ひとめぐり

(2013/11/19)


 春の陽気はまるで温かい水の中にいるように遙を包み込んでいて、心なしか視界もぼんやりと薄水を通したように和らぐ。服を脱ぎ捨てて水に飛び込みたい衝動に駆られ、遙は思わずプールのある方向に目を向け、その姿を瞼の裏に思い描いた。岩鳶高校のプールは、残念ながら温水設備などの無いごく一般的な「学校のプール」だったから、今は冬の間に繁殖した藻が元気な姿で生い茂っているはずだった。それを取り払って、綺麗にして、水を入れて。もうすぐだ。もうすぐ泳げる季節になる。
 もちろん遙は、水があれば真冬だろうが氷が張っていようが何も構うことはなかったのだが、この冬の間は体調を崩すからという理由で真琴が入れさせてくれなかったのだ。それでも聞かずに服を脱げば、泣きそうな声で「ハル、頼むから」と縋られるものだから、遙は終に根負けして冬のプールに入ることを諦めた。しかし、春のプールなら真琴も文句を言うまい。だってこんなにも温かいのだ。
 楽しみに胸を踊らせていると、そのステップに水をさすように「七瀬くん!」と名前を呼ばれた。遙は意識を今いる職員室に引き戻し、黙って持っていたプリントを差し出す。進路希望調査と書かれたプリントを、この締切日の放課後というほぼギリギリアウトな時間に提出しにきた遙は、自分の進路について真剣に悩んでいたとかではなく、ただ単に提出を忘れていただけだった。今朝だって天方先生に言われなければ忘れていたところだったし、実際プリントを家に忘れてきていたので仕方無くもう一枚予備のプリントをもらわなければならなかった。中身も正直走り書きだ。
「もうっ、締切ギリギリだから先生心配したじゃない!」
 その天方先生は、今日も教師らしからぬふりふりとした布に身を包んでいた。渚や江などが「可愛い」という言葉とともにそう指摘すると、彼女は決まって「これでもいつもに比べて『大人しめ』なのよ」と主張する。そうなのだろうか。遙はあまり女性の服なんかに興味はなかったので、天方先生の「いつもの服」というものが一体どんなものだったのか、靄がかかったように思い出せなかった。もしかして常に競泳水着とかを着てきてたら覚えられたかもしれないですね。そう言おうと思ったことはあったが、殴られそうなので終ぞ言ったことはない。
「あとは橘くんだけね」
 その言葉に、ふわっと水面下から意識が浮上する。
「……真琴?」
「ええ、まだ出してないのは彼だけよ。てっきりあなた達は同じ大学に行くものだと思っていたけれど、違うの?」
「……さあ」
 そう言えば、真琴の進路を知らないなと遙は軽く首を傾げる。同じく遙も真琴には進路希望を告げていなかったが、真琴ならば遙の望む進路くらいなら見通していそうな気もしていた。それが例え今朝考えたばかりのものであっても、真琴なら今遙のプリントに走り書かれている大学名くらいぴたりと言い当ててしまうだろう。大きなプールのある、地元の大学の名前だ。てっきり真琴もそこだと思っていたが、違うのだろうか。真琴に限って提出物を忘れているということはまずないから、自分の進路に真剣に悩んでいる方の締切破りなのかもしれない。真琴の走り書きを、遙は見たことがなかった。
「あら、そうだわ、どうせこの後部活で会うでしょ? 橘くんに提出するように言っておいて」考え込む遙を尻目に、もののついでのように天方先生は頼みを告げた。ね、お願いと手を合わせてぺこりと頭を下げる天方先生からは、ふわりと花の匂いがする。「うちのクラスだけ揃ってないなんて、学年主任の先生に怒られちゃう」遙は塩素の匂いのシャンプーがあればいいのに、と思った。それか風呂がプールだったらよかったのかもしれない。そうしたらこういうときにする匂いは、プールの匂いだ。いい匂い。
「……いいですけど。先生は部活にこないんですか」
「だって外まで歩くのしんどいじゃない?」
「歳ですか」
 間髪入れず聞くと、ばきん、と天方先生の手元で音が鳴った。見れば先生は、なんと手に持っていたシャーペンをへし折っていた。おお、と純粋な尊敬の眼差しを向けるが、天方先生には伝わらない。
「な・に・か、言った?」
 先生の背後に荒れ狂う嵐の気配を感じ、遙は「いえ、何も」と足早に職員室から退散した。これは天方先生の機嫌を取るためにも、なんとしても真琴から進路希望調査のプリントを調達せねばなるまい。遙は意欲的に水泳部の部室へと向かいかけ――足を止めた。
 窓の外では夕陽が空を赤く溶かしている。グラウンドからは陸上部が張り上げる声が聞こえる。校舎のあちこちからは吹奏楽部のパート練習が聞こえてくる。温い水のような陽気の中に、遙はぼやりとたゆたう。果たして真琴は今、本当に水泳部の部室にいるのか?
 遙は少し意識を沈めた後、ふらりと三年の教室へ向かうことにした。

 誰もいないがらんとした三年の教室で、真琴はひっそりと座っていた。特に何もするでもなく、頬杖をつきながら窓の外を眺めている。その手元には、使い古されたシャーペンと一枚のプリントが置かれていた。進路希望調査。
「真琴」
 遙が声をかけると、真琴はぼんやりと遙に顔を向けた。いつもの懐っこい笑みは鳴りを潜めていて、どこか遠くを見るように視線が定まらない。「真琴」再度その名を呼べば、ようやく「ハル」と返事が返ってきた。よく見れば、真琴は自分の席ではなく、一つ後ろの遙の席に座っている。遙は不思議に思いながらも、真琴の席の椅子を引いた。
「ハル? どうしたの」
「先生から伝言。進路希望、出てないの真琴だけ」
「はは……そっかあ」
す真琴は困ったように茫洋と笑うだけで、席を立とうとはしなかった。やはり締切破りは自覚しているらしい。遙は、真琴の手元に目を落とした。夕陽に染まって橙色になった紙は、第一希望から第三希望まで、すべて東京の国公立大学の名前で埋まっている。
「ふうん」
「それだけ?」
「綺麗な字だな」
「冷たいなあ」
 真琴は冬のせせらぎのように笑った。きれいで、澄んだ笑い声だ。その声で彼は冷たい、と言う。自分と彼、果たしてどちらが冷たいのだろう。真琴の頬に手を当てると、何とも言えない生温い感触が伝わってくる。「ハル?」温度差が無いから、生温く感じるだけだ。遙は思考を堰き止める。
「ハルは地元の大学行くんでしょ。プールあるし」
「ああ」
「俺はね、漁師になるにもアレだからさ、どうしよっかって迷ってたらさ、母さんが息子ひとり大学行かせるくらいのお金ならあるからって。いやおかしいよね、うちあと息子ひとりと娘ひとりいるよ。そしたらひとりも三人も同じだとか、いやいや、絶対一緒じゃないよ」
「おばさんがそう言ってるならいいんじゃないか」
「ハルは?」
「いいんじゃないか」
「そっか」
 特に否定する理由が見当たらなかったので、遙は真琴を肯定した。家庭の事情も許し、学力も申し分ない。ならば真琴のしたいようにするべきだと、そう、思った。だから肯定した。
 真琴は少し寂しそうに笑って、がたんと席を立った。
「天方先生に出してくる。ハル、部活行くでしょ? 先に行ってて」
「わかった」
 真琴はばたばたと慌ただしく教室を出て行った。わかった、そう口にした遙は自分が何をわかったのかわからなかった。進路希望調査は今日が締切で、少なくとも、真琴と遙の進む道は別になるだろうということ。そしてこれから先も、交わることはないだろうということ。ぼんやりと、いつだったかの真琴の言葉を思い出す。『ハルじゃないと駄目なんだ』。海の匂いとともに唐突に思い出したその言葉を、記憶の水底から必死に浚おうとしても、そのときの真琴の顔と声が遙にはどうしても思い出せなかった。ただただ、水への恋しさが募るばかりだ。



「あれ? そう言えば」
「真琴先輩の番号はあったんですか?」
 遙の家で、地元の大学の合格発表を待っていたときのことだった。遙は畳に寝転がりながら自分の携帯の画面を見て、「受かった」とぽつりと呟いた。冬の日本家屋は昼間でも存外冷えるもので、畳や板張りの床などは素足で歩くには少し冷たすぎる。遙は早々に引っ張り出してきたこたつに足をしまいこみ、ぬくぬくと暖を取っていた。……のだが、その合格を呟いた瞬間、同じくこたつに入っていたはずの後輩二人に引きずり出された。と言うか、いつの間にこの二人は遙の家に来ていたのだろう。疑問に思う間もなく、うわあ、おめでとう、おめでとうございます、今夜はお赤飯炊きましょう、と大騒ぎに巻き込まれ、危うく胴上げまでされるところだったが断固拒否した。そして冒頭の二人の言葉だ。真琴はそのときどうしていただろうか、アイロンをかけていたかもしれない。その大騒ぎの輪には入っていなかったように思う。多分、アイロンを使っていて、騒いだら危なかったからだ。
「え? 俺の番号、無いよ?」アイロンを手にしたまま、真琴は不思議そうに首を傾げた。「だって受けてないもの」
 一瞬時間が止まった。と、思ったのもつかの間、渚の声が響き渡る。
「え……えええ!? なんで!? ハルちゃんとマコちゃん、同じ大学に行くんじゃないの!?」
「行かない」
 逆になんで行くと思っていたんだろう。真琴も遙も、目を見合わせて首を傾げる。ね、ハル。そう言って、ちょこんと斜め15度ほど首を控えめに傾ける仕草。真琴はガタイは大きいのに、こういうところは妙に小動物ぽいのだ。言っても何にもならないから、絶対に言わないけど。
「……まあ、そういうわけだから」
「喧嘩でもしたんですか?」
 怜は相変わらず心配症だ。真琴とは今こうして話しているんだから、喧嘩なんてしてないに決まってる。
「いや」
「まあ、入試が終わっちゃった分には今更言っても仕方がないし」
「後期入試があるでしょお!」
「俺推薦だから蹴れないしなあ」
 何故か怒り出した渚と不満気な怜に、真琴はいつものようにはははと笑っていた。遙は引きずり出された体をまたこたつの中にしまい、冷えた体を温める。こんな水泳禁止の冬の日は、真琴が真っ先に遙の家に訪ねてくるのが常だった。そこに渚と怜が遊びに来て、いつしか遙の家に集まることが「いつものこと」になっていた。けれどその日常ももうすぐ終わる。そうだ、もうすぐ卒業なのだ。そう思ってはみるものの、その実感は何の感慨も遙の内にもたらさず、まるで水泡のようにふわりと浮かんで消えてしまった。



 卒業式なんてひどいものだった。校庭に出ても桜はまだ咲いていなくて、道行く卒業生の胸の花が一番華やかに咲いていた帰り道。卒業する遙と真琴よりも、どう見たって送り出す側の渚と怜が号泣しているものだから、遙の目からは涙一つこぼれもしなかった。真琴も泣かなかった。真琴は人一倍寂しがりのくせに、小学校だって中学校だって卒業式では泣かなかったのだ。だから、高校でも泣かないだろうと思っていた。そうして、式が終わって、閑散となった学校を見て、ぽろりと涙を流すのだ。皆いなくなっちゃったね。ハル。
「マコちゃん! 僕、マコちゃんのこと忘れないから……!」
「真琴先輩! 遙先輩のことは任せて下さい……! 絶対に死なせませんから! この僕が全責任を持って遙先輩の面倒を見ます!」
「遙はペットじゃないんだから」
 真琴は笑っていた。だから遙も笑った。「真琴とは、今生の別れじゃないんだから」何故か自分が口にしたその言葉が、ちくりと胸を突いた。



「じゃあ」
 電車に乗り込んだ真琴の背を、靄がふわっと包み込んだ、ように見えた。遙はぱちぱちと瞬きする。やはり見間違えだったようで、そこにはいつも通りに笑う真琴の姿があった。
「行くね」
 真琴を見送るその日も、淡々と過ぎ去ろうとしていた。真琴は大きなバッグを持っていて、けれど単身上京するには少ない荷物だったから、私物はどうしたのかと聞けば全部先に送ってあるよと答えが返ってきた。その日は桜が咲いていて、駅のホームは桜の花びらがいっぱい敷き詰められていた。駅には遙と真琴以外誰もいなかったから、誰に踏まれることもない綺麗なままの花びらが積もっていく。あの春の日から、まるで流れるように時は過ぎ去っていた。遙には堰き止めることはおろか逆らって泳ぐことも難しく、ただ身を任せるのみだった。それを悔いているかと聞かれても、遙にはよくわからない。流れの中で、自分は自分で居続けただけだ。無人の駅に、発車のベルが鳴り響く。
 じゃあね、ハル。いつもなら体調を崩すなとか、ご飯はこれとこれとこれを作り置いてるからとか、ハンカチとティッシュはちゃんと持ったかとか。遙と長く離れるときはそんな細々としたことを必ず言う真琴が、今日は何も言わずに遙に背中を向ける。いつもなら言うはずの。いつも。……いつもとは、いつのことだっただろう。
「真琴」
 そのとき、なんだか遠い昔を掴まえることのできたような気がして、ぽろりとその言葉が口をついて転がり出た。
「俺も、真琴じゃないと駄目だった」

「……ハル」
 真琴が振り返る。じっと見つめる緑の目が、桜の向こうに隠れる。
「……ありがとう」
 二人ともその場を動かなかった。ドアがぷしゅうと音を立てて閉まった。
 とっさにその体を抱き締めればよかったのかもしれないし、電車を全力で追いかけたらよかったのかもしれなかった。じゃあな、と別れを告げればよかったのかもしれない。あるいは行くなよと引き止めていれば。二年越しに伝えた言葉を、もっと早くに告げていれば。
 遙はその場に立ち尽くしていた。真琴も振り返らなかった。遙の手をすり抜けて、真琴を乗せた電車は行ってしまった。
 飲み込んだ言葉は、小春の陽気に溶け始めた雪とともに、ひっそりと水に埋もれた。
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