星を撃つ牙

(2022/03/16)


 キバナさんのことを、おっかない、と称する人がいる。
 ——優しい人だって、わかってるんだけどね。
 そんな言葉を、街中のトレーナーショップではなくこのチャンピオンリーグ開幕式でまで耳にしたものだから、僕は周りに合わせて拍手をしながら思わず話し声の方向を二度見してしまった。振り返った先には幾人ものユニフォーム姿の選手が並んでいるだけで、先の発言は水面で弾けた泡のように既に見えない。悪意もなく、ただの他愛のない一言だったのだろう。純粋な感想。あの人強いよね、あの人かっこいいよね。あの人少し怖いよね。
 馬鹿げている、と僕は思った。曲がりなりにも僕たちはリーグ選手で、場合によってはこの後あの人と試合をするのだ。戦う相手に対して、今から怖がっていてどうするのだ、とその臆病を内心で謗りさえした。それがデビュー一年目選手の驕りからくる感情だと自分で気づきもせずに、だ。
 僕たちの視線の先にいたキバナさんは、スタジアム中の拍手喝采の中、ちょうど壇上を降りるところだった。彼がした開幕の挨拶はトップジムリーダーが口にするにふさわしい格式を持ち、選手それぞれの胸の内に重みを残した。けれど彼自身が普段から威圧的であるわけではない。身長が高い——というよりタッパのでかいあの人は、対面であれば間違いなく大抵の人間が抱くであろう警戒心を、持ち前の愛嬌と人の良さでマホイップがするみたいにふんわりとホイップクリームで包んでしまうのだ。故に彼の性格を知っていれば、おっかないなんて感想は出てこない。
 それに何より、彼の後輩に対する優しさはジムリーダーの中でも随一だ。
 思い出されるのは、初めてナックルジムに挑戦したときの彼の言葉。
「オマエ、見込みがあるんじゃないか」
 先達らしい遠慮のなさで、それでもどこか嬉しさを隠し切れない様子で言う彼の言葉に魅了されて——端的に言えば煽てられて調子に乗って——リーグに挑戦することを決めたものだった。あいにくチャンピオントーナメントには予選の時点で負けて出場できなかったが、何しろ自分にはあのトップジムリーダーが見込んだほどの実力があるのだというお墨付きは、僕にジムリーダーを目指して翌年もリーグに参加させる自信を持たせるには十分な事実だった。見込みがある。戦術の立て方がうまい——あの人の的確な褒め言葉が、どれほど支えになっただろうか。僕にとって、トップジムリーダー・キバナは優しい人ではあっても、怖いと怯える要素なんて一つもありはしない。
 そのはずだった。
 今日までは。
「さァ——見せてみろよ、オマエのバトルを!」
 ダイマックスもしていないのに、バトルコートで相対するキバナと彼のポケモンがまるで自分のポケモンの何倍にも大きく見えた。キュ、と開いた竜のような鋭い瞳孔に射竦められ、足元はもはや感覚がない。指示を出す声が掠れる。本当にその技でいいのか? 相手は何を出してくる? その一瞬の判断が、自分の生死を分けるのだ、と思えば心臓がキリキリと引き絞られるように痛む。その僕の、生まれたてのウールーみたいな震えを、獲物を狙うようにかのジムリーダーがジッと視線を逸らさず捉えている。
 口の中がカラカラに渇くのは砂嵐の所為だけではない。
 ジムチャレンジのときと全く違う。
 テレビカメラを通してでは当然感じることのできない、押し潰されそうな緊張感。
 彼の真正面に立つということ。
 そのときようやく、僕は「ああ」と気づいたのだ。
 キバナという人の怖さがここにあることを。

「悔しいか?」
 試合後の握手で、キバナさんはいつも通りふにゃりと笑ってそう問うた。僕は求められている答えをわかっていたが、しかし嘘を吐くことができなかった。敵わないことに、悔しさよりも当然だと思う気持ちの方が強かった。
「——正直、あまり。……期待に応えられなくて、すみません」
「……そっか。よくやったと思うぜ、オマエ」
 キバナさんは僅かに目を伏せ、しかし一瞬後には力強く僕の手を握って上下に振った。優しい人だなと思った。恨み言の一つも言わない。最後まで、見捨てるような素振りを見せない。
 けれど同時に、僕には彼の求める強さがないのだろうと理解できてしまった。
 きっと、この悔しさをバネに変えられる人間だけが強くなれる。チャンピオンリーグとはそういう場所だ。そしてキバナさんは、そういう人間をこそ求めている。彼が命を賭している目標のために。
 そのことが、キバナさんの前に立ってようやくわかったのだ。
 そのためだけに牙を研いでいる、キバナさんの覚悟が。
「……キバナさん」
「うん?」
 僕は迷って、なんとか言葉を絞り出す。
「……僕の星は、当面の間キバナさんになりそうです」
 そう告げると、キバナさんは歯を見せて「それもいいな」と小さく笑った。



「——オレたちは、星を落とさなければならない」
 開幕式の挨拶の中で、キバナさんはそう告げた。
「どれほど遠くに見えようと、どれほど届かなかろうと——関係がない。オレたちリーグ選手に、諦めるなんて選択肢は端からないものと思え。ただ勝ち、貪欲に勝利を求めろ。オレたちの道はそこにある。……今年も全ての選手と、共に歩めることを願うぜ」
 その言葉は、砂の上に一滴落とした真水のように、スタジアムの選手たちに染み渡った。
 そのときばかりは、誰も私語を交わしたりはしなかった。誰も余所見をしない。キバナさんのことを怖いと言うことになる選手たちでさえ、無心に壇上に視線を注いでいただろう。誰もが、キバナさんの目に浮かぶ"星"が何かを知りながら、キバナさんと道を共にしようとキバナさんの言葉を受け止めていた。
 僕は唐突に理解した。
 "星"を落とせる、と信じている人間だけがこの場に立っているのだ。
 静かに研ぎ澄まされた覚悟がスタジアムを無音に満たす。パレットに引き伸ばされた絵の具が混ぜ合わせられるように、選手たちの決意が一つの色をなす。僕はその中で、端に出された自分の絵の具だけが真っ黒なように感じていた。僕が混ざれば、色が濁る。無意識に壇上のキバナさんから目を逸らした。開催の挨拶が何かしらの言葉で締め括られる。拍手をする。少し怖いという言葉を聞いて二度見をする。馬鹿げている。今から戦う相手を怖がっていてどうする。

 今でも、キバナさんのことをおっかないとは思わない。
 けれど彼の覚悟に見合うものを差し出せない、それだけが少し、怖い、と思った。
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