眠れない夜も独りでないこと

(2024/04/04)


 眠るには月が眩しすぎる夜だった。
 ウィルソンはシーツを引いて寝返りを打ち、硬くなった瞼を無理矢理閉じる。すると今度は寝室を満たす静寂の底から、空気の揺らぎ、ヴヴヴとどこかで電気器具が稼働する囁きまで耳が拾って頭の中で喚き立てる。一種の興奮状態だ、とウィルソンの意識はそう結論付ける。他人の血を目にした夜はいつもそうだ。思い起こされるのは斬った感触、火薬の臭い。最近は、そこまでひどくはなかったのに。神経が落ち着かなくなって、息がうまくできなくて、自分の意志とは正反対に体が眠りから遠ざかる。
 耳をふさげば自分の血潮までざわざわと聞こえるような気がして、たまらずウィルソンは飛び起きた。
(みず……)
 気づくと口の中が随分と渇いている気がした。悪い夢に誘われるように、ぺた、と冷えたフローリングに素足を差し出す。とにかく、なんとかクールダウンしないと。月明かりの差し込む室内を、よろよろと扉へ向かう。めったに使わないからとこだわりなく放置している狭いキッチンにつながるはずの扉を開け――何故かそこには吹き抜けに面した廊下と、階下につながる階段がある。住み慣れた部屋のそれではない。首をひねった拍子に、自室以外の扉が二つ並んでいるのが目に入って、ようやく、ああ、この家ではキッチンに行くには階下に降りなければならないんだった、と思い出した。それと、あまり音を立てないようにしなければならない。眠っているだろう同居人を起こさないように。
 同居――つい先日開始されたチームメイトとのシェアハウスは、なんと驚くほど順調だった。仕事仲間と家を借りると決まった当初は絶対にうまくいくわけがないと思っていたが(とはいえ、ASHから支給されるとなればウィルソンに選択肢はなかった。なにせ転職したての身では給料が心許ない)、蓋を開けてみれば互いが互いの生活に不必要に干渉せず、独りで暮らしていたときと変わらない生活ができている。問題はと言えば、出動時間が被ったときに玄関で男三人、ぎゅうぎゅう詰めになるくらいだ。それでも、物件内で二階分のフロアを有するこのマンションの一室は、三人が生活を共にするには十分な広さがあった。
 ただ、こういうときに気を遣わなければならないのは厄介だ。つまり夜中に階下に降りなければならなくなったとき。
 足音をすっと消して、扉の前を通り過ぎる。電灯のスイッチの前も素通りだ。こういう場面で明かりをつけるなんて馬鹿げているんだ、とウィルソンは一人でシニカルな笑みを浮かべる。どう考えたって、ドアの隙間から光が差し込んであの二人は敏感に目を覚ますだろう。厄介なことこの上ない。
 幸い、暗闇には目が慣れているし、音を立てずに歩くこともウィルソンにとっては造作もない。例えば恋人が自分に抱き着くようにして寝ていたって、ウィルソンがその気になれば気づかれずにベッドをするりと抜け出すことすら可能だろう。そう――そのくらいイージーなミッションだったらどんなによかったか。扉を隔てた向こうで寝ているのは架空のキュートな恋人ではなく、神経質そうなメディックと、傲岸不遜なタイラントだ。
 どこまで気配を消すべきか。いっそ気にせずどたどたと階段を下りて、こっちの気も知らずに貪っている眠りを妨げてやろうか。なにせ奴らはかわいい恋人ではないので。
 思案しながら階下へ降りようとしたそのとき。
 ウィルソンの耳が、微かな旋律を捉えた。
(ギターの音……?)
 先ほどから、鳴っていたのだろうか。遠慮がちに一つ一つ発されるその音は、深夜の静寂を損なうことなく密やかに零れては溶けていく。ラジオ――にしては即興性がある。誰かが弾いているのだ。居間のソファに座ってこちらを背にし、頭を微かに揺らして音楽を奏でている人影。
「……ヴェザリウス?」
 呼びかけると、ぴた、と音がやんだ。人影の動きが固まる。二人して呑んだ息が、吐き出されずに空気の震えを止める。
 口火を切ったのはウィルソンだった。どんな表情を取るべきか迷った末に、中途半端な笑いが唇に乗る。
「……へえ。きみってギターなんて弾くんだ。意外だな」
「……きみこそ、ウィルソン。眠れなくて夜中に起きてくるような可愛げがあるとはね」
 フフ、と屈託のない笑い声が返ってきて、そこでようやく二人の間に張り詰められた緊張が少し和らいだ。
 つややかな髪を揺らして振り返るヴェザリウスは、アクセサリーを外し、いつものかっちりとしたシャツではなく部屋着であろうニットに身を包んでいる。せっかくだし、もうひとつふたつからかいの言葉を投げてやるか、とウィルソンは正面に回り込み――ヴェザリウスのそばに、もう一つの人影があることに気がついた。
 アコースティックギターを抱えるメディックに頭を寄りかけるように、寝息を立てているもう一人の同居人。ソファで丸まるベンタクロウのその体躯を見落としていた事実に、ウィルソンは自分が信じられなくなった。いくら調子が万全じゃなくても、そんなにポンコツなつもりはなかったけど。
 というか。
「あー……」急に体が緊張でこわばる。二人で、夜中に、居間で、寄り添っている姿を見れば想像できることはかなり限定される。なんだ、部屋の前を通るとき、全然配慮なんか必要なかったんじゃないか。というか、それなら三人でのルームシェアなんか吞まないでくれよ。「もしかしてお取り込み中だった? 二人ってそういう仲? もうキスしちゃったりしてる? 邪魔して悪かったよ。ぼくは何も見てないし、もう寝るからごゆっくり……」
「お望みなら今ここできみにもキスしてやってもいいんだけど、ユウ・Q・ウィルソン?」
 後退ろうとした瞬間に、いつの間にかギターを置いて立ち上がったヴェザリウスに一歩で距離を詰められて、ついでに胸倉を掴まれたものだから思わずワ、と焦った声が漏れ出る。至近距離に迫った端正な顔に、鋭い目でじっと熱心に見つめられると居心地が悪くて適わない。これは睨まれていると言う気もするが。遅れて後ろで、支えを失ったタイラントがどさ、とソファからずり落ちる音がして、おお、可哀想なベンタ、と内心同情する。きみの恋人は冷たいよ。
 と、そんな考えを読んだかのように、ウィルソンの頬にヴェザリウスの手が触れる。琥珀色の瞳が今は夜に沈んで暗い。頬を滑る指の感触が思ったよりも硬くて、ああ、ギターを弾いていたもんなと――じゃなくて。「待って待って待って」と慌ててストップをかけて胸を押し返す。「わかったから。きみとベンタはそういうんじゃない。OKOK」
「……わかったならいいか」
 渋々といった仕草で解放され、ウィルソンははあっと大きな息を吐いた。止めなかったら本当にキスするつもりだったのだろうかこの男。誤解を解くためとは言え、手段を選ばないにもほどがあるだろう。
「……ていうかベンタ、これで起きないんだ」
 ちら、とウィルソンは床に落ちたベンタクロウを横目で見遣った。もしかしたら、フローリングにデコを打ち付けたかもしれない彼からは、相変わらずガタイに似合わない小さな寝息が聞こえてくる。おまけになんだか口元はわずかに緩んですらいる。
「……ベンタって、こんなに無防備に寝るんだな。意外」
「……きみも他人のこと言えないでしょう。衆人環視の中でかなり無防備に眠ってましたけど」
「さすがに睡眠薬はノーカンにしてくれる!?」
 暗に出会ったときのことを示されて、ウィルソンは思い切り憤慨し、地団太を踏んで抗議の意を示した。大体、あんな捕獲方法があって堪るかと思う。ぼくみたいな温厚で人格者のヒットマンじゃなければ、絶対にあんな風に勧誘された組織には入らなかっただろう。ザリは大人しく加入を受けたぼくに感謝した方がいい。
「……というか、ザリは寝なくていいの? 明日も仕事でしょ、ぼくら?」
「うーん……」
 ヴェザリウスが、微かに苦笑した。ソファに身を沈め、立てかけたギターを再度抱えてつま弾こうとする。その目が弦を通り越してどこか遠くを捉えていることに気づき、ウィルソンは唐突にああ、と得心した。
 眠れないんだ、彼も。
 ウィルソンはすっと深く息を吸って吐く。いつの間にか、自室で感じていた息苦しさは消えている。
「……ザリ」
「うん?」
「ギター置いてよ」
 急になんだ、という表情を露骨に見せるヴェザリウスに、「いいからいいから」とギターを手放させ、そのままぎゅっと抱き着いた。
 ヴェザリウスが戸惑う気配を見せるがウィルソンは意に介さない。
「何……」
「さっきの仕返しだよ。そうだ、キスもしちゃおうかな! んーまっ」
 頬に口づける素振りを見せると、今度は打って変わって嫌そうな顔をするものだからウィルソンは少し愉快だった。ふふ、と笑みがこぼれて、自分の昂っていた神経の荒みがいつの間にか落ち着きを取り戻していることに気づく。眠気がゆるやかにウィルソンの体に寄り添っている。
 と、むくりと傍らの兄弟が起き上がった。
「ヘイ、Bro……?」
 唐突な呼びかけに、ウィルソンとヴェザリウスはそろって「おはよう、ベンタ……?」と言葉を交わした。ベンタクロウはぼんやりと二人を見、居間の壁に掛けられた時計を見、眠い目をこすってむっと口を尖らせた。
「オレを差し置いて、随分と、楽しそうな……」
 あとの言葉は聞き取れなかった。むにゃむにゃ、と日本のマンガでしか見ないような寝言を言ったかと思うと、ベンタクロウがウィルソンとヴェザリウスに覆いかぶさるように倒れ込んできたからだ。しかも腕を二人の肩に回して。結果的にソファの背に押し付けられるような体勢になったウィルソンが「ちょっと!」と抗議するが、再度夢の国に旅立ったベンタクロウはもちろん起きない。結構な重量の彼の体をはねのけることなど叶うはずもなく、そのままヴェザリウスとふたり、ずるずると床にずり落ちる。
「……あのさあ」
「……なに?」
「絶対これ明日の朝体痛くなってると思うんだよね」
「……私が治すからいいんじゃない? 別に」
「ほんと? さすがメディックヒーローだよ大好き」
「お金取ろうかな」
「急に辛辣」
 後悔するのが目に見えているのに、それでも眠気が忍び寄ってくるのが止められなかった。うとうととまどろみの中で、「おやすみ、ザリ」と呟けば、「……おやすみ、ウィルソン」と返ってきて、ああ、彼もよく眠れればいい、と胸中にひそかに浮かんだ祈りを、夢の中にそっとしまった。
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