夏の一夜
(2013/11/25)
「あれは何だろう、博臣さん」
きっかけは舞耶のその言葉だったが、今にして思えば全ては博臣に仕組まれていたことだったのかもしれない。
「『あれ』?」
文芸部の部室にしては珍しく、部員が五人もいる状態だったが、舞耶が疑問を向けたのは博臣だった。白銀髪の少女の問いに、美貌の異界士は本を読む手を止め、僅かに首を傾げた。さら、と髪が揺れる。こういう何気ない仕草でも様になるのだから、まったくイケメンというのは得である。
同じく本を読んでいた峰岸舞耶は、口にしていたカラフルなロリポップを弧を描くようにくるりと回した。
「あの……遠くで聞こえる音だ」
と言っても、ここは放課後の学校だ。部室自体は静かとは言え、外からは運動部の掛け声だとか、吹奏楽部の練習する音だとか、なんやかんやで色々聞こえてくる。おまけに夏真っ盛りなこの時期、蝉の鳴き声がうるさい。それはもうかなりうるさい。あまりにもうるさくて、冷房のために閉めきった部室内にも、その鳴き声は窓ガラスを越えてじわじわと滲むように聞こえていた。
「なんだろう、遠くから生き別れの妹が『お兄ちゃーん♡』と俺を呼ぶ声かな」
「呼ばれたまま帰ってこなくていいわよ兄貴」
しばらくすると、ようやく僕の耳にもその音が届くようになった。かん、かん、とばちで太鼓の縁を弾く音。じゃんじゃらじゃんじゃら、鐘を鳴らす音。賑やかな夏の風物詩。
「ああ、あれは祭りばやしだな」
「ふむ。まつりばやし……というのは?」
「神社に祭ってる、神様に奉納するための演奏だよ。今度祭りがあるからだと思うが……舞耶は行ったことがないのか?」
じっと無言で考えこむ舞耶。眉間に皺を寄せ、どこか遠くまで記憶を辿っているようだ。おいおい、そこまで馴染みの薄いものなのか。
「昔、弥勒さんと、少しだけ。縁日に」
「行きましょう! お祭り!」
ガタンと椅子を蹴倒し、急に勢い良く立ち上がったのは眼鏡の後輩女子だった。
「く……栗山さん?」
「確か明日の夜ですよね! 浴衣買って、皆で行きましょう! ね、美月先輩!」
名前を呼ばれ、それまで会話に参加していなかった美月も、ノートパソコンからちらりと顔を上げた。俄然やる気になっている後輩女子を見て、艶やかな黒髪を耳にかけてふう、と息をつく。
「そうね、峰岸さんがどうしても行きたいと言うのなら、仕方がないからついていってあげるわ」
「美月。すまない。ありがとう」
「『べっ……別にあなたの為じゃないわ、お兄ちゃんと一緒に行くのが嬉しいだけで』……美月、お兄ちゃんも嬉しい……『お兄ちゃんっ』……」
「そこの変態は浴衣がないので不参加だそうよ」
気持ち悪いアテレコを始めた兄を、美月は今度は目も合わさずに切り捨てた。
「待ってくれ美月! 俺だって浴衣くらい持ってるさ!」
「アレでしょ? 燃やしたわ。去年。気持ちが悪かったので」
追いすがる実兄をぴしゃりと言葉で打ち据える。いつも通りの対応だが、しかし燃やすとは穏やかでない。
「なんだって……! おおお俺の! 全面に美月への愛を刺繍した力作が!!!」
それは燃やされても仕方ないな?
て言うか僕だって流石に眼鏡柄の浴衣を着るとかしてないのに、この美貌の上級生は一体何をしているんだろう。そこは浴衣を着た眼鏡美人を愛でるのと同じように、浴衣を着た妹を愛でるべきではないのか? 刺繍や柄で満足していいのか? 最近ではネクタイやTシャツなど、眼鏡の柄が入った衣服にもレパートリーが増えてきているらしいが、よしんば手に入ったとしてもやはり布の柄であるから統一的なものでしかない。つまり一種類、よくて二種類の眼鏡しかプリントされていないのだ。その一種類を限りなく愛し、生涯を捧げる眼鏡愛好家であればこれほど素晴らしい品もないがしかし、僕はまだ色んな眼鏡を愛でていたいお年頃なのだ。身に付けるものにその眼鏡が一種類しかないというのは、中々に耐え難いことなのだ……。
「アッキーも行くよな?」
ぼんやりと考え事をしていた僕の思考を部室に引き戻したのは、美貌の上級生の声だった。はっと息を呑む僕の顔を、「アッキー?」と博臣が胡乱げに覗き込む。「悪い、眼鏡柄の浴衣の是非について考えていた」と答えると、いいなあ、妹柄の浴衣はないからな……。と誠に遺憾そうな答えが返ってきた。後ろで美月が叩き割りそうな勢いでキーボードを打っているのは見なかったことにした。
そうだ、眼鏡の浴衣女子。栗山さんの先の発言から、女子三人は当然浴衣なのだろう。眼鏡をかけた後輩女子の浴衣姿を想像して、僕は一瞬ふわふわと甘い誘惑に囚われそうになった。そういうことならもちろん行きたい。行きたいがしかし。
「ん? どうした」
僕はちら、と博臣を見やる。目を細めて柔らかく笑う美貌の異界士の、そのストールの下には、過去に僕がつけた凄惨な傷が残っているはずだった。浴衣になるのであれば、当然、ストールも取ってしまうはずで。
「僕は……」
「先輩も行きますよね?」
眼鏡女子にそんな風にレンズ越しの上目遣いを見せられると弱い。潤んだ栗山さんの視線、それを通す赤縁の眼鏡、しかし、しかしいくら眼鏡様の誘惑とて、僕にはそれを捨ててまで逃げたいものだってあるのだ。
「お前も、行くんだよな」
「なんだ、そんな不安そうな顔をして。アッキーを一人になんかさせないさ」
言っていることはもっともらしく格好いいが、その言葉と同時にずぼ、と脇に手が入ってくるのはどういうことだ。冬と違って布一枚隔てて伝わる博臣の手の感触に、ぞわりと背筋を逆立てる。しかし当人がそれを気にするはずもなく、博臣は好き放題に人の脇をまさぐった後、ぽつりと一言呟いた。
「……湿ってる……」
「当たり前だろ! 夏なんだから! 文句言うならいれるなよ!」
「ふっ……不潔です!」
「博臣さんと秋人くんはその、夏でもそういう間柄だったのか?」
がばっと目を覆う栗山さん(あああ眼鏡に指紋がついてしまう!)、特に興味なさげに社交辞令として話を振った感のある舞耶。美月などは見向きもしない。
博臣は、今後ろでどんな顔をしているんだろう。
ここで嫌だ、行きたくない、と言うことは簡単だ。しかし理由が説明できない。お前につけた傷を見たくないから、なんて言えないのだ。もし言ったとしたら、そしたら博臣はアッキーがそう言うなら仕方ないなと笑って参加を見送ってくれるかもしれないが、そんな美貌の異界士の甘さにみっともなく甘えるくらいなら、腹をくくって自分の罪と向き合った方がまだましだった。
それでもぐずぐずと悩み、結局、向き合う覚悟なんて決まらないまま、なあなあで僕も行くよ、と答えてしまったのだった。
さて、前述の放課後から祭りまでの間に、女子三人によるきゃっきゃうふふなお買い物シーンやいやんあはんな浴衣お着替えシーンが挟まれることになるはずだが、あいにく僕は自分の見ていないものを描写することはできないので祭りの当日まで省略させていただく。
結論から言えば、博臣はストールをつけてきていた。それを見て、ちょっとほっとしてしまった臆病な僕を、どうか笑って許してやってほしい。ちなみに、妹LOVE!という刺繍などもされていないごく普通の浴衣だったので、別の意味でもほっとしていた。
「人、多いな」
「そうだな」
夏の午後七時だから、夜にしては比較的明るい時間帯ではあるが、それでも周囲はうっすらと暗くなり始めていた。その夕闇の中で、この沿道だけがまるで灯りに切り取られたようにぼんやりと浮かび上がっている。人混みに流されるままにからからと下駄を鳴らして歩くと、フランクフルトやら焼きとうもろこしやら、色んな食べ物の匂いが漂ってきて、僕の鼻孔を刺激することしきりだった。
「せっ先輩っ見てください、マヨウンジャーのお面です! 全種類揃ってます! 中々やりますね、ここの店主……」
「美月、金魚がもういっぱいなんだが、これはお椀をもう一ついただけるシステムか? 流石に金魚が可哀想だ」
「……普通、そんなに取れないのよ」
女子たちはびっくりするくらいのはしゃぎようだった。いつも元気な栗山さんを筆頭に、美月も満更でもない風にわたあめをかじっているし、いつもはクールな舞耶まで目をきらきらと輝かせながら夜店を回っている。栗山さんがいつの間にかマヨウンジャーのお面をコンプリートしていたので、一時的に皆で付けることになった。栗山さんがレッドで、舞耶がブルーだ。美月は「なんですって? どうして私がイエローなのよ」と言っていたが、どう見てもその配役を一番気に入っているのは美月だった。ちなみに僕がピンクで、博臣がグリーンだ。僕は栗山さんに交換を申し出たが、「私には警察に通報する義務があるので!」となんだかよくわからない理由で断られてしまった。
そのグリーンのお面を斜めにつけた美貌の異界士が、心ここにあらずといった風にふっと視線を他所へやっていた。僕がその方向を見ても、その先には何もない。神社の脇に、ただ鬱蒼と木が生い茂っているだけだ。
「博臣?」
「ん……いや。なんでもない」
そしてちょっと目を離した隙に。
「はぐれた」
女子三人がいなくなっていた。急いで人混みを目で追うが、それらしい後ろ姿さえ見つけられない。
「どうするんだよ! どうするんだ! 栗山さんが! 眼鏡の浴衣美少女が!!!」
ああ、栗山さんに何かあったら僕はどうすればいいんだ! 人混みで眼鏡を取り落としたら! 金魚すくいで跳ねた水が眼鏡にかかったら!? わたあめがくっついたら……! そんな悪い予感をひと通りシミュレートして、僕は頭を抱える。こんなことならせめて、専用の眼鏡拭きと携帯用眼鏡洗剤だけでも渡しておくべきだった。
「まあ落ち着けよ、アッキー。舞耶がいるから大丈夫だろう」
興奮して今にも暴れだしそうな僕の背中を、どうどうと美貌の異界士がいなした。……そう言えば、妹がいなくなったというのに、博臣はひどく冷静だ。いつもなら、僕より取り乱しそうなのに。
「……えらく舞耶のことを信頼してるな?」
「まあ、舞耶のすごいところはそこだろ? 命令には忠実」
「……ん? 命令? 何か言ってあるのか」
「……さあ」
それ以上は話したくない、といった素振りで博臣は携帯電話を取り出した。「連絡を入れる。メールに気づけば、どこか待ち合わせもできるだろ」と何か打ち込み始める。
それを待つ間、僕は手持ち無沙汰だったのでふらふらと視線を彷徨わせていた。自分の携帯を取り出して確認する。着信はない。それを確認し、しまって、またそわそわ。博臣が喋ってくれないと、僕もすることがないのだ。
そうしてしばらく待っていると、ふっと手にしていた携帯をスリープモードにした博臣が寄ってきて、「上手にできました」とぽんぽんと僕の頭を撫でてきた。何がだ。それじゃまるで僕が飼い主に言われて「待て」をしてた犬みたいじゃないか。「……ふゆかいです」「なんだよ、褒めてるだろ?」博臣が笑う。
「アッキー。未来ちゃんと舞耶の携帯には連絡を入れておいたから、ちょっと人気のないところに逸れよう。……そうだな、そこの神社の境内の裏とかでいいんじゃないか」
「美月には?」
「着拒されてた」
哀愁ただよう名瀬の長男の背中に、僕は何も声をかけることができなかった。
「あれ? ここらは人が全然いないんだな」
「これから花火らしいからな。ここは木もあって見えにくいから、人気スポットじゃないんだろ」
「そうか」
祭りから離れて暗がりに男二人。なにか落ち着かない。話題があれば盛り上がるのだが、栗山さんの眼鏡を心配するあまりどうもそんな気分にもなれず、二人の間に沈黙が降りる。落ち着かないのは博臣も同じだったのだろうか、しばらく黙った後、そうだ、と思い出したように話を振ってきた。
「そうだ、アッキー」
博臣はごそごそと何かを取り出した。暗がりでよく見えないが、その手にしているのは、まさか。
「どうだ、似合うか?」
す、と博臣が手にしていた黒縁の眼鏡をかけた。心臓がどくん、とびっくりするくらい跳ねた。
その瞬間、僕の脳内から心配事は吹っ飛んでいた。あの博臣が、眼鏡を。僕の眼鏡性癖に一番の理解を示すあの博臣が、視力がよくて普段眼鏡をかける必要もないあの博臣が。眼鏡を。こんな、僕と二人きりのところで。それが何を意味するのか、わかっていないのだろうか。いいや、わかっている、わかっているに違いない。わかってて、僕を悪戯に巻き込もうとしているんだ。きっとそうだ。
「な……なにが目的だ!? ドッキリか!?」
「別に何も。……今日に限って言えば、本当に何もないぞ」
ふよふよと、博臣の手が何もない空間を撫でる。嘘だ、絶対に嘘だ。何もなければ、こんなところで檻を張る意味がわからない。ぎゅっと世界の全部から隔離されたような違和感を心臓に覚える。祭りの喧騒が、ひどく遠くに聞こえる。
「ただ、昨日から元気のなさそうなアッキーを、ちょっと誘惑してみようかと思って」
どん、と遠くで花火の打ち上がる音が聞こえた。
こちらを見て楽しげに笑う美貌の上級生の、レンズ越しの視線に、不覚にも急所を貫かれたかのような衝撃を覚えた。黒っぽく見えていたその眼鏡は光の加減で青くも見える仕様らしく、悔しいながらも博臣によく似合っている。いやしかし、僕は、僕は眼鏡の美人にしかなびかないんだ!と首を横に振ろうとするも、僕は思い出してしまった。そうだ、目の前のこの男も、あの美人の姉を持ち、あの美少女の妹を持つ、名瀬家の美男子なのだった。その目鼻顔立ちは当然整っているし、眼鏡が似合うのも道理である。少し狭まっただろう視界に窮屈そうに笑う目の前の眼鏡男子に、僕はごくりと生唾を飲み込む。
「ひ、ろおみ……」
「どうだ、アッキー? 今なら眼鏡ぺろぺろし放題だぞ」
悪魔のように囁かれたその誘惑は、ひどく魅力的だった。息が荒くなるのを感じる。格好悪すぎるが、それを省みる余裕は今の僕にはない。顔を寄せると、いつも博臣が使っているだろう石鹸の匂いがした。手近な木に博臣の体を押し付ける。その体が浴衣越しにも引き締まっているのが伝わってきて、体が芯から火照るのを自覚する。博臣は何も抵抗しない。ただ妖艶に笑っているだけだ。その蠱惑的な笑みがまた僕の頭をじわじわと犯していく。そして、そのストールに手をかけ――。
「……ごめん。やっぱこれ以上は……」
はっと我に返り、一度は抱き寄せた博臣の体を離した。この雰囲気の中、ここまでしておいてありえない。自分でもそう思うが、手が凍ったようにそれ以上動かず、それまで興奮しきりだった体が急激に冷えていくのを感じていた。博臣の顔は、見ることができなかった。ここまでお膳立てされておきながら、僕にはどうしても、そのストールの下を暴く勇気がなかった。
「……あーあ、フラれたな」
「……ごめん……」
こんなの情けなさすぎる。僕は膝から崩れ落ちた。泣きたい。でも自分が博臣を殺しかけた傷を目にしながら、開き直って最後までコトを進められるほど、僕は厚顔無恥にもなれなかった。どこまで行っても中途半端で、本当は博臣と一緒にいる資格すらないんじゃないかと思う。
「アッキー、顔をあげて」
美貌の異界士のその優しい声音に、言われたとおり、力なく顔をあげる。途端、ちゅ、と傍で音がした。一瞬遅れて認識する、唇に触れた柔らかい感触。驚いた声を上げる間もなく、中途半端に開けていた口から舌が割り込んできて、僕はパニックに陥った。柔らかい感触が口の中にまで入ってきて、僕の唾液と博臣の唾液が混ざって。唐突に与えられた気持ちよさと興奮で目を見開いていたら、目を閉じていやらしく僕の口内をなぞる博臣の顔をガン見してしまった。うわ、うわ。眼鏡の博臣が僕にキスしてる。眼鏡の。博臣が。頭の中にそれだけがぐるぐると回っていて、たっぷりと数十秒かけて僕を味わい尽くした博臣に解放される頃には、すっかり足腰の力が抜けてその場でへたり込んでしまっていた。
そんな情けない僕の姿を見て、博臣は何を思ったのかしたり顔で「アッキーはちょろいな」と笑って眼鏡を外した。ああ。
「いいさ。アッキーからこないなら、俺から行くまでだ。ほしくなったら力尽くでも奪ってやるから、首を洗って待っておくといい」
そう言って背中を向けた博臣に僕が何か言う前に、「せんぱーい!」と遠くから声が聞こえてきて、それでそのひとときの逢瀬はおしまいになってしまった。いつの間にか、檻は解けていたようだった。
「ふわっ!? ふ、不潔です! 先輩、いけませんそんな!」
「何を言うんだい未来ちゃん、アッキーの目にゴミが入ってたから取っていただけさ」
「そっか、目にゴミなら仕方ないですね目にゴミなら……」
それで言いくるめられるって、どれだけ古典的なんだよ!と僕は後輩女子の騙されやすさに感心しながら、こっそりと博臣の顔を盗み見る。花火に照らされた博臣は、どうしてはぐれるのバカ兄貴、と美月に頬をつねられているところだった。舞耶はわかっていたのか何も言わず、ただちらりと博臣とアイコンタクトを交わすのみだった。
どうせなら、今奪ってくれてもよかった。そう思う僕はどこまでも博臣に甘えていて、だから博臣は踏み込んでこないのだろうと思った。どこまでも僕の自業自得で、だからこそどうしようもなく胸が苦しかった。
「ひろおみ」
「……なんだい、アッキー」
今は何も聞きたくない。そう拒絶しているかのようなその背中に向けて、絞り出すように言った。
「僕もいつか、お前のそれ、取ってみせるから」
僕の言葉を聞いた美貌の異界士は、ちらりと僕を振り返った後、ふふ、とそのストールで口元を隠すように笑った。
「そうか。……楽しみにしてるよ、アッキー」
「あれは何だろう、博臣さん」
きっかけは舞耶のその言葉だったが、今にして思えば全ては博臣に仕組まれていたことだったのかもしれない。
「『あれ』?」
文芸部の部室にしては珍しく、部員が五人もいる状態だったが、舞耶が疑問を向けたのは博臣だった。白銀髪の少女の問いに、美貌の異界士は本を読む手を止め、僅かに首を傾げた。さら、と髪が揺れる。こういう何気ない仕草でも様になるのだから、まったくイケメンというのは得である。
同じく本を読んでいた峰岸舞耶は、口にしていたカラフルなロリポップを弧を描くようにくるりと回した。
「あの……遠くで聞こえる音だ」
と言っても、ここは放課後の学校だ。部室自体は静かとは言え、外からは運動部の掛け声だとか、吹奏楽部の練習する音だとか、なんやかんやで色々聞こえてくる。おまけに夏真っ盛りなこの時期、蝉の鳴き声がうるさい。それはもうかなりうるさい。あまりにもうるさくて、冷房のために閉めきった部室内にも、その鳴き声は窓ガラスを越えてじわじわと滲むように聞こえていた。
「なんだろう、遠くから生き別れの妹が『お兄ちゃーん♡』と俺を呼ぶ声かな」
「呼ばれたまま帰ってこなくていいわよ兄貴」
しばらくすると、ようやく僕の耳にもその音が届くようになった。かん、かん、とばちで太鼓の縁を弾く音。じゃんじゃらじゃんじゃら、鐘を鳴らす音。賑やかな夏の風物詩。
「ああ、あれは祭りばやしだな」
「ふむ。まつりばやし……というのは?」
「神社に祭ってる、神様に奉納するための演奏だよ。今度祭りがあるからだと思うが……舞耶は行ったことがないのか?」
じっと無言で考えこむ舞耶。眉間に皺を寄せ、どこか遠くまで記憶を辿っているようだ。おいおい、そこまで馴染みの薄いものなのか。
「昔、弥勒さんと、少しだけ。縁日に」
「行きましょう! お祭り!」
ガタンと椅子を蹴倒し、急に勢い良く立ち上がったのは眼鏡の後輩女子だった。
「く……栗山さん?」
「確か明日の夜ですよね! 浴衣買って、皆で行きましょう! ね、美月先輩!」
名前を呼ばれ、それまで会話に参加していなかった美月も、ノートパソコンからちらりと顔を上げた。俄然やる気になっている後輩女子を見て、艶やかな黒髪を耳にかけてふう、と息をつく。
「そうね、峰岸さんがどうしても行きたいと言うのなら、仕方がないからついていってあげるわ」
「美月。すまない。ありがとう」
「『べっ……別にあなたの為じゃないわ、お兄ちゃんと一緒に行くのが嬉しいだけで』……美月、お兄ちゃんも嬉しい……『お兄ちゃんっ』……」
「そこの変態は浴衣がないので不参加だそうよ」
気持ち悪いアテレコを始めた兄を、美月は今度は目も合わさずに切り捨てた。
「待ってくれ美月! 俺だって浴衣くらい持ってるさ!」
「アレでしょ? 燃やしたわ。去年。気持ちが悪かったので」
追いすがる実兄をぴしゃりと言葉で打ち据える。いつも通りの対応だが、しかし燃やすとは穏やかでない。
「なんだって……! おおお俺の! 全面に美月への愛を刺繍した力作が!!!」
それは燃やされても仕方ないな?
て言うか僕だって流石に眼鏡柄の浴衣を着るとかしてないのに、この美貌の上級生は一体何をしているんだろう。そこは浴衣を着た眼鏡美人を愛でるのと同じように、浴衣を着た妹を愛でるべきではないのか? 刺繍や柄で満足していいのか? 最近ではネクタイやTシャツなど、眼鏡の柄が入った衣服にもレパートリーが増えてきているらしいが、よしんば手に入ったとしてもやはり布の柄であるから統一的なものでしかない。つまり一種類、よくて二種類の眼鏡しかプリントされていないのだ。その一種類を限りなく愛し、生涯を捧げる眼鏡愛好家であればこれほど素晴らしい品もないがしかし、僕はまだ色んな眼鏡を愛でていたいお年頃なのだ。身に付けるものにその眼鏡が一種類しかないというのは、中々に耐え難いことなのだ……。
「アッキーも行くよな?」
ぼんやりと考え事をしていた僕の思考を部室に引き戻したのは、美貌の上級生の声だった。はっと息を呑む僕の顔を、「アッキー?」と博臣が胡乱げに覗き込む。「悪い、眼鏡柄の浴衣の是非について考えていた」と答えると、いいなあ、妹柄の浴衣はないからな……。と誠に遺憾そうな答えが返ってきた。後ろで美月が叩き割りそうな勢いでキーボードを打っているのは見なかったことにした。
そうだ、眼鏡の浴衣女子。栗山さんの先の発言から、女子三人は当然浴衣なのだろう。眼鏡をかけた後輩女子の浴衣姿を想像して、僕は一瞬ふわふわと甘い誘惑に囚われそうになった。そういうことならもちろん行きたい。行きたいがしかし。
「ん? どうした」
僕はちら、と博臣を見やる。目を細めて柔らかく笑う美貌の異界士の、そのストールの下には、過去に僕がつけた凄惨な傷が残っているはずだった。浴衣になるのであれば、当然、ストールも取ってしまうはずで。
「僕は……」
「先輩も行きますよね?」
眼鏡女子にそんな風にレンズ越しの上目遣いを見せられると弱い。潤んだ栗山さんの視線、それを通す赤縁の眼鏡、しかし、しかしいくら眼鏡様の誘惑とて、僕にはそれを捨ててまで逃げたいものだってあるのだ。
「お前も、行くんだよな」
「なんだ、そんな不安そうな顔をして。アッキーを一人になんかさせないさ」
言っていることはもっともらしく格好いいが、その言葉と同時にずぼ、と脇に手が入ってくるのはどういうことだ。冬と違って布一枚隔てて伝わる博臣の手の感触に、ぞわりと背筋を逆立てる。しかし当人がそれを気にするはずもなく、博臣は好き放題に人の脇をまさぐった後、ぽつりと一言呟いた。
「……湿ってる……」
「当たり前だろ! 夏なんだから! 文句言うならいれるなよ!」
「ふっ……不潔です!」
「博臣さんと秋人くんはその、夏でもそういう間柄だったのか?」
がばっと目を覆う栗山さん(あああ眼鏡に指紋がついてしまう!)、特に興味なさげに社交辞令として話を振った感のある舞耶。美月などは見向きもしない。
博臣は、今後ろでどんな顔をしているんだろう。
ここで嫌だ、行きたくない、と言うことは簡単だ。しかし理由が説明できない。お前につけた傷を見たくないから、なんて言えないのだ。もし言ったとしたら、そしたら博臣はアッキーがそう言うなら仕方ないなと笑って参加を見送ってくれるかもしれないが、そんな美貌の異界士の甘さにみっともなく甘えるくらいなら、腹をくくって自分の罪と向き合った方がまだましだった。
それでもぐずぐずと悩み、結局、向き合う覚悟なんて決まらないまま、なあなあで僕も行くよ、と答えてしまったのだった。
さて、前述の放課後から祭りまでの間に、女子三人によるきゃっきゃうふふなお買い物シーンやいやんあはんな浴衣お着替えシーンが挟まれることになるはずだが、あいにく僕は自分の見ていないものを描写することはできないので祭りの当日まで省略させていただく。
結論から言えば、博臣はストールをつけてきていた。それを見て、ちょっとほっとしてしまった臆病な僕を、どうか笑って許してやってほしい。ちなみに、妹LOVE!という刺繍などもされていないごく普通の浴衣だったので、別の意味でもほっとしていた。
「人、多いな」
「そうだな」
夏の午後七時だから、夜にしては比較的明るい時間帯ではあるが、それでも周囲はうっすらと暗くなり始めていた。その夕闇の中で、この沿道だけがまるで灯りに切り取られたようにぼんやりと浮かび上がっている。人混みに流されるままにからからと下駄を鳴らして歩くと、フランクフルトやら焼きとうもろこしやら、色んな食べ物の匂いが漂ってきて、僕の鼻孔を刺激することしきりだった。
「せっ先輩っ見てください、マヨウンジャーのお面です! 全種類揃ってます! 中々やりますね、ここの店主……」
「美月、金魚がもういっぱいなんだが、これはお椀をもう一ついただけるシステムか? 流石に金魚が可哀想だ」
「……普通、そんなに取れないのよ」
女子たちはびっくりするくらいのはしゃぎようだった。いつも元気な栗山さんを筆頭に、美月も満更でもない風にわたあめをかじっているし、いつもはクールな舞耶まで目をきらきらと輝かせながら夜店を回っている。栗山さんがいつの間にかマヨウンジャーのお面をコンプリートしていたので、一時的に皆で付けることになった。栗山さんがレッドで、舞耶がブルーだ。美月は「なんですって? どうして私がイエローなのよ」と言っていたが、どう見てもその配役を一番気に入っているのは美月だった。ちなみに僕がピンクで、博臣がグリーンだ。僕は栗山さんに交換を申し出たが、「私には警察に通報する義務があるので!」となんだかよくわからない理由で断られてしまった。
そのグリーンのお面を斜めにつけた美貌の異界士が、心ここにあらずといった風にふっと視線を他所へやっていた。僕がその方向を見ても、その先には何もない。神社の脇に、ただ鬱蒼と木が生い茂っているだけだ。
「博臣?」
「ん……いや。なんでもない」
そしてちょっと目を離した隙に。
「はぐれた」
女子三人がいなくなっていた。急いで人混みを目で追うが、それらしい後ろ姿さえ見つけられない。
「どうするんだよ! どうするんだ! 栗山さんが! 眼鏡の浴衣美少女が!!!」
ああ、栗山さんに何かあったら僕はどうすればいいんだ! 人混みで眼鏡を取り落としたら! 金魚すくいで跳ねた水が眼鏡にかかったら!? わたあめがくっついたら……! そんな悪い予感をひと通りシミュレートして、僕は頭を抱える。こんなことならせめて、専用の眼鏡拭きと携帯用眼鏡洗剤だけでも渡しておくべきだった。
「まあ落ち着けよ、アッキー。舞耶がいるから大丈夫だろう」
興奮して今にも暴れだしそうな僕の背中を、どうどうと美貌の異界士がいなした。……そう言えば、妹がいなくなったというのに、博臣はひどく冷静だ。いつもなら、僕より取り乱しそうなのに。
「……えらく舞耶のことを信頼してるな?」
「まあ、舞耶のすごいところはそこだろ? 命令には忠実」
「……ん? 命令? 何か言ってあるのか」
「……さあ」
それ以上は話したくない、といった素振りで博臣は携帯電話を取り出した。「連絡を入れる。メールに気づけば、どこか待ち合わせもできるだろ」と何か打ち込み始める。
それを待つ間、僕は手持ち無沙汰だったのでふらふらと視線を彷徨わせていた。自分の携帯を取り出して確認する。着信はない。それを確認し、しまって、またそわそわ。博臣が喋ってくれないと、僕もすることがないのだ。
そうしてしばらく待っていると、ふっと手にしていた携帯をスリープモードにした博臣が寄ってきて、「上手にできました」とぽんぽんと僕の頭を撫でてきた。何がだ。それじゃまるで僕が飼い主に言われて「待て」をしてた犬みたいじゃないか。「……ふゆかいです」「なんだよ、褒めてるだろ?」博臣が笑う。
「アッキー。未来ちゃんと舞耶の携帯には連絡を入れておいたから、ちょっと人気のないところに逸れよう。……そうだな、そこの神社の境内の裏とかでいいんじゃないか」
「美月には?」
「着拒されてた」
哀愁ただよう名瀬の長男の背中に、僕は何も声をかけることができなかった。
「あれ? ここらは人が全然いないんだな」
「これから花火らしいからな。ここは木もあって見えにくいから、人気スポットじゃないんだろ」
「そうか」
祭りから離れて暗がりに男二人。なにか落ち着かない。話題があれば盛り上がるのだが、栗山さんの眼鏡を心配するあまりどうもそんな気分にもなれず、二人の間に沈黙が降りる。落ち着かないのは博臣も同じだったのだろうか、しばらく黙った後、そうだ、と思い出したように話を振ってきた。
「そうだ、アッキー」
博臣はごそごそと何かを取り出した。暗がりでよく見えないが、その手にしているのは、まさか。
「どうだ、似合うか?」
す、と博臣が手にしていた黒縁の眼鏡をかけた。心臓がどくん、とびっくりするくらい跳ねた。
その瞬間、僕の脳内から心配事は吹っ飛んでいた。あの博臣が、眼鏡を。僕の眼鏡性癖に一番の理解を示すあの博臣が、視力がよくて普段眼鏡をかける必要もないあの博臣が。眼鏡を。こんな、僕と二人きりのところで。それが何を意味するのか、わかっていないのだろうか。いいや、わかっている、わかっているに違いない。わかってて、僕を悪戯に巻き込もうとしているんだ。きっとそうだ。
「な……なにが目的だ!? ドッキリか!?」
「別に何も。……今日に限って言えば、本当に何もないぞ」
ふよふよと、博臣の手が何もない空間を撫でる。嘘だ、絶対に嘘だ。何もなければ、こんなところで檻を張る意味がわからない。ぎゅっと世界の全部から隔離されたような違和感を心臓に覚える。祭りの喧騒が、ひどく遠くに聞こえる。
「ただ、昨日から元気のなさそうなアッキーを、ちょっと誘惑してみようかと思って」
どん、と遠くで花火の打ち上がる音が聞こえた。
こちらを見て楽しげに笑う美貌の上級生の、レンズ越しの視線に、不覚にも急所を貫かれたかのような衝撃を覚えた。黒っぽく見えていたその眼鏡は光の加減で青くも見える仕様らしく、悔しいながらも博臣によく似合っている。いやしかし、僕は、僕は眼鏡の美人にしかなびかないんだ!と首を横に振ろうとするも、僕は思い出してしまった。そうだ、目の前のこの男も、あの美人の姉を持ち、あの美少女の妹を持つ、名瀬家の美男子なのだった。その目鼻顔立ちは当然整っているし、眼鏡が似合うのも道理である。少し狭まっただろう視界に窮屈そうに笑う目の前の眼鏡男子に、僕はごくりと生唾を飲み込む。
「ひ、ろおみ……」
「どうだ、アッキー? 今なら眼鏡ぺろぺろし放題だぞ」
悪魔のように囁かれたその誘惑は、ひどく魅力的だった。息が荒くなるのを感じる。格好悪すぎるが、それを省みる余裕は今の僕にはない。顔を寄せると、いつも博臣が使っているだろう石鹸の匂いがした。手近な木に博臣の体を押し付ける。その体が浴衣越しにも引き締まっているのが伝わってきて、体が芯から火照るのを自覚する。博臣は何も抵抗しない。ただ妖艶に笑っているだけだ。その蠱惑的な笑みがまた僕の頭をじわじわと犯していく。そして、そのストールに手をかけ――。
「……ごめん。やっぱこれ以上は……」
はっと我に返り、一度は抱き寄せた博臣の体を離した。この雰囲気の中、ここまでしておいてありえない。自分でもそう思うが、手が凍ったようにそれ以上動かず、それまで興奮しきりだった体が急激に冷えていくのを感じていた。博臣の顔は、見ることができなかった。ここまでお膳立てされておきながら、僕にはどうしても、そのストールの下を暴く勇気がなかった。
「……あーあ、フラれたな」
「……ごめん……」
こんなの情けなさすぎる。僕は膝から崩れ落ちた。泣きたい。でも自分が博臣を殺しかけた傷を目にしながら、開き直って最後までコトを進められるほど、僕は厚顔無恥にもなれなかった。どこまで行っても中途半端で、本当は博臣と一緒にいる資格すらないんじゃないかと思う。
「アッキー、顔をあげて」
美貌の異界士のその優しい声音に、言われたとおり、力なく顔をあげる。途端、ちゅ、と傍で音がした。一瞬遅れて認識する、唇に触れた柔らかい感触。驚いた声を上げる間もなく、中途半端に開けていた口から舌が割り込んできて、僕はパニックに陥った。柔らかい感触が口の中にまで入ってきて、僕の唾液と博臣の唾液が混ざって。唐突に与えられた気持ちよさと興奮で目を見開いていたら、目を閉じていやらしく僕の口内をなぞる博臣の顔をガン見してしまった。うわ、うわ。眼鏡の博臣が僕にキスしてる。眼鏡の。博臣が。頭の中にそれだけがぐるぐると回っていて、たっぷりと数十秒かけて僕を味わい尽くした博臣に解放される頃には、すっかり足腰の力が抜けてその場でへたり込んでしまっていた。
そんな情けない僕の姿を見て、博臣は何を思ったのかしたり顔で「アッキーはちょろいな」と笑って眼鏡を外した。ああ。
「いいさ。アッキーからこないなら、俺から行くまでだ。ほしくなったら力尽くでも奪ってやるから、首を洗って待っておくといい」
そう言って背中を向けた博臣に僕が何か言う前に、「せんぱーい!」と遠くから声が聞こえてきて、それでそのひとときの逢瀬はおしまいになってしまった。いつの間にか、檻は解けていたようだった。
「ふわっ!? ふ、不潔です! 先輩、いけませんそんな!」
「何を言うんだい未来ちゃん、アッキーの目にゴミが入ってたから取っていただけさ」
「そっか、目にゴミなら仕方ないですね目にゴミなら……」
それで言いくるめられるって、どれだけ古典的なんだよ!と僕は後輩女子の騙されやすさに感心しながら、こっそりと博臣の顔を盗み見る。花火に照らされた博臣は、どうしてはぐれるのバカ兄貴、と美月に頬をつねられているところだった。舞耶はわかっていたのか何も言わず、ただちらりと博臣とアイコンタクトを交わすのみだった。
どうせなら、今奪ってくれてもよかった。そう思う僕はどこまでも博臣に甘えていて、だから博臣は踏み込んでこないのだろうと思った。どこまでも僕の自業自得で、だからこそどうしようもなく胸が苦しかった。
「ひろおみ」
「……なんだい、アッキー」
今は何も聞きたくない。そう拒絶しているかのようなその背中に向けて、絞り出すように言った。
「僕もいつか、お前のそれ、取ってみせるから」
僕の言葉を聞いた美貌の異界士は、ちらりと僕を振り返った後、ふふ、とそのストールで口元を隠すように笑った。
「そうか。……楽しみにしてるよ、アッキー」
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