お菓子を呉れなきゃ
(2015/10/31)
「トリックオアトリート!」
ばん、と勢い良く開かれたドアの先を、俺は半目で見遣った。其処に立っていたのは砂色の外套に身を包んだ蓬髪の男だ。それがにこにこと阿呆面を下げて執務室へ侵入してくるが、この男にこの場所への出入りを許した覚えは無かった。然し組織を裏切った手前がなんで此処、ポートマフィアの本部に居やがる、などとこの男には云っても無駄なことなんだろう。千度経験してきたことだ。どうせ来ると思っていた。ふーっと長い息を吐き、再び手元の書類に視線を戻す。
「ねえ中也、聞いてる? お菓子を呉れないと悪戯するんだってば!」
ひら、と目障りな外套を翻しながら、男――太宰は喧しく喚き立てる。部下が居ればさっさとこの男を捕らえろと命じていた処だったが、生憎と今日は全員出払っていた。例えば今いきなりこの執務室周辺が爆発しても、暫く気付く人間が居ない程度には皆留守にしている筈だ。任務やら休暇やら、昼休みやらで。だから捕らえるなら、俺一人でやるしかない。遠くでは微かな街の喧騒が窓硝子越しに聞こえている。在り来りな昼下がり。微睡んだ空気の中を、相も変わらずふらりふらりと怪しげな足取りで、太宰は無造作に歩を進める。
――否、何も考えていないようでいて、その実その歩みは精密に計算し尽くされたそれだ。太宰の歩みは部屋の真ん中辺り、予想通りの位置でぴたりと止まった。
ペンダントライトの真下から少しズレた場所。それでいて、俺の射程を的確に数センチ外す距離。
相変わらず質の悪い野郎だ。目の端にその姿を捉えて鼻で笑う。
「ねえガン無視は酷くない」
「……30点」
「10点満点で?」
「桁が一つ足りてねえよ莫迦」そこで集中することは潔く諦めた。長く酷使していた目頭を抑え、手元の書類を机上に放り、ギッと椅子の背凭れを揺らす。「大体手前、ハロウィンとは云うが、そりゃあ一体何の仮装だ」
「何って」太宰は半笑いのまま、自分の姿を何気無く見下ろし、その場でくるりと一回転した。その姿は、いつもと変わりが無いように見える。――と、そこまで考えて、いつもっていつだよと俺は内心で舌を打った。
俺と組んでいた――散々俺への下らねえ嫌がらせに奔走していた相棒時代のことか。
それとも、この男が勝手に組織を抜けて探偵社に入り、のらりくらりと過ごしている日々のことか。
不意に湧き上がった俺の疑問を意に介することも無く、太宰はへらへらと笑っている。「木乃伊男かな? 普段より多めに巻いております」
「……いつもと変わんねえじゃねえか。門前払いだそんなもん」
「君莫迦じゃないの? 顔にまで包帯巻いたら私のこの世界に二つと無い美貌が台無しでしょ」
太宰が何方で受け取ったのかは定かではない。
「そうだな」ぎしりと理性の何処かが怒りで軋む音を聞きながら、俺は苦々しく頷いた。「手前のその面に免じて、30点は呉れてやる」
「うわ、君ほんと私の顔好きだね」
反射的に手が動いたのは蓄積した苛立ちが限界に達したからだ。ばんっと机上を叩いて立ち上がり、一番上の引き出しに手を突っ込む。脅しの積りも兼ねていたが、手の動きが見えていたのか太宰が微動だにしないのが腹立たしい。銃を仕舞ってあるのは、もう一つ下の引き出しだ。
太宰の浮かべるチェシャ猫のような笑みが一片たりとも歪まないことに忌々しく舌を打って、取り出した飴の個包装を力いっぱい投げ付けた。半ば八つ当たりだ。俺は今でも下んねえ疑問に一個ずつケリをつけてかなきゃならねえってのに、なんにも考えてねえような面をしてのうのうと俺の前に姿を現しやがって。腹立たしくて仕方が無かった。だから少しくらい、太宰の嫌がる顔が見たいと思っても許されると思った。
狙い通り太宰の額を貫通する勢いで命中した飴が、太宰に真っ赤な痕を残してぽてんと絨毯の上に転がり落ちる。
涙目で蹲る太宰。ざまあみろ。
「いった! 莫迦力! 頭蓋割れたら如何するの!」
「は、そのお綺麗な顔潰されたくなきゃ疾っとと失せろ、莫迦太宰」
と、云うものの太宰はもう聞いてはいなかった。文句を云いながらちゃっかりと飴を拾い、「ええ~これだけ?」と不満そうに口を尖らせている。子供か。
「足りない……」
「煩えな。大体、マフィアに菓子をせびるなんざ――」
「ねえ、中也――足りないんだよこれじゃあ」
一際ねっとりと、纏わり付くように俺の名を呼ぶ低い声。
がらりと変わる空気。
「……あ?」
その一言で、思考が一瞬にして拭い去られた。下らない疑問も、苛立ちも、怒りも、多分、少しばかり含まれていたセンチメンタリズムも。残ったのは生存本能だけ。振り向きざま、反射的に発動しそうになった異能を抑える。未だ駄目だ。けれど疼く防衛本能に思わず奥歯を噛み締める。例えば豪速球で投げられたボールが目の前に迫れば、大抵の人間は危険を感じて手で払うだろう。同じことだ。
殺意を投げられれば、殺意で振り払わずには居られない。
そう云う類の刃が、太宰から俺に向けられていた。
何の積りだ、と振り返る。態々俺にそれを向けるのは、如何云う積りだ、と。
太宰の殺気に呼ばれるように己の裡からじわじわと湧き上がる衝動を抑え、太宰の方をぎろりと睨む。視線の先の、熱に浮かされたような黒の瞳と目が合った。じっと此方を見詰める瞳を濡らしているのは、紛れも無い、俺を害したいと云う悪意だ。それは太宰が敵と『お話し』するときに使う術。その視線に射竦められた哀れな敵対者は、背筋を恐怖に震わせ、圧倒的な強制力に依り知らず太宰に心臓を差し出すことになる。
いつもの手だ。
相棒時代の。
無論、俺が引く道理は無い。
「……何の積りだ、太宰」
興奮に声が掠れた。
「やだなあ、焦らしてるの、中也?」けれどそれはお互い様だ。欲を孕んだ声が、皮膚からじわりと侵食して、骨を芯から震わせる。「判るでしょう、こんな子供騙しのお菓子じゃなくて。今、私が一番欲しいモノさぁ……」
思考がじわりと熱を持つ。これが菓子と天秤に掛けられた“悪戯”だと云うのなら、効果は覿面だった。この男を本能のままに引き倒し、めちゃくちゃにしてやりたい衝動に駆られる。然しここでそれをしてしまえば、折角の計画が台無しになる。頭の片隅に残った理性で何とか激情を押し留める。鬩ぎ合いに脳の血管が千切れそうだ。
対する太宰は至極愉しそうに笑うだけ。確実に態とだ。俺を好きなだけ煽って、そうして自分だけが満足を得てさっさと帰るんだろう。いつもみたいに。
いつも、自殺に失敗して死に損なった後、興奮を引きずって俺の部屋に押し掛けてくるみてえに。
「……相っ変わらず、ムカつく野郎だな手前は」
はあ、と昂ぶった鼓動を鎮めるように息を一つ。大仰に手を振って視線を払い、俺はぴら、と一枚書類を取り出す。
「ほらよ。手前の目当てはこれだろう。今手前等が追ってる密売組織の情報」ひらひらとそれを見せる。「回りくどい真似しやがって」
「ん? あー、それ、それね。それも有ったんだった」
ぱちん、と思い出したように太宰が指を鳴らす音一つで、からりと部屋の空気が戻った。じとりと肌に纏わり付く湿気は微塵も無い。遠くでクラクションの音が鳴って、街の喧騒が意識の内へと戻ってくる。詰めていた息を吐いて、吸う。
「まあ、呉れるって云うんなら、今回はそれで手を打ってあげようかな」
「タダで呉れてやる道理は無ぇが」
「あれ、呉れないの? 探偵社にお任せ頂ければ、華麗に一網打尽にしてみせるよぉ、君の部下は死なないし、君の部下の工数も取らせない。君の首領の好きな、エコってやつだ」
「期限は」
「今週中」
「……善いだろう」
先程の高揚した殺意が嘘みたいに、二人してにやりと笑う。あんなのは只の気まぐれだ。いつもの戯れ。そうして俺は太宰にその書面を差し出した。太宰はにこやかに、差し出されたそれを手に取ろうとした。
「あれ」
頬を嬉しげに歪めていた太宰が、その笑みを曖昧なものへと変えた。その目が微かに見開かれる。太宰の表情の僅かな変化を、俺の目は見逃さない。
バレたか。
「……ねえ、中也」
「んだよ」
「……あのさあ」俺の処まで後数歩と云う距離で、太宰は立ち止まった。書類は未だ、俺の手から取られないままだ。慎重に、何かを探るような声音。「中也はさ、今日、私が此処に来るの知ってたっけ?」
「あァ? 知る訳無えだろ」これは本当だ。太宰の来訪を、情報として知っていた訳ではない。
但し直感は別だが。
「ふぅん……」
沈黙が降りた。俺は書類を差し出している。然し太宰は頑なにそれ以上近付こうとしない。動かない太宰に痺れを切らし、ち、と舌を打って俺が歩み寄ろうとした瞬間――太宰の唇から、君は相変わらずだよねえ、と乾いた呟きが漏れた。
「……演技するなら、もうちょっと殺気隠さなきゃ」
――空気が凍ったのは一瞬だった。
太宰が弾かれたように飛び退る。俺の蹴りが、太宰の居た空間を一閃切り裂いた。太宰はそれを確認しない。一目散に、扉へと駆ける。
「逃す訳……無えだろ!」
異能発動。標的は太宰ではない、太宰が出ていこうとする先の廊下だ。ぱき、と罅割れの音が響いた。それが静止したのも束の間、ぐしゃり、と廊下の天井がまるで刃を入れたケーキのように崩れ始める。太宰が辿り着く前に、ガラリガラリと轟音を立てて廊下全体が崩落する。
「うっそ、そこまでする!?」
真逆本部の建物を中也が倒壊させるとは思わなかったのだろう、この日の為に自然な程度で人払いをし、一角を壊しても良い程度の手回しをしていたとも。そこが太宰の隙だった。一瞬その足が止まる。廊下を駆け抜ければまず間違いなく瓦礫の下敷きになる、然し異能を無効化するには中也を抑えなければいけない。
その迷いが命取りだ。
「手前にしては珍しく見誤ったようだが」ガン、と椅子を蹴り上げて持ち上げる。太宰がちらりと室内に目を戻したのが見えた。「手前に悪戯する為なら、俺は割と何だってやるぜ」
俺が先刻は抑えた昂揚を叩き付けていると云うのに、太宰はじっと計算高く室内を見、持ち上げられた椅子を凝視するだけだ。俺が椅子を投げた瞬間、その椅子を避け横をすり抜け、背後の窓から逃げ出そう。そういう算段なんだろう。数年経った今でも、元相棒の考えが読めなくなった訳ではない。いつものように、判ってしまう。
だから俺は、椅子ではなく引き出しに入っていた銃で太宰の足を撃った。
「!」
完全に意識の外だったのだろう、太宰は避けきれずその場に崩れ落ちる。訳が判らない、と云った顔で「う、っ、……?」と血も流さずに倒れたのは俺の手にしたこれが意識を失わせる為だけの麻酔銃だっただからだ。もう片方の手で、今度こそ全力で椅子を投げ付ける。太宰は逃げない。まともに椅子の重量を受け、その痩身が床へと崩れ落ちる。
珍しく苦い顔で自分を見遣る太宰の顔に、俺は自分の唇が綺麗に弧を描くのを自覚する。
「何の心算……」
倒れた太宰が呻く。
それは先刻俺が太宰に向けた言葉だ。
だから俺も、それに笑って応える。
「判んねえか、太宰。子供騙しじゃない、今俺が一番欲しい物、だ」
太宰は迷うように数度唇を震わせ――結局、何も云わなかった。
俺をけしかけるだけけしかけて。自分から踏み込んでこねえのは、らしいと云えばらしい。
「……手前を捕らえて悪戯出来るんだとすれば、ハロウィンも中々悪くねえんだ」
最高に気分が良くて、俺は今度こそ殺す積りで、太宰の鳩尾を蹴り上げた。
お菓子を呉れなきゃ悪戯するぞ。
別に選ばなくったって善いし、返り討ちにしたって善いんだ。でも二択で迫れば、相棒は律儀だからどっちかから選ぼうとする。本当はどっちでも良かった。本質的には変わらなかった。彼から貰うのでも、自分からいたずらするのでも。あの男はきっと、何方でも最高に嫌そうな顔をして呉れただろうから。
微かな振動に揺られて、微睡んでいた意識が水面に浮かぶように頭を擡げた。薄く開いた視線の先に、運転席に座った相棒の後ろ姿が見える。その手前に、座席に無造作に投げ出された自分の手。えらく視線が低いのは自分が横たわっている所為だと、暫く思考を彷徨わせてから気付く。相棒が居るからと、気を緩めて後部座席で眠ってしまってたんだろう。何だか顔の肌に違和感があるのは、ずっと頬を座席に押し付けているからか。カーステレオから時折響く低音が、思考の流れを緩く遮る。煙草と香水の馴染んだ匂い。間違いなく、相棒の車の中だ。
だからいつもみたいに声を掛けた。
いつも、任務に向かうときみたいに。
「ん、中也……到着、未だなの……」
「もう直ぐだよ」
低く喉を鳴らして笑う声。そう、と頷こうとして――有る筈の無い返事に私は飛び起きた。『もう直ぐ』だって? そんな訳無い、だって今の私は探偵社員で、この男と行動を共にする訳が無いんだから。けれど現実に、運転席に座っていたのは中原中也そのものだった。バックミラー越しに目が合う。帽子の下の琥珀の目が、此方を嘲笑うように細められている。二十二歳の、幹部然とした中原中也だ。混乱した意識に、段々と現実の時間が追い付いてくる。
詰まり自分は、マフィアに居た頃と勘違いをして、今の受け答えをしてしまったらしい。
寝惚けて犯した有り得ない失態に、頭を抱えて呻く。「あ、さいて、ほんとむり、うわ……」
中也は笑って、それについては何も云わない。
「一応訊いとくけど」
云わないまま、操作桿を回す。
「トリックオアトリート?」
そうだ、自分はハロウィンにかこつけてマフィア本部に侵入したのだった。目的はマフィアの所有している資料だったが、ついでにお菓子でも強請ってやろうと元相棒の元を訪れたのだ。とびっきり甘いやつを、目一杯せびってやろうと。
勿論、やり返されることを想定して太宰自身も菓子を持っていた。ケーキ屋で調達した、洒落た焼き菓子の詰め合わせだ。中也に菓子を呉れてやるのはひどく癪だったが、自分が菓子やその他のものを強請って中也から奪ったとして、その後に「トリックオアトリート」と宣言される可能性も零では無かった。「じゃあ悪戯だな」とやり返しでもされれば、目も当てられないのだ。だから訊かれてもしたり顔で「これで悪戯出来ないねえ」と嘲笑ってやろうと、菓子なら外套の衣囊に入れてある。入れてあった。
その筈だ。
私は後部座席に横たえられた自分の姿をまじまじと見下ろす。目から入ってきた情報が処理し切れずに、一瞬言葉を忘れる。
自分が身に纏っていたのは、いつもの砂色の外套ではなかった。
ジャケットも、シャツも、スラックスも、無い。
代わりに着ていたのは淡い色のインナーに。
少し長めのニットのカーディガン、と。
布の重なったフレアスカート。
ご丁寧に靴にもヒールがついていて、その上の脚を覆うのは、膝上まで在る黒いソックス。
如何見積もっても全部女物の。
思わず悲鳴を上げる。
「何だいこれ!!!」
「何って。手前の汚え女装」
さらりと中也が云う。この男、汚いって云いやがった。
色んな怒りから反射で運転席に掴み掛かろうとして、衝撃で頭からずるりと何かがずり落ちる。見れば私の髪と同じ色をした黒鳶のウィッグだ。長さは肩くらいまで在るだろうか。真逆、と思って窓を見る。ウインドウの向こうを流れる昼日中の街の景色、其処に薄っすらと映る、化粧をした自分の顔。元がいいから、女性的に見えなくもない。瞼はくっきりと縁取られ、睫毛が瞬く度に魅惑的に揺れる。自分で云うのも何だが美人だ。
詰まり私は、徹底的に女装させられていた。
「意味わかんない、えっちょっと待ち給えよ……」
何だか頭がひどく痛んだ。何処の世界に侵入者を女装させて車で連れ回すマフィアが居ると云うのだろう。
「此処に居るだろ」漏れた独り言に、中也が応える。「菓子が無かったから悪戯にした」
「嘘、私衣囊に入れておいたでしょう!」
「一人分しか無かったが? 姐さん喜んでたぜ」
唐突な尾崎紅葉の名に驚くが、然しこの服の入手ルートを考えれば不自然なことではなかった。気絶した私を姐さんの処に持って行き、菓子と引き換えに女装をさせる。そう云う悪戯。
嫌すぎる。
然も何だか、下半身がやけにすーすーとする。女性はよくこんな心許無いものを履いていられるものだな、とぴら、と布を一枚捲った。
目を覆った。
「下着履いてないんだけど!?」
道理ですーすーする筈だ。
「仕方無えだろ? 姐さんが如何しても貸して呉れなかったんだよ」歌うように中也が云う。当たり前だ、と云うか姐さんに女性用の下着貸して呉れって云ったの、莫迦じゃないの、この命知らず。云いたいことが有り過ぎて、ぱくぱくと口を開閉するしか出来ない。「だから今から買いに行くんじゃねえか」
正気じゃない。
「中也。君、今、何徹目」
その質問は予想外だったのか、ふ、と中也が考え込む気配が在った。それから、一、二、と操作桿を離れた手が指折りその数を数えていく。
「いや、いい、判った、それについては同情する、同情はするけど取り敢えず服返して」
「燃やした」
「イカれてる……」
逃げよう、と決心する。如何考えてもこんな悪夢に付き合う道理が無い。勝負は一瞬だ。身を乗り出してブレーキを踏む、同時に中也から銃を奪って人間失格を発動させたまま発砲、怯んだ処を助手席から逃げる。数秒の内に素早く計画を立て、さっと目線を走らせるとバックミラー越しに中也と目が合った。その琥珀色の瞳は正気も正気だ。本当に、女装した私を連れ回す心算らしい。意味が判らない。抗議の視線を向けてみても、中也の目にはアイラインで縁取られた私の愛らしい目が見えるだけなんだろう。睨んだって、効果の程は見込めなかった。
「逃げたらばら撒く」
その上先手を打たれた。
「……ええ……聞きたくないのだけど……何を」
「マヌケな面晒して寝てる手前の女装写真」
「やだあ私の痴態が他の人間に見られても善いって云うの!?」
「だからァ」中也は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌さで云う。「手前が逃げずに、今日一日俺に付き合えば済む話じゃねえか」
何でこんな楽しそうなんだろう、この男。
「ほんっと嫌い。死んで欲しい……」
「奇遇だな。俺もだよ」
いつもの遣り取りだ。けれど嫌いと云う割に、中也の声音は今日は柔らかい、ような気がする。そう云ったきり、中也が黙ってしまったから、私もそれ以上は何も云わなかった。
そう云えば、下着は今から買いに行く、と中也は云っていた。何処へ行くのだろう。まあ、下着が手に入るなら何処でも善いか。と思い直す。どんなものでも、ノーパンで居るより遥かにマシだ。
そうは思うものの、なんだか少しだけ嫌な予感がした。
◇ ◇ ◇
「流石に無理があるでしょ……流石に無理があるでしょ!?」
比較的大きめの女性向けランジェリーショップに連れ込まれ、私は青褪めて悲鳴を上げた。今の御時世、もっとこう云うシチュエーションに相応しい下着売り場は他に在る筈だった。止むに止まれぬ事情で人知れずこっそりと下着を買いに行く為の、なんか、こう……在るでしょう他に! ジャ○コとか! ユニ○ロとか!
「女声作れんだろ、気張って出せよ」
女性客と女性用下着に囲まれたこの状況で如何してそんなに平静で居られるのかこっちが聞きたいくらいの冷静さで中也が云う。敵地に一人放り出されるよりランジェリーショップに乗り込む方が余程事態は深刻だった。私だって、女性の同伴であれば多少の抵抗はあれど足を踏み入れることもしたかも知れない。たまにそう云うカップルは居るし。然し今回の組み合わせは男と女装した男だ。凡そ想定され得る客層からは掛け離れている。おまけに味方からの援護射撃も無い。敵地としては孤立無援だ。
なのに唯一のバディさえ味方でないときた。
「いやいやいや、嫌だよ何でそんなことしなきゃいけないの」
「スカートずり下ろされてえのか」
脅迫じみた言葉に思わず反射的にスカートの裾を抑える。
今それをされたら、女装趣味と露出狂とその他諸々の変態のレッテルを貼られた後、速やかに市警に引っ捕らえられてしまう。現行犯逮捕だ。自殺は好きだが社会的に死ぬのは御免だ。
もうこうなったら、徹底的に女性役に徹するのが最適なんじゃあないか? と云う考えが状況を受け入れられない私の脳裏を過っていく。幸いにも服のチョイスが良かったのか、男性的な体の部分――首の周りだとか、脚だとか、骨格の顕な部分だ――は上手く隠れるようになっていて、まじまじとよく観察されることが無ければ少し背の高い女性にしか見えないだろう。化粧が綺麗に施されているのもその助けになっている。気絶した私の顔を、好き勝手にいじっただろう姐さんの楽しげな顔が目に浮かぶ。
これなら普通にバレない。
なら、バレないように女性のふりをしてさっさと終わらせてしまうのが、一番得策じゃあないだろうか。
「中也、判った、も、いいから早く……」店員が近付いてくるのを見て、慌てて中也の腕を掴んで俯く。「サイズが合えば何でも善いから、適当なので善いから……」
「いーじゃねえか、普段色気の無えもん付けてんだからもっと派手なの買えよ」
そりゃそうだ。普段は普通のボクサーパンツなんだから色気を見出されても困る。
ってそうじゃなくて。
「なあどれにする? サイズどれだっけ、無難にCくらいにしとくか?」
「は? 上は要らないでしょ!」
この男、楽しんでる。こっちはバレないように神経を尖らせてるって云うのに、何でこんな愉快そうに笑ってるんだ。何だか段々腹が立ってきて、早々に終わらせるべく中也の腕を引っ張る。ええと、パンツ。下に履くやつは何処に在るんだろう。見付けられずに探し回り、店の奥に在る一角をひょいと何気無く覗き込む。
それが間違いだった。
其処には何だか、表に置いてあるものとは一線を画したラインナップがずらりと並んでいる区画。
所謂セクシーランジェリーの類の。
「おっそれにするか? その透けてるのとか善いんじゃねえの」
「セクハラだ……」
背中に掛かる楽しそうな声に呻く。
なんで慣れてるんだろう。女性同伴で来たこと有るのかな。
「ほら手前、着るんならあの黒い派手なのとか好きだろ」
誰も着るとは云ってないし。
「上下セットも御座いますので、良ければお声掛け下さいね!」
「ああ、悪いね」
なんか何時の間にか店員と仲良くなっているし。
もうやだ。思ったより弱り切っている自分を自覚する。一刻も早く立ち去りたくて、中也がちら、と視線を走らせた先のベビードールを適当に引っ掴んで店員に渡す。白くて透けてて、縁に控えめにレースの付いた。「それでいいのか?」と少し予想外だと云うような声が聞こえたけれど、中也の意見とか知ったことじゃなかった。
「これの上下セットで」
中也がどんな顔をしていたのかは知らない。中也が会計をする間、ずっとその腕にしがみついて俯いていたからだ。
その寡黙さが気を引いたのか、店を出る間際で女性の店員に好奇心をいっぱいに湛えた目で耳打ちされた。
「彼氏さんですか? 大事にされてるんですね!」
断じて違う。
断じて違うけれど女にするように腰を抱かれてラブホテルに連れ込まれるとそう錯覚もしてしまうと云うものだ。確かにセックスは何回もしてるし、付き合ってないけど彼氏と云われればそうなのかも知れない。疲弊した思考が、この冗談みたいな悪夢を段々と受け入れ始めていた。何の心算なんだろう、と疲れた頭でぼんやり考える。中也は私を如何したいんだろう。本当に疲れた。もう何でも善いから早く終わらせたい。
下着は未だ履いていない。綺麗にラッピングされたそれは、未だショップの紙袋の中だ。
「っあ、中也、ァ……!」
だから寝台に放り出されて布越しに芯に触れられた途端、抑えていた快感が脳裏に弾けた。ずっと外気に触れていたのだ、敏感になりもすると云うものだ。思わず中也にしがみついてしまい、驚いた中也を寝台の上に引き込んでしまう。弾みでウィッグが寝台の外に落ちる。構っている余裕は無い。小柄な割にしっかりとした腕を抱き抱えて、上がった息を整える。
「っは、はぁッ、あ……っ」
「何だよ、何時に無く積極的だな」
「誰の、所為だと……!」
「俺か? 光栄だな」
そのまま髪を掻き乱すように頭を抱かれ、乱暴に口付けられる。舌を絡ませられ、ちゅくちゅくと唾液の交じる音がする。背筋を這う快感に緩む口を抑え、必死に中也のキスに応えている間にするりと手際良くニットを脱がされ裾から微かに冷えた手が滑り込んできた。それにゆっくりと愛撫されながら、この男は女をこんな風に抱くんだろうか、とぼんやりと考える。
中也がどんな風に他人を抱くのか私は知らない。
いつもどんな風に私を抱いているのかさえも、定かでないのに。
「太宰」
低い声が直接耳朶に落とされて、体の芯が悦楽に震える。
「ん、ァあ、ちゅうや……」
でも、少なくともいつもはこんな風じゃない筈だった。
いつもは名前なんて呼ばなかった。
いつも。相棒時代も、マフィアを抜けた後も、ずっと体の関係を続けていた期間。
お互い精を吐き出せれば善かったから、情事の最中に中也の顔なんて見たことが無い。
入れて、出して。それで終わりだ。
なのに今夜の中也はやけに楽しそうだった。口付けだけでは物足りなくて、名前をもっと呼んで欲しくって、そうもどかしく体の熱を抑える私を放り出し、先刻買ったばかりのベビードールを取り出しひらひらとそれを弄んでいる。
「どうせなら着てみるだろ?」
「もう好きにしなよ……」
抵抗する気力は無かった。どうせ抵抗しても、力では敵わないんだから無理矢理着せられるだけだ。
早く欲を吐き出して終わりにしたかったのに、中断されて気分が焦れる。けれど中也はそれを察した上で、終わらせようとはして呉れない。だから仕方無く、下着に渋々腕と脚を通した。
端的に云えば歪だ。私の体は幾ら華奢とは云え、女性の体のように柔らかくもないし、丸みを帯びてもいない。ニットもソックスも取り払ってしまえば、確かな男の体が表れてしまう。おまけに傷だらけだから、お世辞にも綺麗だとは云えない。
なのに薄く透けた布に身を包んだ自分の姿に、如何しようも無くか弱い気分にさせられる。
例えばこのまま中也の腕の中で、溺れるように抱かれてしまいたいと云う気分、とか。
「これ、楽しい?」
「楽しい」
「あ、そ……」
そんなことを考えていたからか、不意に中也に薄い布越しに古傷に歯を立てられて、「っ、」と漏れそうになった嬌声を噛み殺す。中也に抱き締められて、口付けられて、精を吐き出す以外の欲がじわりと湧き上がってくる。変な気分になるのは、きっと女装なんてしている所為だ。中也が動く度に布が擦れて、それだけでもびくりと感じてしまう。もっと触って欲しい。もっと抱いて欲しい。大事にされているんですね。何故か女性店員の言葉が耳に蘇る。
そう云えば、私から襲って快楽を得ようとすることは多々有れど、中也から快楽を与えるような行為をされるのは初めてかも知れない。
愛される、みたいな。
そう云うの。
「中也」窮屈な下着越しに前を何度か扱かれて、か細く鳴くように呻く。「あ、やだ、も、いく……!」
答えの代わりに、唇を塞がれた。ちゅう、と口内を味わわれる、その音と感触に興奮して吐精する。余韻に息を切らしていると、「太宰」と今度は甘やかすようなキスをされる。中也の声。中也の匂い。中也も若しかしたら、私が女装していることで変な気分になっているのかも知れない。
例えば、いつもより優しく抱いてやりたい気分、みたいな。
「君にはさあ」気怠い思考で、呟く。「君には、こう云う変な趣味は、無いんだと思ってたのに……」
「手前が知らねえだけかもよ」
「……へえ?」
余裕ぶって首を傾げようとして、失敗した。つぷ、と体内に侵入する異物感に、意識が散ってぎゅうと目を瞑る。下着を脱がされた気配は無かったのに、と思うけれど白いレースをずらして指を這わせているらしい。弱い部分に触れられる度に、私の欲も頭を擡げる。下着に窮屈に締め上げられて、それがより一層刺激を煽った。きついのは目に見えて判るだろうに、けれど中也は脱がしては呉れない。
「ぁ、やだ、なんで、こんな、」触れられた部分から指の先まで、体中を這う快楽を逃がす先が無くて、咄嗟に中也にしがみついた。中也は難無く私の体を抱き止める。けれど指の動きは止めずに、丹念に入り口を慣らしていく。いつもみたいな性急なやつじゃなく、じわじわと与えられる快感に、私の脳が悲鳴を上げる。「やだ、いつも、みたいなのでいい、から……」
「いつもっていつだよ」
静かに中也に問われて目を瞠る。
いつもはいつもだ。
なのに中也は続ける。
「手前がマフィアを抜けてから、俺の『いつも』は途切れたままだよ」
如何云うこと、と訊く前に、中也の熱に穿たれて思わず不明瞭な嬌声が漏れた。上がる息、上がる性感。息苦しい。けれどそれ以上に感じる甘い痺れ。いつもより慣らされているからか、意識が溶けるのが早い。中也、ちゅうや、と名前を呼んで、応えるような口付けに安堵する。
いつも、は私の中で確かに繋がっているのに。
中也はそんなもの、知らないと云う。
今までの関係を、切り捨てるみたいに。
「じゃあ、中也はずっと、こんな風に、私を女みたいに抱きたかったの……」
体を揺さぶられ、中也の欲を内に感じながら、上擦った声で聞く。なら、悪かったなと思った。お互い性欲処理だけだと思って、私は勝手に気持ち良くなってたけれど、中也にはあんまり発散させてあげられてなかったのかも知れない。
「莫迦だな」
けれど中也は、笑って首を横に振った。
「俺はただ単に、手前の嫌がる顔が見たかっただけだよ」
は、は、と何方とも無い荒い息が交じる。せり上がってくる快感に追い上げられて、何も考えられなくなる。
中也のこと以外。
「手前との、味気無えセックスに飽きただけ……」
そう云って、中也はぎゅうと目を閉じて私の中に精を吐き出した。どく、と中で感じた中也の熱が気持ち良くて、私も中也にしがみついて追い掛けるように果ててしまった。
「でも手前の趣味じゃねえよなこれ」精液塗れになった下着を処分しながら、中也が呟くのが聞こえる。「手前はもっと、ド派手で淫乱ぽいのが好きだろ」
「いや、女装の趣味の方向性とか求められても困るし」シャワーを浴びて、濡れそぼった髪をがしがしとタオルで拭きながら、ふんと鼻を鳴らす。「大体、これ着て欲しそうにしてたの中也のくせに……どっちかと云うと、中也の趣味でしょ」
「ふぅん。じゃあ手前は俺のシュミに合わせてくれたのかよ?」
「は」一瞬思考と手が止まる。ぽた、と水滴が足元に落ちる。何でそんなことしなきゃならないの。「そんな訳無いでしょう莫迦じゃないの」
「もう一回やるか?」
思わず立ち尽くしていると、笑った中也に軽く寝台に押し倒された。濡れる、やめて、と喚くも聞き届けられない。今度は女装無しだからねと訴えると、如何せぐちゃぐちゃで使いもんになんねえよと返される。湿った肌に直接、中也の唇が触れてぴくりと体が跳ねる。今夜のおかしな気分は、如何やら女装の所為だけじゃないらしい、と気付くのは、この後何回か抱かれてからだ。
「太宰」
柔らかく名を呼ばれる。いつもの、感情を伴わないやり方で善かったのに。名前なんて呼ばなくても善かったのに、情事中に聞くその声は、何だか癖になりそうだった。
その後、中也が車で送ってくれたものの、探偵社の寮に帰る途中に女装のままパーティよろしく仮装した探偵社の皆と鉢合わせ、暫く社会的信用を失ったのは、また別の話だ。
「トリックオアトリート!」
ばん、と勢い良く開かれたドアの先を、俺は半目で見遣った。其処に立っていたのは砂色の外套に身を包んだ蓬髪の男だ。それがにこにこと阿呆面を下げて執務室へ侵入してくるが、この男にこの場所への出入りを許した覚えは無かった。然し組織を裏切った手前がなんで此処、ポートマフィアの本部に居やがる、などとこの男には云っても無駄なことなんだろう。千度経験してきたことだ。どうせ来ると思っていた。ふーっと長い息を吐き、再び手元の書類に視線を戻す。
「ねえ中也、聞いてる? お菓子を呉れないと悪戯するんだってば!」
ひら、と目障りな外套を翻しながら、男――太宰は喧しく喚き立てる。部下が居ればさっさとこの男を捕らえろと命じていた処だったが、生憎と今日は全員出払っていた。例えば今いきなりこの執務室周辺が爆発しても、暫く気付く人間が居ない程度には皆留守にしている筈だ。任務やら休暇やら、昼休みやらで。だから捕らえるなら、俺一人でやるしかない。遠くでは微かな街の喧騒が窓硝子越しに聞こえている。在り来りな昼下がり。微睡んだ空気の中を、相も変わらずふらりふらりと怪しげな足取りで、太宰は無造作に歩を進める。
――否、何も考えていないようでいて、その実その歩みは精密に計算し尽くされたそれだ。太宰の歩みは部屋の真ん中辺り、予想通りの位置でぴたりと止まった。
ペンダントライトの真下から少しズレた場所。それでいて、俺の射程を的確に数センチ外す距離。
相変わらず質の悪い野郎だ。目の端にその姿を捉えて鼻で笑う。
「ねえガン無視は酷くない」
「……30点」
「10点満点で?」
「桁が一つ足りてねえよ莫迦」そこで集中することは潔く諦めた。長く酷使していた目頭を抑え、手元の書類を机上に放り、ギッと椅子の背凭れを揺らす。「大体手前、ハロウィンとは云うが、そりゃあ一体何の仮装だ」
「何って」太宰は半笑いのまま、自分の姿を何気無く見下ろし、その場でくるりと一回転した。その姿は、いつもと変わりが無いように見える。――と、そこまで考えて、いつもっていつだよと俺は内心で舌を打った。
俺と組んでいた――散々俺への下らねえ嫌がらせに奔走していた相棒時代のことか。
それとも、この男が勝手に組織を抜けて探偵社に入り、のらりくらりと過ごしている日々のことか。
不意に湧き上がった俺の疑問を意に介することも無く、太宰はへらへらと笑っている。「木乃伊男かな? 普段より多めに巻いております」
「……いつもと変わんねえじゃねえか。門前払いだそんなもん」
「君莫迦じゃないの? 顔にまで包帯巻いたら私のこの世界に二つと無い美貌が台無しでしょ」
太宰が何方で受け取ったのかは定かではない。
「そうだな」ぎしりと理性の何処かが怒りで軋む音を聞きながら、俺は苦々しく頷いた。「手前のその面に免じて、30点は呉れてやる」
「うわ、君ほんと私の顔好きだね」
反射的に手が動いたのは蓄積した苛立ちが限界に達したからだ。ばんっと机上を叩いて立ち上がり、一番上の引き出しに手を突っ込む。脅しの積りも兼ねていたが、手の動きが見えていたのか太宰が微動だにしないのが腹立たしい。銃を仕舞ってあるのは、もう一つ下の引き出しだ。
太宰の浮かべるチェシャ猫のような笑みが一片たりとも歪まないことに忌々しく舌を打って、取り出した飴の個包装を力いっぱい投げ付けた。半ば八つ当たりだ。俺は今でも下んねえ疑問に一個ずつケリをつけてかなきゃならねえってのに、なんにも考えてねえような面をしてのうのうと俺の前に姿を現しやがって。腹立たしくて仕方が無かった。だから少しくらい、太宰の嫌がる顔が見たいと思っても許されると思った。
狙い通り太宰の額を貫通する勢いで命中した飴が、太宰に真っ赤な痕を残してぽてんと絨毯の上に転がり落ちる。
涙目で蹲る太宰。ざまあみろ。
「いった! 莫迦力! 頭蓋割れたら如何するの!」
「は、そのお綺麗な顔潰されたくなきゃ疾っとと失せろ、莫迦太宰」
と、云うものの太宰はもう聞いてはいなかった。文句を云いながらちゃっかりと飴を拾い、「ええ~これだけ?」と不満そうに口を尖らせている。子供か。
「足りない……」
「煩えな。大体、マフィアに菓子をせびるなんざ――」
「ねえ、中也――足りないんだよこれじゃあ」
一際ねっとりと、纏わり付くように俺の名を呼ぶ低い声。
がらりと変わる空気。
「……あ?」
その一言で、思考が一瞬にして拭い去られた。下らない疑問も、苛立ちも、怒りも、多分、少しばかり含まれていたセンチメンタリズムも。残ったのは生存本能だけ。振り向きざま、反射的に発動しそうになった異能を抑える。未だ駄目だ。けれど疼く防衛本能に思わず奥歯を噛み締める。例えば豪速球で投げられたボールが目の前に迫れば、大抵の人間は危険を感じて手で払うだろう。同じことだ。
殺意を投げられれば、殺意で振り払わずには居られない。
そう云う類の刃が、太宰から俺に向けられていた。
何の積りだ、と振り返る。態々俺にそれを向けるのは、如何云う積りだ、と。
太宰の殺気に呼ばれるように己の裡からじわじわと湧き上がる衝動を抑え、太宰の方をぎろりと睨む。視線の先の、熱に浮かされたような黒の瞳と目が合った。じっと此方を見詰める瞳を濡らしているのは、紛れも無い、俺を害したいと云う悪意だ。それは太宰が敵と『お話し』するときに使う術。その視線に射竦められた哀れな敵対者は、背筋を恐怖に震わせ、圧倒的な強制力に依り知らず太宰に心臓を差し出すことになる。
いつもの手だ。
相棒時代の。
無論、俺が引く道理は無い。
「……何の積りだ、太宰」
興奮に声が掠れた。
「やだなあ、焦らしてるの、中也?」けれどそれはお互い様だ。欲を孕んだ声が、皮膚からじわりと侵食して、骨を芯から震わせる。「判るでしょう、こんな子供騙しのお菓子じゃなくて。今、私が一番欲しいモノさぁ……」
思考がじわりと熱を持つ。これが菓子と天秤に掛けられた“悪戯”だと云うのなら、効果は覿面だった。この男を本能のままに引き倒し、めちゃくちゃにしてやりたい衝動に駆られる。然しここでそれをしてしまえば、折角の計画が台無しになる。頭の片隅に残った理性で何とか激情を押し留める。鬩ぎ合いに脳の血管が千切れそうだ。
対する太宰は至極愉しそうに笑うだけ。確実に態とだ。俺を好きなだけ煽って、そうして自分だけが満足を得てさっさと帰るんだろう。いつもみたいに。
いつも、自殺に失敗して死に損なった後、興奮を引きずって俺の部屋に押し掛けてくるみてえに。
「……相っ変わらず、ムカつく野郎だな手前は」
はあ、と昂ぶった鼓動を鎮めるように息を一つ。大仰に手を振って視線を払い、俺はぴら、と一枚書類を取り出す。
「ほらよ。手前の目当てはこれだろう。今手前等が追ってる密売組織の情報」ひらひらとそれを見せる。「回りくどい真似しやがって」
「ん? あー、それ、それね。それも有ったんだった」
ぱちん、と思い出したように太宰が指を鳴らす音一つで、からりと部屋の空気が戻った。じとりと肌に纏わり付く湿気は微塵も無い。遠くでクラクションの音が鳴って、街の喧騒が意識の内へと戻ってくる。詰めていた息を吐いて、吸う。
「まあ、呉れるって云うんなら、今回はそれで手を打ってあげようかな」
「タダで呉れてやる道理は無ぇが」
「あれ、呉れないの? 探偵社にお任せ頂ければ、華麗に一網打尽にしてみせるよぉ、君の部下は死なないし、君の部下の工数も取らせない。君の首領の好きな、エコってやつだ」
「期限は」
「今週中」
「……善いだろう」
先程の高揚した殺意が嘘みたいに、二人してにやりと笑う。あんなのは只の気まぐれだ。いつもの戯れ。そうして俺は太宰にその書面を差し出した。太宰はにこやかに、差し出されたそれを手に取ろうとした。
「あれ」
頬を嬉しげに歪めていた太宰が、その笑みを曖昧なものへと変えた。その目が微かに見開かれる。太宰の表情の僅かな変化を、俺の目は見逃さない。
バレたか。
「……ねえ、中也」
「んだよ」
「……あのさあ」俺の処まで後数歩と云う距離で、太宰は立ち止まった。書類は未だ、俺の手から取られないままだ。慎重に、何かを探るような声音。「中也はさ、今日、私が此処に来るの知ってたっけ?」
「あァ? 知る訳無えだろ」これは本当だ。太宰の来訪を、情報として知っていた訳ではない。
但し直感は別だが。
「ふぅん……」
沈黙が降りた。俺は書類を差し出している。然し太宰は頑なにそれ以上近付こうとしない。動かない太宰に痺れを切らし、ち、と舌を打って俺が歩み寄ろうとした瞬間――太宰の唇から、君は相変わらずだよねえ、と乾いた呟きが漏れた。
「……演技するなら、もうちょっと殺気隠さなきゃ」
――空気が凍ったのは一瞬だった。
太宰が弾かれたように飛び退る。俺の蹴りが、太宰の居た空間を一閃切り裂いた。太宰はそれを確認しない。一目散に、扉へと駆ける。
「逃す訳……無えだろ!」
異能発動。標的は太宰ではない、太宰が出ていこうとする先の廊下だ。ぱき、と罅割れの音が響いた。それが静止したのも束の間、ぐしゃり、と廊下の天井がまるで刃を入れたケーキのように崩れ始める。太宰が辿り着く前に、ガラリガラリと轟音を立てて廊下全体が崩落する。
「うっそ、そこまでする!?」
真逆本部の建物を中也が倒壊させるとは思わなかったのだろう、この日の為に自然な程度で人払いをし、一角を壊しても良い程度の手回しをしていたとも。そこが太宰の隙だった。一瞬その足が止まる。廊下を駆け抜ければまず間違いなく瓦礫の下敷きになる、然し異能を無効化するには中也を抑えなければいけない。
その迷いが命取りだ。
「手前にしては珍しく見誤ったようだが」ガン、と椅子を蹴り上げて持ち上げる。太宰がちらりと室内に目を戻したのが見えた。「手前に悪戯する為なら、俺は割と何だってやるぜ」
俺が先刻は抑えた昂揚を叩き付けていると云うのに、太宰はじっと計算高く室内を見、持ち上げられた椅子を凝視するだけだ。俺が椅子を投げた瞬間、その椅子を避け横をすり抜け、背後の窓から逃げ出そう。そういう算段なんだろう。数年経った今でも、元相棒の考えが読めなくなった訳ではない。いつものように、判ってしまう。
だから俺は、椅子ではなく引き出しに入っていた銃で太宰の足を撃った。
「!」
完全に意識の外だったのだろう、太宰は避けきれずその場に崩れ落ちる。訳が判らない、と云った顔で「う、っ、……?」と血も流さずに倒れたのは俺の手にしたこれが意識を失わせる為だけの麻酔銃だっただからだ。もう片方の手で、今度こそ全力で椅子を投げ付ける。太宰は逃げない。まともに椅子の重量を受け、その痩身が床へと崩れ落ちる。
珍しく苦い顔で自分を見遣る太宰の顔に、俺は自分の唇が綺麗に弧を描くのを自覚する。
「何の心算……」
倒れた太宰が呻く。
それは先刻俺が太宰に向けた言葉だ。
だから俺も、それに笑って応える。
「判んねえか、太宰。子供騙しじゃない、今俺が一番欲しい物、だ」
太宰は迷うように数度唇を震わせ――結局、何も云わなかった。
俺をけしかけるだけけしかけて。自分から踏み込んでこねえのは、らしいと云えばらしい。
「……手前を捕らえて悪戯出来るんだとすれば、ハロウィンも中々悪くねえんだ」
最高に気分が良くて、俺は今度こそ殺す積りで、太宰の鳩尾を蹴り上げた。
お菓子を呉れなきゃ悪戯するぞ。
別に選ばなくったって善いし、返り討ちにしたって善いんだ。でも二択で迫れば、相棒は律儀だからどっちかから選ぼうとする。本当はどっちでも良かった。本質的には変わらなかった。彼から貰うのでも、自分からいたずらするのでも。あの男はきっと、何方でも最高に嫌そうな顔をして呉れただろうから。
微かな振動に揺られて、微睡んでいた意識が水面に浮かぶように頭を擡げた。薄く開いた視線の先に、運転席に座った相棒の後ろ姿が見える。その手前に、座席に無造作に投げ出された自分の手。えらく視線が低いのは自分が横たわっている所為だと、暫く思考を彷徨わせてから気付く。相棒が居るからと、気を緩めて後部座席で眠ってしまってたんだろう。何だか顔の肌に違和感があるのは、ずっと頬を座席に押し付けているからか。カーステレオから時折響く低音が、思考の流れを緩く遮る。煙草と香水の馴染んだ匂い。間違いなく、相棒の車の中だ。
だからいつもみたいに声を掛けた。
いつも、任務に向かうときみたいに。
「ん、中也……到着、未だなの……」
「もう直ぐだよ」
低く喉を鳴らして笑う声。そう、と頷こうとして――有る筈の無い返事に私は飛び起きた。『もう直ぐ』だって? そんな訳無い、だって今の私は探偵社員で、この男と行動を共にする訳が無いんだから。けれど現実に、運転席に座っていたのは中原中也そのものだった。バックミラー越しに目が合う。帽子の下の琥珀の目が、此方を嘲笑うように細められている。二十二歳の、幹部然とした中原中也だ。混乱した意識に、段々と現実の時間が追い付いてくる。
詰まり自分は、マフィアに居た頃と勘違いをして、今の受け答えをしてしまったらしい。
寝惚けて犯した有り得ない失態に、頭を抱えて呻く。「あ、さいて、ほんとむり、うわ……」
中也は笑って、それについては何も云わない。
「一応訊いとくけど」
云わないまま、操作桿を回す。
「トリックオアトリート?」
そうだ、自分はハロウィンにかこつけてマフィア本部に侵入したのだった。目的はマフィアの所有している資料だったが、ついでにお菓子でも強請ってやろうと元相棒の元を訪れたのだ。とびっきり甘いやつを、目一杯せびってやろうと。
勿論、やり返されることを想定して太宰自身も菓子を持っていた。ケーキ屋で調達した、洒落た焼き菓子の詰め合わせだ。中也に菓子を呉れてやるのはひどく癪だったが、自分が菓子やその他のものを強請って中也から奪ったとして、その後に「トリックオアトリート」と宣言される可能性も零では無かった。「じゃあ悪戯だな」とやり返しでもされれば、目も当てられないのだ。だから訊かれてもしたり顔で「これで悪戯出来ないねえ」と嘲笑ってやろうと、菓子なら外套の衣囊に入れてある。入れてあった。
その筈だ。
私は後部座席に横たえられた自分の姿をまじまじと見下ろす。目から入ってきた情報が処理し切れずに、一瞬言葉を忘れる。
自分が身に纏っていたのは、いつもの砂色の外套ではなかった。
ジャケットも、シャツも、スラックスも、無い。
代わりに着ていたのは淡い色のインナーに。
少し長めのニットのカーディガン、と。
布の重なったフレアスカート。
ご丁寧に靴にもヒールがついていて、その上の脚を覆うのは、膝上まで在る黒いソックス。
如何見積もっても全部女物の。
思わず悲鳴を上げる。
「何だいこれ!!!」
「何って。手前の汚え女装」
さらりと中也が云う。この男、汚いって云いやがった。
色んな怒りから反射で運転席に掴み掛かろうとして、衝撃で頭からずるりと何かがずり落ちる。見れば私の髪と同じ色をした黒鳶のウィッグだ。長さは肩くらいまで在るだろうか。真逆、と思って窓を見る。ウインドウの向こうを流れる昼日中の街の景色、其処に薄っすらと映る、化粧をした自分の顔。元がいいから、女性的に見えなくもない。瞼はくっきりと縁取られ、睫毛が瞬く度に魅惑的に揺れる。自分で云うのも何だが美人だ。
詰まり私は、徹底的に女装させられていた。
「意味わかんない、えっちょっと待ち給えよ……」
何だか頭がひどく痛んだ。何処の世界に侵入者を女装させて車で連れ回すマフィアが居ると云うのだろう。
「此処に居るだろ」漏れた独り言に、中也が応える。「菓子が無かったから悪戯にした」
「嘘、私衣囊に入れておいたでしょう!」
「一人分しか無かったが? 姐さん喜んでたぜ」
唐突な尾崎紅葉の名に驚くが、然しこの服の入手ルートを考えれば不自然なことではなかった。気絶した私を姐さんの処に持って行き、菓子と引き換えに女装をさせる。そう云う悪戯。
嫌すぎる。
然も何だか、下半身がやけにすーすーとする。女性はよくこんな心許無いものを履いていられるものだな、とぴら、と布を一枚捲った。
目を覆った。
「下着履いてないんだけど!?」
道理ですーすーする筈だ。
「仕方無えだろ? 姐さんが如何しても貸して呉れなかったんだよ」歌うように中也が云う。当たり前だ、と云うか姐さんに女性用の下着貸して呉れって云ったの、莫迦じゃないの、この命知らず。云いたいことが有り過ぎて、ぱくぱくと口を開閉するしか出来ない。「だから今から買いに行くんじゃねえか」
正気じゃない。
「中也。君、今、何徹目」
その質問は予想外だったのか、ふ、と中也が考え込む気配が在った。それから、一、二、と操作桿を離れた手が指折りその数を数えていく。
「いや、いい、判った、それについては同情する、同情はするけど取り敢えず服返して」
「燃やした」
「イカれてる……」
逃げよう、と決心する。如何考えてもこんな悪夢に付き合う道理が無い。勝負は一瞬だ。身を乗り出してブレーキを踏む、同時に中也から銃を奪って人間失格を発動させたまま発砲、怯んだ処を助手席から逃げる。数秒の内に素早く計画を立て、さっと目線を走らせるとバックミラー越しに中也と目が合った。その琥珀色の瞳は正気も正気だ。本当に、女装した私を連れ回す心算らしい。意味が判らない。抗議の視線を向けてみても、中也の目にはアイラインで縁取られた私の愛らしい目が見えるだけなんだろう。睨んだって、効果の程は見込めなかった。
「逃げたらばら撒く」
その上先手を打たれた。
「……ええ……聞きたくないのだけど……何を」
「マヌケな面晒して寝てる手前の女装写真」
「やだあ私の痴態が他の人間に見られても善いって云うの!?」
「だからァ」中也は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌さで云う。「手前が逃げずに、今日一日俺に付き合えば済む話じゃねえか」
何でこんな楽しそうなんだろう、この男。
「ほんっと嫌い。死んで欲しい……」
「奇遇だな。俺もだよ」
いつもの遣り取りだ。けれど嫌いと云う割に、中也の声音は今日は柔らかい、ような気がする。そう云ったきり、中也が黙ってしまったから、私もそれ以上は何も云わなかった。
そう云えば、下着は今から買いに行く、と中也は云っていた。何処へ行くのだろう。まあ、下着が手に入るなら何処でも善いか。と思い直す。どんなものでも、ノーパンで居るより遥かにマシだ。
そうは思うものの、なんだか少しだけ嫌な予感がした。
◇ ◇ ◇
「流石に無理があるでしょ……流石に無理があるでしょ!?」
比較的大きめの女性向けランジェリーショップに連れ込まれ、私は青褪めて悲鳴を上げた。今の御時世、もっとこう云うシチュエーションに相応しい下着売り場は他に在る筈だった。止むに止まれぬ事情で人知れずこっそりと下着を買いに行く為の、なんか、こう……在るでしょう他に! ジャ○コとか! ユニ○ロとか!
「女声作れんだろ、気張って出せよ」
女性客と女性用下着に囲まれたこの状況で如何してそんなに平静で居られるのかこっちが聞きたいくらいの冷静さで中也が云う。敵地に一人放り出されるよりランジェリーショップに乗り込む方が余程事態は深刻だった。私だって、女性の同伴であれば多少の抵抗はあれど足を踏み入れることもしたかも知れない。たまにそう云うカップルは居るし。然し今回の組み合わせは男と女装した男だ。凡そ想定され得る客層からは掛け離れている。おまけに味方からの援護射撃も無い。敵地としては孤立無援だ。
なのに唯一のバディさえ味方でないときた。
「いやいやいや、嫌だよ何でそんなことしなきゃいけないの」
「スカートずり下ろされてえのか」
脅迫じみた言葉に思わず反射的にスカートの裾を抑える。
今それをされたら、女装趣味と露出狂とその他諸々の変態のレッテルを貼られた後、速やかに市警に引っ捕らえられてしまう。現行犯逮捕だ。自殺は好きだが社会的に死ぬのは御免だ。
もうこうなったら、徹底的に女性役に徹するのが最適なんじゃあないか? と云う考えが状況を受け入れられない私の脳裏を過っていく。幸いにも服のチョイスが良かったのか、男性的な体の部分――首の周りだとか、脚だとか、骨格の顕な部分だ――は上手く隠れるようになっていて、まじまじとよく観察されることが無ければ少し背の高い女性にしか見えないだろう。化粧が綺麗に施されているのもその助けになっている。気絶した私の顔を、好き勝手にいじっただろう姐さんの楽しげな顔が目に浮かぶ。
これなら普通にバレない。
なら、バレないように女性のふりをしてさっさと終わらせてしまうのが、一番得策じゃあないだろうか。
「中也、判った、も、いいから早く……」店員が近付いてくるのを見て、慌てて中也の腕を掴んで俯く。「サイズが合えば何でも善いから、適当なので善いから……」
「いーじゃねえか、普段色気の無えもん付けてんだからもっと派手なの買えよ」
そりゃそうだ。普段は普通のボクサーパンツなんだから色気を見出されても困る。
ってそうじゃなくて。
「なあどれにする? サイズどれだっけ、無難にCくらいにしとくか?」
「は? 上は要らないでしょ!」
この男、楽しんでる。こっちはバレないように神経を尖らせてるって云うのに、何でこんな愉快そうに笑ってるんだ。何だか段々腹が立ってきて、早々に終わらせるべく中也の腕を引っ張る。ええと、パンツ。下に履くやつは何処に在るんだろう。見付けられずに探し回り、店の奥に在る一角をひょいと何気無く覗き込む。
それが間違いだった。
其処には何だか、表に置いてあるものとは一線を画したラインナップがずらりと並んでいる区画。
所謂セクシーランジェリーの類の。
「おっそれにするか? その透けてるのとか善いんじゃねえの」
「セクハラだ……」
背中に掛かる楽しそうな声に呻く。
なんで慣れてるんだろう。女性同伴で来たこと有るのかな。
「ほら手前、着るんならあの黒い派手なのとか好きだろ」
誰も着るとは云ってないし。
「上下セットも御座いますので、良ければお声掛け下さいね!」
「ああ、悪いね」
なんか何時の間にか店員と仲良くなっているし。
もうやだ。思ったより弱り切っている自分を自覚する。一刻も早く立ち去りたくて、中也がちら、と視線を走らせた先のベビードールを適当に引っ掴んで店員に渡す。白くて透けてて、縁に控えめにレースの付いた。「それでいいのか?」と少し予想外だと云うような声が聞こえたけれど、中也の意見とか知ったことじゃなかった。
「これの上下セットで」
中也がどんな顔をしていたのかは知らない。中也が会計をする間、ずっとその腕にしがみついて俯いていたからだ。
その寡黙さが気を引いたのか、店を出る間際で女性の店員に好奇心をいっぱいに湛えた目で耳打ちされた。
「彼氏さんですか? 大事にされてるんですね!」
断じて違う。
断じて違うけれど女にするように腰を抱かれてラブホテルに連れ込まれるとそう錯覚もしてしまうと云うものだ。確かにセックスは何回もしてるし、付き合ってないけど彼氏と云われればそうなのかも知れない。疲弊した思考が、この冗談みたいな悪夢を段々と受け入れ始めていた。何の心算なんだろう、と疲れた頭でぼんやり考える。中也は私を如何したいんだろう。本当に疲れた。もう何でも善いから早く終わらせたい。
下着は未だ履いていない。綺麗にラッピングされたそれは、未だショップの紙袋の中だ。
「っあ、中也、ァ……!」
だから寝台に放り出されて布越しに芯に触れられた途端、抑えていた快感が脳裏に弾けた。ずっと外気に触れていたのだ、敏感になりもすると云うものだ。思わず中也にしがみついてしまい、驚いた中也を寝台の上に引き込んでしまう。弾みでウィッグが寝台の外に落ちる。構っている余裕は無い。小柄な割にしっかりとした腕を抱き抱えて、上がった息を整える。
「っは、はぁッ、あ……っ」
「何だよ、何時に無く積極的だな」
「誰の、所為だと……!」
「俺か? 光栄だな」
そのまま髪を掻き乱すように頭を抱かれ、乱暴に口付けられる。舌を絡ませられ、ちゅくちゅくと唾液の交じる音がする。背筋を這う快感に緩む口を抑え、必死に中也のキスに応えている間にするりと手際良くニットを脱がされ裾から微かに冷えた手が滑り込んできた。それにゆっくりと愛撫されながら、この男は女をこんな風に抱くんだろうか、とぼんやりと考える。
中也がどんな風に他人を抱くのか私は知らない。
いつもどんな風に私を抱いているのかさえも、定かでないのに。
「太宰」
低い声が直接耳朶に落とされて、体の芯が悦楽に震える。
「ん、ァあ、ちゅうや……」
でも、少なくともいつもはこんな風じゃない筈だった。
いつもは名前なんて呼ばなかった。
いつも。相棒時代も、マフィアを抜けた後も、ずっと体の関係を続けていた期間。
お互い精を吐き出せれば善かったから、情事の最中に中也の顔なんて見たことが無い。
入れて、出して。それで終わりだ。
なのに今夜の中也はやけに楽しそうだった。口付けだけでは物足りなくて、名前をもっと呼んで欲しくって、そうもどかしく体の熱を抑える私を放り出し、先刻買ったばかりのベビードールを取り出しひらひらとそれを弄んでいる。
「どうせなら着てみるだろ?」
「もう好きにしなよ……」
抵抗する気力は無かった。どうせ抵抗しても、力では敵わないんだから無理矢理着せられるだけだ。
早く欲を吐き出して終わりにしたかったのに、中断されて気分が焦れる。けれど中也はそれを察した上で、終わらせようとはして呉れない。だから仕方無く、下着に渋々腕と脚を通した。
端的に云えば歪だ。私の体は幾ら華奢とは云え、女性の体のように柔らかくもないし、丸みを帯びてもいない。ニットもソックスも取り払ってしまえば、確かな男の体が表れてしまう。おまけに傷だらけだから、お世辞にも綺麗だとは云えない。
なのに薄く透けた布に身を包んだ自分の姿に、如何しようも無くか弱い気分にさせられる。
例えばこのまま中也の腕の中で、溺れるように抱かれてしまいたいと云う気分、とか。
「これ、楽しい?」
「楽しい」
「あ、そ……」
そんなことを考えていたからか、不意に中也に薄い布越しに古傷に歯を立てられて、「っ、」と漏れそうになった嬌声を噛み殺す。中也に抱き締められて、口付けられて、精を吐き出す以外の欲がじわりと湧き上がってくる。変な気分になるのは、きっと女装なんてしている所為だ。中也が動く度に布が擦れて、それだけでもびくりと感じてしまう。もっと触って欲しい。もっと抱いて欲しい。大事にされているんですね。何故か女性店員の言葉が耳に蘇る。
そう云えば、私から襲って快楽を得ようとすることは多々有れど、中也から快楽を与えるような行為をされるのは初めてかも知れない。
愛される、みたいな。
そう云うの。
「中也」窮屈な下着越しに前を何度か扱かれて、か細く鳴くように呻く。「あ、やだ、も、いく……!」
答えの代わりに、唇を塞がれた。ちゅう、と口内を味わわれる、その音と感触に興奮して吐精する。余韻に息を切らしていると、「太宰」と今度は甘やかすようなキスをされる。中也の声。中也の匂い。中也も若しかしたら、私が女装していることで変な気分になっているのかも知れない。
例えば、いつもより優しく抱いてやりたい気分、みたいな。
「君にはさあ」気怠い思考で、呟く。「君には、こう云う変な趣味は、無いんだと思ってたのに……」
「手前が知らねえだけかもよ」
「……へえ?」
余裕ぶって首を傾げようとして、失敗した。つぷ、と体内に侵入する異物感に、意識が散ってぎゅうと目を瞑る。下着を脱がされた気配は無かったのに、と思うけれど白いレースをずらして指を這わせているらしい。弱い部分に触れられる度に、私の欲も頭を擡げる。下着に窮屈に締め上げられて、それがより一層刺激を煽った。きついのは目に見えて判るだろうに、けれど中也は脱がしては呉れない。
「ぁ、やだ、なんで、こんな、」触れられた部分から指の先まで、体中を這う快楽を逃がす先が無くて、咄嗟に中也にしがみついた。中也は難無く私の体を抱き止める。けれど指の動きは止めずに、丹念に入り口を慣らしていく。いつもみたいな性急なやつじゃなく、じわじわと与えられる快感に、私の脳が悲鳴を上げる。「やだ、いつも、みたいなのでいい、から……」
「いつもっていつだよ」
静かに中也に問われて目を瞠る。
いつもはいつもだ。
なのに中也は続ける。
「手前がマフィアを抜けてから、俺の『いつも』は途切れたままだよ」
如何云うこと、と訊く前に、中也の熱に穿たれて思わず不明瞭な嬌声が漏れた。上がる息、上がる性感。息苦しい。けれどそれ以上に感じる甘い痺れ。いつもより慣らされているからか、意識が溶けるのが早い。中也、ちゅうや、と名前を呼んで、応えるような口付けに安堵する。
いつも、は私の中で確かに繋がっているのに。
中也はそんなもの、知らないと云う。
今までの関係を、切り捨てるみたいに。
「じゃあ、中也はずっと、こんな風に、私を女みたいに抱きたかったの……」
体を揺さぶられ、中也の欲を内に感じながら、上擦った声で聞く。なら、悪かったなと思った。お互い性欲処理だけだと思って、私は勝手に気持ち良くなってたけれど、中也にはあんまり発散させてあげられてなかったのかも知れない。
「莫迦だな」
けれど中也は、笑って首を横に振った。
「俺はただ単に、手前の嫌がる顔が見たかっただけだよ」
は、は、と何方とも無い荒い息が交じる。せり上がってくる快感に追い上げられて、何も考えられなくなる。
中也のこと以外。
「手前との、味気無えセックスに飽きただけ……」
そう云って、中也はぎゅうと目を閉じて私の中に精を吐き出した。どく、と中で感じた中也の熱が気持ち良くて、私も中也にしがみついて追い掛けるように果ててしまった。
「でも手前の趣味じゃねえよなこれ」精液塗れになった下着を処分しながら、中也が呟くのが聞こえる。「手前はもっと、ド派手で淫乱ぽいのが好きだろ」
「いや、女装の趣味の方向性とか求められても困るし」シャワーを浴びて、濡れそぼった髪をがしがしとタオルで拭きながら、ふんと鼻を鳴らす。「大体、これ着て欲しそうにしてたの中也のくせに……どっちかと云うと、中也の趣味でしょ」
「ふぅん。じゃあ手前は俺のシュミに合わせてくれたのかよ?」
「は」一瞬思考と手が止まる。ぽた、と水滴が足元に落ちる。何でそんなことしなきゃならないの。「そんな訳無いでしょう莫迦じゃないの」
「もう一回やるか?」
思わず立ち尽くしていると、笑った中也に軽く寝台に押し倒された。濡れる、やめて、と喚くも聞き届けられない。今度は女装無しだからねと訴えると、如何せぐちゃぐちゃで使いもんになんねえよと返される。湿った肌に直接、中也の唇が触れてぴくりと体が跳ねる。今夜のおかしな気分は、如何やら女装の所為だけじゃないらしい、と気付くのは、この後何回か抱かれてからだ。
「太宰」
柔らかく名を呼ばれる。いつもの、感情を伴わないやり方で善かったのに。名前なんて呼ばなくても善かったのに、情事中に聞くその声は、何だか癖になりそうだった。
その後、中也が車で送ってくれたものの、探偵社の寮に帰る途中に女装のままパーティよろしく仮装した探偵社の皆と鉢合わせ、暫く社会的信用を失ったのは、また別の話だ。
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