って気取った調子で衣囊から端末を取り出した。
「あ? 何だ……あああああ!?」
 ちら、と見てハイハイといなそうとして――中也は絶叫した。太宰の手元に在る端末、其処に映し出された画像は善く見覚えの有る――中也がとても大事に自宅のワインセラーに温存していたボトルだったからだ。
 しかもその背景は中也の自宅の定位置ではない。太宰の寮の部屋だ。敷かれた畳が合ってない。
「手前それ! 俺のラ・ターシュじゃねェか!!!」
「君が教えないとこの子を割る」太宰が悪魔のような笑みを浮かべる。「勿論、私が今此処で命を落としたり、心肺停止状態に陥ったりしても、それを検知して自動で割れるようにしてある」
「殺す」
 すっと血の気が引いた。一瞬世界が無音になる。
 ただ聞こえたのは、目の前の男への殺意で全身が総毛立つ音だけだ。
「手前それしたら本当に殺すぞ。判ってんだろうな」
 ひゅう、と掠れる口笛さえ耳障り。「でも私が死んでも割れたワインは戻ってこない。そして君が教えなくても同様に」と云う太宰の言葉も。
 怒りのあまりに目が眩む。
「さァ中也! 誕生日に何が欲しいかきりきり吐き給え! でないと我が家の畳が君の代わりにあの上等なワインを飲むことになるよォあっ因みに嘘吐いても無駄だからね判ってるとは思うけど。君の嘘、判り易いったらないんだからさァ」
 中也は煮え繰り返る胃を抱えながら考える。教えないと云う選択肢は無い。嘘を吐くのも駄目だ。見破られない自信は無い。あのワインは本当に、ずっと楽しみに、そう、次の休みにでも開けようと思っていたのだ――それをこんな形で失うことは出来ない。癪だが、太宰に告げるしか無い。
 正直に。今、自分の欲しいものを。
 幾つかのものを脳裏に思い浮かべる。序に深く息を吸って、吐いて。
「……因みに嘘は無駄なんだな」
「うん!」
 満面の笑みで頷く太宰を真っ直ぐに見て。
「じゃあ手前のことが欲しいと云ったら?」
「……うん?」
 云った。
 太宰が固まる。それから聞き間違いかな、と視線をすいと横に逸し、聞き間違いだな、と断じたようだった。にこ、と落とした笑顔を拾って、今何て? と首を傾げる。
「手前のことが欲しいと云ったら?」
「は?」
 ああ、聞こえなかったか? 耳の調子がおかしくなったかな、とトントンと自分の側頭部を叩く太宰に、中也は尚も繰り返す。
「……手前のことが欲し」
「あっ……あーっ! 私急に用事を、そう、国木田くんに探偵社で使う醤油を購って来いってお遣いを頼まれていたのだよねうっかり忘れていたなァこんな処で油売ってないで急いで社に戻らないと……」
「おい逃げんな」
 そそくさと立ち去ろうとするその手首をガシリと捕まえる。
「手前が始めたことだろうがオラ答えろ」
「そう云うときの君面倒臭いし相手にすると碌なことにならないから絶ッッッ対やだ帰る!」
「面倒臭いとか手前にだけは云われたかねえんだよ!」
 一番面倒臭い男がぎゃあぎゃあ喚くのを手首を締め付けて力尽くで黙らせると、その端正な顔が瞬時に痛みに歪む。それを見て自然、笑いに喉が鳴る。
「祝って呉れるんだろ?」
 その言葉を切欠として、キリ、とまるで糸を引き絞ったように太宰の周囲の空気が変わった。あ。中也も全身で警戒をする。太宰は相変わらずへらりへらりと笑っているが、その合間にきゅっと眦が鋭くなる。追い詰められたときの顔だ。こう云うときの此奴は、手段を選ばず何を仕掛けてきてもおかしくない。
 次の瞬間、ちゃき、と軽い音がした。太宰が至近距離で銃を此方に向かって構える。
「あっ手前それ俺の銃――」
 中也が視認すると同時に――太宰はそれを躊躇い無く発砲した。
 然し拍子抜けだった。それくらいなら避けられるし異能で叩き落としたって善い。生憎今回は人間失格を掴んでいたから重力で弾かずに目視で避ける。距離が在ったから回避は余裕だ。俺に中てたきゃもっとゼロ距離で撃てば善いものを、なんでそんな――其処まで考えて気付く。
 此処は執務スペース。
 中也の後ろに居るのは部下だ。
「――異能力!」
 汚れつちまつた悲しみに。
 咄嗟に掴んでいた太宰の手を放し、バンッ、と手の平を床に叩き付けた。衝撃波で事務机を幾つか吹き飛ばす。弾道を塞ぐ。
 ガッシャンガッシャンと響く派手な音、重なる部下達の悲鳴。
「おい手前等無事か!」
「なっ……中原さん!? ぜ、全員無事ですが……一体……」
 折り重なった机の山の向こうから響くその声を聞いて、中也はほっと安堵の息を吐く。それから後ろを振り返る。
 其処には誰も居なかった。ただ侵入者の逃走を報せるように、半開きの扉がキィと揺れている。
「……チッ」
 あの野郎、逃げやがった。

     ◇ ◇ ◇

「広津さん匿って!」
 広津はおや、と首を傾げた。扉をバンと乱暴に開けて広津の自室に飛び込み、目の端を掠めていったのが、マフィアに在るまじき砂色の外套だったからだ。老いから視力が衰えた覚えは全く無いが、これは一度、眼科にいかなければならないかも知れん、と広津は一人憂鬱になる。
 然し次の来訪者で広津は自分の見たものが現実だったことを知る。
「広津。太宰が此処に来たな?」
 其処に立っていたのは鋭い眼光の現幹部だった。相当に苛立った様子で、「中を検めさせろ」と殺気の滲んだ声で云う。
 逆らったら殺す、と云う勢いは何方も同じか。広津はその問いには暫く答えず、ゆっくりとシガレットケースから煙草を抜き出し、咥え、火を点け、煙を吐き出した。
 元最年少幹部が何故かこの小柄な現幹部に追い掛けられている。大方、また彼の地雷を踏み抜いたのだろう。善くやるものだ、と広津は少し呆れる。勿論目の前の青年にはバレないように、だ。
 生憎、広津はあの青年には自分の上司――森鷗外に知らされたくない情報を色々と握られてしまっている。元最年少幹部であった彼が、マフィアを辞める前も、辞めた後にも、だ。こんな子供の諍いのような状況でも、下手に売り渡してしまうことは出来ない。
 さりとて目の前の殺意を纏った獣のような幹部を前に、白を切り通すことも出来ない。
 却説、如何したものか。
 黙考していると、現幹部が苛立ったように声を上げる。
「広津」
 早くしろ、と言外に斬り付けられ、広津は渋々口を開いた。
「……誠に申し訳無いが、私は彼に弱みを握られている身でね。仮令知っていたとしても、彼が居るか、彼を見たか如何かも含め、彼の情報を吐くことは出来ない」ふーっと、紫煙を横に流して吐き出す。そう、出来ない。広津の方からは。「……が然し、君が私の部屋に立ち入り、中を検めることは自由だろう。何せ君は幹部だからな。その権限は私には止められないし――彼がそのことについて、私を責める謂れも無い」
 広津さんの裏切り者ぉ、と何処かで声が聞こえた気がしたが何も裏切ってなどいないのだから云い掛かりは止め給え、と済ました顔で煙草を吹かす。その脇を小柄な幹部が通り過ぎ、ガッタンバッタンと家具を片端から開けていく音がする。
「おらァ太宰! 出て来い!」
 がん、と椅子の蹴倒される音。元より家具の少ない部屋で善かった、と広津は思う。これがエリス嬢のテレビやら玩具やら少女趣味な家具やらが乱雑に置かれている部屋や、梶井の檸檬に溢れた部屋であったらきっと大惨事であったことだろう。
 まあエリス嬢の部屋に逃げ込むことは無いのだろうが。
「……あ?」
 乱暴な家宅捜索を強行していた彼の手が、ウォークインクローゼットの前で止まる気配がした。おや、如何したのだろうか、と広津もその手元を覗き込む。
 其処に在ったのは、ぽっかりと開いた部屋の裏への扉だった。
 脱出用の、隠し通路。
「……。知ってたか? 広津」
 鋭い問いが飛ぶ。こう云う通路が在ることを、知っていて時間稼ぎをしたのかと。その眼光は獲物を狩る肉食獣の目だ。此方の喉笛まで食い破って殺さんばかりの勢いを、「却説ね」と肩を竦めて躱す。向ける相手が違うだろうと。
 先程まで気配は在った訳だから、未だ然程遠くに云った訳ではないのだろう。恐らくは、隠し通路の通じる本部の建物の中。その上、恐らく彼は首領に知られることを極端に嫌っているから、監視カメラに映らぬ通路を選ぶ筈だ。
 となれば、行き先は限られる。年下の幹部は、そのまま追わずに行き先に見当を付けて先回りすることを選んだようだった。
「あの野郎、相変わらず逃げ足の早え」
 それだけ云い残し、小柄な幹部が荒い足取りで去っていく。
 その背中を見届けながら、広津は口元だけで苦笑した。
 全く、何時まで経っても変わらんな、と。

     ◇ ◇ ◇

「失礼。私今から隠れるけど邪魔したら殺すからね」
 そう云って実験室に飛び込んできたのは、何だかマフィアでは見かけない砂色の外套だった。梶井はは~い、と返事をし掛けて――思わずその姿を二度見する。
「エッ何ですか急に誰かと思えば裏切り者の太宰さんじゃないですか!? と云うかですねえ普通そう云うときは『お邪魔します』なんですよ貴方の方が邪魔をするんですよ! 全くあの人と云い貴方方は横暴極まりない――」
「梶井ィ! 部屋見せろォ!」
 その怒鳴り声と共に破滅の跫音が聞こえてきて、梶井は思わず頭を抱えた。
「あああもう! 中原さん僕には訊きもしない! あああ駄目です今調合中なんですってば……」
 横暴な現幹部の方は、人の話を聞きもせずに檸檬の詰まった箱をガッタンガッタンと蹴倒していく。宛ら巨大怪獣が街を踏み潰していくかのようなその様子を見て梶井は腹を押さえて呻いた。そりゃあ此処は普通の部屋より格段に箱が多くて、しかも複雑に積み上がっているものだから、隠れるのには絶好の場所だと思うけれど、ああけれど、そんな物騒な鬼事を選りにも選って此処でやることは無いじゃあないですか!?
「あああ糞、檸檬が邪魔だ! 爆破すンぞ! 如何せあの野郎さっさとしねえと逃げちまうんだ!」
「あっ、あっ、あああ……やめ……」
 梶井の制止も虚しく、横暴な幹部がジッポに火を付け檸檬の山の上に落とす。それからああ、と気付いたように、梶井の腕をがしりと掴む。
 異能力、檸檬爆弾。梶井の異能は檸檬型の爆弾の、毀損を受けないようになっている。
 そう、仮令数千個の檸檬爆弾から引き起こされる、連鎖的な大爆発でも。
「あ――――!!!」
 その日、マフィア本部の一角で、派手な爆発音が響き渡った。

「……ち。やっぱ逃げたか」
 粉微塵に吹き飛んで最早骨組みしか残さない実験室の真ん中で、小柄な幹部がチッと荒々しく舌を打ち、梶井はその場で為す術も無く泣き崩れた。

     ◇ ◇ ◇

「明日一日、私の玩具になって呉れるなら、考えないでもないわ。ダザイ」
 目の前の少女はそう云って悪魔のような笑みを深めた。太宰はにこりと女性用の笑みを浮かべながら、内心汗を滲ませる。間一髪、爆発する実験室から逃げ出して、飛び込んだのが此処だった。ポップな壁紙、玩具に溢れた床。部屋の主は今対峙している少女だ。そう、大人と違って、子供は何を云い出すか判らないから御し難い。如何に中也から逃げる為とは云え、矢張りこの部屋に逃げ込んだのは間違いだったかも知れない。
「……駅前のスイーツで手を打ちませんか、エリス嬢」確か期間限定の苺のケェキが、明日までの販売だった筈。
 なのにエリスは笑って云う。
「私、映画を見ていたのよ。素敵なおじ様が――そう、リンタロウとは比べ物にならないくらい、身なりの整った紳士的でおヒゲの素敵なおじ様よ――それが其処の窓みたいな処から」うっとりと、語る少女が優雅な仕草で大窓を指し示す。「お姫様を攫いに来るの。今宵は貴女を奪いに参りました、ってね……本当にいい処だったのよ……それをダザイ、貴方が邪魔したこと、判っているわね?」
 ぐっと太宰は押し黙った。その通りだった。機嫌良くテレビの前に座っていた少女の部屋に割り込んだのは太宰だ。必死が過ぎて、匿って頂ければ私が探偵社員としての出来る限りのことを何でもします、と軽率な口約束をしたのも。
 却説、如何目の前の少女を懐柔しようか――そう思案していると、不意に甲高く端末の電子音が鳴った。出ても善いわよと部屋の主に促される前に、びくりと肩を震わせて反射で取る。
 表示名はなめくじ。
 中也だ。
『手前今何処だ』
 その声に息を詰める。
 獲物を仕留めるときの声だ。心臓を縫い止められて動けなくなる。
「……君の、絶対に来れない処」大窓に背を向け、部屋の仕切りカーテンの陰に隠れながら、なんとかその言葉だけを絞り出す。組織での規律を重んじる中也のことだ、仮令太宰が此処に逃げ込んだと判ったとしても、そうおいそれと踏み込んでは来ないだろう。エリス自身は笑って許すだろうが、彼の上司はそうもいかない。「て云うか、これ以上君が追って来たら、私、あのワイン割っちゃうかも知れない」
『は? なんでだよ。俺はただ手前に問うただけじゃねえか。幾つか有る欲しいものの内、じゃあこれは如何だよって』ぺらぺらと、中也は今日はやけに饒舌なようだった。『訊いただけだよなァ? 手前を殺してもいなければ、手前に嘘吐いた訳でもねえぜ。手前は俺の答えに一体全体如何云う理屈で人質を始末する必要を感じたんだ? なあ云ってみろよ』
 電話口の向こうの表情は読めない。激高するでもなく、ただ淡々と、此方を追い詰める声音をしている。
 こう云うときの彼は本当に厄介。
 落ち着け。
「……教えない。だって如何せ君は追ってこられない。だから今日の追いかけっこはこれで終わりだ」
『如何かな』
 バァン、と硝子の割れる音がしたのはそのときだった。電話口と外、二重に重なって派手な破壊音が響く。ざわざわと、嫌な予感が太宰を掻き立てた。太宰にはその音の心当たりが有ったのだ。
 割るのに丁度善さそうな、大窓の心当たりが。
 通話を切り、こっそりとカーテンの影から室内を覗き見る。
 其処では侵入者――中原中也が窓枠に立ち、「ちょっと、何してるの!」と仁王立ちになったエリスを前に、月を背負ってにこりと笑っていた。その周囲には、きらきらと散った硝子の破片が舞っている。それからふと、気配を消している太宰の方に、ちら、と視線を流してくる。その射抜くような視線に、思わず全身が総毛立つ。
 本当に来たのか、あの男。
「……これはエリス嬢」エリスの方に向き直り、帽子を取って気取った動作で中也は笑う。「失礼。少々派手に壊し過ぎました」
「全くだわ。こんな夜更けにレディの部屋の窓を割るなんて無礼千万。晒し首にでもされたいの」
「申し訳有りません。然し今宵は貴女の隠し持った宝物を奪う積りで来たので。正々堂々と扉を叩敲する訳にもいかねえでしょう」
「……ふぅん?」
 その言葉に、エリスが少し思案する様子を見せる。太宰の位置からは背ばかりが見えて、その表情は窺い知ることが出来ない。
「……けれど今は私のものよ。嫌だと云ったら?」
「力尽くでも奪っていきます」
 途端、部屋の空気が糸のぴんと張ったように緊張する。中也とエリスとは中々珍しい対戦カード。太宰は却説、と逃げる準備をする。掛かっているのが自分の身でなければ、喜んで野次馬に行った処だけれど、そうも云ってはいられない。
 けれどエリスが自分のことを自分の玩具と認識しているならば、そう簡単に中也には引き渡さないだろう。逃げずとも善いかな、と少し迷う。中也にとって、彼女の気を惹くのは相当難しい筈だ。何せ太宰だって手を焼いているのだから、彼が口八丁で彼女を丸め込める筈も無い。
 この部屋に逃げ込んだのは、そう云う打算も有った。
 それなのに。
「善いわ……セリフも角度も完璧だわ……後は少しだけおヒゲが有っても善かったけれど……。善いわ。ダザイは其処に居るから持っていきなさい」
「エリス嬢!?」
 思わずカーテンの影からまろび出る。それからはっと我に返り、逃げようとして――「待てよ」とガシリと首根っこを掴まれた。ぐいと頸の絞まる感覚に思わず意識を飛ばし掛ける。この莫迦力、加減し給えよ!
「痛い痛い! 逃げないから放して!」
「信用出来ると思うか?」
 振り返るとにやりと笑っていた中也に、太宰はぞわぞわと寒気を覚えた。嫌な予感がするなんてものじゃない。
 食われる。
 太宰が必死に藻掻いていると、エリスがにこりと笑う。
「その代わり、一晩で返してね、チュウヤ。明日は私の番なんだから」
 その言葉にぴたりと動きを止めたのは、意外にも中也の方だった。あれ、と太宰は後ろを見遣る。
「……保証致しかねます」じわりと滲み出た殺気が太宰の首筋を這った。見上げずとも判る、視線の鋭さ。「一度奪えばこれは俺のものだ」
 ばち、と火花の散る気配が在った。太宰は中也に抱えられたまま機を伺う。
 これはあれか。云うべきか。
 私の為に争わないで、と。
 けれどその機会は訪れなかった。エリスの方がふっと殺気を収めたからだ。張り詰めていた空気が緩み、部屋が温度を取り戻す。
「……それも悪役ぽくて益々善い。判ったわ。好きにして」
「有り難く」
 こうして私の身柄は無事、中也に引き渡されることとなった。と太宰は安堵の息を吐いて、それからあれえと首を傾げた。おかしくはないだろうか。私の身柄に付いてエリス嬢が許可を出すこともおかしければ、中也にこの身が引き渡されて安堵している自分もおかしい。
 て云うか逃げたい。
「ちょっ……あッ中也痛いそれ止めて……」
 なのに太宰の首根っこを確りを掴んだ中也は、放す気配を毛程も見せずにずるずると今度は入り口から出て行く。自然、後ろを向いた太宰は少女の満面の笑みに見送られることになる。
「ダザイ、今夜のことは駅前のスイーツで手を打ってあげる! ええ、私は寛容だから、明日でなくても構わないわ。期間限定のやつが善いわね」
 その優しい言葉に思わず涙が出そうになった。わあ流石エリス嬢はお優しい。太宰は満面の笑みで。
 喚いた。
「それ明日までのやつじゃないですかーーー!!!」

     ◇ ◇ ◇

 全く今日は散々だった。そうだァ中也に嫌がらせしに行こう、何せ元相棒の誕生日だからね、祝ってあげるのは当然だろう、と思い付いて意気揚々とマフィア本部に侵入したまでは善かったけれど、なんか中也が意味の判らないことを云い出すし。本当、正気じゃないんだ。そう云うのは家の中だけで勘弁して欲しい。
 ずるずると廊下を引き摺られながら、太宰はぼんやりと天井を見る。廊下の電灯は夜中だからか煌々と光っていてきらびやか。探偵社の社屋とは大違いだ。時折眩しさに目を細めながら引き摺られるに身を任せていると、軈て或る執務室にそのままぽいと放り込まれた。少し照明の明るさが落ち着いて目に優しい。中也も入ってきて扉を締める。漂う慣れた中也の匂いで、見回さずとも此処が彼の部屋なのだと判る。
「で?」
 もう何だか面倒になって仰向けのまま起き上がらずに居ると、視界の中に中也の顔が割り込んできた。色素の薄い髪を揺らすその顔は何処か楽しそうだ。獲物を捕らえることが出来たと云う、ただ単純な達成感を噛み締めてるんだろう。私のことが気に食わないの、忘れてるんじゃあないだろうか。本当、莫迦。単純男。
 それとも毒を皿ごと喰らおうとしてるんだからドMなのかも知れない。何方にせよ莫迦だ。ばーかばーか。
 内心舌を出すのと同時にばちんと額を叩かれる。
「痛っ! 何するの!」
「うるッせえ手前がぜってえムカつくこと考えてたからだばーかばーか!」
 絶対赤くなっているだろう額を涙目で押さえる。暴力反対。けれど優位は中也の方に有ったから、太宰はそれ以上の抵抗を諦める。
「で。俺がプレゼントに手前のことが欲しいと云ったら、手前は俺に呉れんのかよ?」
「ああ、そうだねえ……」
 此処までくると、もう諦めの境地だった。
 何だっけ。
 ワインなら飲み干してグラスにちょっと足りないくらいのやつを。
 ケェキなら特上のものを顔面に。
 女性なら私が寝取った後のを、だから。
「えーっと……じゃあ私、これからちょっと他の男に抱かれてくるから……」
 そう云った途端、ぶちり、と何かのキレた音がした。
 その音に、太宰がそろりと目線を上げると、にこりと笑う中也と目が合った。あれ、今のは何の音だったんだろう。判らないままにこ、と太宰も笑い返す。一瞬空気が和やかになる。
「太宰」
 呼ばれる。
「うん?」
「手前巫山戯てんのか?」
 友好的な雰囲気は一瞬だった。どんと腹に馬乗りになられ、乱暴に襯衣の襟口を掴まれる。
 ぶちぶち、と響く音の正体が今度は判る。
 釦が景気良く弾け飛ぶ音だ。
「ちょっ中也なに急に目ェ据わらせて……あッ、そんないきなりやだ、何脱がして、きゃーーーお止めになっ……あ、んッ……」
「態々そんな手間掛けなくて善いようにしてやるから感謝しろよオラァ!」
「あっ本気でそれやめ……あッあッ、も、やだ中也の莫迦ーーー!!!」

おわり
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