フローライト

(2015/06/04)


「中也、ねえ、今夜は星がきれいだ」
 太宰がその煌きを損なわないよう、こっそり囁くのを聞いていた。声変わりを迎える前の、鈴の音のような声が夜に響く。言葉の通り、満天の星空だ。地上の血に濡れた血腥い惨殺死体の山なんてちっとも意に介しやしない、穏やかな星の海。それが、自分達の頭上に静かに流れていた。太宰に釣られて、ふいと空を見上げる。俺の視界は、まるでレンズでも通したみたいに、くっきりとその夜色を捉えた。
 先刻まで、世界の何もかもが真っ黒に染まっていたって云うのに。
 今は平常通りだ。
 夜の海には、星の流れる音さえ聞こえる。
 俺はぱちりと瞬いて、自分の世界にその平常を取り戻した奴をこっそりと盗み見た。太宰治。頭は良いし、ドジでもないのに何時も包帯だらけのおかしな奴。だのにこの太宰が、俺の躰をすっと――そう、まるで壊れ物に触れるかように――なぞった途端、猛り狂った黒の世界が、溶かされた氷のように形を失くして息を顰めるのだ。辺りは俺の放出した黒い粒子で全部潰れてしまっていて、荒野と云う他無かったけれど、その中で太宰治だけが、何の変わりも無しに立っていた。そう云うことが幾度か有って、それで俺は、俺の世界に平常を取り戻す度に太宰の姿が在るものだから、遂には此奴の姿を見付けて安堵の息を吐くまでに至ってしまったのだった。太宰以外のものは何一つとして、黒に染まる前と同じままでは見付けられなかったから。

 太宰は星を全部受け止めようとでも思ったのか、小さな体躯を両腕いっぱい広げている。俺とそう変わらない背丈なんだから、そんなことは無理に決まっているのに。こどもの自分達には、外の世界は広くて少し大き過ぎるくらいだった。
 それで、太宰の背中が小さいものだから。
 まるで星の煌きの中に、その闇色の外套が溶けていってしまいそうで。
 太宰。
 思わずそう声を掛けようとして――がくんとその場に崩れ落ちて膝を突いた。それから手の平を。手袋を脱いだ素手に、草の露が冷たい。目を落とせばじわりと指の淵が黒く染まっていた。矢張り未だ、自分の体は汚濁からは回復し切っていないらしい。くらくらと目眩がする。息がし辛い。草木がざわりと、俺を中心に騒ぎ立つ。
 はっ、はぁっ……と息を切らしていると、不意に目の前の草木が黒い革靴に踏み付けられた。視界に影が落ちる。見上げようとする間も無く、しゃがみ込んだ太宰に両手をそっと握られる。
 太宰の手は、陶器のように滑らかなのに、その感触に似合わず火照っていた。
「如何?」
 その声を背景に聞きながら、ゆっくりと呼吸を取り戻す。
「……何が」
「こうしたら、楽でしょう」
 じっと、絡み合った自分達の指先を見る。太宰の指先はひどく白い。そうして俺の染まった指先も、太宰の色が混じるようにその凶悪な黒を失くしてしまった。ざわついていた草木が、ひっそりと静寂を取り戻す。俺の世界が、平常を取り戻す。
 太宰治の手によって。
 俺は一つ息を吐いた。
「いや、『如何?』じゃねえよ。手前も死体の片付け手伝えよ」
「ええ、やだ。だって中也が一人でやった方がきっと効率良いよ」
 太宰は笑った。くる、と俺の手を離して踵を返す、その仕草に合わせてぶかぶかの闇色のコートが翻る。私ほら、中也と違って力持ちじゃないから。そう云って無邪気な笑みを浮かべる。
 にこりと笑う、その右目は包帯に隠れて佳く見えない。確か――今回は、この前余所見をしていて打ち付けたのだったか。莫迦だな、とも思ったし、もったいねえことしやがって、とも思った。両の目が見えていたのなら、きっとその黒い夜空に星が落ちてさぞ綺麗だったろうに。
「効率の問題じゃねえ、俺の気持ちの問題だよ」云いながら、今度は倒れずに間違いなく、どさ、と抱えた屍体を一箇所に纏める。手にべったりと血が付いて、思わず顔を顰めてしまった。服はもう血塗れだ。ぐしゃぐしゃにして殺すんじゃなかった、とちょっとだけ後悔する。まあそのときのことは覚えてないのだけれど。「『何で俺ばっかり』とか、俺がそう思うとは思わねえのか? お互い気持ち好く仕事してえだろ、太宰治」鉄の臭いが鼻につく。
「嫌だなあ、中原中也」太宰が嫌な薄笑いを浮かべた。俺達みたいな年頃の、こどもの浮かべる顔じゃあない。それはまあ、お互い様ではあるけれど。「作戦を立てたのは私でしょ? それに力を解放した君を止めてあげてもした。じゃあ後片付けは君の仕事だ」
「莫迦云え、一番体張ったのは俺だろうが」
「でも君は思わない」
 太宰は半ば遮るように、予言めいた口調でそう断言した。次の言葉で、俺の不快指数が上がる。
「君は、私に死体を触らせたいとは思わない」
「……巫山戯んじゃねえぞ」
 気付けば太宰の胸ぐらを掴んでいた。かっと目の前が一瞬真っ暗になったのは、今度は汚濁の為ではなく単純に怒りの為だ。そんな風に気を遣う余裕が無かったものだから、太宰の白い襯衣とそれより白い首筋が、血でベッタリと汚れてしまう。ああ、しまった、と俺は思ったが太宰は特に気にしなかったようで、きょとん、とその笑みを疑問符に変えただけだった。なんだその間抜け顔。莫迦丸出しじゃねえか。
「手前のことを、蝶よ花よと愛でるしか脳の無えような、其処等の男と一緒にすんな。殺すぞ」
 殺気を込めた言葉に然し、太宰はぱちりと瞬いて、「そうだね」と密やかに吐息を漏らした。互いの息が交わる。
「そうだね、君は私のこと、魚だと云ったものね」
「青鯖だ」
「そう」
 太宰は俺の手を柔く払って、星の海を背にして笑った。
 青鯖が空に浮かんだみてえな顔しやがって、と形容したのは他でもない中也だったが、それは夜になるとまた違う色合いを見せて中也の目の前に存在しているような気がした。ひらりと手を広げて星の中を舞う、その姿は悠々と泳ぐ魚のそれだ。水を得た、魚。その姿で、この世界も、中也の世界をも泳ぎ回ってみせるのだ。きっと此奴にとっては何処だって、自由に泳ぎ回れる遊び場になる。何もかもが、此奴の思い通り。
 けれど。
「知ってる、中也? 魚は空じゃあ息出来ないんだ」
「太宰」
「息苦しくって、仕方が無いんだよ。中也」
 太宰が屍体を踏まないよう、ずいと顔を寄せてきた。存外近い距離に、俺は軽く瞑目する。此奴のことは、好きじゃない。寧ろ嫌いなんだ。こう云う、自分の容姿や頭脳が優れていることに自覚が有る処とか、凡百物事が自分の思い通りに出来ると思っている処とか、全部。大嫌いなんだ。
 けれど拒絶出来ない。
 一緒にするなとは云ったけれど、此奴のことを愛でる男達と果たして何が違うものか。奥歯を噛んで自嘲する。俺は知っている、此奴が日々、どれだけ世界を生き苦しく送っているか。どれだけ自分の死を望んでいるか。
 そして自分がどれだけ、此奴の死を望んでいないかを。
 だって俺を世界に引き戻せるのは、ただ一人、この男だけなのだ。
 だから最後には甘やかしてしまう。
 すい、と唇を指の腹で撫でられる。じっと見詰めてくる黒い瞳は、ただ俺の無愛想な顔を映すのみだった。ちゅうや、と、求められるままにキスを交わす。甘いやつを。唇をくっつけて、離して、またくっつけて。自分から求めてきたくせに、少し身を引くような気配を感じたから、後頭部に手を回して無理矢理その頭を捕まえた。ちゅ、と軽い音を立てて、お互いの口の中を味わうように。そうされるのもきっと計算の内なんだろう。そう思うと腹立たしくて仕方無かったが、それが拒絶する材料にならないのもまた、お互い了解の内だった。
 お互い気の済むまで啄み合って、一旦ふ、と息をつく。二人分の、微かな息遣いだけがその場に響く。
「……俺もだよ」
 俺がぽつりと零した心許無い言葉に、太宰は今度こそ首を傾げた。「何が」俺の手を取って、甘えるように口付ける。手袋を脱いだ手に、太宰の唇の温度が擽ったい。
「『何が』じゃねえよ、判ってんだろ……俺も、手前が居ねえと息がし辛えんだ」
「ふふ」
 すり、と頬を手に擦り付けられる。その体温は熱を持って熱い。「じゃあお揃いだね」と、囁くような吐息が漏れる。星降る夜を、壊さぬように。
「ねえ、中也。もっと欲しい」
 我儘だな。そう思ったが、太宰が俺に対してこう云う我儘を云うのは珍しいから、気の済むまで付き合ってやろうと思ってしまった。我ながら、甘いし。それも絶対、読まれてるし。
 それでも、手を離す気にはなれないんだから、此奴のことが嫌いだった。
 もう一度口付ける。今度は深く、息も出来ないくらい。それでも太宰とのキスは苦しくなくて、心地好くて、汚濁に黒く染まるのとはまた違う感覚で、自分が溶けていくようだった。願わくば、きゅっと目を閉じた太宰も、同じ気持ちであればいいと思う。
 離れ難さが銀の糸を引いて、太宰が囁くような声を漏らした。
「君と居ると、私も、不思議といき苦しくないなあ」
 ぎゅうと抱き締めた華奢な体が、俺の腕の中で安堵に緩む。
「君の側だと、息がし易いんだ……」
 海に居るみたいだ、と太宰は云った。まるで海に、抱かれているみたいだと。
「ずっと、私の側に居てね」
 手前が離れねえ限り、俺は手前の側に居るよと。そう思った、海みたいな星の夜だった。
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