うずもれる白

(2016/02/29)


 カレンダーの端を摘んで持ち上げた。気持ちは淑女のドレスを持ち上げる従者のそれだ。覗き込んだ太宰を迎える暦は六月。雨の季節。自殺には格段にいい季節。その終わり頃の或る一日に、洋墨でがりがりと罰印を付けた。記憶が何時でも褪せないように、呪いのような願いを込めて。
 そう、それは六月の終わりのことだった。

「嗚呼……駄目かァ……」
 腕の中で、相棒が笑っていた。太宰も釣られて笑った。と思う。喉の奥からは引き攣れたような声しか出なかったし、頬は凍ったように動かなかった。ただ相棒の言葉を、近頃鸚鵡でもしないくらいの几帳面さで「駄目みたいだね」と繰り返したことを覚えている。
 六月も終わり、暦の上では初夏に差し掛かろうと云うのに、其処は奇妙に吹雪いていた。太陽が鉛の雲の向こうに失せ、薄暗い闇の中を叩き付けるような雪の粒が辺り一面を覆っている。それが外つ国だったからか、太宰は一向に思い出せない。或いは山中だったか。防寒用の装備は事前に揃えていたと云うのに寒くて寒くて堪らなくて、視界は白いベールで覆われたように爪先から向こうが見えなくて、詰まり凡そ人間の活動できる処ではなかった。悴んだ手で外套の襟を掴んで縮こまる。その隙間から冷気の針が突き刺さる。氷の中の方がいっそ心地いいんじゃあないか。そう錯覚するほど冷え冷えとした白い地獄の底。でも相棒が居たからお互い憎まれ口を叩きつつも熱を分け合うことが出来ていた。手を握り合って。或いは肌を重ねて。
 それも此処までだ。そう思って、口内が無性に渇いた。
「最期まで、目に入んのが手前の面ってのは、なんか癪だなァ……」
 途切れ途切れに、相棒の声が聞こえる。じわ、と白い世界の中で、其処だけが赤く滲んで、矢っ張り中也と居ると世界が鮮やかだ、と場違いなことを思う。相棒の血が伝って落ちて、生温かい生の消失を太宰の手へと伝えてくる。
「じゃあ、如何するの?」
 その言葉に込めたのは、ちょっとした期待だ。なら最期にしなければ善いんじゃない、とか。云えたらどんなにか善かっただろう。でもそれが荒唐無稽な御伽話に終わることは、太宰が一番善く判っていた。
 だから最適解ではないけれど、凍える唇で、そっと二番目の望みを伝える。
「私を殺して呉れるの」
 ちゅうや、と。
 名前を呼んで、だらりと力無く下げられた手を取った。氷のように冷えたその手を、ゆっくりと自分の首へと宛てがう。
 そう、相棒なら何時だって、太宰の首を圧し折ることが出来た。華奢に見えて、その実鍛え上げられた靭やかなその手の平をもってすれば、太宰の手を死へと引くことなど容易いのだ。今まで相棒がそれをしなかったのは、偏に嫌がらせの為だ。自殺嗜癖に、自殺をさせない嫌がらせ。けれど最期のお願いくらい、聞いて呉れても善いと思う。
「ねえ、中也……心中しようよ……」
 だから強請るように口付けた。唇を合わせて、舌を入れると応えるようにざらりと重ねられて安堵する。もっと深く。熱が欲しい。息が詰まって、死んでしまえるくらいに。
 そう思って必死に求めるのに、相棒はそれ以上を太宰に与えなかった。ぐい、と首を押されて一瞬息が詰まる。苦しさにぎゅうと目を瞑れば、相棒が喉を鳴らす音が太宰の耳を微かに打った。何時もと温度の変わらない、屈託の無い笑い声。目を開けると、ばちりと視線が噛み合う。
 相棒の目は、冷えた灰色の世界において未だ光を失っていなかった。痛みに呻きながら、然しその碧玉の双眸は爛々と太宰を見据えている。
 そうして、親指で太宰の首をそっとなぞり。
「嫌だね」
 笑った。
「……そう」
 吐く息は白く霧散した。矢っ張り相棒は、太宰のことを殺して呉れないのだった。最期まで意地が悪い。こんなにも求めているのに、相棒はその決定打を呉れない。
「俺は、手前を殺さねえ……誰が易々と、殺してやるかよ……」
 囁くように云われて、そのまま後頭部を抱き寄せるように口付けられて、どこまでひどいんだろうと思う。だって、君が居たから世界が鮮やかだったんだ。君だけがこの灰色の世界に色を与えて呉れていた。熱を与えて呉れていた。なのに、君はそれ無しで生きろと云う。
 その上、離れた唇がゆっくりとその言葉を口にする。
「俺は、手前を呪うよ、太宰……」
 ともすれば、雪で掻き消されてしまいそうなその言葉は、然しはっきりと太宰の耳に届いた。呪い、だなんて。随分と相棒らしくない言葉。
 けれど段々と声の調子が弱くなっているのも判って、腕の中の相棒の脈がどくどくと弱くなっていっているのが判って、太宰は思わずその体躯を抱き締めた。相棒の言葉を聞き漏らさないように。
 相棒が零れ落ちないように。
「手前が、次の六月も、その次の六月も、季節が何遍回ったって、ずっと俺のことを覚えていますように……」
 太宰の意図に反して、相棒がぽろぽろと命をこぼしながらその呪いを紡ぐのを、太宰はじっと聞いていた。随分とかわいらしい呪い。そんなのならお安い御用だ。「覚えてるよ」太宰は応える。「ずっと覚えてる」
「ああ、そうだ――覚えてろ、俺の死を」がり、と首に爪を立てられて、思わず痛みに顔を顰めた。けれど太宰は抵抗しない。相棒が齎す痛みを、与えられるがままに受け入れる。「俺の血の温度を、俺の死体を抱いた感触を、俺の最期に見せた死に顔を。ずっと――死ぬ間際まで抱き続けてから、死にやがれ」
 うん、と。肯定は口には出さなかった。でも相棒はそれで善いらしかった。首に掛かった手が、ゆっくりと離れていく。
「うふふ。……ひどい呪いだ」
「だろ?」
 相棒は満足気に笑った。太宰は笑わなかった。
「……君らしいね」
 相棒はもう答えなかった。真っ白だ。滲んでいた赤も、白で埋もれてしまった。太宰の視界から、色が失われる。
 そのまま暫くしていると、雪と肌の境目が判らなくなってきたから念入りに白で白を埋めた。何故だか少し、子供の頃を思い出した。相棒と出会って直ぐの頃。大事なものは誰かに見付からないように、埋めるのが善いのだと、二人で庭を掘り起こして埋めた。今思えば詰まらないガラクタだったけれど、当時の自分達にとっては光り輝く宝物だった。あれはもう、誰かに見付かってしまったんだろうか。今度は誰にも見付からないように、もっと深く埋めないと。もっと深く。
 誰にも渡したくはなかったから。
 軈て太宰は立ち上がって歩いた。灰色の世界の果てまで歩いて、そのうち力尽きて倒れてしまえれば善いなと思っていたのだけれど、何故だかうっかり生き延びてしまった。それから探偵社に戻って、何事も無く過ごした。季節が一周過ぎ、二周過ぎ、三周過ぎても未だ不思議と、この灰色の世界を生きている。
 毎年毎年、消えない洋墨で罰印を付けて。



 或る六月の終わり、一人のポートマフィア幹部が姿を消した。
 彼の死体は、未だ見付かっていない。
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