ティーンジャーニー

(2015/10/03)


「お前は俺をどうしたいんだよ」
 その言葉が草薙を怯ませた。
 特段力がこめられた言葉ではなかった。何の気なしに放たれた問いかけは、しかし草薙の足を留めるには十分な威力を有していた。
 周防尊の、困惑。
 普段と変わらない気怠げな表情の中に僅かに滲むそれに息を呑む。
 どうしたいか、などと。堰を切ったように汚れた欲望が溢れ出しそうな錯覚を覚え――草薙は場を濁すことを選んだ。
「どないしたいか、言うたらさせてくれる?」
「さあな」
「……別にどうもしたないよ。俺はお前の側におりたいだけや」
「そうかよ」
 周防は至極どうでもよさそうにふいと目を逸らした。それ以上は、何もなかった。
 桜も散り際の、ある春のことだった。

 ――なんてこともあったなあ、と草薙は側ではしゃぐ周防と十束に目をやって過去に思いを馳せていた。
「キング、見て見て! コーラにメントス入れたらこんなにすごあっえっわああああ!?」
「……アホかお前は」
 正確に言うと炭酸飲料を全身に浴びてはしゃいでいるのは十束だけで、周防はすいとその液体を避けてただひたすら呆れた様子で肩を竦めている。
 と、夏の焼けるような暑さのグラウンドの上で、一瞬陽炎のように周防と十束の姿が霞んだ。草薙は思わず目を擦る。二、三度の瞬きで視界の中の二人は形を取り戻し、覚えるのは少しの安堵。夢まぼろしなんかでは勿論なく、滲む汗は現実のものだ。現実に、夏休みに補修をサボって運動場でたむろっている男子高校生の集団。うち一人、男子中学生。
 何故かすっかり高校生活に溶け込んだ年下の男の姿を横目に、草薙はいつかの周防との問答を思い出していた。
「どうしたい……ね」
 同時にちら、と周防と目が合った。眠たげな目の中に苛烈な光を認め、思わずちりと焼けるような熱を持ったうなじに手を当てる。聞こえただろうか。
 なんもあらへんよ、と曖昧な笑みを浮かべて手を振り、学生服の胸ポケットに手を伸ばし――煙草は生活指導の教師に没収されていたことを思い出す。行き場のなくなった手を彷徨わせてポケットにしまう。ふらふらと、夕暮れ時の影のように曖昧で不確かな気分を自覚する。
 特に、草薙から働きかけて何かをしたいという気持ちはなかった。
 と言うよりも、そういった願望はほぼ全て叶っていたという方が正しい。
 側にいて。友人として、周防といられる時点で。
「……でも、なかなか尽きんもんやね」
 『キング』という呼び名が、草薙を不安にさせた。

     ◇ ◇ ◇

「役割が違うんだよ。そう思わない?」
 カウンターに頬杖をついてぼんやりと視線を彷徨わせていたかと思うと、十束は唐突に口を開いた。
 独り言と流すにはどう考えても疑問符がついていて、草薙はちらりと拭いていたグラス越しに十束に目をやった。影が歪む。バー内には、十束と草薙以外の人間はいない。
「……なんや、藪から棒に」
「俺と草薙さんじゃ、キングに対する役割が違う」
「そら」
 ふっ、と一吹き。グラスを食器棚へ。慣れた仕草。
「そうやろ」
「納得できないって顔だ」
 けれどその流れるような動作に一瞬の綻びを見付け、十束はふらふらと放し飼いにしていた視線をふいと草薙へと向けた。草薙もそれを今度は正面から受け止める。まっすぐな視線が草薙を刺す。周防の向けるような熱を持ったものではないが、しかしそれゆえにただひたすらに眩しく先を照らす光であることを知っている。
 納得、できない。
「そう見えるか」
 肩を竦める。自分でもごまかしきれているとは思っていなかった。まして聡い十束の前だ。周防は多分、気付いていないが。
「意外だな。あんたほどの賢い人が、こんなところで躓いてるなんて」
「理解と納得は別もんやろ」
「なるほど」
 十束はしたり顔で頷く。腹は立たない。十束はそういうやつだった。天真爛漫な笑みを浮かべて誰の心をも晴らしてしまう。物言いの是非でなく、もっと奥底のところで。
 だからこそ、周防尊も草薙自身も、その存在を受け入れている。
 けれど草薙の晴らされるべき心中は未だに暗雲が垂れこめ、どころか嵐の前を迎えた海のように表層がひどくざわついていた。理由がつけられないでいるのだ。だから納得できていない。
 周防と十束が一緒にいるのを見ていると不安になる自分の感情に。
「嫉妬する醜い男に見えるか」
 そう口にしたことで、自分の中で曖昧にゆらゆらと燻っていた感情が形を得たように熱を持ち始めたように感じた。嫉妬、嫉妬か。自分は十束に嫉妬しているのかもしれなかった。
 けれど十束のことは嫌いではなかったから、草薙には余計にわからない。
 瞠目し、何事かを言いかけた十束を制してカウンターを出る。
「……すまんけど、この件に関してはちょっと頭冷やさせてくれ」
 自分の中でも整理がついていない状態では何を口走ってしまうかわかったものではない。特に今は十束にだけはそんな脆い部分を見せたくなかった。十束の眩しさで晴らされたくない、泥のような感情が腹の底に眠っているのがわかるのだ。どこ行くの、と驚いたように言う十束に、買い出しや、店見とけと答えて扉を潜る。
 煙草と一緒に、色々なものを吐き出してしまいたくてたまらなかった。

「――嫉妬。嫉妬、ねえ」
 草薙の去ったHOMRAで、十束はひとりぽつりと呟く。
「醜いっていうより、むしろアレは綺麗すぎて、ちょっと」
 最初はひどく大人びた男だと思った。周防の隣にいても損なわれることのない、したたかな男だと。だから誰も目を向けないのだ、彼の脆さに。それは例えるなら透明で、透き通っていて、力を入れればすぐに割れてしまうガラスのような。ガラス、そうだ、今度はガラス細工なんてどうだろうか。十束は草薙のことから離れ、新たに思いついた趣味候補にぽんと一つ手を打つ。

     ◇ ◇ ◇

「最近草薙の様子がおかしい。なんか知らねえか」
 唐突に投げつけられた言葉に、十束はうつらうつらと夢の世界に漕ぎ出そうとしていた意識を呼び戻した。
 目を開けるとどうやら夕刻に差し掛かっているらしく、バーには橙を帯びた光が差し込んでいた。ソファに腰掛ける周防の足元に、濃い影が落ちている。向かいのソファに寝そべっていた十束は周防の背負う光を真正面から見る形になってしまい、その眩しさに一瞬目を眇める。
 気付いていたのか。顔にこそ出さなかったが、十束は軽く驚いていた。周防尊という人間は、てっきり周囲の人間の様子には徹底して無関心なのかと思っていたが案外そうでもないらしい。それともそれは草薙に向けてだけなのか。十束はゆっくりと顔を上げて、微笑みながら首を傾げた。
「そうかな。俺にはそうは見えないけど……キングとしては、草薙さんのどこがどんな風におかしいの」
「なんか下らねえことを考えていやがる」
 うん、当たっている。恐らく本人にとっては下らなくはないのだろうが、傍から見ている十束にとっては1+1も同然の明白な問題だったから、草薙に悪いと思いつつも当たりだ、と思った。感の良さ故か、それ以外に理由があるのか。
「つーか、お前も気付いてんだろうが」
「てへ、ばれた?」
 ぺろ、とお茶目に舌を出してみせると、周防はぎろりとその眼光を光らせた。おお、怖い怖い。
「うーん。俺から言っていいの?」
「……ああ?」
「じゃあヒント、ヒントだけね」
 あんまり言うと俺が草薙さんに怒られちゃう、と前置き、十束はひとつ、ぴっと指を立てた。
「草薙さんは、キングのことどう思ってると思う?」
「知るかよ」
 一刀両断だった。あまりにも周防らしい返答に、流石に十束も苦笑する。確かに、他の人間の考えることなど読めはしないのだが、それを汲み取る努力はもうすこしされてしかるべきではないだろうか。
 しないからこそ、彼はキングなのかもしれないが。
「じゃあキングは草薙さんのことどう思ってるの」
「……」
 返す刀で聞くと、今度は周防が押し黙る番だった。けれどその沈黙は拒絶でもなければ躊躇でもない。ただ自分の感情に合致する言葉を探す為だけの数秒。
 そして王が無造作に口を開く。
「俺は――」
「ああ、待って待って。それを俺に言ってどうするの、キング」
 慌ててその口を塞ぎにかかる。むが、と不明瞭な声と共に王からは微かに慣れた匂いがした。
 あの人と同じ煙草のにおい。
「それをね、草薙さんに伝えればいいんじゃないかな」
「あ? ……いや、」
 十束が口にした提案に、しかし周防が見せたのは微かな渋面だった。面倒臭がっている雰囲気を察する。ああ、もう、君たちなんでそんなに面倒臭いの。
「別にさ、伝えなくてもいいけど。言葉にしないと伝わらないものだよ」 
「……あいつは。あいつなら」
 周防が目を閉じ、その瞼の裏に誰かを思い描くようにゆっくりとソファに身を沈める。
「わざわざ言わなくても、わかんだろ」
 ……あちゃあ。
 そう額に手を当てた十束は否定も肯定もしなかった。その問いの答えの先は周防に任せなければならなかった。
 確かに草薙はわかっている。わざわざ言葉にしなくとも知っている。しかし頭で理解はしていても、感情が追い付かないのだ。今の草薙は根拠となる道標を見失って、一人ふらふらとさまよっている。

     ◇ ◇ ◇

 バーHOMRAは静かだった。十束の不在の為だ。「ちょっとガラス種吹いてくる!」などとわけのわからない言葉を残し、昨日からどこかへ姿を消してしまっていた。
 二人きりの店内で、草薙はソファの上で起きているのか寝ているのか定かでない状態の周防に向かって指折り数えて滾々と説いていく。
「夏休みの宿題やりや。あと俺は帰るけど、ご飯は冷蔵庫にあるし、ちゃんと食べて、それから――」
「草薙」
 びく、と身が竦んだ。反射だった。周防を見る。いつの間にか覚醒していた周防とばちりと視線がかち合って、やはりうなじが焼けるように熱を持つ。
「お前は俺に、どうしてほしいんだよ」
 草薙には、それがあの問答の続きであることはすぐにわかった。瞑目する。
 ――どないしたいか、言うたらさせてくれる?
 その、先の。
「ここにおってほしい」
 気付けばぽろりと、ビー玉のようにその言葉が転がり落ちていた。差し込んだ夕陽がそのビー玉に差し込み、ゆらゆらと淡い影を作っていく。いくつも、いくつも。
「どこにも行かんとってほしい。俺の側におって、俺の名前をずっと呼んでて。遠くに行かんとって」
 キング、という呼び名が、草薙を不安にさせた。
 周防尊を周防尊としてではなく――赤の王として捉える十束の言葉だ。それは自分達の関係性を揺るがしかねない呪文のようなものだった。
 夕暮れ時の影のように、曖昧で不確かな不安が芽生える。
 だから。
「どこにも、行かんとって」
「……」
「……って言うたら、どないすんの」
 掠れた声で笑った。ふふ、と目元を和らげる。
「冗談やよ、尊」
 そう、全部冗談だった。足元に転がり落ちたいくつもの言葉の欠片をぱりぱりと片端から踏んで砕く。ふと出てしまったでまかせばかりだ。その中に真実などほんの一欠片もない。だから何も詮索をしないでほしかった。荷物をまとめ、バーを出ようと周防に背を向ける。
「……もう帰るな、尊。暑いからいうて、クーラーつけっぱなしで寝たあかんよ」
「草薙」
 鋭い声が、草薙の足を縫い止めた。お前の声はいつもそうやね、と嘆息する。草薙には抗うすべがない。
「俺は俺で、お前はお前だ。俺はお前のもんじゃねえ」
「うん」
「そういうんじゃねえだろ。俺たちは」
 ただの事実確認のはずなのに、草薙は息の詰まりそうな思いだった。自分たちの間にある関係は、お互いを縛るものではない。背中に受ける声が鋭い針のように、どうしようもない事実を突きつけてくる。
 声が掠れて、音をなさない。
「うん。わかっとるよ」
 そう絞り出した声さえ、空気を震わすことができたのか、認識ができなかった。
 はあ、と吐き出された周防の大きな溜め息を聞いて、草薙の心臓はいよいよもって痛みを訴えてきた。言うのではなかった、こんな自分の我侭なんて。言わなければずっと変わらずにいられたのかもしれないのに、少なくともこんな風に呆れられたりはしなかったはずなのに。
 怯えたウサギのように足をすくませた草薙は、背後からの死刑宣告をただただ待つばかりだった。

「お前も俺のもんじゃねえし」
「……うん」
「だからお前も勝手にすりゃあいいだろ」
「うん。……う、ん?」
 話の流れが見えなくなってくる。周防は誰のものでもない、から、草薙の指図を受けない、と。予想していたのはそういう流れだ。
 けれど周防は草薙の戸惑いを気にも留めずに言う。
「俺がお前の勝手を聞いてやれねえように、お前も俺の勝手を聞く必要はねえんだ」
 約束はできない、と。草薙の我侭を聞き入れることの、確約はできないと言う。
 けれど。
「側にいてんえなら、死ぬ気でついてこいよ」
「……うん」
 振り返る。周防の琥珀色の瞳と目が合った。赤の王の湛える苛烈な光、その中に優しい影を見る。
 どうしようもなく草薙の我侭なのだ。周防には到底叶えられない望み。それでも、草薙がそれを望むことは許される。
「うん……」
 ひとつの終着点が、見つかった気がした。
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