放課後を吐息でとじて

(2015/03/20)


 傾いてきた夕日の光が手元の書籍に反射して、僕の目をやわく刺す。もうそんな時間か、と僕は顔を上げた。意識の外に追いやっていた他の部活の声や物音が、急にクリアに聞こえ始める。どうやら読書に没頭しすぎてしまっていたようだった。夕暮れとは言っても夏のそれは一年の中でもっとも遅く、時計を見れば午後の六時を過ぎている。この文芸部室という外界から隔離された空間で、何にも邪魔されずにただひたすらに本のページを繰る時間が過ぎ去ることの、なんと早いことだろう。
 常であれば、部室に着くなり美月の暴言が飛んできて、その傷を栗山さんの眼鏡を眺めて癒やし、その隙に博臣の手が脇に侵入してきて、本を読む間もなく放課後の時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。ちなみにその間、唯一舞耶だけが静かに本を読んでいるのだ。それこそが、文芸部員の在るべき姿のはずだった。しかし前述の三要素があるために、僕の普段確保できる読書時間などほとんどないに等しい。
 しかしながら、今日は女子三人でショッピングに行くなどという浮かれた理由で欠席すると連絡が入っていた。一体あのメンツで何を買いに行くのかは不明だが、僕ら男子にはわからない何かが彼女たちの間にはあるのだろう。よって、本日の参加者は二人だけであり、久しぶりに実のある時間となったわけであった。ぱたん、と手元の本を閉じる。
 そして帰り支度をしようと、僕はそのもう一人の本日の参加者を振り返った。
「おい、ひろお――」
 振り返って――僕はぴたりと動作を止めた。部室内に一瞬、静寂が訪れる。
「博臣?」
 へんじがない、ただのしかばねのようだ。
 じゃなくて。
 美貌の異界士は、その頭を机上に組んだ自分の腕に任せて、俯せて、規則正しくその体をわずかに上下させていた。つまるところ、信じられないことだが、彼は。
「ね、寝てる? おい、博臣、おーい」
 起きない。
 念のため、博臣の頬をそっとつつき、肩を揺らし、「おーい博臣」と耳元で囁いてみるが、起きない。どうやら狸寝入りではなく、本当に寝入っているようだった。今度は自分の頬を抓ってみる。
「……痛い」
 どうやら夢ではないようだった。初めて見る年上の異界士の寝顔に、僕はまだその事象が起きている現実を信じられないまま、博臣の髪をくるくるといじって眺める。艶やかな黒髪のキューティクル。それが、それだけが、僕の指先に真実味を与えてくる。
 だって名瀬博臣の寝顔なんてレア中のレアだ、この世に二人と見た人間はいないんじゃないかと言っても過言ではない。
 この美貌の異界士は、他人の前では滅多に隙を見せない。隙を見せれば、生き残れない。足を取られて、足元を掬われる。それが名家である“名瀬”という家の性質だからだ。だから、寝食の際もできるだけ自分を守る檻を張り巡らせて、周囲を警戒している。あからさまに態度には出さなくとも、彼はそういう男だった。
 その彼ほどの男が他人に――それもよりにもよってこの僕に寝顔を晒すなんて、余程疲れていたのだろうか。そう言えば、ちらりと聞いたような気もする。名瀬の仕事が忙しいのか、最近は家を不在にしていることが多い、という美月の証言を。本人に確認しようとしたところ、疲れを見せないいつものイタズラっぽい笑みで「ただでは喋れないなあ」と言外に見返りを要求され、思う存分脇を撫で回された挙句、「企業秘密♡」の一言で誤魔化されたのだが。
『卑怯だぞ博臣!』
『いやだな、俺はアッキーの脇を触りたいとは言ったが、教えるとは一言も言ってないぞ。そっちが勝手に勘違いしただけだ』
 かくして、名瀬の策略の前に、僕の脇は無力にも蹂躙されてしまったのだった。

 ……閑話休題。
 部室に差し込む橙色の光を、黒色の髪が綺麗に受け止めていた。その手触りはさらさらで、自分と同じ男のものとは思えない。目の前の男が起きないのをいいことに、少し乱暴にわしゃわしゃと髪をかき混ぜると、シャンプーの匂いがした。美月とはまた違う香りに、鼓動が早くなるのを感じる。シャンプーにこだわるとか女子か! ちくしょういい匂いだ!
 近くに椅子を引き寄せて座り、博臣の顔をまじまじと見る。こんなに顔を近づけたのも、初めてかもしれない。寝顔を見るのと同じように。こんな好機を逃してなるものかと、そういう思いがあったのも確かだけど、それとは別の超常的な引力とでも呼べるような何かの力によって、僕は視線を博臣から逸らすことがどうしてもできなかった。
 イケメンだ。知っていてはいたけれど、目鼻、顔立ちの整い方、肌のきめ細かさ、いつもは作り笑いを浮かべている口元の無防備な緩み。どれを取ってもまごうことなきイケメンだ。ゆる、と長い睫毛が震える。僕がその辺に転がってる石ころAなら、こいつは宝石店でショーケースに飾られてるダイヤモンドに違いない。
「こいつでも、寝るんだな……」
 僕は感嘆の吐息を漏らす。この美貌の異界士の寝顔を独り占めできることが、なんだか少し嬉しかった。この男の、普段の仮面めいた笑みではない、もっと緩んだ顔を眺められることも。
 博臣がいつも浮かべている整った笑みはどこか冷たくて、いくら友人として距離を詰めても近寄りがたい一線がそこには存在していた。僕はその境界線のこっちと向こうを行ったりきたりしていて。その向こう側で、博臣は余裕の表情を浮かべて笑っているのだ。
 決してこちらに歩み寄ってこない、薄氷の冷たさ。
 その中には、まるで人間でないもののうつくしさも含んでいるような、気がして。
 ……いやいや、人間離れしてるのは、僕の方じゃないか。そう思い直して、自嘲めいた笑みを浮かべる。

「ぅ、んん……?」
「あれ、口に出てた? 起こした!?」
 焦る僕を尻目に、博臣が暑苦しそうに寝返りをうつ。けれどやっぱり、一向に起きる気配がない。
 おいおい、そんなにのんきにしていていいのか。
 僕みたいな、半妖の前で。
 草色のストールをきゅ、と引く。博臣の皮膚が、少し沈む。そう、誰にも心を開かず、誰の干渉も受けない絶対的なこの男にも、唯一の引っかき傷があった。その傷が、彼が完全な人間でないことを物語る明白なかたちなのだ。僕にとってもこの男にとっても、それは不幸な事故以外の何物でもなかったのだけれど。
 ストールの下に潜む、生々しい傷跡。今でも、瞼の裏にそれをはっきりと思い描くことができる。僕が、博臣につけた傷。その存在は誰にも言っていなくて、暗黙の内に秘匿されている、僕たちだけの秘密だ。正確には泉さんも知っているけれど(そして僕は彼女の大事な弟に怪我を負わせたので、危うく殺されかけたのだけれど)、彼女はあくまで第三者だった。傷をつけたものと、つけられたものの、ひっそりとした関係。
 今の静謐な空気にも似た。
「ひろおみ」
 こんな寝顔だって、多分誰も知らない。
 誰も知らない、僕たちの間だけの秘密が増えていく。
 僕しか知らない博臣が増えていく。
 そのことに、なんだか満たされて。
「……すきだよ、ひろおみ」
 ぽろっと、気付けば言葉が僕の口から転がり落ちていた。
「抱きしめてほしいし、キスしてほしいし、お前に眼鏡をかけさせてほしいし、僕に眼鏡をかけてほしい」
 なんて、
「お前が聞いたら、どう思うんだろうな。博臣」
 きっと困った風に笑って、無茶言うなよ、アッキー、と言うのだろう。あるいは、聞かなかったふりをするのかもしれない。
 何言ってるんだ。お前は眼鏡が好きで、俺は妹が好きだろ、って。
「男同士じゃなくて、異界士と半妖じゃなくて、」
 そう、例えば栗山さんのような美少女なら。僕が栗山さんのような眼鏡の似合う美少女だったなら、もしかしたら博臣と愛だの恋だの、そんな話もできたのかもしれなかった。或いは、美月のように彼の美人な妹だったなら、あふれんばかりの愛を彼から注いでもらえたのかもしれない。或いは、舞耶のように美しく腕の立つ異界士だったなら、愛を注いでもらうことは無理でも、彼の隣に立って一緒に歩むことくらいは、できたのかもしれない。
 けれど。
「僕はそのどれでもなかった。……どれでも、なかったんだ」
 太陽がゆっくりとビルの合間に隠れていって、僕はうと、と首を傾けた。指をそっと遠慮がちに博臣のそれと絡め、目を閉じる。
 なんだか少し、休みたかった。



 夢を見た。
 夢の中で博臣は、やっぱり困ったように笑っていた。僕も、困ったように笑っていた。鏡がなかったから正確なところはわからなかったけど、二人して同じような顔をしていたに違いない。
 僕たちが抱える胸の痛みは、きっと同じものだったから。
 指を絡め、ひっそりと吐息を交わす。
「俺たち、出会うべきじゃなかったのかもしれないな」
 そう言われて、ずきりと心が痛む。夢だとわかっているのに、博臣のその言葉は何よりも博臣の本心めいていた。
 そう。こんな思いをするのなら、僕たち、出会うべきじゃなかった。
「でも、会っちゃっただろ」
「そうだな。……俺は、」
 絡めた指が、そっと離れる。皮膚が外気に触れて、それで初めて博臣の指が温かかったことを知る。
「博臣」
 掠れた声は、その背中には届かない。
 けれど博臣は少しだけ振り返って――そうして笑って手を振った。
「俺は、アッキーに出会えてよかったと思ってるよ」



 いつの間にか、寝てしまっていたようだった。窓ガラスの向こう側はすっかり暗くなっている。
 体を起こすと、ばさり、と何かが床に落ちた。どうやら今の今まで僕の背中にかかっていたらしい。僕は寝ぼけた頭で、ぼんやりとそれを拾い上げた。ぱん、ぱん、と埃を払う。柔らかな布の手触り。見覚えのある色。博臣の色。
 それを見て、一気に意識が覚醒する。僕の手の中にあった草色のそれは、博臣が今日首にしていたストールだった。
 辺りを見回す。誰もいない。ただ、宵の入口の冷えた空気だけが、僕の周囲をゆったりと漂っている。
「……博臣?」
 僕の呟きは、誰の耳に入ることもなくぽた、と暗がりに落ちて溶けた。
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