さみしがりたちのクリスマス
(2021/12/24)
今シュートに寄ってるんですよ、とダンデの端末に連絡が来たのは、ちょうどその日の仕事も佳境を超え、休暇に入る前の細々したタスクを片付けていたときだった。飲んでますけど、来ますか、おまえに会えたらおれもうれしいですと普段は感情表現の控えめな友人からメッセージを寄越されて、果たして誰が断れようか。ダンデは頰とネクタイを緩め、微かに雪がちらつくの窓の外を一瞥しながら手早くパソコンの電源を落とした。この程度の残作業なら、休暇明けに回しても問題はないだろう。コートと鞄を手にサクッと退勤し、端末に示された店へ向かう。
冬の夜は駆け足で、ダンデを軽々と追い越していく。
すっかり辺りも暗くなり、カラン、と街の片隅にひっそりと古めかしいバーのドアベルをダンデが鳴らしたのは、それから三十分後のことだった。場所が少々分かりにくかったのだが、というかダンデは明らかに違う通りを歩いていたのだが、幸い外でネズのズルズキンに偶然会って——というより迷子になっていたところを発見されて——なんとか辿り着けたのだった。一歩入ればじわりと肌を包み込む暖気に一息吐きながら、入り口でバサッ、とコートについた雪を払う。
「……おまえの方向音痴も相変わらずですね」
くすくすと、店内から揶揄うようにかかった声に振り返ると、既に一杯やっていたネズがカウンターに肘をついてゆるく笑っていた。彼の仕草に合わせて、三つにしばった髪が揺れる。元の肌の白さも相まって、薄暗い店内でも酒による頰の紅潮がわかりやすい。
客は彼の他には誰もいない。
と、ズルズキンが、ダンデの元を離れてひょいと主人の膝に擦り寄った。「おまえもご苦労様です」「サンキューだぜズルズキン、助かった」そう声をかけられ、任務を立派に果たした彼は至極満足げにボールに戻る。
ダンデは隣のスツールにするりと滑り込んで、馴染みのマスターにウイスキーを頼んだ。
「ネズ。元気そうだな」
「お陰様で。タワーの方はどうですか」
「上々だぜ。キミもそのうち遊びに来てくれ」
そのうちに、とネズは笑ってグラスを傾けた。
久しぶりに顔を合わせた友人は、以前にも増して精悍な雰囲気を纏っているようだった。他愛ない会話の合間に、ダンデはこっそり友人の変化を数え上げる。以前より肉付きが少しよくなった。食事制限を緩めたからだろう。ネイルは初めて見る色だ。今度の新曲に合わせたのかもしれない。首筋にわずかにタチフサグマの毛がついていて、変わらずポケモンと仲良くやっているのだと嬉しくなる。そしてきっと有意義な時間を過ごしているのだな、という事実が、ぽつリぽつりと交わす少ない言葉の端々から伝わってくるのだ。チャンピオンの座を降りたダンデがバトルタワーの運営に明け暮れているように、スパイクジムのリーダーの座を妹に譲ったネズは今、各地のライブハウスを回って歌を作っては披露し人を魅了している。
戦うステージが変わっても、こうして変わりなく話せることが、ダンデにとっては踏み固められた雪の合間にスボミーの蕾の先を見つけたことのようにうれしい。
「……そういえばダンデ。おまえ、今年のクリスマスはどうするんです」
「? どうって、それはもちろんロー……」
ズさんと、オリーヴさんと三人で過ごすんだぜ、と言いかけて、ダンデは言葉をアルコールと共に流し込んだ。そうだ、ローズもオリーヴもいないのだった、という事実が、一年以上経ってもまだ慣れない。
ハロンに帰るんだろうかオレは、と一瞬考える。クリスマスともなれば家で自分のポケモンたちと、あるいは家族と、あるいは一人でゆっくり過ごす人間が多い。全地方的にあらゆる施設が休業になるからだ。さすがにその日はバトルタワーも休業で、バトルコートもどこも閉まっている。
だが今から数日後に迫ったクリスマスに、その日は帰るぜといきなりの急すぎる連絡をすれば、母親からの叱責は免れ得ないだろう、とダンデは苦笑する。ダンデ、あんたそういうことは早く言いなさいよ!と。無論、ダンデは自分の母親が誰より不肖の息子を気遣っていることを、言葉にされるまでもなく重々承知していた。だから顔ぐらいは見せておいた方が、本当はいいのだろう、と思う。ダンデだって、これが何でもない日であれば隙を見て顔を出しには帰っている。だが特別な休暇の日に訪れるとなると、家族みんなが総出で無理をしてでも自分と自分の手持ちたちのご馳走を用意しようとするのも想像に難くない。いくら固辞しようと、持参すると言い張っても、だ。負担はかけたくないんだぜ、帰るのは別の機会でもいいとして——。
「……そういえば決めてないな。多分、家でポケモンたちと過ごすぜ」
「そうですか」
「ネズはスパイクに帰るんだろう?」
途端、友人の瞳にパッと火の灯るように光が差した。ダンデは苦笑する。この友人は、歳の離れた妹のことを目に入れても痛くないくらいに溺愛しているのだ。
同じ年下のきょうだい持ちとして、その気持ちはわからないでもない。
「そうですね。マリィに会うのは久々です。オレがいない間に、ジム業務が大変なことになってなければいいんですが」
「マリィくん、よくやってるぜ」
「そうでしょう。さすがおれの妹ですよ」
少しの酔いも手伝って弾むネズの声を聞きながら、ダンデは今更ながら日常の忙しさにかまけて帰省の連絡をし損なっていたことを少し後悔した。グラスを傾けて舐める酒は少し苦い。ホップのやつは元気だろうか。
「ダンデ」
「うん?」
「もし……当日、さみしくなったら」ネズは、じっと自分のグラスに視線を落としていた。その声は夜によく馴染んで穏やかだ。自分たちと店主以外は誰もいない店内に、ひそやかに酒を一滴零すように言う。「そのときは、スパイクに来てもいいですよ。歓迎します」
「いいのか、そんなこと言って。本当に押しかけちゃうぜ」ダンデは思わず破顔し、ぐでっと頬杖を沈ませて友人の顔を覗き込む。「だが、まあ——大丈夫だ。リザードンたちもいるし、さみしくはないぜ。きっとな」
ネズはそれ以上、誘う言葉を口にしなかった。ただ一言、手元のウイスキーグラスを傾けて目元を和らげる。
「おまえがいいなら、それでいいです」
前日に買い込んだ食糧でポケモンたちにご馳走を作って、我ながらいい出来だぜとそれをつまみながらダンデは自宅で寛いでいた。ご馳走と言ってもそれほど本格的なものの調理は家庭料理であってもダンデには心得がなく、ヨロギのシチューとターキーと、あとはザロクのプディングなどだ。それでもダンデのポケモンたちには好評だった。ドサイドンなどは、終いにはシチューを鍋ごと抱えて口に注ぎ込む有り様だ。
その他の料理もすっかり片し終え、リビングでバトルログを流しながら、ダンデは積んでいたスポーツ雑誌を手に取った。こんな冬の日は、側で眠るリザードンの尻尾の火があたたかい。
「……静かだな」
高層階のベランダから見える空では軽やかに雪が舞っている。真昼間だと言うのに、見下ろしても道を行き交う人は誰もいない。チカチカと、無人の信号だけが点滅している。
普段とは打って変わって、街全体が冬の夢に微睡んでいるかのようだ。
珍しく取れた休暇で、やりたいことは山ほどあるのに、息を深く吸えば肺を満たす静謐な空気の所為か落ち着かない。
——いつも、オレはどう過ごしてたんだっけ。
ダンデはぼんやりと、雑誌の表面に目を滑らせながら昔の記憶に思いを馳せる。毎年、ハロンの実家へは連絡を入れ損ね、帰るのがいつも年明けになるのが常だ。それで、当日は何もやることがなくて、ローズの自宅に招かれてささやかなクリスマスパーティをしていたのだった。こんな日にしか休めないローズと、オリーヴと、ダンデの三人で。柄にもなくプレゼントをあげたりもらったりしていた。ローズとダンデは、互いに利害が一致しただけの、謂わば仕事仲間の関係ではあったが、ダンデにとってローズは尊敬するポケモントレーナーであったし、また家族と称しても然程支障を感じない間柄でもあった。ハロンから遠く離れた地で、ダンデの後見人のような立場で様々な雑事を引き受けてくれていたのだと、この歳になってわかることもあったのだ。
そして今、三人のうち一人は留置所にいて。
一人も息災だろうことはわかるがどこか遠くにいる。
「……オレ、こんなに人肌が恋しい性質だっただろうか、リザードン」
ソファの下に寛げられた首の背をするりと撫でてやると、ぐる、と気持ちよさそうな声が喉から出る。とても集中できそうになくて、手に取った雑誌は床に放り出した。エアコンの稼働音だけが低く聞こえる静寂の中で、思い出すのはこれまで駆け抜けてきた日々のことだ。
ハロンの家族がいて、ポケモンたちがいて、ローズたちがいて、手強いライバルたちがいて。
そこから一つ欠け落ちたピースの穴から、寒々しい風がダンデの胸の内に吹き込んでいた。いつも、毎年この時期にはまっていたはずのピース。
「フフ、おかしいよな。いつもオマエたちとキャンプしてて、さびしいなんて思ったことはないのにな——」
(……気温の所為だろうか、それとも、今日は人とは誰とも言葉を交わしていないから?)
ソファに寝転がり、ぎゅっと目を閉じる。弱ったな、と口の端を持ち上げる。どうにも、欠け跡が傷のように疼いて仕方がなかった。この空白を、オレは一体何で埋められるだろうか。いつもならバトルで吹き飛ばせるんだが。ああ、バトルがしたいな、オレを満たしてくれる、誰か——。
——着信ロト、着信ロト!
ハッ、とダンデはローテーブルに放り出していた自分の端末を手に取った。
そこに表示された名前に、まるで心の奥底を見透かされたような錯覚を覚え、ダンデは心拍数の跳ね上がるのを自覚した。だが彼が電話をかけてくる用件がまったく思い当たらず、弾む鼓動を抑えながら通話開始をタップする。
「……キバナ?」
『ダンデ』
相変わらず、力強く、相手を鼓舞する声音だった。ダンデは思わず上体を起こした。無意識に背筋がピンと伸びる。彼の前に、弛んだ自分は見せられない。
「どうした」
『今、暇か?』
「……? ああ」
『窓開けて待ってて』
……まさか、と思いながら、ダンデは急いで立ち上がり、スリッパをパタパタと鳴らしてベランダの窓をガラリと開けた。途端、荒れ狂う冷気が室内に舞い込んできて、緩いスウェットでしか守られていないダンデの全身を容赦なく冷やす。室内で寛いでいたポケモンたちは皆びくりと驚いて、主人の突然の行動に抗議の目を向けながら部屋の奥に固まろうとする。
だが戸惑いの声は、ダンデの背後に差した影を見て歓迎の色に変わる。
ダンデも信じられない思いで振り返った。
寒空に舞う、砂漠の精霊の背に乗るライバルを。
「……キミ」
「よおダンデ! 暇してるんじゃねーかなと思ってさ、遊びに来ちゃったぜ。はいこれ手土産。さすがに今日はどこもコート開いてねえから、バトルはできねえけ……どぉっ!?」
最後まで言い切ることができずに、キバナはフライゴン諸共室内に引きずり込まれた。もちろんダンデの手によってだ。捕まえた一人と捕まえられた一人がくるりとワルツを踊るように回り、勢い余って二人してフローリングの床に倒れ込む。
ダンデは自分が下敷きにした男を満面の笑みで迎えた。
「キバナ。キスしていいか、頰に」
「オマエそれでオレさまがオマエに惚れちゃったらどうするの」
「責任取るぜ」
「マジかよ。じゃあいいぜしても」
いつもの軽口を交わし、頰と言わず額にこめかみにキスの雨を降らせた。キバナはくすぐったそうに身をよじろうとするが、ダンデに押し倒されている所為でその動きも肩を震わせるに留まっている。ピシャ、と二人の頭上でリザードンが窓を閉めた。他のポケモンたちがなんだなんだとまとわりついてくる。キバナの持参した手土産は、ガマゲロゲが回収して冷蔵庫に入れにいく。そうして寒さが和らいできてようやく、二人は身を起こして、ダンデがキバナの雪のついたコートを脱がせた。
「ちょうど人寂しかったところなんだぜ。どうしてわかったんだ? もしかしてオレ、知らない間にキミにメッセージを送ってただろうか」
ダンデが片手をオノノクスに構いながら聞けば、キバナは苦笑しながら「まあ、言わねえのはフェアじゃねえよな」と種明かしをする。
「白状するとな、ネズが」
——あいつ、もしかしてクリスマス独りで過ごすの初めてなんじゃないですか。
——おまえも暇なら少し様子を見に行ってやったらどうです。
「……ってさ。どうだ、当たってたか?」
「マジか。ネズ、サンタクロースの才能があるぜ……ああ、だが、キミはご家族と過ごすんじゃなかったか? お姉さんたちが帰ってきてるんだろう?」
「んー……、まあ、そうなんだけどな」
キバナの手が、優しくダンデの髪をかき上げた。
ダンデは無意識に喉を鳴らした。あの湖面のような瞳で、視線をじっと注がれているだけなのに、どうしてだか甘いものを口にしているかのように口の中が湿る。
「オマエを独り占めするチャンスかな、とか思ったりして」
キバナのふにゃりとした笑みは、バトル中とは程遠く淡雪のようだ。だが戦略の正確性は変わらない。ダンデの胸中は今目の前のこの男のことでいっぱいで、確かにそれが狙いだったのなら彼の行動は的確だ。
「……その読みは当たりだぜ。今日はみんなのタワーオーナーはお休みだからな。今は誰のものでもないし……」キバナの胸に顔を伏せ、上目遣いに見上げて告げる。「先着順にしてやってもいい」
フフ、とやがてどちらともなく笑い合った。ダンデはもう寒さを感じていなかった。穴は相変わらず欠けてはいたが、今はそれを意識させないほどの強い熱源が側にいる。
「さーあ何する? 映画観てもいいし、バトルログはまだ観てねえやつあったっけ? あとボードゲームもこの前の勝負がまだ途中だし、それ以上に楽しいことをしてもいい」
最後の言葉に堪らず声をあげて笑って、二人して寝室に雪崩れ込んだ。軽く啄むようなキスが心地いい。キバナとなら、何をしたって退屈を感じることはないだろう、という確信がダンデにはあった。
「あ」
スウェットをがばりと脱ぎながら、ダンデは思い出したように言う。
「そういえば、今日スパイクに行ったら歓迎するってネズが言ってたぜ」
夜も更けたスパイクで、開口一番、友人の口から出たのは深く長い溜め息だった。それでも玄関の扉を大きく開き、突然の来訪者を招き入れるのだから彼の心はワークアウトの海よりも広い。
「……寂しくなったらって言ったんですがねおれは。おまえら二人いて寂しいなんてことあるわけねえだろうが」
ていうかもう夜だしクリスマス終わってんじゃないですか、と形だけは拒絶を作る友人の背中に、上がり込んだダンデとキバナがしがみつく。
「そんなことないぜネズ、めちゃくちゃ寂しいぜ」
「そうそうー、オレさま甘やかされたい気分だぜネズおニーちゃん。あ、マリィ、アニキ借りてるぜ。悪いな」
二人が視線を向けた先には、廊下をパジャマ姿で通りすがるマリィがいた。今まさに自室に戻ろうとしていた彼女は、チラと兄とその悪友たちを見て興味なさそうに首を振る。
「いいけど、もう寝よるけん静かにしとってよダンデさんキバナさん」
「ああ!」「任せろ!」
「元気いっぱいすぎて驚くほど説得力がねえんだよな……」
言いながら、ネズはアコースティックギターを構え直した。「おまえらそこになおりんしゃい」、と目を輝かせる寂しがりの友人たちを座らせ、無造作に弦をかき鳴らす。
幸せいっぱいって顔しやがって。
さみしくない日は過ごせたのかよ。
「それじゃあクリスマスの締めに相応しい、とっておきのナンバーを聴かせてやるよッ……!」
今シュートに寄ってるんですよ、とダンデの端末に連絡が来たのは、ちょうどその日の仕事も佳境を超え、休暇に入る前の細々したタスクを片付けていたときだった。飲んでますけど、来ますか、おまえに会えたらおれもうれしいですと普段は感情表現の控えめな友人からメッセージを寄越されて、果たして誰が断れようか。ダンデは頰とネクタイを緩め、微かに雪がちらつくの窓の外を一瞥しながら手早くパソコンの電源を落とした。この程度の残作業なら、休暇明けに回しても問題はないだろう。コートと鞄を手にサクッと退勤し、端末に示された店へ向かう。
冬の夜は駆け足で、ダンデを軽々と追い越していく。
すっかり辺りも暗くなり、カラン、と街の片隅にひっそりと古めかしいバーのドアベルをダンデが鳴らしたのは、それから三十分後のことだった。場所が少々分かりにくかったのだが、というかダンデは明らかに違う通りを歩いていたのだが、幸い外でネズのズルズキンに偶然会って——というより迷子になっていたところを発見されて——なんとか辿り着けたのだった。一歩入ればじわりと肌を包み込む暖気に一息吐きながら、入り口でバサッ、とコートについた雪を払う。
「……おまえの方向音痴も相変わらずですね」
くすくすと、店内から揶揄うようにかかった声に振り返ると、既に一杯やっていたネズがカウンターに肘をついてゆるく笑っていた。彼の仕草に合わせて、三つにしばった髪が揺れる。元の肌の白さも相まって、薄暗い店内でも酒による頰の紅潮がわかりやすい。
客は彼の他には誰もいない。
と、ズルズキンが、ダンデの元を離れてひょいと主人の膝に擦り寄った。「おまえもご苦労様です」「サンキューだぜズルズキン、助かった」そう声をかけられ、任務を立派に果たした彼は至極満足げにボールに戻る。
ダンデは隣のスツールにするりと滑り込んで、馴染みのマスターにウイスキーを頼んだ。
「ネズ。元気そうだな」
「お陰様で。タワーの方はどうですか」
「上々だぜ。キミもそのうち遊びに来てくれ」
そのうちに、とネズは笑ってグラスを傾けた。
久しぶりに顔を合わせた友人は、以前にも増して精悍な雰囲気を纏っているようだった。他愛ない会話の合間に、ダンデはこっそり友人の変化を数え上げる。以前より肉付きが少しよくなった。食事制限を緩めたからだろう。ネイルは初めて見る色だ。今度の新曲に合わせたのかもしれない。首筋にわずかにタチフサグマの毛がついていて、変わらずポケモンと仲良くやっているのだと嬉しくなる。そしてきっと有意義な時間を過ごしているのだな、という事実が、ぽつリぽつりと交わす少ない言葉の端々から伝わってくるのだ。チャンピオンの座を降りたダンデがバトルタワーの運営に明け暮れているように、スパイクジムのリーダーの座を妹に譲ったネズは今、各地のライブハウスを回って歌を作っては披露し人を魅了している。
戦うステージが変わっても、こうして変わりなく話せることが、ダンデにとっては踏み固められた雪の合間にスボミーの蕾の先を見つけたことのようにうれしい。
「……そういえばダンデ。おまえ、今年のクリスマスはどうするんです」
「? どうって、それはもちろんロー……」
ズさんと、オリーヴさんと三人で過ごすんだぜ、と言いかけて、ダンデは言葉をアルコールと共に流し込んだ。そうだ、ローズもオリーヴもいないのだった、という事実が、一年以上経ってもまだ慣れない。
ハロンに帰るんだろうかオレは、と一瞬考える。クリスマスともなれば家で自分のポケモンたちと、あるいは家族と、あるいは一人でゆっくり過ごす人間が多い。全地方的にあらゆる施設が休業になるからだ。さすがにその日はバトルタワーも休業で、バトルコートもどこも閉まっている。
だが今から数日後に迫ったクリスマスに、その日は帰るぜといきなりの急すぎる連絡をすれば、母親からの叱責は免れ得ないだろう、とダンデは苦笑する。ダンデ、あんたそういうことは早く言いなさいよ!と。無論、ダンデは自分の母親が誰より不肖の息子を気遣っていることを、言葉にされるまでもなく重々承知していた。だから顔ぐらいは見せておいた方が、本当はいいのだろう、と思う。ダンデだって、これが何でもない日であれば隙を見て顔を出しには帰っている。だが特別な休暇の日に訪れるとなると、家族みんなが総出で無理をしてでも自分と自分の手持ちたちのご馳走を用意しようとするのも想像に難くない。いくら固辞しようと、持参すると言い張っても、だ。負担はかけたくないんだぜ、帰るのは別の機会でもいいとして——。
「……そういえば決めてないな。多分、家でポケモンたちと過ごすぜ」
「そうですか」
「ネズはスパイクに帰るんだろう?」
途端、友人の瞳にパッと火の灯るように光が差した。ダンデは苦笑する。この友人は、歳の離れた妹のことを目に入れても痛くないくらいに溺愛しているのだ。
同じ年下のきょうだい持ちとして、その気持ちはわからないでもない。
「そうですね。マリィに会うのは久々です。オレがいない間に、ジム業務が大変なことになってなければいいんですが」
「マリィくん、よくやってるぜ」
「そうでしょう。さすがおれの妹ですよ」
少しの酔いも手伝って弾むネズの声を聞きながら、ダンデは今更ながら日常の忙しさにかまけて帰省の連絡をし損なっていたことを少し後悔した。グラスを傾けて舐める酒は少し苦い。ホップのやつは元気だろうか。
「ダンデ」
「うん?」
「もし……当日、さみしくなったら」ネズは、じっと自分のグラスに視線を落としていた。その声は夜によく馴染んで穏やかだ。自分たちと店主以外は誰もいない店内に、ひそやかに酒を一滴零すように言う。「そのときは、スパイクに来てもいいですよ。歓迎します」
「いいのか、そんなこと言って。本当に押しかけちゃうぜ」ダンデは思わず破顔し、ぐでっと頬杖を沈ませて友人の顔を覗き込む。「だが、まあ——大丈夫だ。リザードンたちもいるし、さみしくはないぜ。きっとな」
ネズはそれ以上、誘う言葉を口にしなかった。ただ一言、手元のウイスキーグラスを傾けて目元を和らげる。
「おまえがいいなら、それでいいです」
前日に買い込んだ食糧でポケモンたちにご馳走を作って、我ながらいい出来だぜとそれをつまみながらダンデは自宅で寛いでいた。ご馳走と言ってもそれほど本格的なものの調理は家庭料理であってもダンデには心得がなく、ヨロギのシチューとターキーと、あとはザロクのプディングなどだ。それでもダンデのポケモンたちには好評だった。ドサイドンなどは、終いにはシチューを鍋ごと抱えて口に注ぎ込む有り様だ。
その他の料理もすっかり片し終え、リビングでバトルログを流しながら、ダンデは積んでいたスポーツ雑誌を手に取った。こんな冬の日は、側で眠るリザードンの尻尾の火があたたかい。
「……静かだな」
高層階のベランダから見える空では軽やかに雪が舞っている。真昼間だと言うのに、見下ろしても道を行き交う人は誰もいない。チカチカと、無人の信号だけが点滅している。
普段とは打って変わって、街全体が冬の夢に微睡んでいるかのようだ。
珍しく取れた休暇で、やりたいことは山ほどあるのに、息を深く吸えば肺を満たす静謐な空気の所為か落ち着かない。
——いつも、オレはどう過ごしてたんだっけ。
ダンデはぼんやりと、雑誌の表面に目を滑らせながら昔の記憶に思いを馳せる。毎年、ハロンの実家へは連絡を入れ損ね、帰るのがいつも年明けになるのが常だ。それで、当日は何もやることがなくて、ローズの自宅に招かれてささやかなクリスマスパーティをしていたのだった。こんな日にしか休めないローズと、オリーヴと、ダンデの三人で。柄にもなくプレゼントをあげたりもらったりしていた。ローズとダンデは、互いに利害が一致しただけの、謂わば仕事仲間の関係ではあったが、ダンデにとってローズは尊敬するポケモントレーナーであったし、また家族と称しても然程支障を感じない間柄でもあった。ハロンから遠く離れた地で、ダンデの後見人のような立場で様々な雑事を引き受けてくれていたのだと、この歳になってわかることもあったのだ。
そして今、三人のうち一人は留置所にいて。
一人も息災だろうことはわかるがどこか遠くにいる。
「……オレ、こんなに人肌が恋しい性質だっただろうか、リザードン」
ソファの下に寛げられた首の背をするりと撫でてやると、ぐる、と気持ちよさそうな声が喉から出る。とても集中できそうになくて、手に取った雑誌は床に放り出した。エアコンの稼働音だけが低く聞こえる静寂の中で、思い出すのはこれまで駆け抜けてきた日々のことだ。
ハロンの家族がいて、ポケモンたちがいて、ローズたちがいて、手強いライバルたちがいて。
そこから一つ欠け落ちたピースの穴から、寒々しい風がダンデの胸の内に吹き込んでいた。いつも、毎年この時期にはまっていたはずのピース。
「フフ、おかしいよな。いつもオマエたちとキャンプしてて、さびしいなんて思ったことはないのにな——」
(……気温の所為だろうか、それとも、今日は人とは誰とも言葉を交わしていないから?)
ソファに寝転がり、ぎゅっと目を閉じる。弱ったな、と口の端を持ち上げる。どうにも、欠け跡が傷のように疼いて仕方がなかった。この空白を、オレは一体何で埋められるだろうか。いつもならバトルで吹き飛ばせるんだが。ああ、バトルがしたいな、オレを満たしてくれる、誰か——。
——着信ロト、着信ロト!
ハッ、とダンデはローテーブルに放り出していた自分の端末を手に取った。
そこに表示された名前に、まるで心の奥底を見透かされたような錯覚を覚え、ダンデは心拍数の跳ね上がるのを自覚した。だが彼が電話をかけてくる用件がまったく思い当たらず、弾む鼓動を抑えながら通話開始をタップする。
「……キバナ?」
『ダンデ』
相変わらず、力強く、相手を鼓舞する声音だった。ダンデは思わず上体を起こした。無意識に背筋がピンと伸びる。彼の前に、弛んだ自分は見せられない。
「どうした」
『今、暇か?』
「……? ああ」
『窓開けて待ってて』
……まさか、と思いながら、ダンデは急いで立ち上がり、スリッパをパタパタと鳴らしてベランダの窓をガラリと開けた。途端、荒れ狂う冷気が室内に舞い込んできて、緩いスウェットでしか守られていないダンデの全身を容赦なく冷やす。室内で寛いでいたポケモンたちは皆びくりと驚いて、主人の突然の行動に抗議の目を向けながら部屋の奥に固まろうとする。
だが戸惑いの声は、ダンデの背後に差した影を見て歓迎の色に変わる。
ダンデも信じられない思いで振り返った。
寒空に舞う、砂漠の精霊の背に乗るライバルを。
「……キミ」
「よおダンデ! 暇してるんじゃねーかなと思ってさ、遊びに来ちゃったぜ。はいこれ手土産。さすがに今日はどこもコート開いてねえから、バトルはできねえけ……どぉっ!?」
最後まで言い切ることができずに、キバナはフライゴン諸共室内に引きずり込まれた。もちろんダンデの手によってだ。捕まえた一人と捕まえられた一人がくるりとワルツを踊るように回り、勢い余って二人してフローリングの床に倒れ込む。
ダンデは自分が下敷きにした男を満面の笑みで迎えた。
「キバナ。キスしていいか、頰に」
「オマエそれでオレさまがオマエに惚れちゃったらどうするの」
「責任取るぜ」
「マジかよ。じゃあいいぜしても」
いつもの軽口を交わし、頰と言わず額にこめかみにキスの雨を降らせた。キバナはくすぐったそうに身をよじろうとするが、ダンデに押し倒されている所為でその動きも肩を震わせるに留まっている。ピシャ、と二人の頭上でリザードンが窓を閉めた。他のポケモンたちがなんだなんだとまとわりついてくる。キバナの持参した手土産は、ガマゲロゲが回収して冷蔵庫に入れにいく。そうして寒さが和らいできてようやく、二人は身を起こして、ダンデがキバナの雪のついたコートを脱がせた。
「ちょうど人寂しかったところなんだぜ。どうしてわかったんだ? もしかしてオレ、知らない間にキミにメッセージを送ってただろうか」
ダンデが片手をオノノクスに構いながら聞けば、キバナは苦笑しながら「まあ、言わねえのはフェアじゃねえよな」と種明かしをする。
「白状するとな、ネズが」
——あいつ、もしかしてクリスマス独りで過ごすの初めてなんじゃないですか。
——おまえも暇なら少し様子を見に行ってやったらどうです。
「……ってさ。どうだ、当たってたか?」
「マジか。ネズ、サンタクロースの才能があるぜ……ああ、だが、キミはご家族と過ごすんじゃなかったか? お姉さんたちが帰ってきてるんだろう?」
「んー……、まあ、そうなんだけどな」
キバナの手が、優しくダンデの髪をかき上げた。
ダンデは無意識に喉を鳴らした。あの湖面のような瞳で、視線をじっと注がれているだけなのに、どうしてだか甘いものを口にしているかのように口の中が湿る。
「オマエを独り占めするチャンスかな、とか思ったりして」
キバナのふにゃりとした笑みは、バトル中とは程遠く淡雪のようだ。だが戦略の正確性は変わらない。ダンデの胸中は今目の前のこの男のことでいっぱいで、確かにそれが狙いだったのなら彼の行動は的確だ。
「……その読みは当たりだぜ。今日はみんなのタワーオーナーはお休みだからな。今は誰のものでもないし……」キバナの胸に顔を伏せ、上目遣いに見上げて告げる。「先着順にしてやってもいい」
フフ、とやがてどちらともなく笑い合った。ダンデはもう寒さを感じていなかった。穴は相変わらず欠けてはいたが、今はそれを意識させないほどの強い熱源が側にいる。
「さーあ何する? 映画観てもいいし、バトルログはまだ観てねえやつあったっけ? あとボードゲームもこの前の勝負がまだ途中だし、それ以上に楽しいことをしてもいい」
最後の言葉に堪らず声をあげて笑って、二人して寝室に雪崩れ込んだ。軽く啄むようなキスが心地いい。キバナとなら、何をしたって退屈を感じることはないだろう、という確信がダンデにはあった。
「あ」
スウェットをがばりと脱ぎながら、ダンデは思い出したように言う。
「そういえば、今日スパイクに行ったら歓迎するってネズが言ってたぜ」
夜も更けたスパイクで、開口一番、友人の口から出たのは深く長い溜め息だった。それでも玄関の扉を大きく開き、突然の来訪者を招き入れるのだから彼の心はワークアウトの海よりも広い。
「……寂しくなったらって言ったんですがねおれは。おまえら二人いて寂しいなんてことあるわけねえだろうが」
ていうかもう夜だしクリスマス終わってんじゃないですか、と形だけは拒絶を作る友人の背中に、上がり込んだダンデとキバナがしがみつく。
「そんなことないぜネズ、めちゃくちゃ寂しいぜ」
「そうそうー、オレさま甘やかされたい気分だぜネズおニーちゃん。あ、マリィ、アニキ借りてるぜ。悪いな」
二人が視線を向けた先には、廊下をパジャマ姿で通りすがるマリィがいた。今まさに自室に戻ろうとしていた彼女は、チラと兄とその悪友たちを見て興味なさそうに首を振る。
「いいけど、もう寝よるけん静かにしとってよダンデさんキバナさん」
「ああ!」「任せろ!」
「元気いっぱいすぎて驚くほど説得力がねえんだよな……」
言いながら、ネズはアコースティックギターを構え直した。「おまえらそこになおりんしゃい」、と目を輝かせる寂しがりの友人たちを座らせ、無造作に弦をかき鳴らす。
幸せいっぱいって顔しやがって。
さみしくない日は過ごせたのかよ。
「それじゃあクリスマスの締めに相応しい、とっておきのナンバーを聴かせてやるよッ……!」
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