名無しのワルツ
(2022/04/15)
「今日もまたキバナさまがダンデさんに勝負を挑まれるそうよ」
と、そんな噂がさざめきのように高等部の校舎中を駆け巡ったのは日差しもうららかな秋の午後のことだった。昼食を終え、満腹中枢を刺激されて睡魔の誘いを受けるにやぶさかでない生徒たちが、授業の合間、教室で廊下で、人から人へ口を伝わせ密やかに交わすその噂話は、誰も具体的な時間も場所も告げなかったにもかかわらず、そのときになればまるで示し合わせたかようにざわざわと見物に沸く人だかりを作った。
マリア像にほど近い、放課後のコート。
その中心に立ち、モンスターボールを手にする生徒が二人。
一人は身を僅かに低くしながら、高揚を隠し切れない様子で歯を見せて獰猛に笑い、もう一人は堂々たる立ち姿でその視線を真正面から受け止めている。放課後の語らいにしてはただならぬ雰囲気が張り詰めていたが、周囲の誰も二人をとめはしない。
それが二人の『挨拶』だと知っていたからだ。
「ごきげんようダンデ。今日こそオレさまのロザリオを受けてもらうぜ」
「ごきげんようだぜキバナさま。もちろん歓迎だ——オレに勝てたならの話だが!」
そして同時にコートに投げ込まれるボール。意気揚々と地を踏み咆哮する互いのポケモンたち。試合開始だ。周囲の生徒から歓声が上がる。
このやりとりも、今年度に入ってはや八回に渡っていた。
話は一年と半年前、無敗の一年生の入学に遡る。
この学園特有の姉妹制度の概要を聞いたある生徒が、にこりと無邪気に笑ってその場にいた上級生に宣言したのだ。
——なら、オレはこの学園でオレよりつよいひとの申し出を受けることにするぜ。
恐れ知らずの新入生がいる、という噂は瞬く間に学園内に広まった。ダンデさん、あの三年の先輩にお勝ちになったらしいわよ、とその実力の程を華々しい戦果の形で添えて。
けれどロザリオの授受をバトルの勝敗によって決めるという慣習自体は、特段その新入生に限った話ではなかった。上級生がこれと決めた下級生にバトルを挑み、勝利してロザリオを差し出し姉妹の契りを申し込む。下級生は憧れの上級生からの勝負を受け、負けて恭しくそのロザリオを受け取る。想いを寄せ合った二人が姉妹となる過程において、ポケモンバトルは一種儀式のような位置づけになっていた。
時には断られる勝負もあり、勝ちが譲られない勝負もある。けれどそれはあくまでバトルの話だ。姉妹の契りの申し出てそれに返事を返すより、ずっと誰も傷つかずに済む。
そう、だからその一年生も、当初はその類だろうと思われていたのだ。
夢見がちなシンデレラ。いつか王子さまが迎えにきてくれるのを待っているのだと。
「リザードン……火炎放射!」
ジュラルドンが沈む。最後のポケモンを失ったキバナがその場に膝をつき、白いソックスを砂で汚す。
「クッッッソ負けた……!!!」
「勝ったぜ!」
歓声の中、肩を落とすキバナに相反してダンデが嬉しそうに片手を掲げた。傾きかけた秋の陽光を浴びる指先。翻る深緑色の制服。勝利のリザードンポーズ。
入学から今日まで、ダンデは誰からの挑戦も撥ねつけ、王子さま——もといお姉さま候補をこてんぱんにのし続けていた。同級生の一人がはたと気づいたように、ダンデさん、もしかしてどなたもお姉さまにするつもりないんじゃないかしら、と呟く頃には既に周りは返り討ちにされた上級生で死屍累々になっていた。
その天辺に、当時学園一の実力と噂されていたキバナが放り出されたのは何月のことだったか。
「あの方……単にバトルがお好きなだけだわ!?」
やがて無敗の一年生は無敵の二年生となり、春が訪れ夏が過ぎて、その実力が学園中に浸透する頃には、本気で勝負を挑む人間はキバナのみになっていた。
不屈の上級生は、律儀に敗北に打ちひしがれては次の瞬間には跳ね起きる。
「いや次はぜってーーーこのロザリオ受け取らせてやるからな! 首洗って待ってろよ!」
普段から品行方正に、あなた方は下級生に範を示さなければならないのですよときつく教えを受けている現実をおよそ思わせない仕草で頭を掻きむしり地団駄を踏み、常日頃持ち歩くようになってしまったロザリオを突きつけるキバナに、ダンデは気にした様子もなく「ああ」と淡く微笑むだけだった。その様子はやはり、バトルしか関心ごとのないダンデさんらしいことだわ、と感嘆の声を伴って受け止められる。
いつもながら、姉妹の契りにはご興味がなくていらっしゃるのね。あんなに熱心にプロポーズを受けているのに、ダンデさんったらキバナさまの申し出をそろそろお受けにならないのかしら。負けてあげればよろしいのでなくて? あら、だめよそんなの、キバナさまのプライドが許さないでしょ。ああ、残念、あのお二人ならきっとお似合いでしょうに。……
集っていた生徒たちはみな野次馬の構えを解いて、思い思いの放課後を過ごすためにその場をゆるりと後にする。波が引くように人影がいなくなる。
コートの中心に立ったダンデを残して。
「ああ。……待ってる」
視線を伏せ、まつ毛を震わせて祈るように呟かれた言葉は誰の耳にも届かない。
「——はやくあなたの妹になりたい」
◇ ◇ ◇
高等部三年目の冬ともなればチラホラと受験のための欠席も増え始める時期だったが、その日の昼休みは珍しく教室に活気が溢れていた。授業への出席者が多かったのはどこの大学の受験日とも被らなかったためだろうと思われたし、どこか浮ついた気配があったのは、多分、午後から卒業式の予行演習があったからだ。
みんな休まなくて真面目だよなあ、と自分を棚上げしながら教室でぬくぬくとスマホを眺めていたキバナに、「あら、キバナさん」と同級生からの声がかかる。
「ごきげんよう。今あなたの妹候補が下級生からの試合を受けておられてよ。ご覧になって?」
「いや」
キバナはジュコッ、とパックジュースのストローを鳴らしながら同級生の問いに首を振った。
妹候補とはもちろんダンデのことで、ことここに至って未だキバナはダンデから白星をもぎ取れてはいなかったが、キバナと親しいクラスメイトたちは茶化すようにダンデのことをそう呼ぶのが常だった。キバナとしては、どうせなら正式に受けてもらえてからオレさまのナニと呼んでくれ、と思わなくもなかったが、以前偶然にもその単語を耳にしたダンデの、慌てて立ち去ったときのはにかんだような照れ顔は、今思い出してもなんだか悪い気分ではなかった。
そのダンデが、キバナ以外の相手と試合をしている。
そりゃあ、オレさま以外に勝負を挑む人間もいるだろう、とキバナは特に気にも留めなかった。ダンデの強さはもはや学園に知らぬ者なしだが、同時にその人格者たる振る舞いが憧れの的となっていることも事実だ。あんな方がお姉さまだったら、どんなにか素敵なことかしら。そんな羨望を抱く下級生は後を絶たない。姉妹になれずとも、いい思い出作りに、と挑む生徒だってたまにはいるだろう。衆人環視の中でボコボコにされあげくダメ出しされるのがわかっていて挑む鋼のメンタルは見上げたものだがまあ、そういうやつもいるだろう、と。
そう軽く流していた。
クラスメイトの次の言葉を聞くまでは。
「その一年生、なんとダンデさんと互角みたいだったわ! すごいわよね、一歩も譲らなくて」
「……なにって?」
互角。
あのダンデと?
がじ、と気づけばキバナは落ち着かなくジュースのストローを噛んでいた。ダンデと互角。キバナが知る限り、そんな実力のある人間は限られているし、学園内に限れば見たことがない。これでも情報収集は怠っていないつもりだ。一度でもその実力を見せたなら、キバナの情報網に引っかかってくるはずだ。それなのに。
オレさまの知らない、誰かがいる。
その事実に、本来なら胸を躍らせるべきだったのだろう、一人のトレーナーとしては。
無意識に、椅子代わりにしていた机から滑るように下りていた。こと、と手にしていたパックを置く。
「……なあ。それどこでやってるって?」
「中庭よ。渡り廊下がぎゅうぎゅう詰めで大変だったわ!」
クラスメイトの言葉を背中に受けながら、キバナは教室を飛び出していた。途端、冬の風が脚を冷やして廊下を駆け抜けていく、その逆方向に足を向けた。手がかじかむ。上履きが滑る。ポケットの中で金属がチャリチャリと忙しない音を立てる。途中、擦れ違った教師の誰かから「こら、廊下は走らない!」と注意が飛んできたが、足を止める余裕はなかった。階段を一足飛びに駆け降りる。
中庭に降りれば、目当ての試合がどのコートかはすぐにわかった。人だかりができるから目立つのだ。キバナは走り寄った勢いのまま人垣に突っ込んで体を捩じ込み、なんとか最前列に抜け出す。
そして目にしてしまった。
ダンデのリザードンが倒れる瞬間を。
「……っ!」
ずん、と巨体が地を揺らす音を最後に、その場がしんと静まり返る。
誰も予想だにしないことだった。
あまりにあっけない無敗の終わりなど。
「……オレの負けだな」
リザードンを引っ込めたダンデが、淡々とそう言った——ようにキバナのいる場所からは見えた。一瞬、悔しさにその顔が歪んだのは、あるいはそうであってほしいというキバナの幻覚だっただろうか。
試合相手に向き直り、握手のために手を伸ばすダンデの顔は晴れやかだ。
下級生が差し出された手をおずおずと握る。ダンデよりも背が低く小柄で、ダンデを真正面から捉えてもなお、後方からダンデの顔はよく見えた。
ダンデは眉尻を下げて笑う。
「すまない、負けると思っていなかったから、ロザリオの持ち合わせがないんだ」
傲慢。言い表すならばその一言に尽きた。
けれど嫌味を感じさせない仕草で、ダンデは目の前の下級生の手を取る。
物語の王子さまみたいに、恭しく。
「今度二人で買いに行こうか。……オレの妹になってくれると、嬉しい」
その囁きの瞬間、はう、と周囲から感嘆のような溜め息が何重にも漏れた。しかし正面の生徒はペコリと軽く頭を下げるのみで、特段動じた様子はない。どうやら熱心なダンデのファンではないらしい。表情の薄いやつだ、とキバナはじっとその一年生の、後頭部を覆うニット帽の房を見た。この時期まで、そんな強いやつが一年にいると耳にしたことはなかった。最近急激に力をつけたのだろうか。それとも、ムクホークが爪を研ぐように、手持ちを調整していたのか。どちらにせよ、見事あのダンデを破ったと言うわけだ。キバナと違って。
二人はまだ歓談を続けていた。声は聞こえなくとも、何を話しているのかは遠巻きに見守る誰もがわかった。下級生を見下ろして微笑むダンデが、スマホを取り出し、指差しながらにこにこと画面を示している。下級生も無表情ながら時折素直に頷いて、ダンデの言うことを聞いている。その二人の姿を見て、キバナは唐突に悟ってしまった。
ダンデはもう、無敗で孤高の下級生ではない。
気づけばふらりと足場を失ったようにバランスを崩して、周りの生徒から体を支えられていた。
「……キバナさん? 大丈夫、顔色が悪いわよ……」
「仕方ないわよ、あんなぽっと出の下級生に出番を取られてしまったんだもの」
「で、でもまだお姉さまの枠は空いているんじゃなくて? 元気をお出しになって」
様々な高さの声が雑音となって、キバナの鼓膜の表面を撫でていった。キバナは同級生の腕の中から立ち上がり、ふらふらとその場を後にする。
そう。別にこれでバトルできなくなったわけじゃない。勝ったのは下級生で、だからまだあの宣言は有効なはずだ。『オレはこの学園でオレよりつよいひとの申し出を受ける』。
けれど同時に、キバナは理解してしまった。
自分のこの学園での役目は終わったのだ。
無敗の下級生を負かす役割は。
寂れた校舎の裏で立ち止まり、ポケットの中のロザリオを握り締めた。冷えた金属の、掛ける相手にきっと似合うだろうと思って選んだ花の装飾が、掌に食い込んで痛い。
——それからキバナは、冬の終わりまで一度もダンデの前に姿を現さなかった。
「——キバナさま」
膝を抱え、蹲るように座り込んだキバナの元に、聞き慣れた声が入り口から届いた。こんな日にわざわざ、こんな敷地の外れの温室を訪れる人間なんて誰もいないだろうと踏んで感傷に浸っていたというのに、どうやらその読みは外されたらしい。声が誰のものかと確認するまでもない。キバナは顔を上げなかった。うっすらと目だけを開けば、腕の隙間から土のこぼれたレンガ造りの縁石が見える。
温室のドアが、ぎいと閉じる音がする。途端、籠る土と草と植わった薔薇の匂い。
カツカツと、距離を詰めるローファーの音。
「こんなところにいたのか。あなたが勝負に来てくれないから、フライゴンの対策が全然できないままだ」
「……オレさまじゃなくても、妹がいるだろう」
「そうだな。あの子も中々強くて楽しいぜ」
躊躇いなく肯定されて、ぎゅっと心臓を押し潰すように膝を抱えた。胸元に挿した造花が潰れる。ばかだ、オレさまは。この後に及んでまだ、オレさまがコイツにとっての特別だと、言葉にしてほしかったのだろうか。
そしてその期待が裏切られたことにまた落ち込んでいる。
ダンデが隣にしゃがみ込む気配がした。腕の隙間から、制服の裾と靴の先が見える。そのまま縁石に座ったら、服が汚れる、と咄嗟にハンカチを出してやろうか迷ったが、このお淑やかな下級生ときたら暇さえあれば野生のポケモンを探して見知らぬ草むらに突っ込んでいるのだからどのみち今日だって制服は既に汚れているだろう。キバナが気を遣ってやる必要はなかった。
そうだ、勝負を挑もうとするたびどれだけ探したと思っているんだ。
この二年間。
けれどこの温室だけは、野生のポケモンが入り込めない作りになっていて、だからダンデには用のない場所のはずだった。ひとしきり同級生と三年間の思い出を語り、写真を撮り、別れを惜しんだ後に、身を隠すにはちょうどいい場所。
「このところオレを避けていたのは、オレに妹ができたから?」
「……別に。オレさまにだって、受験とか、バイトとか、色々あんだよ」
「ふぅん。秋には附属大に推薦で決まっていたと聞いてるが」
その言葉に、思わずガバリと顔を上げたのは失策だった。すぐ真横から覗き込んできていた蜂蜜色の瞳とバチリと目が合う。頬杖を突いたダンデは、まるで受け出しがきれいに成功したときのように、唇の端でいたずらっぽく笑う。
「……教えた覚えないぞ」
「そうだな。聞いた覚えはない。あなたからは」
言外に他の誰かから聞き出したことを匂わせるダンデの言葉に、キバナはそっと溜め息を吐いた。誰だ教えたやつ。個人情報だろ。
キバナは観念して、ポケットからハンカチを取り出した。首を傾げるダンデを立たせ、縁石に座れるように敷いてやる。「あなたが自分で敷くべきじゃあないか?」「オレさまはいいんだよ。……この制服も、もう着ないし」言えば、ダンデは少し考えた後制服が皺にならないよう手で整えて腰掛けた。
誰もいない温室は静かだ。
二人で並んで眺める。白い木枠の格子にはまったガラス越しに淡く差し込む陽光と、その下で揺れる薄く色づいた薔薇の蕾。まだ寒さの残る外気から隔離されて、ここだけがずっと暖かだ。
バトルだけができればいいと思っていた。
「……なのに、妹ができたくらいで諦めるなんて、あなたらしくないだろう。……これまでだってずっと、オレの前に立ち続けていてくれたのに」
ダンデの手が、キバナのそれに重ねられた。するりと指を絡ませられる。ダンデの手は、お世辞にも細くはなく、ボールを投げる部分の皮膚が厚く硬くなっていて、体温の高さが伝わってくる。いつも手持ちたちを愛おしげに撫でている手、砂まみれの制服を払う手、キバナと握手をする手。
オマエの特別じゃなきゃ意味がないんだ。
そんなのはただの詭弁だと、キバナもわかっていた。この二年間、既にキバナとダンデの間には無数の意味が降り積もって、幾重もの層を成していた。姉妹という名を与えずとも、それが特別でないはずがなかった。
それでも。
「……それでも、オレさまが、オマエを妹にしてやりたかった……」
「オレも……あなたの妹になりたかったんだぜ」
消え入るようなか細い声に、キバナは思わずびくりと体を震わせる。
「ロザリオをもらえなくても。妹にしてもらえなくても、あなたと過ごした日々の、輝かしいことにかわりはなかったんだ……」
長いまつ毛を伏せ、目元を和らげて笑うダンデの胸元に、キバナは唐突に泣いて縋りつきたくなる衝動に駆られた。待ってくれ、行かないでくれと、恥も外聞もなく告げることができれば、この肺を押し潰す重荷を下ろすことができただろうか。
置いていくのはキバナの方なのに。
葛藤に身を強ばらせるキバナに手を握らせたまま、ダンデは立ち上がった。「……もう行かないと」、呟く横顔は夕日の橙を帯びてどこか遠くの情景に見える。
「さよなら、オレの……」
ダンデはそこで、言えない言葉を飲み込んだ。それから、自分を見上げるキバナの表情を見て、そんな顔しないで、とくしゃりと笑った。
手を離す。
「楽しかった。さよなら、オレのキバナさま」
——
(大学生編でまたバトルするし付き合う)
「今日もまたキバナさまがダンデさんに勝負を挑まれるそうよ」
と、そんな噂がさざめきのように高等部の校舎中を駆け巡ったのは日差しもうららかな秋の午後のことだった。昼食を終え、満腹中枢を刺激されて睡魔の誘いを受けるにやぶさかでない生徒たちが、授業の合間、教室で廊下で、人から人へ口を伝わせ密やかに交わすその噂話は、誰も具体的な時間も場所も告げなかったにもかかわらず、そのときになればまるで示し合わせたかようにざわざわと見物に沸く人だかりを作った。
マリア像にほど近い、放課後のコート。
その中心に立ち、モンスターボールを手にする生徒が二人。
一人は身を僅かに低くしながら、高揚を隠し切れない様子で歯を見せて獰猛に笑い、もう一人は堂々たる立ち姿でその視線を真正面から受け止めている。放課後の語らいにしてはただならぬ雰囲気が張り詰めていたが、周囲の誰も二人をとめはしない。
それが二人の『挨拶』だと知っていたからだ。
「ごきげんようダンデ。今日こそオレさまのロザリオを受けてもらうぜ」
「ごきげんようだぜキバナさま。もちろん歓迎だ——オレに勝てたならの話だが!」
そして同時にコートに投げ込まれるボール。意気揚々と地を踏み咆哮する互いのポケモンたち。試合開始だ。周囲の生徒から歓声が上がる。
このやりとりも、今年度に入ってはや八回に渡っていた。
話は一年と半年前、無敗の一年生の入学に遡る。
この学園特有の姉妹制度の概要を聞いたある生徒が、にこりと無邪気に笑ってその場にいた上級生に宣言したのだ。
——なら、オレはこの学園でオレよりつよいひとの申し出を受けることにするぜ。
恐れ知らずの新入生がいる、という噂は瞬く間に学園内に広まった。ダンデさん、あの三年の先輩にお勝ちになったらしいわよ、とその実力の程を華々しい戦果の形で添えて。
けれどロザリオの授受をバトルの勝敗によって決めるという慣習自体は、特段その新入生に限った話ではなかった。上級生がこれと決めた下級生にバトルを挑み、勝利してロザリオを差し出し姉妹の契りを申し込む。下級生は憧れの上級生からの勝負を受け、負けて恭しくそのロザリオを受け取る。想いを寄せ合った二人が姉妹となる過程において、ポケモンバトルは一種儀式のような位置づけになっていた。
時には断られる勝負もあり、勝ちが譲られない勝負もある。けれどそれはあくまでバトルの話だ。姉妹の契りの申し出てそれに返事を返すより、ずっと誰も傷つかずに済む。
そう、だからその一年生も、当初はその類だろうと思われていたのだ。
夢見がちなシンデレラ。いつか王子さまが迎えにきてくれるのを待っているのだと。
「リザードン……火炎放射!」
ジュラルドンが沈む。最後のポケモンを失ったキバナがその場に膝をつき、白いソックスを砂で汚す。
「クッッッソ負けた……!!!」
「勝ったぜ!」
歓声の中、肩を落とすキバナに相反してダンデが嬉しそうに片手を掲げた。傾きかけた秋の陽光を浴びる指先。翻る深緑色の制服。勝利のリザードンポーズ。
入学から今日まで、ダンデは誰からの挑戦も撥ねつけ、王子さま——もといお姉さま候補をこてんぱんにのし続けていた。同級生の一人がはたと気づいたように、ダンデさん、もしかしてどなたもお姉さまにするつもりないんじゃないかしら、と呟く頃には既に周りは返り討ちにされた上級生で死屍累々になっていた。
その天辺に、当時学園一の実力と噂されていたキバナが放り出されたのは何月のことだったか。
「あの方……単にバトルがお好きなだけだわ!?」
やがて無敗の一年生は無敵の二年生となり、春が訪れ夏が過ぎて、その実力が学園中に浸透する頃には、本気で勝負を挑む人間はキバナのみになっていた。
不屈の上級生は、律儀に敗北に打ちひしがれては次の瞬間には跳ね起きる。
「いや次はぜってーーーこのロザリオ受け取らせてやるからな! 首洗って待ってろよ!」
普段から品行方正に、あなた方は下級生に範を示さなければならないのですよときつく教えを受けている現実をおよそ思わせない仕草で頭を掻きむしり地団駄を踏み、常日頃持ち歩くようになってしまったロザリオを突きつけるキバナに、ダンデは気にした様子もなく「ああ」と淡く微笑むだけだった。その様子はやはり、バトルしか関心ごとのないダンデさんらしいことだわ、と感嘆の声を伴って受け止められる。
いつもながら、姉妹の契りにはご興味がなくていらっしゃるのね。あんなに熱心にプロポーズを受けているのに、ダンデさんったらキバナさまの申し出をそろそろお受けにならないのかしら。負けてあげればよろしいのでなくて? あら、だめよそんなの、キバナさまのプライドが許さないでしょ。ああ、残念、あのお二人ならきっとお似合いでしょうに。……
集っていた生徒たちはみな野次馬の構えを解いて、思い思いの放課後を過ごすためにその場をゆるりと後にする。波が引くように人影がいなくなる。
コートの中心に立ったダンデを残して。
「ああ。……待ってる」
視線を伏せ、まつ毛を震わせて祈るように呟かれた言葉は誰の耳にも届かない。
「——はやくあなたの妹になりたい」
◇ ◇ ◇
高等部三年目の冬ともなればチラホラと受験のための欠席も増え始める時期だったが、その日の昼休みは珍しく教室に活気が溢れていた。授業への出席者が多かったのはどこの大学の受験日とも被らなかったためだろうと思われたし、どこか浮ついた気配があったのは、多分、午後から卒業式の予行演習があったからだ。
みんな休まなくて真面目だよなあ、と自分を棚上げしながら教室でぬくぬくとスマホを眺めていたキバナに、「あら、キバナさん」と同級生からの声がかかる。
「ごきげんよう。今あなたの妹候補が下級生からの試合を受けておられてよ。ご覧になって?」
「いや」
キバナはジュコッ、とパックジュースのストローを鳴らしながら同級生の問いに首を振った。
妹候補とはもちろんダンデのことで、ことここに至って未だキバナはダンデから白星をもぎ取れてはいなかったが、キバナと親しいクラスメイトたちは茶化すようにダンデのことをそう呼ぶのが常だった。キバナとしては、どうせなら正式に受けてもらえてからオレさまのナニと呼んでくれ、と思わなくもなかったが、以前偶然にもその単語を耳にしたダンデの、慌てて立ち去ったときのはにかんだような照れ顔は、今思い出してもなんだか悪い気分ではなかった。
そのダンデが、キバナ以外の相手と試合をしている。
そりゃあ、オレさま以外に勝負を挑む人間もいるだろう、とキバナは特に気にも留めなかった。ダンデの強さはもはや学園に知らぬ者なしだが、同時にその人格者たる振る舞いが憧れの的となっていることも事実だ。あんな方がお姉さまだったら、どんなにか素敵なことかしら。そんな羨望を抱く下級生は後を絶たない。姉妹になれずとも、いい思い出作りに、と挑む生徒だってたまにはいるだろう。衆人環視の中でボコボコにされあげくダメ出しされるのがわかっていて挑む鋼のメンタルは見上げたものだがまあ、そういうやつもいるだろう、と。
そう軽く流していた。
クラスメイトの次の言葉を聞くまでは。
「その一年生、なんとダンデさんと互角みたいだったわ! すごいわよね、一歩も譲らなくて」
「……なにって?」
互角。
あのダンデと?
がじ、と気づけばキバナは落ち着かなくジュースのストローを噛んでいた。ダンデと互角。キバナが知る限り、そんな実力のある人間は限られているし、学園内に限れば見たことがない。これでも情報収集は怠っていないつもりだ。一度でもその実力を見せたなら、キバナの情報網に引っかかってくるはずだ。それなのに。
オレさまの知らない、誰かがいる。
その事実に、本来なら胸を躍らせるべきだったのだろう、一人のトレーナーとしては。
無意識に、椅子代わりにしていた机から滑るように下りていた。こと、と手にしていたパックを置く。
「……なあ。それどこでやってるって?」
「中庭よ。渡り廊下がぎゅうぎゅう詰めで大変だったわ!」
クラスメイトの言葉を背中に受けながら、キバナは教室を飛び出していた。途端、冬の風が脚を冷やして廊下を駆け抜けていく、その逆方向に足を向けた。手がかじかむ。上履きが滑る。ポケットの中で金属がチャリチャリと忙しない音を立てる。途中、擦れ違った教師の誰かから「こら、廊下は走らない!」と注意が飛んできたが、足を止める余裕はなかった。階段を一足飛びに駆け降りる。
中庭に降りれば、目当ての試合がどのコートかはすぐにわかった。人だかりができるから目立つのだ。キバナは走り寄った勢いのまま人垣に突っ込んで体を捩じ込み、なんとか最前列に抜け出す。
そして目にしてしまった。
ダンデのリザードンが倒れる瞬間を。
「……っ!」
ずん、と巨体が地を揺らす音を最後に、その場がしんと静まり返る。
誰も予想だにしないことだった。
あまりにあっけない無敗の終わりなど。
「……オレの負けだな」
リザードンを引っ込めたダンデが、淡々とそう言った——ようにキバナのいる場所からは見えた。一瞬、悔しさにその顔が歪んだのは、あるいはそうであってほしいというキバナの幻覚だっただろうか。
試合相手に向き直り、握手のために手を伸ばすダンデの顔は晴れやかだ。
下級生が差し出された手をおずおずと握る。ダンデよりも背が低く小柄で、ダンデを真正面から捉えてもなお、後方からダンデの顔はよく見えた。
ダンデは眉尻を下げて笑う。
「すまない、負けると思っていなかったから、ロザリオの持ち合わせがないんだ」
傲慢。言い表すならばその一言に尽きた。
けれど嫌味を感じさせない仕草で、ダンデは目の前の下級生の手を取る。
物語の王子さまみたいに、恭しく。
「今度二人で買いに行こうか。……オレの妹になってくれると、嬉しい」
その囁きの瞬間、はう、と周囲から感嘆のような溜め息が何重にも漏れた。しかし正面の生徒はペコリと軽く頭を下げるのみで、特段動じた様子はない。どうやら熱心なダンデのファンではないらしい。表情の薄いやつだ、とキバナはじっとその一年生の、後頭部を覆うニット帽の房を見た。この時期まで、そんな強いやつが一年にいると耳にしたことはなかった。最近急激に力をつけたのだろうか。それとも、ムクホークが爪を研ぐように、手持ちを調整していたのか。どちらにせよ、見事あのダンデを破ったと言うわけだ。キバナと違って。
二人はまだ歓談を続けていた。声は聞こえなくとも、何を話しているのかは遠巻きに見守る誰もがわかった。下級生を見下ろして微笑むダンデが、スマホを取り出し、指差しながらにこにこと画面を示している。下級生も無表情ながら時折素直に頷いて、ダンデの言うことを聞いている。その二人の姿を見て、キバナは唐突に悟ってしまった。
ダンデはもう、無敗で孤高の下級生ではない。
気づけばふらりと足場を失ったようにバランスを崩して、周りの生徒から体を支えられていた。
「……キバナさん? 大丈夫、顔色が悪いわよ……」
「仕方ないわよ、あんなぽっと出の下級生に出番を取られてしまったんだもの」
「で、でもまだお姉さまの枠は空いているんじゃなくて? 元気をお出しになって」
様々な高さの声が雑音となって、キバナの鼓膜の表面を撫でていった。キバナは同級生の腕の中から立ち上がり、ふらふらとその場を後にする。
そう。別にこれでバトルできなくなったわけじゃない。勝ったのは下級生で、だからまだあの宣言は有効なはずだ。『オレはこの学園でオレよりつよいひとの申し出を受ける』。
けれど同時に、キバナは理解してしまった。
自分のこの学園での役目は終わったのだ。
無敗の下級生を負かす役割は。
寂れた校舎の裏で立ち止まり、ポケットの中のロザリオを握り締めた。冷えた金属の、掛ける相手にきっと似合うだろうと思って選んだ花の装飾が、掌に食い込んで痛い。
——それからキバナは、冬の終わりまで一度もダンデの前に姿を現さなかった。
「——キバナさま」
膝を抱え、蹲るように座り込んだキバナの元に、聞き慣れた声が入り口から届いた。こんな日にわざわざ、こんな敷地の外れの温室を訪れる人間なんて誰もいないだろうと踏んで感傷に浸っていたというのに、どうやらその読みは外されたらしい。声が誰のものかと確認するまでもない。キバナは顔を上げなかった。うっすらと目だけを開けば、腕の隙間から土のこぼれたレンガ造りの縁石が見える。
温室のドアが、ぎいと閉じる音がする。途端、籠る土と草と植わった薔薇の匂い。
カツカツと、距離を詰めるローファーの音。
「こんなところにいたのか。あなたが勝負に来てくれないから、フライゴンの対策が全然できないままだ」
「……オレさまじゃなくても、妹がいるだろう」
「そうだな。あの子も中々強くて楽しいぜ」
躊躇いなく肯定されて、ぎゅっと心臓を押し潰すように膝を抱えた。胸元に挿した造花が潰れる。ばかだ、オレさまは。この後に及んでまだ、オレさまがコイツにとっての特別だと、言葉にしてほしかったのだろうか。
そしてその期待が裏切られたことにまた落ち込んでいる。
ダンデが隣にしゃがみ込む気配がした。腕の隙間から、制服の裾と靴の先が見える。そのまま縁石に座ったら、服が汚れる、と咄嗟にハンカチを出してやろうか迷ったが、このお淑やかな下級生ときたら暇さえあれば野生のポケモンを探して見知らぬ草むらに突っ込んでいるのだからどのみち今日だって制服は既に汚れているだろう。キバナが気を遣ってやる必要はなかった。
そうだ、勝負を挑もうとするたびどれだけ探したと思っているんだ。
この二年間。
けれどこの温室だけは、野生のポケモンが入り込めない作りになっていて、だからダンデには用のない場所のはずだった。ひとしきり同級生と三年間の思い出を語り、写真を撮り、別れを惜しんだ後に、身を隠すにはちょうどいい場所。
「このところオレを避けていたのは、オレに妹ができたから?」
「……別に。オレさまにだって、受験とか、バイトとか、色々あんだよ」
「ふぅん。秋には附属大に推薦で決まっていたと聞いてるが」
その言葉に、思わずガバリと顔を上げたのは失策だった。すぐ真横から覗き込んできていた蜂蜜色の瞳とバチリと目が合う。頬杖を突いたダンデは、まるで受け出しがきれいに成功したときのように、唇の端でいたずらっぽく笑う。
「……教えた覚えないぞ」
「そうだな。聞いた覚えはない。あなたからは」
言外に他の誰かから聞き出したことを匂わせるダンデの言葉に、キバナはそっと溜め息を吐いた。誰だ教えたやつ。個人情報だろ。
キバナは観念して、ポケットからハンカチを取り出した。首を傾げるダンデを立たせ、縁石に座れるように敷いてやる。「あなたが自分で敷くべきじゃあないか?」「オレさまはいいんだよ。……この制服も、もう着ないし」言えば、ダンデは少し考えた後制服が皺にならないよう手で整えて腰掛けた。
誰もいない温室は静かだ。
二人で並んで眺める。白い木枠の格子にはまったガラス越しに淡く差し込む陽光と、その下で揺れる薄く色づいた薔薇の蕾。まだ寒さの残る外気から隔離されて、ここだけがずっと暖かだ。
バトルだけができればいいと思っていた。
「……なのに、妹ができたくらいで諦めるなんて、あなたらしくないだろう。……これまでだってずっと、オレの前に立ち続けていてくれたのに」
ダンデの手が、キバナのそれに重ねられた。するりと指を絡ませられる。ダンデの手は、お世辞にも細くはなく、ボールを投げる部分の皮膚が厚く硬くなっていて、体温の高さが伝わってくる。いつも手持ちたちを愛おしげに撫でている手、砂まみれの制服を払う手、キバナと握手をする手。
オマエの特別じゃなきゃ意味がないんだ。
そんなのはただの詭弁だと、キバナもわかっていた。この二年間、既にキバナとダンデの間には無数の意味が降り積もって、幾重もの層を成していた。姉妹という名を与えずとも、それが特別でないはずがなかった。
それでも。
「……それでも、オレさまが、オマエを妹にしてやりたかった……」
「オレも……あなたの妹になりたかったんだぜ」
消え入るようなか細い声に、キバナは思わずびくりと体を震わせる。
「ロザリオをもらえなくても。妹にしてもらえなくても、あなたと過ごした日々の、輝かしいことにかわりはなかったんだ……」
長いまつ毛を伏せ、目元を和らげて笑うダンデの胸元に、キバナは唐突に泣いて縋りつきたくなる衝動に駆られた。待ってくれ、行かないでくれと、恥も外聞もなく告げることができれば、この肺を押し潰す重荷を下ろすことができただろうか。
置いていくのはキバナの方なのに。
葛藤に身を強ばらせるキバナに手を握らせたまま、ダンデは立ち上がった。「……もう行かないと」、呟く横顔は夕日の橙を帯びてどこか遠くの情景に見える。
「さよなら、オレの……」
ダンデはそこで、言えない言葉を飲み込んだ。それから、自分を見上げるキバナの表情を見て、そんな顔しないで、とくしゃりと笑った。
手を離す。
「楽しかった。さよなら、オレのキバナさま」
——
(大学生編でまたバトルするし付き合う)
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