竜の衣の剥がし方

(2022/03/28)


 いくらライヤーお抱えの服飾チームが優秀といえど、砂嵐と熱風でもみくちゃにされてなお変わらぬ輝きを放つ衣装を作れというのはダンデ相手に先発一体で六タテを通せというようなもので、下ろし立てで生地の艶を遺憾なく発揮していたアニバーサリー衣装も試合の終わる頃にはくたくたになってひどく汚れを見せていた。控室で脱いだそれを見下ろし、キバナは少し心を痛める。誰だって、自分のためにと丹精込めて誂えられた衣装を汚してしまうのは忍びないものだ。こうなることを見越した服飾チームからは当然予備のフォーマルスーツを渡されていたが、そのことがすべてキバナの悔恨を帳消しにするわけではなかった。
 他の対戦カードなら、とキバナは思う。それならそうそう、一戦のみで衣装をクリーニング送りにはしないのだ。だが今回の相手はネズ率いる強豪チームで、こちらにはダンデとライヤーがいた。そりゃあもう、暴れ倒そうというものだ。ダンデに挑発され、理性の箍が外されれば、いかにキバナといえど衣装に気を払う余裕はない。
「……オレさまの衣装として、オマエも楽しんだならいいんだが」
 まだどこか試合の興奮の引き切らないまま、ベンチにくたりと横たえたベストを撫でる。バックルを外し、黒いシャツの襟元を緩める。キバナが服を脱ごうと動くたび、どこに隠れていたのか砂の粒がまろび出て、控室の床に散らばってパラパラと乾いた音を立てる。
 今日はこのあとグランドホテルの二階のホールで、後夜祭と称して記念パーティがあるらしい。ライヤーが急遽貸し切って手配をしたと聞いている。さすが御曹司、太っ腹なことだ。
 キバナは軽くシャワーを浴び、濡れた体を拭いながらロッカーに吊り下げられた予備のスーツに手を伸ばした。記念衣装よりは随分とおとなしい色合いのセットアップになるが、さすがに記念衣装は汚れたままでは着ていけない。
 少し惜しいが、今日はもうバトルすることはないだろうし。
 もしバトルの機会があるようなら、むしろ予備のスーツを駄目にしないよう記念衣装を着ていった方がいいのかもしれないが、ないだろうし。
 ……ない、よな?
「…………」
 いや。
 キバナは少し考えて、スーツへ伸ばした手を引っ込めた。そう、今日はこのあとホテルでパーティで。大人にはお酒もあるらしいから、ちょっと羽目を外してしまう可能性がないとも言い切れない。
 迷った末に、キバナはベンチに畳んだ記念衣装に手を伸ばし、汚れをパンと小気味よく払った。
「……もう一つ、オレさまと楽しいことしねえ?」



 一歩会場へ足を踏み入れると、煌びやかなシャンデリアの下、思い思いに着飾ったトレーナーとそのバディたちが既にいくつもの輪を作って歓談を繰り広げていた。ビュッフェ形式で並べられた料理はどれも作り立ての温かく香ばしい匂いで参加者の食欲を誘い、純白のクロスを敷かれたテーブルのそこかしこからビールやワインやソフトドリンクのグラスの乾杯が交わされる音が聞こえる。どれもこれも、せっかくの記念祭なのだから食事も存分に楽しめるものでなければ気が済まないというライヤーの粋な取り計らいだった。以前のライヤーなら、こういった場を設けること自体、オレさまが何故そんなことをせねばならん、と一刀の下に切り捨てていただろう。ここ最近の彼の変化はめざましく、そしてキバナもそんな彼の変化を好ましいと思ううちの一人だった。
 会場の端でワインを受け取り、キバナは中身を揺らしながらあたりを見回す。
(ダンデは……と。いた)
 人の集まりの中から、めざとく目当ての菫色の髪を見つける。こういうとき、人より高い身長が便利だ、とキバナは思う。それと平均より長い足も。大股に歩けば人波に流されることもなく、その背中へとすぐに距離を詰められた。近づいてよく見れば、ダンデのふわりと量の多い髪はパーティ用に緩く三つ編みに結われて肩に垂らされていて、着ているのは濃いブラウンの華やかなスーツだ。いいじゃん、と思う。多分誰か——それこそライヤーが着替えさせでもしたんだろう。ダンデ本人が服を選べばこうはいかない。
 ダンデと一緒に話し込んでいるのはフウロとハルカで、二人の着る記念衣装は集まったトレーナーたちの中でも一際華のある格好だ。ダンデも彼女たちもバディを連れていないのは、キバナと同じくポケセンでゆっくり休ませているからだろう。
「記念日、楽しかったですねーっ」
「あれ、ダンデさん、キバナさんは? さっきまで一緒にいませんでしたか?」
「ああ、今着替えてると思うぜ。オレは脱ぎ着の簡単なユニフォームだから早かったけど、彼のはなんだか時間がかかりそうな構造だったからな——」
 とはいかにも彼らしい見解だ。そのダンデの背中越しに、キバナは二人に声を掛ける。
「フウロ、ハルカ」
「あ、キバナさん!」
 にこ、とキバナに気づいて笑みを投げかける女子二人の手にあるのは色付きのグラスで、それにはソフトドリンクが入っていることがわかる。そういやダンデのは、とキバナがその手元を見れば、ダンデの手の中では泡の消えかかったビールが透明なグラスの中で揺れていた。
 ダンデが振り返る気配がなかったから、その肩に手をかけ、ひらりと正面の女子二人に手を振る。
「よお、二人とも。今日はお疲れ」
「キバナさんも! 今日の試合良かったですよ!」
「あれ? でも着替えたんじゃなかったんですか?」
 そのハルカの言葉に、ちら、とダンデが視線を横に流し、確認するようにこちらを見た気配を感じた。キバナはゆるく笑って流す。
「せっかくだし、今日はとことん着潰してやろうかと思ってさ。多少くたびれたところで、オレさまの格好よさを損なうものでなし? 名誉の損傷かな、って」
 ベストの襟をピッと引きながら口にしたその言葉に、今度はダンデがおかしそうに肩を揺らす。「"名誉"だっていうなら」と、グラスを煽りながら無邪気な笑顔をキバナに向ける。
「ならもっと焦げ跡を増やしておけばよかったぜ。詰めが甘かったな」
「なんでだよ。そもそもオレさまたち同じチームだったはずなんですけど?」
 オレさまがオマエのバディの熱風を浴びてるのがおかしいんだよなあ、とキバナは大仰に首を捻ってみせる。ダンデにはいまいち伝わる気はしないが、女子二人からくすくすと楽しそうな笑いを引き出せたのでキバナはそれでよしとすることにした。
 しばらくすると、フウロはカミツレに、ハルカはルチアにそれぞれ呼ばれて二人の元を離れていった。
 賑やかな空気の中で二人。
 頭上からは話し声の邪魔にならない程度の、控えめな音量で管弦楽の曲が流されている。
 キバナはなんとなく気分がよかった。それは手にしたアルコールが体を巡って体温を上げていた所為もあったし、今日のバトルの余韻が満足感となって全身を包んでいたからでもあったし、他の誰でもない気の置けない相手が側にいることが要因でもあった。
 ダンデの肩に掛けていた手をするりと下ろして腕を絡ませる。
「……料理でも取りに行くか?」
「んー……」距離の近さを咎めもせずに、ダンデは視線をどこかへやりながらゆるく首を横に振った。「今は食欲の気分じゃあないな」
 そう告げるダンデの頰を覗き込めば僅かに赤みが差している。金の瞳も常より精彩を欠いてとろけたような甘さを醸し出していて、妙にキバナの鼓動を早めた。さしずめ風そよぐ草原の向こうに、優雅に水を飲むうつくしい毛並みの草食動物を見つけたときの獣の気分だろうか。
 獲物は油断しきっていて、こちらにはまだ気づいていない。
「じゃあ——夜風でも浴びにいく?」
 体を離して手を差し出せば、思いの外素直にダンデの指先がキバナの手のひらに乗ってきた。手袋越しに軽く握ってエスコートする。空になったグラスは適当なテーブルに置き去りにして、少し控えめな歩幅でバルコニーの方へと会場を横切る。見上げるほどの大窓はどれも隙間ばかり開かれていて、窓枠の向こうに人工島の星空が広がっているのが見える。外には出ず、夜の匂いをたっぷりと含んだカーテンの影に身を寄せる。
「フフ、格好いいな、キミは」程よく酔いも回っているのか、ダンデはクスクスと無邪気な笑みをキバナへ向ける。「今日の格好もキミらしくてすごく似合ってる」
「へーえ? オマエに服の趣味がわかるとはね?」
「いじわるな言い方をするな? キミ、どうせオレにはフライゴンとのお揃い部分しか良さがわからないと思っているだろう」
「違うのか?」
「まあ、否定はしないぜ」
 だってこことか、すごく格好いいものな、とダンデの指が鱗をあしらったボタンを示すように、キバナの鳩尾をとんと捉える。
 途端、ぞわりと首筋が粟立った。
 不快なんじゃない、その逆だ。
 コイツ。
「……ダンデ」
「確かにオレはファッションについては門外漢だが」キバナの体が僅かに強張ったのを意にも介さず——あるいは気づかないふりをして、ダンデはキバナの体に置いた指をゆっくりと上へ滑らせた。鳩尾から胸元へ。装飾品をなぞった指先が黒シャツの襟元を軽く引っ掛け、キバナの露出した鎖骨の間の素肌を撫でる。「オレはキミの、そういう、客観的な自己分析の下で、最も自分を魅せられる術を選び取れるところが——」
 とん、と最後にたどり着いたのは口元だ。ダンデの人差し指が唇に柔らかく触れる。
「……好きなんだぜ。キバナ」
「……っ」
 堪らなくて息を呑んだ。
 果たして獲物はどちらだったのか。
 互いに絡ませた視線が磁力を帯びたように離しがたく惹きつけられる。
「……キバナ。実は」
「ダンデ。この後さ——」
 同時に口火を切り、懐に忍ばせたものに手を伸ばした、その瞬間。
「貴様らーッ!!」
 突如背中に刺さった大音声に、ビクゥッ、と二人揃って飛び上がった。疚しさに思わず焦って振り返れば、そこにはこのパシオの王である少年がいつにも増して派手なドレススーツに身を包み、仁王立ちで腕を組んでいた。
 側にお付きの姿は見えない。
 キバナはドキドキと跳ねる己の心臓の辺りを抑えながら、なんとか普段通りの笑みを浮かべる。
「う、お、ライヤーじゃん。どした?」
「いや、なに……」
 そう言い淀んだライヤーは、自分の呼びかけがキバナとダンデをひどく動揺させたことにどうやら気づいていないようだった。そそくさと密着していた体を離す二人の不自然な動作も距離も、特段気にした様子はない。
 そうして少し考えるように二人から視線を逸らした後、普段の居丈高な調子を取り戻してキバナの方へと向き直る。
「今日のともだち記念祭の催しの褒美を取らせようと思ってな。特にキバナ、おまえだ」
「え、うん。オレさま?」
「そうだ。おまえがいなければ、オレさまはフーパとの大事な記念日を失念したままだっただろう。これはその感謝の気持ちだ。ありがたく受け取れ」
 スッとライヤーに差し出されたものを目にした瞬間、キバナはピタリと動きを止めた。キバナの背後から覗き込んだダンデも固まる。
 この、どこか見覚えのあるカードキーは。
「ここの上に部屋を取っておいた。聞いて喜べ、インペリアルスイートだ! おまえたちのことだ、毎日バトルに明け暮れてどうせホテルでのんびり——なんてしたことがないだろう。この機会に存分に堪能してくるがいい」
「いやいやいや待て待て待て」
 一瞬のひるみ状態から復活したキバナは思わず助け舟を求めてダンデの方を見た。ダンデも何を言うべきか迷って、口を開き——何も言わずに閉じた。おいなんか言えよ。
 ライヤーの尖った靴の先が苛立ちを表すように床の絨毯を叩く。
「なんだ、キバナ。不服か?」
「い……いやライヤー? オマエ今いくつだっけ? 未成年にそういうこと気を回させるのは、オレさま流石にちょーっと……」
「? 何を言っている、オレさまの歳など関係ないだろう。オレさまをおいてこの島に王はいない」
「いやあまあそれはそうなんだけど」
「そう……おまえもだ、ダンデ!」
「お、おお?」
 珍しく身構えたダンデの目の前に、同じようにカード状のルームキーが差し出され、ダンデが内心天を仰いだ気配がキバナにはその場の空気を通してヒシヒシと伝わってきた。さすがにガラルチャンピオンともなれば滅多なことでは動揺を表には出さないが、しかしキバナは知っている。ダンデは焦ったときは口の端が僅かに強張る。
「いや、本当に大丈夫だぜライヤー。オレたち、もう大人だからそういう世話は自分で見るし……」
「? なにを遠慮することがある、受け取っておけ。同じチームで戦ったよしみだ。最上階とまではいかないが、おまえにも部屋を用意した。存分に休息を取るがいい!」
「……うん? 待て、オレ『にも』?」
 耳聡くダンデが反芻した。ライヤーが何を当然、と言わんばかりに横柄に頷く。
「そうだ。ちなみにフウロとハルカには、最近できた新しいホテルの方で用意してある。そっちの方がアメニティとやらが充実しているとチェッタが言っていたのでな」
 ライヤー様ァ、と呼ぶ声がして、見ればちょうどそのチェッタがその余った袖をぶんぶんと振り回してこちらへ近寄ってくるところだった。ドレスアップした姿でも袖の長さだけは譲れないらしい。「ちゃんと渡せましたァ?」「ああ。それよりもチェッタ! デザートの手配はどうなった!」「あいさーばっちりですよお。もう出しますー?」「よし、オレさまが許す。客人に最高のもてなしを振る舞ってやれ!」
 そう言って二人は嵐のように去っていき、残されたのは放心したままのキバナとダンデと、上に取られた部屋の二枚のルームキー。
 ふ、と先に笑い声を漏らしたのはキバナだった。釣られたようにダンデも喉を鳴らす。
「……クックックッ、そーーーだよなあ! なに焦っちまったんだがオレさまは!」
「そうだな、不覚だったぜ……オレとしたことが、すっかり『そのこと』しか頭になかったから」
「スケベ」
「キミもだろ」
 二人で顔を見合わせて、スッと同時に懐から取り出したのは同じ模様の刻まれたカードだ。
 場に揃う、全部で四枚のルームキー。
「……選びたい放題じゃねえか。どうする?」
「せっかくだし、ライヤーの計らいに甘えようぜ。ええと何だったか、エンペルトスイート……?」
「インペリアルだよ。なんだよ、せっかくオレさまも部屋取ったのにー」
「オレもキミも読み負けだ。反省会だなこれは」
 言いながら、どちらともなく足早に会場を出口へと向かう。息が合いすぎて歩みの揃いがさながら二人三脚のようになる。いつもバトルを終えた後と同じ速度だ。けれどすれ違うトレーナーたちは皆、デザートビュッフェに賑わっていて二人のことを気にも留めない。
 廊下に出て、ひと気のない宿泊者用のエレベーターホールで上階へのボタンを連打する。チン、と軽い到着音と同時に勢いよく乗り込み、扉が閉まるのも待たずに軽くキスを交わす。
 火種はずっと燻っていたのだ。チリチリと、相手に己の熱を移す機を見計らっているところに油を注いだライヤーの采配に、今回ばかりは負けを認めるほかなかった。



 部屋に雪崩れ込んでからはなし崩しだった。清潔なリネンの香りに泥の匂いを持ち込むのは気が引けたが、ダンデがここまで来て、その衣装で抱いてくれないのか、と笑って誘うものだからキバナはギシリと着衣のままベッドに乗り上げた。
 体を重ねるごとに衣装に皺が寄るが、元々バトルでくたくたになっているものだ。今日はとことん着潰してやろうと決めたのだ。
 だからそのまま着てきた。
 そのことに、目敏いダンデが気づかないはずもない。
「フフッ……」
「なに、ダンデ。嬉しそうじゃん。そんなにこのカッコよかった?」
「ああ、……っ」
 手袋のまま敏感になった肌を撫でれば、普段と違う冷えた感触にダンデがびくりと体を震わせる。
 けれど怯えはなく、首に腕を回しながらキバナを見上げるのは熱に浮かされた金の瞳だ。
「キミが最高の自分としてプロデュースした状態を、オレの体一つで乱せると思うと正直、興奮する……」
 随分と愛らしい文句を紡ぐ口を強引に塞いだ。段々と呼吸が浅くなる。乱されてんのは、オマエの方だろ、と笑ってやりたいのにダンデの熱に触れるたびぐずぐずに思考が溶ける。ダンデの手で理性の箍を一つ一つ外すように、鱗をあしらったボタンが丁寧に外されていく。そうなってしまえば、いかにキバナといえど衣装に気を払う余裕はやはりなくなってしまうのだった。
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