落陽

(2016/01/31)


 やあ中也、ご機嫌麗しゅう、と電話口の向こう側の声が歌った。何が麗しいものか、と中也は一つ舌を打つ。実際機嫌は最悪だ。今通話の繋がっている張本人――元相棒の太宰の所為で。

 久しぶりに太宰と立ち並んだ、あの夜。
 俺は信用したと云った。
 太宰は任せなよと云った。
 それ以外の何かが他に必要だっただろうか? 自身の中を暴れ回る衝動と、それを制御する太宰に身を委ねて中也は異能を解放した。何時ものことだ。太宰が居れば、何を相手にしようとも負けることなど在り得ない。意識と体を心地のいい真っ暗な闇の中へと投じる。そして目を覚ませば、側に太宰が居る。太宰が中也の体に触れ、お互いの体温を感じることで生きていることを確かめ合う。
 その筈だった。
 けれど中也が見たのは透き通る淡い朝日の光だけ。
 其処に相棒を形取る影は無い。
 もう無条件に、何の対価も無しに与え合う関係は終わりを告げたのだと、そのときになって初めて気付いた。例えば相棒だったなら、それも善かったのかも知れない。翌朝になって、太宰の執務室に殴り込んで、手前置いて行きやがってと拳の一つや二つでも呉れてやれば善かった。自分達を繋ぐ糸は、そんなことでは切れなかったから。
 けれどもう怒鳴りこむ執務室は無いのだ。太宰の居場所は其処には無い。相棒と云う名の糸は切れてしまった。昨晩確かに感じたと思ったのは、その微かな残滓であるだけだ。
 俺は如何すれば善い。
 朝露を含んだ冷たい空気が肌を素っ気無く撫でていく中で、中也は迎えが来るまで動かなかった。
 何時かの朝みたいに、太宰の不在を暫く理解出来ないまま。

 そのことについて、太宰を責める積りは無い。太宰は笑ってこう云うに違いないからだ。
 ――だってあれは君の都合だよ。君が私を信用しようとしまいと、君だって汚濁を使わざるを得なかった。私が君を送り届けようが届けまいが。違う?
 だったら私が君を送り届けなかったことは、君の怒る処ではないでしょうと、そう云うのだ。私を信用した、君のミスだと。
 その上、汚濁で無理をしたのだから体に何か有っては不可ないと、首領に本部に詰めているように命じられる始末だ。この、対組合抗争の真っ只中で。執務机に座らされ、かりかりとペンを走らせ書類仕事なんかをやっている。苦痛以外の何物でもなかった。事態の収集に向けて部下が走り回っていると云うのに、自分は安全な場所で益体も無い仕事をさせられている。本当はこんな書類の山など破り捨てて、今直ぐ現場へ飛び出したかった。するべきことが在るときに、何もせずに居るのは御免だ。それでも餓鬼じゃないからこうして云い付けを守っている。
『ね、中也、聞いてる?』
 その、凡ての元凶が、へらへらと笑う気配が有った。内線の受話器を握り締める。ガリ、と万年筆の先が紙を引っ掻いて黒い傷を付ける。
「……手前。どの面下げて俺に連絡寄越してんだよ」
『中也ったら、裏切り者の連絡にも律儀に受話器取るんだなあ……って面下げてる』
 なるほどよく判った。
「切る」
『待って待って』
 太宰が声に愉快さを滲ませながら格好ばかり慌てたように引き止めるから、一応受話器を置く手を止めてやる。これで本当に切ったら、後で鬼のように着信が入ることだろう。面倒な男だ。
 面倒な男が持ち出すのだから、話の内容も大概面倒だ。
『ねえ来て欲しい処があるんだよ』
「来て欲しい処ぉ?」
『うん』
 そうして告げられた番号は、とある取引現場のコードだった。Gの8。と云うと港の倉庫街。四年振りに聞いた音に、頭の中で地図を広げる。其処の取引を警護するだとか、逆に其処で行われる敵対組織の取引を襲撃するだとか。そう云うときに使う合図。マフィアを抜けたこの男から聞くことはないと思っていた文字列が、中也の昔の記憶を揺さぶる。また何か取引が有るってのか? いや、きっと今回は関係が無いのだろう。其処に中也を呼び出さなければならない事情がある。この対組合抗争のタイミングで。太宰の行動には凡て意味がある。
 けれどそれには従えない。
「無理だ」
 電話の向こうで息遣いの変わる音がする。首を傾げたんだろう、太宰が訝しげに眉を顰めた様が見えるようだった。何でだよ。中也は笑う。何で俺が、無条件に手前の指示に従うと思ってんだよ。
「首領に本部に居るよう命じられてる」
『ああ、そう云う……。……中也ったら、私と森さん、何方が大事なの!?』
「煩え、首領だよ」
『まあそうだね』
 間髪入れず叩き付けるように云うと、太宰はあっさりと流した。
『でも首領にとっては如何かな? 今、如何しても君を其処に配置する必要が有るとは思えない。詰まり邪魔だから引っ込んでろってことでしょ? かわいそー』
「だから手前を信用しろってのか?」
 語調が強くなったのは何も図星だったからじゃない。太宰の雑な煽り口調に純粋に腹が立ったからだ。マフィアは探偵社の邪魔をしないと盟約を結んだ。だから武闘派の代表のような立場である俺は前線に居ない方が望ましい。そう理解している。「首領より、俺を置いて行った手前を信用しろと?」
『出来ない? でも無視出来るほど、私の言葉は軽くないでしょう。それにきっと君の利にもなることだよ』この野郎、人がどんな気持ちで居ると思ってやがる。口が裂けてもそんなこと云えやしないから、止めるものも無くいけしゃあしゃあと太宰は云う。『どのみち、其処に居たって何もすることは無いんだ。なら少しくらいの散歩は許されて然るべきさ』
 外を見る。丁度日がてっぺんまで昇った処だった。
 中也は黙って書類を片付け、鍵付きの書類棚に仕舞う。代わりに取り出したのは銃だ。スイス製のM1882。引き金を引きながら、シリンダーに弾丸を詰める。確か数ヶ月ほど前にもこんなことが在った。突然の不躾な呼び出し。それも組織を裏切った人間が、平然と。
「ったくどいつもこいつも、如何云う神経してやがる……」
『"どいつもこいつも"? 聞き捨てならない』零した声を拾った太宰の声が、そのときだけは険しさを増した。鋭く刺し貫くように中也に訊く。『私の他に誰が君に連絡してるって云うの』
 ち、と舌打ちしたのは心中でだ。目敏い。執務室の外に誰も居ないことを確認する。回線は極秘のもの。盗聴器が無いことは太宰の電話を取ったときに確認済みだ。口止めはされてないから善いだろう。「教授眼鏡だよ。ついこの間、東京の方で特一級絡みの事件が在ったろう。あの件でだ」
『は? ……ああ』太宰は一瞬戸惑いを見せたものの、直ぐに理解したのか疑問を飲み込んだ返答が返ってきた。『その教授殿は実は今は病院で療養中です。過労かなァ』惚けた声だ。何か碌でもないことを企んでいるときの。
「そりゃあ善い。後でご尊顔でも拝みに行くか」
『やめてよ、お見舞い帰りに君と鉢合わせとか洒落にならない』
「安心しろよ、そうなったら手前もそのまま仲良く入院させてやるから」
『それが一番怖い』
 ともかく、と太宰が云う。その音を発する受話器を肩と頬で挟みながら、きゅっと手袋を嵌める。外套を羽織る。帽子を取って目深に被る。
 絶対来てね、と云う太宰の声が、中也の背を押した。
『待ってるから』

     ◇ ◇ ◇

「待ってねえじゃねえか……」
 目的地に着いた中也を待っている者は誰も居なかった。カツン、と靴底が土瀝青を叩く。港は無人だ。それもその筈だ。今生きている者は、Qの詛いにやられたか、詛いにやられた者の世話をするかで精一杯だ。何処も業務が止まっている。それは港の運送業も例外じゃない。世間的にはパンデミック扱いになっているから、横濱市外の外部の人間が寄り付くことも無い。
 波の音と鴎の声だけが響く中、中也は空を仰ぐ。潮風が首筋に纏わり付いて、後ろ髪を攫っていく。太陽が少し傾き始めた処だった。遠く雲が棚引いているのが見える。その合間を縫って、雲と違う動きをする白色が空を優雅に泳いている。航空機だろうか。真っ直ぐに此方の方向へと針路を取っている。
 静かだ。中也の心中とは相反して。
 別に期待していた訳じゃない。
 けどそろそろ潮時なのかも知れない。
 あの頃と同じように、太宰の言葉に価値を持たせるのは。
「……俺は」
 そのとき、不意にゆったりとした雲の流れを切り裂くように、一直線に空を滑空する物体が在った。小型の航空機だ。それが見る間に、大型の白に激突する。響く爆音。炎が上がる。
 善く見ると、大型の方は航空機ではない。
 鯨だ。
「……おい」
 白鯨が空に浮いている。あれは何だ。疑問に思う間も無く瞬時に理解した。資料に在った、組合の構成員の異能。
 それが小型の航空機に追突され、黒煙を上げながら一直線に此方へ突っ込んでくる。
 真逆。
 端末を乱暴に取り出し、青鯖に繋ぐ。珍しくワンコールで応答が在った。
「おい太宰」
『あっ中也? 来て呉れたんだ嬉しい。じゃ後は宜しく』
「宜しくじゃねえんだよこのクソ野郎何だこの状況。また」一旦口を閉じ、からからに渇いた口を湿らせる。「また俺を善いように使うってのか、手前は」
『でも今度の仕事は牧羊犬には務まらないね』
 この期に及んでからかうような口調だった。みし、と手の中の端末が軋む。
『君だからお願いするんだよ。――お願い。横濱を、私達の街を救って呉れ』
 迫り来る鯨を見上げる。あの質量の物体が、真っ直ぐに海へと突っ込む。そんなことになったら、横濱の街は突然の津波で壊滅的な被害を受けるだろう。ただでさえ訳の判らない詛いに冒されていると云うのに、この上そんな被害まで被ったら、都市機能は完全に再起不能だ。
 それを救え、と太宰は云う。
 どうやらそれは、太宰の心からの懇願のようだった。条件も引き換えにするものも無い、中也を追い詰める訳でもない、何の衒いも無い、素直な『お願い』。
「だったら」中也は瞑目した。だったら尚更、受ける訳にはいかない。「これは取引だ」
 電話の向こうで、一瞬動きが止まる。
『……何?』
「俺が手前の云う通りにすると、街を救う義理が在ると、本気でそう思ってんのか?」
『……え。君だって首領の意向があるんだ。横濱を救わざるを得ないでしょ』
 何時かの自分が思い描いた通りの言葉で、中也は思わず笑ってしまう。君だって汚濁を使わざるを得なかったでしょ。違う?
「如何かな。俺が命じられたのは本部待機だ。首領が街を救いてえのかどうかなんざ知らねえな」
 あのときは汚濁を使わなければ死んでいたから使った。然し今回は街を助けなくても死ぬことはない。空惚けた声を出す。
『街には君の部下だって居るのに?』
 太宰の声に、焦りのようなものが滲む。どこまでが計算なのかは知らない。
「でもそれは手前の都合だろう」鼻で笑う。「横濱を救いてえってのは、手前の都合だろう。なら手前が俺に対価を支払うべきだ」
「中也っ」
「太宰」声を遮る。「俺達の間には、もう無条件に、何の対価も無しに、何かを与え合ったりする理由は無えだろ」
 太宰がそうしろと云うなら、太宰の作戦で動いた。
 太宰の望む通りに、戦況を動かし、勝利を収めた。
 相棒だった頃は。
 けれど相棒でなくなった今、そうする理由が今の自分達には無い。
 通話口の太宰が沈黙した。暫くして、口を開く音。感情の乗らない、平坦な声。
『……何が欲しい』
 その言葉に、心臓が軋みを上げた。
 莫迦げた行為だった。本当は対価なんて求めていやしなかった。必要無いのだ、そんなもの。中也が太宰の、言葉の通りに動くのに。
 けれどもう、それが許される関係は終わりを告げている。
『……生憎』不思議と、そう云った太宰の方がまるで引っかき傷を抱えたような声を出す。『生憎、今私の処には君の欲しがるようなワインは無いよ何せ六畳一間の寮なものだから上等な管理が出来なくてねェあァそれとも牛乳でもリッターで送ってあげようか背が伸びますようにって』
「太宰」
 呼ぶと黙った。
 お互いがお互いを傷つけていた。
 わかってはいるが、如何しようもない。
 そしてそれ以上に痛みを抱えることになるかも知れない。それでも。
「手前の一晩、俺に寄越せ」
 云った。
 通話口の向こうで太宰が言葉に詰まった。返す言葉を云いあぐねているようだった。
『……一晩って。君の方が無理でしょ。これで私達探偵社が組合に勝ったら、マフィアの方でも祝勝会なんだから』
「なら明日一晩だ。逃げずに待ってろ」
 太宰が再度黙る。窺い知れるのは迷うような気配。逃げる口上を探しているのだ。けれど時間は無い。鯨はどんどん迫ってくる。沈黙は街の壊滅に繋がる。
 軈て聞こえた諦めたような溜め息が、消極的な了承の合図だった。
『私の部屋で、シャワー浴びて? ときめく』
「洗っとくのは首だけで善い」
『あ、そお』太宰の返答はおざなりだった。『楽で善いね』
 じゃ、と。
 通話は呆気無いほど、ぷつっと軽い音を立てて切れた。

 外套を投げ捨てる。今回は手袋は投げ捨てない。太宰が居なくとも、これくらいなら楽にやれる。
 太陽を覆い隠すようにして、目前に迫った巨大な影を睨む。不思議と口角が上がった。そう、一晩太宰と顔を突き合わせることを考えれば、こんな鯨を防ぐことなど児戯に等しい。
 太宰。
 あの拘束を嫌う太宰が、一晩を差し出すくらいには切羽詰っている。多分、中也がその一晩に何を望んでいるのかの見当なんて付いていないままで。
 中也だって如何したいかなんて判らない。
 セックスをしたらわかりあえるとも思えない。或いは殺してしまうのかも知れない。幾ら言葉を交わしたって、あの頃に戻れる訳じゃないことに嫌気が差して。けれどこのままだときっと、傷が膿んで如何にかなってしまう。
 そうならない為の処置が必要だった。
 失いたくないと思うものは必ず失われる。けどそれを少し先延ばしにするくらい、許されるんじゃあないか。
 鯨が迫る。空気が肌を震わせ、轟音が耳を劈く。黒煙の焦げた臭い。それが滑り込んでくる。片手一本でその巨躯を止めることも想定していたが、そうでないなら楽で善い。波の被害を抑えることなど、訳も無い話だ。足元から徐々に重力の支配を広げる。土瀝青を伝って海へ。じわじわと、黒を侵食させる。
 汚れつちまつた悲しみに。
「……いたいたしくも、怖気づき……」

 派手な音を立てて、鯨の腹が着水する。迫り来る大波を、中也は腕を振って一閃、払った。
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