古城夢の跡

(2015/03/31)


『中原さん。今、裏門を突破した』
 端末の奥から聞こえたのは嗄れた声だ。こんな夜に相応しく、広がる闇を老婆宛らに引っ掻く声。それが野犬の如く慟哭を響かせる空には、紅く冷め切った月が煌めいている。
 いい夜だ。
 中原中也はその唇に弧を描く。
 こんな夜は、血で染め上げるのが相応しい。
『……中原さん?』
「ああ、悪ィ」
 端末の向こうで応答を待つのはポートマフィアの禍つ狗だ。他に人の声が聞こえない処を見ると、鏖にしてからの報告なんだろう。――と思った傍から、『先輩、制圧完了しました』とよく通る女の声も聞こえ、状況を問題無く把握する。彼奴の異能ならば片手でも通話は足りるだろうに、相も変わらず律儀な奴。
「ご苦労。次も手筈通りに」
『はい』
 指示を返すとそのままぶつりと通話が切れて、中原の耳に森のざわめきが戻ってきた。生き物の気配は息を潜めていて、夜風に波打つのはぎしぎしと枝の撓る脈動、幽かに葉と葉の掠れる息遣い。外つ国の言葉で黒い森と称される森が在るらしいが、中原の眼前には黒よりもなお暗い闇が木々の間に広がっている。
 その森の中に、厳然と聳え立つ古城。
 それが今回の目標だ。
 積み上げられた石壁が織り成すのは、よく真似られた中世のバロック様式。西洋かぶれのお貴族様が建てたんだろう、無謀にもマフィアと敵対している今の持ち主もそれと違わない洒落た感覚の持ち主なのか、今どき関係組織を集めての舞踏会なんて時代錯誤もいい処だった。だから標的にさせて貰った。いい鏖の標的に。
 襲撃を受けて敵が選んだのは、言葉の通り籠城戦。立て篭もるなら突破するだけだ、ポートマフィア相手に持久戦狙いとは笑わせる。
 ぶつ、と今度は別働隊からの連絡が入る。中原は意識を傾ける。
「中原だ」
『中原の兄人ィ、最上階制圧完了したぜ!』
 その言葉に月を遮る古城の尖塔を見上げると、確かに窓からは制圧を示す灯りが煌々と灯されている。
 ――が。
「……立原ァ、あんま先行し過ぎんなよ」
『え、なんで? いいだろ別――にィィィ!?』
 だだだ、と激しい銃撃音を最後にぶつりと立原の声が潰えた。がしゃ、と向こうでマイクが床に叩き付けられる音。あーあ、云わんこっちゃねえ。後に残るのは沈黙だけだ。中原は微かに瞑目する。別の部隊に連絡して増援を回してやろうか――そう端末を手にした瞬間、ことり、とマイクの拾われる音がした。敵に拾われたか? 中原は一瞬警戒するが、然し何時まで経っても喋り出す気配は無い。
 ならば、可能性として。
「……。銀?」
 こつん、と一回、叩敲。
「立原と広津のジイさんは?」
 少しの沈黙の後、こつ、と一回。先刻のが肯定ならば今回のも恐らく肯定の意図。
「……無事ならいい。そっち任せるわ」
 再度、こつ、と一回マイクを叩く音がして、それで通話は切れた。もう一度見上げると、発火炎の頻繁に閃いているのが見える。銃撃戦の最中なのだろう。ならばいい。中原は先程の自分の言葉を反芻する。
 無事ならばいい。ポートマフィアの誇る黒蜥蜴が、あんな雑魚を相手に負けることなど有り得ないのだから。

 却説、表門の方からは報告は未だ入らない。然し「うはははは!」と心底愉快そうな笑い声と爆発音が聞こえるからそれで良しとしよう。それでいい。表門は敵を殺すより敵を逃さないのが重要だ。それには実働人数の割に派手に動けるあの男が最適だった。あの男が生きているのであれば、足止めは上手くいっていると云うことだ。
 表門は抑え、裏門から突破を図り。
 状況は問題無く進行している、ように見えた。

     ◇ ◇ ◇

「……遅いわ、チュウヤ」
 森の外へ一歩、踏み出そうとして――中原を呼び止めたのは幼い少女の声だった。衣擦れよりも上品で、綿菓子よりも甘い声音が、森の木々を微かに震わせる。それと、中原の肩も。「……エリス嬢」足を止めてその名を呼ぶ。
「本部でお留守番をされていたのではなかったのですか」
 暗に、出て来てもいいのですかと揶揄する。こんな夜中だ、保護者の同伴も無い外出が少女に許されているとは思わない。己の首領の顔を思い描きながら、中原は皮肉げな笑みを浮かべる。少女は一人に見えた。その手は誰の裾を握ることもなく、ただ中原に伸ばされている。その手を取ろうとし――その寸前にすっと引くと、少女はその仕草に合わせてふわりと一回転、踊ってみせた。ドレスの裾が舞う。その下から覗くのは、小さく幼いメリージェーン。白い靴下にはきっと枝葉が刺さってしまうだろうに、森の中の何者も未だ少女を傷付ける気配は無い。
「そんなことしてたら、日付が変わっちゃうわ」少女はまるで夜雀の歌うように云う。「知らないの? 零時になると魔法が解けちゃうのよ――それに、紅葉が張り切って拷問の準備しているのを見たら、目が冴えて眠れなくて」
 もっともらしいことを云って、後者が本音でしょう、と中原は目元を和らげる。マフィアと云う特殊な環境で居るからか、どうも同年代の年頃の子供よりも、この少女の興味は大人びているのだ。拷問なんかを面白がって、人の血なんかを愉しみたがる。
 それが、中原に縋ってせがむのだ。
「ねえチュウヤ。何時ものアレ、やって」
「アレ……とは?」
「惚けないで」
 怒られてしまった。お嬢様の命令ならば仕方が無い。中原はカツ、と一歩、空中の階段を踏み締める。二歩、三歩、空へ歩を進めてなお中原の足は地に落ちない。宙を確りと踏み締め、空間をものにし――有り体に云えば宙に浮かんでいた。
 まるで魔法のように。
 そしてそのまま少女に手を伸ばす。
「お手を?」
 けれど、いや、と首を振られ、おや、と中原は首を傾げる。これでは無かっただろうか。
「いやよ。歩くのはいや。此処まで来るのに、歩き疲れちゃったんだもの」
 如何やら今宵のお嬢様は、レディ扱いよりお子様扱いがお好みらしい。やれやれ、気難しいねえと中原は少しだけ体を屈める。
「では失礼して」
 今度は手を伸ばすのではなく、少女の体を攫うようにして抱え上げる。片手で支えて、お姫様のように抱いて。きゃあと楽しげな悲鳴と、首に回される少女特有の柔らかい腕の感触。そのまま空へと駆け上がる。ベクトル操作、なんて云えば聞こえは難しいが要は其処に在る重力の支配だ。空間を、己の支配下に置く感覚。一歩、二歩、踏み締めて。己のものにして、浮き上がる。最早古城は遥か下だ。
「きゃはは! 矢っ張り最高よチュウヤ、わたしあなたの異能が大好き!」
「光栄ですね」
 嬌声を背に、夜の空を散歩する。まあるく紅い月が存外近くて、それも少女の気に入ったようだった。燥ぐ少女を尻目に、中原はぐるりと眼下を見下ろす。
 今回の標的である、古城を。
「……?」
 もうそろそろ、凡てのフロアを制圧出来ていてもいい頃合いだった。然し着々と制圧の灯りの灯る中、一部分だけ未だに窓から見える内部が薄暗い部屋が幾つか在る。それが点在しているのではなく、固まって、その辺り一体が未制圧なことが知れる。然し中原に入る通信からは、制圧が順調に進んでいることしか知らされない。
 何処かで情報が操作されている。
 中原は直感する。そして今までに入ってきた報告を脳内で組み立て、それぞれ足りない情報、足りない場所を洗い出す。僅かだが、当初の人員より少しばかり穴があるように思えた。各個撃破されたのか? 此方に――中原に悟らせること無く?

 ――何処かおかしい。
 ポートマフィアを相手取って。
 恐慌状態にも陥らず、冷静に作戦をぶつけてくるこのやり口。
 このやり方は、まるで――

 端末に手を伸ばし、部下に指示を出そうとしたそのとき――ぶつっと耳元で通信が入った。
「!」
 息を飲む。
 今入る筈の無い通信だった。
『あー、あー。中也君? 如何だい首尾は』
 相変わらず、その真意の読めない声だ。柔らかい声音に少しばかりの動揺を噛み殺し、序に肩に乗る少女の口も塞ぎ、中原は静かに応答する。
「凡て滞り無く」
『そう、よかった』そう答える己の首領の声は何処かおざなりだ。中原はその調子にぴんと来る。用件はきっとこう来るのだろう。『ねえ、ところで、先刻から此方にエリスちゃんの姿が見えないのだけれど――』
 途端、通信機が風のように鮮やかな手並みで少女の手によって奪われた。
「! エリス嬢――!」
「リンタロウ、わたし、門限までには帰るわよ。明日のね!」
『えっ……えっ明日の!? 待ってその年で朝帰りは如何なものかと思う! ねえエリスちゃ――』
 ん、と云う声は遥か眼下の森に消えて行った。少女が通信機を投げ捨ててしまった為だ。中原は一つ溜め息を吐くに留める。今更、何を云っても無駄だろう。少女に傷さえ付けなければそれでいい。
 それよりも、今はもっと気になることが有る。
「ねえ、チュウヤ」
 ぴた、と頬に少女の掌が触れる。夜風に冷えた皮膚に、それは熱く感じられる筈なのに何故だか温度を感じない。人形のような手だ。中原は少女を見ずに、ただじっと眼下を見下ろす。
 マフィアの制圧の証が灯らない、古城の一帯を。
「――ダザイが居るわね」
 冴え冴えとした指摘が、遥か上空の夜を震わせた。
「ええ」
「嬉しい?」
「――いえ、全然」
「相変わらず、嘘が下手ねチュウヤ」
 中原自身もそう思った――何せ声が歓喜に震えていた。その自覚が有った。噛み殺しきれない喜びが、迸るように喉の奥から漏れた。太宰治、元ポートマフィア最年少幹部、元相棒。相手にとって、これほど不足の無い相手など珍しい。ちょうど退屈していた処だった、あの男と比べれば凡てが退屈に見えてきてしまった。目の前にあの男が居る――その事実だけで容易に心臓が鼓動を速めた。自然、唾液が口内を濡らす。捕食欲求。否、それよりもっと大きな。
「ねえ、ダメよ」
 息を詰め――降下しようとした瞬間、その目論見は少女によって引き止められた。その声音に含まれるのは、僅かばかり中原の行動を咎める色。未だ何もしていないのに。
 然し少女は見透かしたかのように云う。
「わたしは、あのお城が丸ごと欲しいと云ったのよ。壊してはダメ」
「……承知しておりますよ」
 ああ、しまった。読まれちまった。敵わねえなあ、と中原は上辺で笑いつつ――自身が正常に笑えているのか少し心配になって頬に手を中ててみた。よく判らない。ただ口元だけが歪に歪んでいる。何処か寒気のするのは、己の体が熱いからだと気付く。何せ血が騒いで仕方が無いのだ。今其処に、彼奴が居るかも知れない。自分の敵として、立ち回っているのかも知れない。そう考えると興奮を抑えきれる訳が無くて、今直ぐにでも乗り込んで状況を粉々に破壊し尽くしてご対面といきたい処だった。けれど我慢だ。「芥川、樋口。二階の西側、奥に回れ」端末から指示を出す。獲物は未だ熟し切っていない。
「ねえ、あの子は果たしてあなたから逃げられるかしら?」
「さて」
 首にしがみつく少女の問いに、如何でしょう、と空惚ける。そのまま一歩、森の上空から外へ。
 無論、逃がす積りは無い。けれどあれほどの巨大な城だ、隠し通路の一つや二つ存在し、中の人間が逃げ果せても不思議ではない。今は芥川を向かわせているが、仮に彼処に居るのがあの男であれば、訳も無く退けてしまうだろう。
 中原は自分の中の情動を押し殺し、森の外れに静かに降り立つ。其処には草に紛れて古い鉄の扉が隠れされていた。降り立ちながら、考える。
 城の隠し通路なんてものは、大抵城の中からずっと遠くの外に繋がっている。けれど出た先が森の中では、逃げるにも方向感覚が定まらない。だから、森の外れの、開けた場所に、大抵そう云う出口は設けられる。
 例えば、此処とか。
「――さあ、突破してみろ太宰治」
 中原はその唇に弧を描く。
 早く、早く、俺の元へ。
「――最ッ高の、マフィアの時間にしようじゃねえか!」
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