餌付け厳禁

(2014/02/02)


 寒い。駆け足で吹き抜ける北風に、僕は思わず身震いした。腕にざあっと鳥肌が立つ。うわ、と思わず自分の体を抱き竦めると、はははとクラスメイト達に笑われた。「似鳥、お前相変わらず細っけぇのなー!」「……そういうからかい方するなら、そのお腹つまむよ井上くん」「げぇっ、やめろよ! 正月太りがばれちゃうだろ!」ぺたぺたと友人の腹をまさぐると、うわ冷てえ!と叫ばれたから多分僕の手は相当冷え切っていたのだろうと思う。はあっ、と手に吐きかける息が白い。今日は水の中の方が、いっそ温かいくらいの気温だった。
 今の僕たちの格好は半袖半パンの体操服姿なのだから尚更だ。せめてジャージがあれば、とも思ったが、校庭に集う全校生徒のうちの多くがジャージをその場で脱ぎ散らかして準備運動をしていたから、着ると何か負けたような気がして教室に置いてきてしまっていた。それに走っている間に暑くなって脱ぎ捨てる時間すら惜しくなるのは目に見えている。今日は絶対に負けられないのだ。
 何と言っても今日は冬の一大イベント、鮫柄学園全校合同冬のマラソン大会なのだから!

 ……とは言うものの、授業が無くなるのは嬉しいけれど、走ることが好きかと聞かれれば正直そんなに……と言うのが僕の本音だ。
 曲がりなりにも運動部の所属で、それもこの鮫柄学園の水泳部所属なのだから、当然走ることには慣れているけれど(何しろ一年目なんてひたすら走り込みをやらされる、御子柴部長はああ見えて鬼だ)、泳ぐことの方が性に合っていたから、比較してしまうとやっぱりちょっと億劫なのは否めない。目を閉じるとグラウンドから意識を離してついつい思い描いてしまう、プールサイドの感触。塩素の匂い。全身を包む水の温度。弧を描いて水面を切る、先輩の手。
 凛先輩。
 その姿を思い出して、僅かに気分が高揚する。と同時に昨日のことが思い出されて、僕の心臓が僅かなんてレベルじゃなくばくばくと耳元で煩く鳴り出した。昨日、昨日のあれは本当に夢じゃなかったんだろうか?



「先輩、明日、がんばりましょうね!」
「ん? ああー」
 寮に戻ると凛先輩が机に向かっていた。先輩と一緒に走れるなら、マラソン大会だって頑張れるというものだ。そう思って話しかけるも、返ってきたのはこれ以上無く気の無い返事だった。勝負事は好きそうだと思っていたから意外だった。基本的に泳ぐ方が好きな先輩のことだから、マラソンはいいから泳がせろよ、と思っていたのかもしれない。その気持ちはわからないでもなかったので、自然僕のやる気もしゅーんと萎んでいく。
 何かご褒美があれば、気合いも入りそうなんだけどなあ。
 僕は荷物を置いて、何気なく口を開いた。
「あの、凛先輩」
「ん」
 ええと、と言い出せずにいると、言葉が途切れたことを不思議に思ったのか、椅子ごと振り返った先輩がん?と小首を傾げてこちらを覗き込んできた。それで、すごく優しい声で聞くんだ。いつもの様に。
「どした、似鳥」
 そのときの僕が何を考えていたのか、今でもさっぱり思い出せない。先輩のきれいな顔が間近にあったから、もしかしたら錯乱していたのかもしれない。いや、きっとそうだ。

「明日のマラソン大会、僕が勝ったら先輩にちゅーさせて下さい」

「…………。Kiss?」
「あっ、いや、違うんです自分を鼓舞するための理由付けっていうかご褒美っていうか、あっ僕何言ってるんだろ、決して疚しい気持ちは無くてですね……」
「いいぜ」
「やっぱり変ですよねすみませんすみません僕なんてこと……を……。え?」
 あれ? 聞き間違ったかな。
「だから、いーぜって言ったの。お前がオレに勝ったら、頬でも口でも、お前の好きなトコにキスしろよ」
 頬でも口でも!好きなところに!
「いいんですか!?」
「二度は言わねえ」
 そのときの僕の気分と言ったら、喩えるならば古代の神様が岩戸の中から出てきたかのような、或いは春の雪解けの中に小さな命の芽吹きを見つけたかのような心持ちだった。カァァと頬が一瞬にして熱くなるのを感じる。だって、だって口にちゅーって!「先輩……力抜いて下さい、目を閉じて……」「おい、愛……は、初めてなんだから……優しくしろよ……」みたいな!そういう!展開が!!!
「きゃー!」
 恥ずかしすぎて思わずベッドに飛び込んで枕に顔を埋める。そのままごろごろごろごろと転がって、「うるせぇ、喜びすぎだ馬鹿! 自分のベッド上がれ!」と凛先輩に頭をはたかれるまで止まれなかった。
「ただし、オレが勝った場合は……」
「え、なんです?」
「……いや、なんでもねえ」
 あまりにも浮かれすぎていて、僕はにやりと笑った凛先輩のその後の言葉を聞き損ねてしまった。



 はた、と僕は視線を一点に固定した。
 トラックを挟んだ向こう側に、凛先輩がいる。
「おい、似鳥、ちゃんと柔軟……かった! 力入れんなよ! ちゃんと顔伏せろ!」
 ぐっ、ぐっ、と背中を押されて上下に揺れる視界の中、僕は凛先輩の姿から目を離すことができなかった。
 凛先輩は無造作にその場に立って、同じ学年の人達と談笑していた。声は聞こえなかったが、時折心底楽しそうな笑いが漏れているので、やっぱり先輩、マラソン大会も満更じゃなかったのかもしれない。
 その隣にいる他の人達と比べても、凛先輩のスタイルは抜群に良かった。背が高くて、手足が長くて、でもまるで重さを感じさせない立ち居振る舞い。凛先輩がジャージを脱いでいる姿なんて部活ではそうそう見られるものではなかったので、自然と視線が惹きつけられる。半ズボンから除く足がすらっとしているけど、けして細すぎず、しっかりと筋肉が付いていて美しいのだ。ちょっと俯き加減に笑うと、さら、と髪が流れて、あ、首筋が白い。水着姿でいつも見てはいるものの、水を纏った凛先輩とはまた違った雰囲気がある。そう言えば、体育の時間で凛先輩を見るのはこれが初めてなのだった。ごくり、と唾を飲み込む音が殊更大きく聞こえた。先輩の妹さんがああいう部位を見て喜ぶ気持ちが、ちょっとわかる気がしなくもない。
「似鳥、柔軟終わったぞ。おーい。似鳥ー? 次、俺の柔軟やってよ、ねえ」
「だめだ、聞こえてねえ。ほらあっち、例の先輩がいるもん」

 先輩。そう声に出さずに呼んでみた。先輩、今日は負けませんから。
 聞こえるはずがなかった。先輩も僕もテレパシストじゃないし、何かの糸で繋がったりもしてないんだから。僕はちょっと寂しくなって、立ち上がったその足で地面にまるっと字を描いた。りんせんぱい。
 そのとき、先輩が急にくるっと振り返った。心なしか、こちらを見ている気がする。いや、でも、多分気の所為だ。こっち側に友人でもいるんだろう。そう思って周りを見回してみたが、それらしい人は見当たらなかった。そうこうしているうちに、凛先輩はどんどんこっちに向かってくる。僕は慌てて地面に書いた字をスニーカーの底でかき消した。
 先輩は、やっぱりというかなんというか、僕の目の前で足を止めた。先輩、何でしょう、とその用件を聞く暇もなくぴしっとでこぴんが飛んでくる。
「似鳥、生意気」
「なんでですか。今日だけは負けませんよ」
 じわりと熱を持つ額を抑えてそう言ってから、不安になる。もしかして昨日のことは夢だったんじゃないだろうか、とか。ただの冗談だったとか。もしかしたら忘れられてる、なんて可能性も。
「先輩」
「ん?」
 そう口にした僕の声は、我ながらひどく細くて寄る辺のないものだった。けれどどう聞けばいいのだろう。昨日のこと覚えていますか、とか。でも否定されたらどうすればいいのかわからない、から、怖くて聞けない。不安に俯いていると、ぽん、と凛先輩の大きな手が僕の頭に乗っかった。そのままがしがしと撫でられる。
「わかってる。勝てたら、だろ」
 にやりとそれだけ言い残して、凛先輩は二年生の集合場所へと戻っていった。咄嗟のことすぎて、僕はぽかんと口を開けてそれを見送るしかできなかった。それだけでも言いに来てくれたんだ、とか、僕との約束を覚えていてくれたんだ、とか、それだけでもう天にも舞い上がれそうな気持ちだった。凛先輩、翼を授ける。見上げると、雲ひとつない寒空は底無しに高くて青かった。ああ、今日も世界はこんなにも美しくて鮮やかで凛先輩は格好いい。
「先輩、僕、負けませんから……!」

「ねえあれもう完全に二人の世界なんだけど、俺どうしたらいいの」
「泣くなよ井上……俺が一緒に柔軟してやるから……」



 別に、口だけの勝負を持ちかけたつもりはなかった。勝算はあった。凛先輩は瞬発力はあるけれど、長距離はあまり得意ではなくて、それは陸上競技でも同じはずだった。普段のトレーニングの様子を見ていると、走り込みのときは後半四分の三を超えたあたりで失速することが多い。それまで先輩に食らいつくことができていれば、僕が凛先輩に勝てる可能性は十分にあった。
 それに僕には、凛先輩からもらったあの言葉がある。「お前は持久力があるから」。その言葉はいつだって取り出して眺められるよう今でも大事にしまっていたし、それがそこにあるという事実だけで僕は今でも水泳を続けていられるのだ。多分、これからも。

 ゆっくりと景色が移り変わって、学校の通学路から河川敷に出る。今回は10kmのコースだが、開始2kmの地点でもう既に順位が形成されようとしていた。本気で勝負に勝ちに来ている運動部組と、適当に流す中堅組、取り敢えず完走できればいい文化部組。明暗きっちりわかれたその中でも、固まっていた先頭の集団がずるずると縦長に伸び始めようとしている。凛先輩はその先頭で、さっきマラソンが始まる前に喋っていた人たちのうちの一人と一緒に走っていた。多分、陸上部の人だ。一緒に走っていると言ってもその間で言葉が交わされているわけではなく、ただ黙々と前を向いて走りながら闘志をぶつけあっている。先頭集団を引っ張るその二人が予想外にハイペースで、僕はその背中についていくのに必死だった。それは他の水泳部や陸上部、その他大半の運動部員たちも同じようで、諦めの色の見える人から順にじわじわと引き離されていく。その中で、唯一御子柴部長の姿だけが見えない。あの人が勝負事に手を抜くとは思えないし、まして先頭集団から外れているとも考えづらい。もしかして、あれだろうか?僕の目は遥か前方に見えるジャージ姿を捉えた。遠すぎて肉眼では確認できなかったが、でたらめなペースで走っていたとしたら、多分、あれだ。深く考えたら頭が痛くなりそうで、僕は凛先輩以外の存在をシャットアウトして、走ることに専念することにした。
 
 沿道を走る。
 すっ、すっ、はっ、はっ。弾むようにテンポよく呼吸を続け、足を前へ前へと走らせる。今何kmだろう。多分半分は超えた気がする。そう考える意識が、じわじわと白くなっていく。勝ったら先輩とちゅー、勝ったら先輩とちゅー。そんな煩悩が熱と一緒に溶けていくようだった。落ち着け、ペースを乱すな、息を整えろ。すっ、すっ、はっ、はっ。汗が目に入って痛くて、でもそれを拭う余裕は今の僕にはなかった。
 凛先輩と運動部の何人かが僕の目の前を走っている。背後は確認できないが、何人かの荒い息遣いが聞こえる。それでも集団を抜けて先行している人やじわじわと引き離されて順位の落ちている人もいて、スタート直後よりは大分人が少なくなってきていた。僕だって、普段ならとっくに引き離されて二番目、三番目の集団で楽に走っていたに違いなかった。今だってちょっと速度を落とせば、いつものペースで走れるのだ。その誘惑は、走り始めた最初からずっと僕について回っていた。
 でもそれじゃ意味がない。凛先輩についていけなきゃ、意味がない。
 凛先輩。
 引き離されそうになる距離を、意識的に足の回転数を上げて強引に詰める。自分の足から悲鳴が聞こえる。それはそうだ、こんなに長距離を、こんなにハイペースで走ることなんてそうそうない。それでも歯を食い縛って必死にその背中に追い縋る。ちら、と何故かそこで一瞬振り返った凛先輩と目が合った。
「あと2kmですよー!」
 するりと脇から聞こえてきた声に、一瞬だけ凛先輩から意識を放す。多分先生の声だ。顔を上げると、ゴールである学校の校舎が見える。戻ってきたんだ。
 そのとき、目の端で急に凛先輩の速度が上がった。僕は慌ててその背中に意識を引き戻す。そう言えば、凛先輩は持久力がないから後半は失速する、はずだった。だからそれまでついていければいいと。それがどうだろう、今はむしろ加速している。まずい。足がついていかない。
 ぐんぐんと離されていくのに、僕はペースの維持が精一杯だ。もう凛先輩は振り返らない。
 校庭に用意されたゴールが見えた。途端、周りのペースがぐっと上がる。僕もこれ以上抜かされないよう必死にペースを上げ、力を使いきるつもりで振り絞ってがむしゃらに駆ける。あと5m、あと3m、あと1m!
「ゴール! 35分49秒!」
 ゴールラインを踏んだ僕の目の前に、凛先輩の姿はなかった。



「はっ、はっ、はぁっ、はぁっ……」
 足を止めずにその場をぐるぐる回りながら、息を整える。心臓がばくばくと煩い。今止まったら多分、呼吸困難で死んでしまう。そんな鮫の気持ちが少しだけわかったような気がして、僕は酸素を求めて動かない足を動かした。ぐるぐるぐるぐる。体が燃えるように熱い。けどきっとすぐに冷えてしまうんだろう。額の汗を袖で乱暴に拭った僕は、校庭に脱ぎ散らかされたジャージの群れを見て、しまった、とそこで初めて自分の失敗に気付いた。しまった。ジャージは必要ないと思って教室に置いてきてしまっていたのだった。
 とぼとぼと、校庭の隅に置いていたタオルだけを取って汗を拭う。息が段々と落ち着いてくる。足を止め、すうはあと大きく深呼吸をして、ぎゅっと目を閉じる。ふわふわと浮いていた意識が地につき、現実感が戻ってくる。
 そのとき、ふわっと体に何かが覆いかぶさる感触がした。目を開けると、肩にジャージがかけられていた。僕のものではなく、二年生の色のジャージだ。振り返ると目の前には、ずっと追いかけて追い求めていた人がそこにいた。
「りん、せん、ぱい」
「よお似鳥、よくついて来れてたじゃねーか。えらいな」
 その手には二本のペットボトルが握られていた。そのうちの一本が奢りだ、と言って差し出される。断る理由もなく、僕は素直にそのドリンクを受け取った。からからに乾いた体に、水分が染み渡る。生き返る心地だった。口の中にスポーツドリンクの甘い味が広がる。凛先輩の味だ。
 改めて向き合うと、先輩はこの上なく上機嫌な笑顔を浮かべていた。髪をかきあげるその仕草が、汗の所為かひたすら輝いて見える。
「一年の中じゃ三番目だって聞いたぜ。ま、オレは全体で三位だったけどな」
 凛先輩はそう何でもない風に言ってのけた。この人を越えられなかった悔しさと、優しくされたこそばゆさで、ぐしゃぐしゃになるかと思われた僕の心は予想に反して不思議とひどく凪いでいた。よくやった。その達成感が今は全身に満ちている。今回は凛先輩に最後までついていけなかったけど、僕はよくやった。走りきったんだから。それに。
「えらいな、似鳥」
 その凛先輩の一言で、僕の疲労は全部吹き飛んでしまった。それだけで幸せだった。凛先輩は知らないだろうけど、凛先輩の何気ない言葉のひとつひとつが、僕に活力を与えてくれる。そしてまたひとつ、引き出しに大事にしまっておかないといけない言葉が増えてしまった。僕はその言葉を、思い出の膜にそっとくるんだ。



「ところで似鳥……約束、覚えてるよな?」
 凛先輩が突拍子もなくそんなことを聞くものだから、余韻に浸っていた僕は急な展開に目を白黒させた。
「え? 僕、負けましたけど……」
「そう、オレが勝った。お前が勝った場合はお前がオレを好きにしていいって言ったんだから、オレが勝った場合はオレがお前のこと好きにしてもいいよな?」
「え、え、あの、凛先輩、先輩は僕がちゅーしてもいいとは言ってましたけど好きにしていいとかそこまでは」
 会話の出口が見えないまま、ぐるぐると思考だけが先行する。え、凛先輩が僕のこと好きにするって、え?よく意味がわからずにいると、凛先輩はにやりと悪どく笑って僕の肩に手を掛けた。
「キスだけじゃ済ませてやれねえぜ。部屋に戻ったら楽しみにしてろ、愛」

「じゃ、またあとでなー!」そう楽しそうに凛先輩は手を振って、教室に戻っていってしまった。落ち着いていたはずの心臓がさっきより煩く動いて、耳に流し込まれた先輩の囁きが離れない。僕は頭が真っ白なまま、先輩のジャージをぎゅっと握りしめた。先輩の匂い。先輩は最初からそのつもりだったんだろうか。妙に楽しそうなのもその所為で、急にやる気になったのもその所為?あんな、あんな言い方されたら自惚れてしまう。先輩はずるい。
「凛先輩……」
 全身に回った体の火照りは、当分消えそうになかった。
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