COSMIC LOVER
(2015/04/29)
「太宰、もう上がっていいぞ」
国木田君の妙に優しい静止の声が、私の手を止めた。思わず顔を上げる。
「え……。なんで!?」
「なんでも何も。お前の仕事はもう終わっただろう?」国木田君が首を傾げる動作に合わせて、榛色の髪がさらりと流れる。「後は俺の分だけだ。お前に態々手伝って貰わなくとも、大丈夫だと云ったんだ」
その言葉にはっと手元を見る。何時の間にか自分の担当分は綺麗さっぱり終わっていた。先週から頑張って溜めていた分も、凡て滞り無く捌けている。壁の時計は定時を少し過ぎた処を指していて、けれど春も盛り、日も長くなる頃合いだったから窓の外は驚くほど夕日が明るい。足元の影が長く伸びる。
その、私の体で日が遮られ、黒々と伸びる影に、何故だか云い様の無い不安に駆られる。この逢魔が刻、独りで居ると突然影が起き出して、足元を絡め取るのではないか。そう云う不安。
「か……帰りたくないんだけど。今日は」
だから縋るように国木田君に哀願した。
「十代の娘じゃあるまいし、お前に払う残業代が無駄だからさっさと帰れ」
一も二も無く切り捨てられた。私はおよよとその場に泣き崩れる。
「ひどい、あんまりだ、私がこんなにもしおらしく頼んでいるのに、ねえ敦君?」
近くを偶々通りがかった年下の後輩に話を振る。そうですね、国木田さんはもっと太宰さんに優しくてもいいんじゃないでしょうか。期待した答えはそれだ。けれど少年は、「んー」と手を口に中てて少し考え、それからあたかも世紀の名案を思いついたように一つ手を打った。
「太宰さん、ゴキジェットは冷却タイプがお奨めですよ!」
「別に部屋に虫が湧いた訳ではないよ!」
心外だ。この後輩は私のことを何だと思っているんだろう。「え……だって太宰さん生活力無さそうですし」私の部屋は何時だって綺麗だし、寧ろ昨日の夜は誰が来たっていいように何時もより念入りに掃除したくらいだ、ってちょっと待って今何か聞き捨てならない言葉が聞こえなかったかい。
「有るよ私にだって生活力くらい! 若し或る日突然私と心中したいって云う美女が現れて最期に私の手料理を所望されたら部屋に上げてご馳走する必要が有るだろう!?」
「不純ですね」
「その心配は如何考えても無用じゃないか?」
じとりとした視線を両側から受けて、う、と怯んで後退る。二人共如何して判って呉れないのか。寂しいんだ。独りで居るのも、独りで帰るのも。一緒に心中して呉れる美人の居ない、この空虚な心を誰か拾っては呉れまいか。
不意に薄っすらと、夕暮れと薄暮の境に浮かぶ雲のように、一つの心当たりを心の中に思い描く。自らの直ぐ傍らに寄り添う影。
――手前のことを、放っておける訳無えだろう。
然し莫迦げた考えだ。天地が引っ繰り返るよりも有り得ない。思考に掛かった雲を慌てて掻き消す。すると私の心はすっかり宵闇に覆われてしまうのだった。外は未だ夕方なのに。
その落差に混乱する。
其処に追い打ち。
「太宰。朝から気になっていたのだが……今日は一体、何をそんなにそわそわしているんだ」
今年もなのか。そう、国木田君に図星を突かれたのが限界だった。
それじゃあまるで、私が毎年この日におかしくなってるみたいじゃあないか。
私はその場を逃げ出すように、探偵社を後にした。
◇ ◇ ◇
とは云え帰りたくないのは事実だ。ぶらりと商店街を当ても無く歩く。すっかり日が長くなって、六時を過ぎたと云うのに未だ夕日がぼんやりと空に浮かんでいた。太陽がビルヂングの群れの間で、まるで誰かさんの目の色みたいに金色混じりに輝いている。
誰かさん。二十数年前の今日のこの日に、生を受けた誰かさんだ。
途中、本当に思い付きで、何気無くふらりと洋菓子店に寄る。少し古びた煉瓦造りの、人形が住む家のような赤い庇の洋菓子店。昔に良く来た店だ。甘い匂いのする。この店は品揃えもさることながら、可愛らしい見た目に反して客の入りの少ない、隠れた雰囲気が好きだった。私が好きなのは苺のショートケーキ。生クリームたっぷりの。そして何時も一緒に買っていくのは甘さを抑えたスフレチーズケーキ。後ティラミスとか。フルーツタルトも好きだった筈。二人でよく、あれでもないこれでもないとひと月に何度か試していたのだ。そのときのことを思い描きながら幾つか吟味していると、「ご注文はお決まりでしょうか」とにこやかに微笑んできた店員さんが可愛い娘だったからつい「これとこれとこれを頂戴」と迷っていたものを全部買ってしまった。「此方もお一つ如何でしょう? 甘さ控えめの新作で――」と云われるがままにそれも詰めて貰う。でもお一つじゃなくお二つ。店員さんの、軽く頭を下げる仕草が可愛らしい。揺れる茶髪のショートヘア。いっそ心中にでも誘ってみようか。ほんの当て付けに、なんて。
結局お誘いは叶わずに、店員の声に見送られながら私はケーキの箱を抱えて店の外へ出た。て云うかこれ如何するんだろう。空を見上げて、遠い雲の流れに急に空しさに襲われる。こんなもの、買ったって一人で食べないといけないのに。
――今年もなのか。
唐突に、先刻の国木田君の声が耳の奥で蘇る。去年、そう、去年の今日も同じように食べもしないケーキを買ったような気がした。あとお酒と。おつまみ。去年はそれを如何したのだっけ。国木田君にでも御裾分けしたのかな。ぐだぐだと管を巻き、ひどく酔い潰れていたような気がしたが、記憶の底に靄が掛かったようにその日のことがはっきり思い出せない。
ふらふらと、歩きながらケーキの箱を見遣る。お持ち帰りのお時間はどれくらいですかなんて訊かれたから、つい二時間くらいですかねなんて答えてしまった。此処から太宰の今現在の家までは、ほんの十五分も掛からないのに。それとも、二時間は帰らないでおこうか。二時間は保つし。後は知らない。腐るなりなんなりすればいい。
いっそ箱を蹴飛ばしたいほどの衝動に駆られていると、何時の間にか橋の上まで来てしまっていた。大きな橋だ。この下を轟々と流れる川は、横濱の中心部を流れる一級河川。入水するのに不足は無い。
嫌がらせをしてやろうと思った。
今日誕生日を迎えた誰かさんは、今頃盛大に皆に祝われていることだろう。私と違って彼は頗る人徳者だから。けれどその中に私の姿は無いのだ。それなのに満足している彼の姿が容易に浮かんで、酔ってもいないのに心臓の辺りがむかむかした。私が祝っていないのに、あの男はそれでいいのか。いい筈が無い。いいなんて云わせない。絶対に。
ケーキの箱をそっと地面に置く。それから手摺りに足を掛ける。橋の縁に立って受ける風は来たる夜の涼しさを含んで清々しい。遠いビルヂングの向こうでは、太陽が今まさに橙に燃え尽きようとしている。
この横濱において、凡ての道はポートマフィアに通ずるけれど川でポートマフィアに通じているのはこの一本のみだ。
私はふらりと足を滑らせる。
精々、ほろ酔い気分のパーティ帰りに私の汚い水死体を見て嫌な気分になればいいんだ。
「おい」
そのとき、聞き覚えの有る声と共にがし、と足首を掴まれた。
足首が固定される。然し体の落下は止められない。空中で、私の体が半円を描き垂直方向に倒れていく。
「えっ、ちょっ……アアアァァ!?」
結果。
迫る橋桁にばァんと額と全身を強かに打ち付け、私の視界は暗転した。
◇ ◇ ◇
「莫迦だろ」
ぴく、と意識から靄が晴れて、先ず最初に感じたのは煙草の匂い。それから額に走る激痛。遂に頭が割れたんじゃないか。そう思って押さえるけれど、幸い罅の入った様子は無い。代わりに倒れる前には巻いた覚えの無かった、新品の包帯の感触が有った。
目を開けると、其処に居たのは見慣れた顔。
見飽きた顔と云っても過言では無い。
「手前、莫迦だろ……」
それが、地面に腰掛け、ふーっと街灯の灯りの下で煙を吐き出している。辺りはすっかり暗くなっていて、視覚が上手く利かなかったものだから、すんとひとつ鼻を鳴らした。懐かしい匂いだ。硝煙と香水の混じったにおい。ぼんやりとそれに誘われるように、ぎゅうと目線の高さに在った腰に抱き付くと、ぽんと頭を撫でられた。それから頬を。優しい愛撫から伝わる、珍しい素手の温かさ。今日は手袋をしていないのか。夜の薄暗さの中で、見上げる彼の琥珀色の髪が微かに光を放って輝いている。さらさらと、聞こえるのは川の音。今私が寝転がってるのは河原なんだろう。目を閉じる。ああ、きっと、この川に入水すれば嘸や気持ちのいい――
は、と気を失う前のことを思い出して弾かれたように飛び起きた。
ぱちりと驚いた金の瞳と目が合う。
暗がりでもその存在ははっきりと判る。
元相棒。
中原中也。
「莫迦はそっちでしょ!? 危うく橋桁に脳味噌ぶち撒けて死ぬ処だった!」
「そっちのが致死率高えじゃねえか。自死を手伝ってやったんだよ」
中也は驚きを引っ込めてしれっと云う。その口にはじじじ、と赤い火の灯った煙草。云われてみれば確かにそうだ。溺死よりの頭部外傷の方が成功し易そうな気もする。「ああ、成る程……」と納得し掛け――未だ自分が死んでいない事実に気付いた。死んでないなら額の打ち損じゃないか。
「なんできっちり殺して呉れなかったの!」
「あーあーうるせえうるせえ、手前が川に飛び込んじまったら俺の分の煙草が失くなるじゃねえか」
「俺の分のって……あーっまた勝手に私の取ってる!」
懐を探ると、入れておいた筈の箱が無い。見れば中也の手の中に一箱輝く金の蝙蝠。ひどい、あんまりだ。返して、と手を伸ばしたけれどすいと上手く避けられた。それがいけなかった。うっかり均衡を崩して中也の上に倒れ込む。「おい!」と窘めるような口調で云われても、私だって転んだんだから仕方無い。中也の腹に手を付く。柔らかい草の音がして、中也の背が地面に付いた。顔を上げると、お互いの息が掛かる。
「てめ、退けよ……」
「中也」
押し倒したままその名を呼ぶと、金の瞳が至近距離で私の姿を捉えた。薄暗い宵闇の中で、瞳孔が光を求めてきゅうと広がっている。獣の目だ。その表面に映る、私の上気した顔。
けれど中也は、今度は何も云わなかった。何も云わなかったから、私はその手を取って、自分の首へと絡ませた。冷えた視線、それに相反して腹の辺りから伝わる中也の熱に、は、と微かに息が上擦る。
「ねえ、じゃあ今殺してよ、今直ぐだ、ちゅうや、ねえ……」
中也は抵抗しない。少し嫌そうな顔で、私の喉仏を撫でる。指の腹が、すっと動脈の上を皮膚一枚隔てて滑っていく。堪らない。その感触に、「っん……ぁ、」と甘い息を吐いた処で唐突にその脚で一蹴された。腹を軽く蹴られ、河原にすっ転がる。
「痛い! 何!」
「『何』は此方のセリフだ、何盛ってんだ手前は猫みてえにぎゃあぎゃあと」
私が蹲って中也が立って、二人の位置が逆転する。呆れたように此方を見下ろしてくる冷たい目に辟易する。煩いな。
「だって中也なんておめでとうって私以外の人間に散々祝われて好い気分になった一日の締め括りに私の死体を見て嫌な気分になった上に毎年この日を迎える度に私のこと思い出せばいいんだ!!!」
「誰が死体に成った手前のことなんか思い出すかよ」
背中を踏まれてぐえ、と変な声が出る。地面に転がったから、髪に草の欠片がはらはらと付く。見上げると、少し楽しそうな中也の顔。唇が三日月のように弧を描き、瞳が三日月より明るく夜の闇に浮かび上がって、私のことを睥睨する。
「で? 手前の計算だと、手前の死体はずっとこの川を下ってって」私の背中を踏み付けたまま、中也の靭やかな指が、すっと川の輪郭をなぞる。「それで俺が、今頃本部近くで手前を見付けてる算段だったのか?」
「そうだよ……」
べたりと地面に寝そべったまま、力無く頷く。いいもの。もう今日は死ぬ気分じゃないし。死んだって、中也は思い出さないって云うし。なら今日死んだって意味は無い。もっと目の前で劇的に死んでやるんだ。私のことを忘れられないくらいに。
「じゃあなんで俺は今此処に居んだよ」
半ば自棄になって次の自死の算段を立てていた私の意識に、その言葉はするりと入り込んできた。
ぱち。一つ瞬く。
確かに、私の当初の予定では、中也は今、マフィアの本部ビルの近くで私の死体を発見している頃合いでないとおかしい。
それなのに、何故今こんな川の上流に居るんだろう。
「……あれ? なんで?」
「さあな」
中也は私の背中から足を退け、素っ気無くあしらう素振りで煙草を携帯灰皿に躙った。答えが判っているのに教える心算が無いときの仕草だ。腹立たしい。その怜悧な横顔をぎっと睨む。
「あ、判った」不意に閃く。凡て判ってしまった。乱歩さんの超推理よりも明晰に。なんてったって元ポートマフィア最年少幹部だ。私の頭脳を舐めないで欲しい。「中也、自分の誕生パーティなのに呼んで貰えなかったんだ……可哀想……」
「違えよ!」
勢い良くげしりと蹴られた。今度こそ、川の縁にべちゃりと落下する。その背後で、中也ががさごそとケーキの箱を開ける音がした。
「お、美味そう。やっぱケーキは彼処の洋菓子店に限るな。これ新作か?」
「うん、フランボワーズのケーキだって……甘さ控えめって云ってたし、君好きそうだったからさァ……。て云うか、ねえ、勝手に開けないでよ」
起き上がって腕時計を見ると、洋菓子店を出てから未だ二時間経っていなかった。だったら多分未だ冷えていて、大丈夫だとは思うけれど、それでも傷んでしまうかも知れない。そう思って抗議するけど中也は何故だか何処吹く風だ。
「酒は? 未だ買ってねえのか」
「お酒は家に在るからいいの。今年はおつまみもちゃんと用意してあるし」
「あ、そ。ならさっさと行くぞ」
行き先を告げもせず、当然のように歩を進める中也に混乱する。ケーキの箱は彼の手の中だ。慌ててその背中を追い掛ける。
「ねえ待って何処行くの? 君の家?」
「手前んちだよ。俺んちより近えだろ」
「え、うん……て云うかなんで中也此処に居るの、ねえ――」
「煩えな、いいからさっさと手前んちの鍵寄越せよ」
「えっいいけど。はい。……って、ねえ、ちょっと!」
この元相棒は何時もそうだ。私の云うことなんて聞かないで、自分勝手に引っ張って。去年だって、散々私の家のお酒を飲み散らかして未だ足りなくて買いに走ったんだ。二人で。
――去年だって?
急に記憶の靄が晴れる。前を行く中也の小柄な背中。春の夜に溶ける黒いシルエット、浮かび上がる透き通った色の後ろ髪。
――手前のことを、放っておける訳無えだろう。
記憶の底で蘇る声。
そこで私はようやっと、去年のこの日を誰と過ごしたのかを思い出したのだった。
◇ ◇ ◇
けれど結局、その後のことはよく覚えていない。
二人で私の家に帰って、お酒を空けてケーキを食べた。それでべろべろに酔っ払ったからだ。それからお互いの近況を喋ったりして、後莫迦な話とかもしたりして。盛り上がったからセックスした。久し振りだったけれど何回かしたら満足したから風呂に入って一緒に寝た。
起きたら中也はもう居なくて、『もう面倒臭えから鍵はこのまま貰っとく』なんてメモが水と一緒にサイドテーブルに置いてあったから、ああ、自分用に合鍵作らないといけないじゃないかなんてぼやきが出た。そう云えば今年も誕生日プレゼントを用意していなかったなと思い出したのも同時だったけれど、それでいいやもうと面倒臭くなって二度寝の体勢に入る。今年もこれでいいや。来年も。そうして隣に残る匂いと体温を、精一杯ぎゅうと抱き締めた。
「太宰、もう上がっていいぞ」
国木田君の妙に優しい静止の声が、私の手を止めた。思わず顔を上げる。
「え……。なんで!?」
「なんでも何も。お前の仕事はもう終わっただろう?」国木田君が首を傾げる動作に合わせて、榛色の髪がさらりと流れる。「後は俺の分だけだ。お前に態々手伝って貰わなくとも、大丈夫だと云ったんだ」
その言葉にはっと手元を見る。何時の間にか自分の担当分は綺麗さっぱり終わっていた。先週から頑張って溜めていた分も、凡て滞り無く捌けている。壁の時計は定時を少し過ぎた処を指していて、けれど春も盛り、日も長くなる頃合いだったから窓の外は驚くほど夕日が明るい。足元の影が長く伸びる。
その、私の体で日が遮られ、黒々と伸びる影に、何故だか云い様の無い不安に駆られる。この逢魔が刻、独りで居ると突然影が起き出して、足元を絡め取るのではないか。そう云う不安。
「か……帰りたくないんだけど。今日は」
だから縋るように国木田君に哀願した。
「十代の娘じゃあるまいし、お前に払う残業代が無駄だからさっさと帰れ」
一も二も無く切り捨てられた。私はおよよとその場に泣き崩れる。
「ひどい、あんまりだ、私がこんなにもしおらしく頼んでいるのに、ねえ敦君?」
近くを偶々通りがかった年下の後輩に話を振る。そうですね、国木田さんはもっと太宰さんに優しくてもいいんじゃないでしょうか。期待した答えはそれだ。けれど少年は、「んー」と手を口に中てて少し考え、それからあたかも世紀の名案を思いついたように一つ手を打った。
「太宰さん、ゴキジェットは冷却タイプがお奨めですよ!」
「別に部屋に虫が湧いた訳ではないよ!」
心外だ。この後輩は私のことを何だと思っているんだろう。「え……だって太宰さん生活力無さそうですし」私の部屋は何時だって綺麗だし、寧ろ昨日の夜は誰が来たっていいように何時もより念入りに掃除したくらいだ、ってちょっと待って今何か聞き捨てならない言葉が聞こえなかったかい。
「有るよ私にだって生活力くらい! 若し或る日突然私と心中したいって云う美女が現れて最期に私の手料理を所望されたら部屋に上げてご馳走する必要が有るだろう!?」
「不純ですね」
「その心配は如何考えても無用じゃないか?」
じとりとした視線を両側から受けて、う、と怯んで後退る。二人共如何して判って呉れないのか。寂しいんだ。独りで居るのも、独りで帰るのも。一緒に心中して呉れる美人の居ない、この空虚な心を誰か拾っては呉れまいか。
不意に薄っすらと、夕暮れと薄暮の境に浮かぶ雲のように、一つの心当たりを心の中に思い描く。自らの直ぐ傍らに寄り添う影。
――手前のことを、放っておける訳無えだろう。
然し莫迦げた考えだ。天地が引っ繰り返るよりも有り得ない。思考に掛かった雲を慌てて掻き消す。すると私の心はすっかり宵闇に覆われてしまうのだった。外は未だ夕方なのに。
その落差に混乱する。
其処に追い打ち。
「太宰。朝から気になっていたのだが……今日は一体、何をそんなにそわそわしているんだ」
今年もなのか。そう、国木田君に図星を突かれたのが限界だった。
それじゃあまるで、私が毎年この日におかしくなってるみたいじゃあないか。
私はその場を逃げ出すように、探偵社を後にした。
◇ ◇ ◇
とは云え帰りたくないのは事実だ。ぶらりと商店街を当ても無く歩く。すっかり日が長くなって、六時を過ぎたと云うのに未だ夕日がぼんやりと空に浮かんでいた。太陽がビルヂングの群れの間で、まるで誰かさんの目の色みたいに金色混じりに輝いている。
誰かさん。二十数年前の今日のこの日に、生を受けた誰かさんだ。
途中、本当に思い付きで、何気無くふらりと洋菓子店に寄る。少し古びた煉瓦造りの、人形が住む家のような赤い庇の洋菓子店。昔に良く来た店だ。甘い匂いのする。この店は品揃えもさることながら、可愛らしい見た目に反して客の入りの少ない、隠れた雰囲気が好きだった。私が好きなのは苺のショートケーキ。生クリームたっぷりの。そして何時も一緒に買っていくのは甘さを抑えたスフレチーズケーキ。後ティラミスとか。フルーツタルトも好きだった筈。二人でよく、あれでもないこれでもないとひと月に何度か試していたのだ。そのときのことを思い描きながら幾つか吟味していると、「ご注文はお決まりでしょうか」とにこやかに微笑んできた店員さんが可愛い娘だったからつい「これとこれとこれを頂戴」と迷っていたものを全部買ってしまった。「此方もお一つ如何でしょう? 甘さ控えめの新作で――」と云われるがままにそれも詰めて貰う。でもお一つじゃなくお二つ。店員さんの、軽く頭を下げる仕草が可愛らしい。揺れる茶髪のショートヘア。いっそ心中にでも誘ってみようか。ほんの当て付けに、なんて。
結局お誘いは叶わずに、店員の声に見送られながら私はケーキの箱を抱えて店の外へ出た。て云うかこれ如何するんだろう。空を見上げて、遠い雲の流れに急に空しさに襲われる。こんなもの、買ったって一人で食べないといけないのに。
――今年もなのか。
唐突に、先刻の国木田君の声が耳の奥で蘇る。去年、そう、去年の今日も同じように食べもしないケーキを買ったような気がした。あとお酒と。おつまみ。去年はそれを如何したのだっけ。国木田君にでも御裾分けしたのかな。ぐだぐだと管を巻き、ひどく酔い潰れていたような気がしたが、記憶の底に靄が掛かったようにその日のことがはっきり思い出せない。
ふらふらと、歩きながらケーキの箱を見遣る。お持ち帰りのお時間はどれくらいですかなんて訊かれたから、つい二時間くらいですかねなんて答えてしまった。此処から太宰の今現在の家までは、ほんの十五分も掛からないのに。それとも、二時間は帰らないでおこうか。二時間は保つし。後は知らない。腐るなりなんなりすればいい。
いっそ箱を蹴飛ばしたいほどの衝動に駆られていると、何時の間にか橋の上まで来てしまっていた。大きな橋だ。この下を轟々と流れる川は、横濱の中心部を流れる一級河川。入水するのに不足は無い。
嫌がらせをしてやろうと思った。
今日誕生日を迎えた誰かさんは、今頃盛大に皆に祝われていることだろう。私と違って彼は頗る人徳者だから。けれどその中に私の姿は無いのだ。それなのに満足している彼の姿が容易に浮かんで、酔ってもいないのに心臓の辺りがむかむかした。私が祝っていないのに、あの男はそれでいいのか。いい筈が無い。いいなんて云わせない。絶対に。
ケーキの箱をそっと地面に置く。それから手摺りに足を掛ける。橋の縁に立って受ける風は来たる夜の涼しさを含んで清々しい。遠いビルヂングの向こうでは、太陽が今まさに橙に燃え尽きようとしている。
この横濱において、凡ての道はポートマフィアに通ずるけれど川でポートマフィアに通じているのはこの一本のみだ。
私はふらりと足を滑らせる。
精々、ほろ酔い気分のパーティ帰りに私の汚い水死体を見て嫌な気分になればいいんだ。
「おい」
そのとき、聞き覚えの有る声と共にがし、と足首を掴まれた。
足首が固定される。然し体の落下は止められない。空中で、私の体が半円を描き垂直方向に倒れていく。
「えっ、ちょっ……アアアァァ!?」
結果。
迫る橋桁にばァんと額と全身を強かに打ち付け、私の視界は暗転した。
◇ ◇ ◇
「莫迦だろ」
ぴく、と意識から靄が晴れて、先ず最初に感じたのは煙草の匂い。それから額に走る激痛。遂に頭が割れたんじゃないか。そう思って押さえるけれど、幸い罅の入った様子は無い。代わりに倒れる前には巻いた覚えの無かった、新品の包帯の感触が有った。
目を開けると、其処に居たのは見慣れた顔。
見飽きた顔と云っても過言では無い。
「手前、莫迦だろ……」
それが、地面に腰掛け、ふーっと街灯の灯りの下で煙を吐き出している。辺りはすっかり暗くなっていて、視覚が上手く利かなかったものだから、すんとひとつ鼻を鳴らした。懐かしい匂いだ。硝煙と香水の混じったにおい。ぼんやりとそれに誘われるように、ぎゅうと目線の高さに在った腰に抱き付くと、ぽんと頭を撫でられた。それから頬を。優しい愛撫から伝わる、珍しい素手の温かさ。今日は手袋をしていないのか。夜の薄暗さの中で、見上げる彼の琥珀色の髪が微かに光を放って輝いている。さらさらと、聞こえるのは川の音。今私が寝転がってるのは河原なんだろう。目を閉じる。ああ、きっと、この川に入水すれば嘸や気持ちのいい――
は、と気を失う前のことを思い出して弾かれたように飛び起きた。
ぱちりと驚いた金の瞳と目が合う。
暗がりでもその存在ははっきりと判る。
元相棒。
中原中也。
「莫迦はそっちでしょ!? 危うく橋桁に脳味噌ぶち撒けて死ぬ処だった!」
「そっちのが致死率高えじゃねえか。自死を手伝ってやったんだよ」
中也は驚きを引っ込めてしれっと云う。その口にはじじじ、と赤い火の灯った煙草。云われてみれば確かにそうだ。溺死よりの頭部外傷の方が成功し易そうな気もする。「ああ、成る程……」と納得し掛け――未だ自分が死んでいない事実に気付いた。死んでないなら額の打ち損じゃないか。
「なんできっちり殺して呉れなかったの!」
「あーあーうるせえうるせえ、手前が川に飛び込んじまったら俺の分の煙草が失くなるじゃねえか」
「俺の分のって……あーっまた勝手に私の取ってる!」
懐を探ると、入れておいた筈の箱が無い。見れば中也の手の中に一箱輝く金の蝙蝠。ひどい、あんまりだ。返して、と手を伸ばしたけれどすいと上手く避けられた。それがいけなかった。うっかり均衡を崩して中也の上に倒れ込む。「おい!」と窘めるような口調で云われても、私だって転んだんだから仕方無い。中也の腹に手を付く。柔らかい草の音がして、中也の背が地面に付いた。顔を上げると、お互いの息が掛かる。
「てめ、退けよ……」
「中也」
押し倒したままその名を呼ぶと、金の瞳が至近距離で私の姿を捉えた。薄暗い宵闇の中で、瞳孔が光を求めてきゅうと広がっている。獣の目だ。その表面に映る、私の上気した顔。
けれど中也は、今度は何も云わなかった。何も云わなかったから、私はその手を取って、自分の首へと絡ませた。冷えた視線、それに相反して腹の辺りから伝わる中也の熱に、は、と微かに息が上擦る。
「ねえ、じゃあ今殺してよ、今直ぐだ、ちゅうや、ねえ……」
中也は抵抗しない。少し嫌そうな顔で、私の喉仏を撫でる。指の腹が、すっと動脈の上を皮膚一枚隔てて滑っていく。堪らない。その感触に、「っん……ぁ、」と甘い息を吐いた処で唐突にその脚で一蹴された。腹を軽く蹴られ、河原にすっ転がる。
「痛い! 何!」
「『何』は此方のセリフだ、何盛ってんだ手前は猫みてえにぎゃあぎゃあと」
私が蹲って中也が立って、二人の位置が逆転する。呆れたように此方を見下ろしてくる冷たい目に辟易する。煩いな。
「だって中也なんておめでとうって私以外の人間に散々祝われて好い気分になった一日の締め括りに私の死体を見て嫌な気分になった上に毎年この日を迎える度に私のこと思い出せばいいんだ!!!」
「誰が死体に成った手前のことなんか思い出すかよ」
背中を踏まれてぐえ、と変な声が出る。地面に転がったから、髪に草の欠片がはらはらと付く。見上げると、少し楽しそうな中也の顔。唇が三日月のように弧を描き、瞳が三日月より明るく夜の闇に浮かび上がって、私のことを睥睨する。
「で? 手前の計算だと、手前の死体はずっとこの川を下ってって」私の背中を踏み付けたまま、中也の靭やかな指が、すっと川の輪郭をなぞる。「それで俺が、今頃本部近くで手前を見付けてる算段だったのか?」
「そうだよ……」
べたりと地面に寝そべったまま、力無く頷く。いいもの。もう今日は死ぬ気分じゃないし。死んだって、中也は思い出さないって云うし。なら今日死んだって意味は無い。もっと目の前で劇的に死んでやるんだ。私のことを忘れられないくらいに。
「じゃあなんで俺は今此処に居んだよ」
半ば自棄になって次の自死の算段を立てていた私の意識に、その言葉はするりと入り込んできた。
ぱち。一つ瞬く。
確かに、私の当初の予定では、中也は今、マフィアの本部ビルの近くで私の死体を発見している頃合いでないとおかしい。
それなのに、何故今こんな川の上流に居るんだろう。
「……あれ? なんで?」
「さあな」
中也は私の背中から足を退け、素っ気無くあしらう素振りで煙草を携帯灰皿に躙った。答えが判っているのに教える心算が無いときの仕草だ。腹立たしい。その怜悧な横顔をぎっと睨む。
「あ、判った」不意に閃く。凡て判ってしまった。乱歩さんの超推理よりも明晰に。なんてったって元ポートマフィア最年少幹部だ。私の頭脳を舐めないで欲しい。「中也、自分の誕生パーティなのに呼んで貰えなかったんだ……可哀想……」
「違えよ!」
勢い良くげしりと蹴られた。今度こそ、川の縁にべちゃりと落下する。その背後で、中也ががさごそとケーキの箱を開ける音がした。
「お、美味そう。やっぱケーキは彼処の洋菓子店に限るな。これ新作か?」
「うん、フランボワーズのケーキだって……甘さ控えめって云ってたし、君好きそうだったからさァ……。て云うか、ねえ、勝手に開けないでよ」
起き上がって腕時計を見ると、洋菓子店を出てから未だ二時間経っていなかった。だったら多分未だ冷えていて、大丈夫だとは思うけれど、それでも傷んでしまうかも知れない。そう思って抗議するけど中也は何故だか何処吹く風だ。
「酒は? 未だ買ってねえのか」
「お酒は家に在るからいいの。今年はおつまみもちゃんと用意してあるし」
「あ、そ。ならさっさと行くぞ」
行き先を告げもせず、当然のように歩を進める中也に混乱する。ケーキの箱は彼の手の中だ。慌ててその背中を追い掛ける。
「ねえ待って何処行くの? 君の家?」
「手前んちだよ。俺んちより近えだろ」
「え、うん……て云うかなんで中也此処に居るの、ねえ――」
「煩えな、いいからさっさと手前んちの鍵寄越せよ」
「えっいいけど。はい。……って、ねえ、ちょっと!」
この元相棒は何時もそうだ。私の云うことなんて聞かないで、自分勝手に引っ張って。去年だって、散々私の家のお酒を飲み散らかして未だ足りなくて買いに走ったんだ。二人で。
――去年だって?
急に記憶の靄が晴れる。前を行く中也の小柄な背中。春の夜に溶ける黒いシルエット、浮かび上がる透き通った色の後ろ髪。
――手前のことを、放っておける訳無えだろう。
記憶の底で蘇る声。
そこで私はようやっと、去年のこの日を誰と過ごしたのかを思い出したのだった。
◇ ◇ ◇
けれど結局、その後のことはよく覚えていない。
二人で私の家に帰って、お酒を空けてケーキを食べた。それでべろべろに酔っ払ったからだ。それからお互いの近況を喋ったりして、後莫迦な話とかもしたりして。盛り上がったからセックスした。久し振りだったけれど何回かしたら満足したから風呂に入って一緒に寝た。
起きたら中也はもう居なくて、『もう面倒臭えから鍵はこのまま貰っとく』なんてメモが水と一緒にサイドテーブルに置いてあったから、ああ、自分用に合鍵作らないといけないじゃないかなんてぼやきが出た。そう云えば今年も誕生日プレゼントを用意していなかったなと思い出したのも同時だったけれど、それでいいやもうと面倒臭くなって二度寝の体勢に入る。今年もこれでいいや。来年も。そうして隣に残る匂いと体温を、精一杯ぎゅうと抱き締めた。
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