路地裏で待ち合わせ
(2014/06/29)
「うわあ、拙いな……」
外套をはためかせ、道を駆け抜ける。時刻は午後17時25分。国木田君との待ち合わせ時間迄、後五分。其れ迄に道をぐるっと回って、大通りに出て、信号を渡った向こう側の喫茶店に辿り着かなければならない。若干、走るスピィドを緩める。時間には、到底間に合いそうになかった。
「よ、っとと」
小型端末で現在位置をさっと確認し、路地裏に入る。此の抜け道を使えば、二分は短縮出来る筈だ。薄暗い足元に転がった缶や瓶を、差し込む夕日だけを頼りに蹴飛ばしながら、私は走った。
今日は実際の調査や潜入ではなく、その打ち合わせの日だった。明日に行われるとリークの有った、大規模な薬の取引。そんな大金、一体何処の組織が持ち出したのかと思う様な規模のものらしく、であれば当然バックには巨大な組織の存在が想定される。相手に異能者がいた場合の備えにと、探偵社にも検挙に協力する様、警察組織から正式な依頼が入っているのだ。
……とまあ、そんな警察側の事情等は、私の知った事じゃあなかった。探偵社は、唯依頼の有った通り一斉検挙に力を上げるだけだ。其の前日の、打ち合わせ。だから別に間に合わなくても如何と云う事は無い待ち合わせだったけれど、矢張り形だけでも間に合わせようとする努力はしておいた方が良い気がした。
国木田君、絶対怒るだろうし……。
そんな事を考えながら大通りに出ようとした其の瞬間、人影が目の前をひらりと掠めた。
「げ」
其の姿を目に入れて僅かカンマ一秒、私はだん、と其の場に足を縫い止め、次の一手で踵を返そうと試みる。然し方向転換を図ろうとした其の一瞬の隙を突かれ、脇腹に衝撃が走った。体内からみしりと嫌な音がする。私とした事が、動揺のあまり判断ミスを、と悔やむ間も無く体を壁に打ち付けられる。
「ぐっ……」
「よお、久方振りだな太宰」
肩口から衝撃が全身に伝わる。何とか態勢を整えようとするも、続け様に腹に拳を入れられ目の前を星が散った。壁を背中にしている為、衝撃が上手く殺せない。其のあまりの痛みに、思わず息を詰める。
襟首を捕まれ、無理矢理に顔を上げさせられると、差し込む橙の光を背負って立つ小柄な男の姿が其処には在った。其の立ち姿はもう何年も連れ添った恋人の様に見慣れたものだったが、今此処に於いては居る筈の無い人物だ。何故。其の疑問だけが先行して、思考が四散する。
「中也……」
其の名を呼ぶと、小柄な暴君はくちびるににいと綺麗な弧を描いた。
「無様だな、太宰。日和ったんじゃねえか?」
「中也、君、携帯は如何したの……」
肩を壁に縫い止める様に押さえ付けられる。ぐたりと壁に身を預けながら、私は疑問を投げ掛けた。そう、此の男が此処に居る筈が無いのだ。彼の携帯電話に仕掛けているGPSは、今日此の日、ついさっき、此の路地裏に入る迄、確かに彼がアジトに居る事を示していたのだから。
然しそんな此方の思惑等お見通しなのか、目の前の男は詰まらなさそうに吐き捨てる。
「はン、そんなモン持ち歩いてたら手前が逃げちまうだろうが」腰から抜いたナイフが、ぎらりと腹に当たる感触があった。嗚呼、此の服結構お気に入りなのに。「つーか、やっぱり手前俺の携帯に何か仕込んでやがったのか」
鼻先に広がる大通りの喧騒から一歩、此の路地裏だけが切り取られた様に静かだった。時折ちらちらと此方を覗き込む通行人も居るには居るが、目が合うとそそくさと足を早めて去って行く。……之は、救援は期待出来そうにないな、と私はひっそり溜め息を吐いた。確かに、こんな薄暗い路地裏にふたり、端からは質の悪いカツアゲか、若しくはどう平和的に見ても恋人同士が媾っている様に見えるかだろう。何方も進んで首を突っ込みたい類のものではないし、……そうか、中也の方は身長の低さも相まって、若しかしたら女に見えているのかも知れない。ちら、と大通りから此方を覗き込む監視カメラに目を向ける。だったら、すわカツアゲかと思った善良な一般市民の通報も期待出来な――
「かはッ」
「手前今なんかすげぇ失礼なこと考えたろう」
綺麗に腹への拳が決まって、腹筋で受け止めきれなかった分が呻き声として漏れ出る。嗚呼、嗚呼、苦しいのは嫌だな。視線の焦点が合わず、ぼんやりと中也の顔が掠れる。
「まあ良い。今日は機嫌が悪いんだ、たっぷり甚振らせてもらうぜ。首領への引き渡しは其の後だ」
「ま。待って待って中也」
相変わらず性急に事を進めようとする元相棒に、私は慌てて静止を掛けた。馬鹿だけれども力だけは超一級の此の男の事だ、やると決めたら私はとことんまで甚振られてしまうだろう。其れは困る。国木田君との待ち合わせに、遅れてしまうじゃあないか。
「何か私に、聞きたい事が有るんでしょう」
「……何もねェが?」
中也の視線がほんの少しだけ下へとずれ、そうして今度はじっと私の目を見つめ返してきた。其のズレは僅か一瞬で、然し私には其れで十分だった。綺麗な鳶色の目が、夕日の光を受けて揺らぐ。伊達に長年、相棒をやっていた訳では無い。
「本当に? 私を捕らえようと思えば何時だって探偵社に来られたものを、態々こんな処迄、此の私に逢いに来ておいて、何も無い訳が無いよ?」
「会いに来たんじゃねぇ。偶然だ」
「ふゥん。こんなモノまで付けておいて?」
私はそう云って、自らのルゥプ・タイを解いた。動いたらまた殴られるかなと思ったけれど、中也はじっと此方を見るばかりだ。留め具の裏を示すと、其処には小型の発信機が取り付けられていた。「チッ、やっぱり手前、気づいてやがったのか」中也が毒づき、そして僅かに瞑目する。
私は追い打ちを掛ける様に、中也にその言葉を掛けた。
「私、此れ以上痛い目に遭っちゃうと、色んな事喋れなくなっちゃうかもね」
「……首領の金を持ち逃げした馬鹿がいる」
「わぉ。其れはまた」態とらしくならない様、少し驚いて見せる。「肝試しには、一寸時期が早いんじゃない?」
「しくじって取り逃がしたのは俺の部下だ」
「ふーん。中也って、部下には優しいよね……」
私にももう一寸優しくしてよ、と品を作って云うと、冷ややかな目線が返って来た。
「大体、手前だって部下の面倒見は良かったろうが」
その言葉に、一瞬状況を忘れて首を傾げる。部下。ぶか? そんなもの、一人しか居なかったけれど、アレの面倒見が良かった? 私が?
「……嗚呼、今のは俺が悪かった、何でもねぇよ。忘れろ。兎に角、手前の持ってる情報を寄越せ」
其の言葉と共に、ぐっ、と腕で喉元を押し潰される。がんと後頭部が壁に当たった。苦しい。息が出来ない。喉から空気の掠れる音しか出なくなって、視線を下にずらすと中也の嫌そうな顔が見えて、自然と笑みが溢れ出た。嗚呼、愉しいなあ。其の侭一息に縊り殺してくれやしないか、なんて。
「持っ、てるとは……限らないでしょ……」
「いいや、持ってる」中也は迷い無く断じた。「手前があの国木田とかいう調査員と調査してるのは知ってンだよ」
相変わらずの情報網だ、と感心する。仕事の事となると、此の男はとても優秀だ。喧嘩となると、馬鹿丸出しだけど。
「そうだなあ……ちゅーして呉れたら……考えないでもない、かな……」
「は?」
此れ以上無く胡乱げな声が聞こえた。当然だ、其れを狙って云った。此の侭縊り殺されるのも悪くはないが、然し中也に最高の嫌がらせをしないと死にきれない。
「どう?」
はあ、と今度は溜め息が聞こえる。と、同時に腕の力が少し緩まる。急に気道に酸素を取り入れ、げほりと咳き込むその口を、柔らかいもので塞がれた。
「ふっ……んう……」
酸素が足りずに蹌踉めいてしまい、不覚にも中也に縋り付いて其の唇を食む様に口付けた。中也も慣れたもので、私の体を支えながら乱暴に捩じ込まれた舌が、歯列をなぞり、舌を食み、私の口内の隅々をいやらしい音を立てて暴き立てる。其の感覚に、脳内麻薬に犯された背筋がぞわぞわと痺れ、口の端から嬌声が漏れ出た。私達二人共、屹度みっともなく情欲に塗れた目をしているに違いなかった。嗚呼、どうせ自殺するなら、こういう最上の瞬間に死にたいものだよねえ。うっとりとした気持ちの侭、唾液を交わして唇を離す。と、がりっと云う音と共に鋭い痛みが唇に走った。恍惚に浸っていた脳が、あまりの痛みに現実に引き戻される。涙目になってしゃがみ込み、序にさっと中也の靴に盗聴器を取り付けた。彼からは暗くて見えていないだろう、せめてもの意趣返しだ。
「いった! 中也! きみ! なんで噛むの!」
「で? 此れが其の持ち逃げ野郎の潜伏場所か」
見上げると、何事も無かったかの様に涼しい顔をした中也の手の中で、ひらひらとメモが舞った。つい先程迄、私の外套のポケットに入っていた物だ。相変わらず、手癖が悪い。そうして其の癖の悪い手が、中也の口の端の血を拭って、ぺろりと舌で舐められるものだから、私はその仕草に思わず興奮してしまった。「ねえ、中也、」と熱に浮いた言葉を、皆まで云わずに蹴り飛ばされる。
「なんで!」
「うるせェ! 今回だけは見逃してやるが次はねェぞ!」
余韻もへったくれも糞も無く、中也はそう恫喝して踵を返した。
「うふふ。有難う、中也は優しいんだね」
私が蹴り飛ばされて転がった侭、去り行く背中にそう云い放つと、中也はぶるっと全身を震わせた。
「手前、ほんとういつかぶっ殺すからな……」
そう云い残して去って行く姿を、黙って見送る。まったく、此処で私を見逃すなんて、相変わらず中也は甘いのだから。
私は上機嫌で外套の埃を払い、ポケットから少し顔を覗かせた銃をちょいと仕舞い、待ち合わせ場所の喫茶店へと向かった。
「ほら国木田君、見てよこの痣! ポートマフィアに襲われたんだってば!」
「本当か? では、此方に向かう途中で待ち合わせに遅れる事が判って、言い訳の為に態と乱闘を起こしたのではないのだな?」
「ぎくーっ」
「……」
此の後めちゃくちゃ折檻された。
◇ ◇ ◇
「……君の働きに免じて、今回だけは君の部下の失態を見逃してあげよう。但し、次は無いよ」
「有難う御座います」
中也は己の主に頭を垂れた。内心の安堵を悟られない様、表情を消して顔を上げる。部下の面倒を上司が見るのは当然だが、だからと云って部下の存在が弱みになり得るは決して思われてはならなかった。其れが事実でも、事実でなかっとしても、だ。
「ところで中原君」
「はっ」
食事を進める手を止めて、首領は首を傾げた。何だ、未だ他に何か有っただろうか。背中を一筋、汗が伝う。
そんな人の気も知らず、首領はぼんやりと其の疑問を口にした。
「君は、その……太宰君と付き合っていたと云うのは本当なの?」
「はぁ!?」
首領の前だと云うのに、中也は思わず間の抜けた声を上げてしまった。首領も其の様子を見て自分の勘違いだと悟ったのか、慌てて首を横に振る。
「いや、違うならいいんだ、違うなら……」
「リンタロウ、きもい。あんなの、本当な訳無いじゃない」
傍らの少女が痛烈に吐き捨て、「きもいって! エリスちゃんにきもいって云われた!」と首領が頭を抱える。其の姿には、先程迄の威圧感等微塵も無い。楽天的な馬鹿はこういう首領の姿を見て舐めてかかってしまうのだが、然し中也には、其の姿こそがおそろしかった。此の人は、人畜無害の皮を被って人に近付く事が出来るのだ。
「ねえ、チュウヤ?」
そんな首領の様子をよそに、にこりと少女地味た笑みを浮かべ、じっと此方を見る人形の様な娘の底の見えない深さも何とも云えず不気味で、中也は何も答えずに失礼します、と早々に首領の部屋を後にした。何故だかあの少女は、苦手だった。握り締めていた拳を開くと、手袋にじとりと汗が滲んでいた。
其れにしても、俺と太宰が付き合ってたなんぞと云う、あの胸糞の悪い話は一体何だったのだろうか?
ラウンジに顔を出すと、其処には珍しく、芥川の部下の女が独りで居た。確か樋口、と云ったか。目の前のテェブルに同じ新聞を幾つも並べて、痛切な表情を浮かべている。此方に気付くと、怪我をした野兎を見る様な目を向けて来るものだから、一体何だと訝しむ。
「貴方も、その……色々と、大変なんですね」
こんな悪質なコラが組織内で出回っていますよ、と云って差し出されたのは、一枚の新聞だった。否、新聞にしては紙の質が安っぽく、頁数も少ない。如何やらゴシップ紙を真似た印刷物を配っている馬鹿が居る様だった。一面に、何処かで見たことのある男と男が口付けを交わしている写真が配置されている。そして其の見出しには、でかでかと下品に踊る文字。
『中原中也、熱愛発覚! お相手はなんと元幹部の――』
あの監視カメラ、矢張り壊しておくのだった。中也は心を落ち着ける為に一つ大きく深呼吸をした後、徐ろに靴に仕込まれた盗聴器を取り外した。
「太宰ィ! テメェ、マジでぶっ殺す!!!」
「うわあ、拙いな……」
外套をはためかせ、道を駆け抜ける。時刻は午後17時25分。国木田君との待ち合わせ時間迄、後五分。其れ迄に道をぐるっと回って、大通りに出て、信号を渡った向こう側の喫茶店に辿り着かなければならない。若干、走るスピィドを緩める。時間には、到底間に合いそうになかった。
「よ、っとと」
小型端末で現在位置をさっと確認し、路地裏に入る。此の抜け道を使えば、二分は短縮出来る筈だ。薄暗い足元に転がった缶や瓶を、差し込む夕日だけを頼りに蹴飛ばしながら、私は走った。
今日は実際の調査や潜入ではなく、その打ち合わせの日だった。明日に行われるとリークの有った、大規模な薬の取引。そんな大金、一体何処の組織が持ち出したのかと思う様な規模のものらしく、であれば当然バックには巨大な組織の存在が想定される。相手に異能者がいた場合の備えにと、探偵社にも検挙に協力する様、警察組織から正式な依頼が入っているのだ。
……とまあ、そんな警察側の事情等は、私の知った事じゃあなかった。探偵社は、唯依頼の有った通り一斉検挙に力を上げるだけだ。其の前日の、打ち合わせ。だから別に間に合わなくても如何と云う事は無い待ち合わせだったけれど、矢張り形だけでも間に合わせようとする努力はしておいた方が良い気がした。
国木田君、絶対怒るだろうし……。
そんな事を考えながら大通りに出ようとした其の瞬間、人影が目の前をひらりと掠めた。
「げ」
其の姿を目に入れて僅かカンマ一秒、私はだん、と其の場に足を縫い止め、次の一手で踵を返そうと試みる。然し方向転換を図ろうとした其の一瞬の隙を突かれ、脇腹に衝撃が走った。体内からみしりと嫌な音がする。私とした事が、動揺のあまり判断ミスを、と悔やむ間も無く体を壁に打ち付けられる。
「ぐっ……」
「よお、久方振りだな太宰」
肩口から衝撃が全身に伝わる。何とか態勢を整えようとするも、続け様に腹に拳を入れられ目の前を星が散った。壁を背中にしている為、衝撃が上手く殺せない。其のあまりの痛みに、思わず息を詰める。
襟首を捕まれ、無理矢理に顔を上げさせられると、差し込む橙の光を背負って立つ小柄な男の姿が其処には在った。其の立ち姿はもう何年も連れ添った恋人の様に見慣れたものだったが、今此処に於いては居る筈の無い人物だ。何故。其の疑問だけが先行して、思考が四散する。
「中也……」
其の名を呼ぶと、小柄な暴君はくちびるににいと綺麗な弧を描いた。
「無様だな、太宰。日和ったんじゃねえか?」
「中也、君、携帯は如何したの……」
肩を壁に縫い止める様に押さえ付けられる。ぐたりと壁に身を預けながら、私は疑問を投げ掛けた。そう、此の男が此処に居る筈が無いのだ。彼の携帯電話に仕掛けているGPSは、今日此の日、ついさっき、此の路地裏に入る迄、確かに彼がアジトに居る事を示していたのだから。
然しそんな此方の思惑等お見通しなのか、目の前の男は詰まらなさそうに吐き捨てる。
「はン、そんなモン持ち歩いてたら手前が逃げちまうだろうが」腰から抜いたナイフが、ぎらりと腹に当たる感触があった。嗚呼、此の服結構お気に入りなのに。「つーか、やっぱり手前俺の携帯に何か仕込んでやがったのか」
鼻先に広がる大通りの喧騒から一歩、此の路地裏だけが切り取られた様に静かだった。時折ちらちらと此方を覗き込む通行人も居るには居るが、目が合うとそそくさと足を早めて去って行く。……之は、救援は期待出来そうにないな、と私はひっそり溜め息を吐いた。確かに、こんな薄暗い路地裏にふたり、端からは質の悪いカツアゲか、若しくはどう平和的に見ても恋人同士が媾っている様に見えるかだろう。何方も進んで首を突っ込みたい類のものではないし、……そうか、中也の方は身長の低さも相まって、若しかしたら女に見えているのかも知れない。ちら、と大通りから此方を覗き込む監視カメラに目を向ける。だったら、すわカツアゲかと思った善良な一般市民の通報も期待出来な――
「かはッ」
「手前今なんかすげぇ失礼なこと考えたろう」
綺麗に腹への拳が決まって、腹筋で受け止めきれなかった分が呻き声として漏れ出る。嗚呼、嗚呼、苦しいのは嫌だな。視線の焦点が合わず、ぼんやりと中也の顔が掠れる。
「まあ良い。今日は機嫌が悪いんだ、たっぷり甚振らせてもらうぜ。首領への引き渡しは其の後だ」
「ま。待って待って中也」
相変わらず性急に事を進めようとする元相棒に、私は慌てて静止を掛けた。馬鹿だけれども力だけは超一級の此の男の事だ、やると決めたら私はとことんまで甚振られてしまうだろう。其れは困る。国木田君との待ち合わせに、遅れてしまうじゃあないか。
「何か私に、聞きたい事が有るんでしょう」
「……何もねェが?」
中也の視線がほんの少しだけ下へとずれ、そうして今度はじっと私の目を見つめ返してきた。其のズレは僅か一瞬で、然し私には其れで十分だった。綺麗な鳶色の目が、夕日の光を受けて揺らぐ。伊達に長年、相棒をやっていた訳では無い。
「本当に? 私を捕らえようと思えば何時だって探偵社に来られたものを、態々こんな処迄、此の私に逢いに来ておいて、何も無い訳が無いよ?」
「会いに来たんじゃねぇ。偶然だ」
「ふゥん。こんなモノまで付けておいて?」
私はそう云って、自らのルゥプ・タイを解いた。動いたらまた殴られるかなと思ったけれど、中也はじっと此方を見るばかりだ。留め具の裏を示すと、其処には小型の発信機が取り付けられていた。「チッ、やっぱり手前、気づいてやがったのか」中也が毒づき、そして僅かに瞑目する。
私は追い打ちを掛ける様に、中也にその言葉を掛けた。
「私、此れ以上痛い目に遭っちゃうと、色んな事喋れなくなっちゃうかもね」
「……首領の金を持ち逃げした馬鹿がいる」
「わぉ。其れはまた」態とらしくならない様、少し驚いて見せる。「肝試しには、一寸時期が早いんじゃない?」
「しくじって取り逃がしたのは俺の部下だ」
「ふーん。中也って、部下には優しいよね……」
私にももう一寸優しくしてよ、と品を作って云うと、冷ややかな目線が返って来た。
「大体、手前だって部下の面倒見は良かったろうが」
その言葉に、一瞬状況を忘れて首を傾げる。部下。ぶか? そんなもの、一人しか居なかったけれど、アレの面倒見が良かった? 私が?
「……嗚呼、今のは俺が悪かった、何でもねぇよ。忘れろ。兎に角、手前の持ってる情報を寄越せ」
其の言葉と共に、ぐっ、と腕で喉元を押し潰される。がんと後頭部が壁に当たった。苦しい。息が出来ない。喉から空気の掠れる音しか出なくなって、視線を下にずらすと中也の嫌そうな顔が見えて、自然と笑みが溢れ出た。嗚呼、愉しいなあ。其の侭一息に縊り殺してくれやしないか、なんて。
「持っ、てるとは……限らないでしょ……」
「いいや、持ってる」中也は迷い無く断じた。「手前があの国木田とかいう調査員と調査してるのは知ってンだよ」
相変わらずの情報網だ、と感心する。仕事の事となると、此の男はとても優秀だ。喧嘩となると、馬鹿丸出しだけど。
「そうだなあ……ちゅーして呉れたら……考えないでもない、かな……」
「は?」
此れ以上無く胡乱げな声が聞こえた。当然だ、其れを狙って云った。此の侭縊り殺されるのも悪くはないが、然し中也に最高の嫌がらせをしないと死にきれない。
「どう?」
はあ、と今度は溜め息が聞こえる。と、同時に腕の力が少し緩まる。急に気道に酸素を取り入れ、げほりと咳き込むその口を、柔らかいもので塞がれた。
「ふっ……んう……」
酸素が足りずに蹌踉めいてしまい、不覚にも中也に縋り付いて其の唇を食む様に口付けた。中也も慣れたもので、私の体を支えながら乱暴に捩じ込まれた舌が、歯列をなぞり、舌を食み、私の口内の隅々をいやらしい音を立てて暴き立てる。其の感覚に、脳内麻薬に犯された背筋がぞわぞわと痺れ、口の端から嬌声が漏れ出た。私達二人共、屹度みっともなく情欲に塗れた目をしているに違いなかった。嗚呼、どうせ自殺するなら、こういう最上の瞬間に死にたいものだよねえ。うっとりとした気持ちの侭、唾液を交わして唇を離す。と、がりっと云う音と共に鋭い痛みが唇に走った。恍惚に浸っていた脳が、あまりの痛みに現実に引き戻される。涙目になってしゃがみ込み、序にさっと中也の靴に盗聴器を取り付けた。彼からは暗くて見えていないだろう、せめてもの意趣返しだ。
「いった! 中也! きみ! なんで噛むの!」
「で? 此れが其の持ち逃げ野郎の潜伏場所か」
見上げると、何事も無かったかの様に涼しい顔をした中也の手の中で、ひらひらとメモが舞った。つい先程迄、私の外套のポケットに入っていた物だ。相変わらず、手癖が悪い。そうして其の癖の悪い手が、中也の口の端の血を拭って、ぺろりと舌で舐められるものだから、私はその仕草に思わず興奮してしまった。「ねえ、中也、」と熱に浮いた言葉を、皆まで云わずに蹴り飛ばされる。
「なんで!」
「うるせェ! 今回だけは見逃してやるが次はねェぞ!」
余韻もへったくれも糞も無く、中也はそう恫喝して踵を返した。
「うふふ。有難う、中也は優しいんだね」
私が蹴り飛ばされて転がった侭、去り行く背中にそう云い放つと、中也はぶるっと全身を震わせた。
「手前、ほんとういつかぶっ殺すからな……」
そう云い残して去って行く姿を、黙って見送る。まったく、此処で私を見逃すなんて、相変わらず中也は甘いのだから。
私は上機嫌で外套の埃を払い、ポケットから少し顔を覗かせた銃をちょいと仕舞い、待ち合わせ場所の喫茶店へと向かった。
「ほら国木田君、見てよこの痣! ポートマフィアに襲われたんだってば!」
「本当か? では、此方に向かう途中で待ち合わせに遅れる事が判って、言い訳の為に態と乱闘を起こしたのではないのだな?」
「ぎくーっ」
「……」
此の後めちゃくちゃ折檻された。
◇ ◇ ◇
「……君の働きに免じて、今回だけは君の部下の失態を見逃してあげよう。但し、次は無いよ」
「有難う御座います」
中也は己の主に頭を垂れた。内心の安堵を悟られない様、表情を消して顔を上げる。部下の面倒を上司が見るのは当然だが、だからと云って部下の存在が弱みになり得るは決して思われてはならなかった。其れが事実でも、事実でなかっとしても、だ。
「ところで中原君」
「はっ」
食事を進める手を止めて、首領は首を傾げた。何だ、未だ他に何か有っただろうか。背中を一筋、汗が伝う。
そんな人の気も知らず、首領はぼんやりと其の疑問を口にした。
「君は、その……太宰君と付き合っていたと云うのは本当なの?」
「はぁ!?」
首領の前だと云うのに、中也は思わず間の抜けた声を上げてしまった。首領も其の様子を見て自分の勘違いだと悟ったのか、慌てて首を横に振る。
「いや、違うならいいんだ、違うなら……」
「リンタロウ、きもい。あんなの、本当な訳無いじゃない」
傍らの少女が痛烈に吐き捨て、「きもいって! エリスちゃんにきもいって云われた!」と首領が頭を抱える。其の姿には、先程迄の威圧感等微塵も無い。楽天的な馬鹿はこういう首領の姿を見て舐めてかかってしまうのだが、然し中也には、其の姿こそがおそろしかった。此の人は、人畜無害の皮を被って人に近付く事が出来るのだ。
「ねえ、チュウヤ?」
そんな首領の様子をよそに、にこりと少女地味た笑みを浮かべ、じっと此方を見る人形の様な娘の底の見えない深さも何とも云えず不気味で、中也は何も答えずに失礼します、と早々に首領の部屋を後にした。何故だかあの少女は、苦手だった。握り締めていた拳を開くと、手袋にじとりと汗が滲んでいた。
其れにしても、俺と太宰が付き合ってたなんぞと云う、あの胸糞の悪い話は一体何だったのだろうか?
ラウンジに顔を出すと、其処には珍しく、芥川の部下の女が独りで居た。確か樋口、と云ったか。目の前のテェブルに同じ新聞を幾つも並べて、痛切な表情を浮かべている。此方に気付くと、怪我をした野兎を見る様な目を向けて来るものだから、一体何だと訝しむ。
「貴方も、その……色々と、大変なんですね」
こんな悪質なコラが組織内で出回っていますよ、と云って差し出されたのは、一枚の新聞だった。否、新聞にしては紙の質が安っぽく、頁数も少ない。如何やらゴシップ紙を真似た印刷物を配っている馬鹿が居る様だった。一面に、何処かで見たことのある男と男が口付けを交わしている写真が配置されている。そして其の見出しには、でかでかと下品に踊る文字。
『中原中也、熱愛発覚! お相手はなんと元幹部の――』
あの監視カメラ、矢張り壊しておくのだった。中也は心を落ち着ける為に一つ大きく深呼吸をした後、徐ろに靴に仕込まれた盗聴器を取り外した。
「太宰ィ! テメェ、マジでぶっ殺す!!!」
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