記憶の水底
(2013/06/24)
暗いベッドの中で、エルエルフは想像する。
今エルエルフが横たわっている位置は、二段ベッドの下段にあたる。当然、目の前にあるのは上段の床板だ。材質は木材、厚さは約27mm。エルエルフの手元にある銃は軍から支給されたものであり、小型とはいえ軍の装備に正式に採用されるに足る十分な威力がある。目の前の質素な板など、容易に撃ち抜けることだろう。
そして、狙いを外すことはまずない。ベッドの面積が狭い上に、標的は睡眠時ほとんど動くことがなく、急所の位置の特定は非常に容易だった。かちゃり、とエルエルフは銃を真上に構えた。この銃口の、すぐその先が、標的の心臓だ。
下段で着々と自分の暗殺が進められているにも関わらず、標的が起きる気配はない。曲がりなりにも軍人なのだから、殺気を感じて目を覚ますなりすればいいものを、まるで馬鹿みたいにエルエルフに全幅の信頼を寄せて寝ている、その姿が容易に想像できて、エルエルフは――。
ぱん、と短い音が響いて、目の前の板に穴が開いた。
エルエルフがしばらくぼんやりと撃った先を見つめていると、やがて穴の周りにじわじわと染みができはじめた。夜の闇の中でその色ははっきりと視認できないが、板は黒ずんでいるように見える。同時に、不快な匂いが鼻先を掠めた。戦場を思い起こさせる、慣れ親しんだ匂い。
上段の床板に染み出したそれは段々と大きくなり、やがて板が水分を含みきれなくなったのか、粘性の雫を形成していく。適度な大きさを持ったそれは、重力に逆らうことなくエルエルフに向かって加速を始め。
血が、ぴちゃ、とエルエルフの頬を濡らした。
ふと目が覚めた。
エルエルフの目が、ベッドの上段の裏側を捉える。二段ベッドの下段にいることに変わりはなかったが、そもそもベッドの材質が異なっていた。質素な木材ではなく、しっかりとした金属製。とても小型の銃で貫けるものではない。
無意識に頬に手をやっていたことに気づき、ゆっくりとその手の平を視認する。何も付着していない。再度己の頬に触れるが、そこにも何も付着している感触はなかった。
上体を起こしてゆっくりと瞬きし、一つ深い呼吸を置いて、周囲を見渡し――エルエルフは、己のいる場所がドルシア領カルルスタイン機関の施設ではなく、ジオール領モジュール77内、咲森学園の寮の一室であることを思い出した。
「……」
ニ、三度拳を握りこみ、身体が自分のコントロール下にあることを確認する。
確かに身体は問題なく動いたが、体温調節機能が上手く働いていないようだった。昼に確認した気象データや肌の感触から判断して、恐らく現在の気温は摂氏17度前後、湿度が50%前後。人間の身体にとっては適切なコンディションであるはずだ。にも関わらず、自身の身体からはじわりと汗が滲み出ていた。脈拍も、通常時より僅かに速くなっている。
「……風呂に入るか」
エルエルフは、不快感を抱えて眠るよりも、多少睡眠時間を削ってでも質の良い睡眠を取ることを選択した。汗を流せば、不快感は減るはずだ。そう判断した。
冷たい水がエルエルフの身体を伝い、浴室の床を打つ。
思い返せば、実におかしな夢だった。
背景や室内の調度品、それに自身が帯びていた装備から、恐らくカルルスタイン機関での訓練兵時代だったと考えられるが、まず血がベッドの下段にまで染み出すことがありえなかった。いくらあの質素な二段ベッドの床板が薄いからといって、心臓部に一発銃弾を撃ち込んだだけであそこまでの出血量は見込めない。また、確かあの場所にはマットレスもあったはずだ。分厚いマットレスが血を吸いきれないということはまずないだろう。
それに、自分があんな場所で暗殺を実行したことも不可解だ。あの部屋において、同室の人間は自分とあの男の二人だけだった。あの状況下であの男が死亡すれば、自らに容疑がかかることは避けられない。逃亡の手間を考えれば、限りなく愚行であると言えた。おまけにあの銃には消音装置もついていなかった。あれでは、暗殺が発覚するのも時間の問題だろう。
そして、これが一番重要なことだが――それらのリスクを冒してまで、あの男を殺すメリットがなかった。あの男は確かに王族の血を引く者だが、現時点ではあの男の生死が何かの命運を分けるということはない。つまりは、まったくの無駄なのだ。
そこまで考えて、ようやくあの夢は夢であったのだという実感を得ることができたような気がして、エルエルフは操作盤に手を伸ばして水を止めた。この程度のことで冷却が必要など、まるでヴァルヴレイヴのようだ。いっそのこと熱暴走させて、666までカウントしたらハラキリでもしてみるか。そんな自嘲が脳裏にふわりと舞い込んで、……何を馬鹿なことを言っているんだ、と首を振る。
しかしシャワーを浴びても、あの男の息の根を最後に止めるのは自分であるような、そんなねっとりとした予感がまとわりついているような感覚が抜けず、エルエルフは乱暴に自分の身体を拭った。
エルエルフ、エルエルフ。脳裏にそんな声まで蘇ってくる。自分が裏切ったことはとうに自明の理だろうに、恐らくあの男は未だに自分のことを信じきっていて、連れ戻す機会を窺っているのだろう。エルエルフ、エルエルフ。人を疑うことなど、微塵も考えないあの目。エルエルフ、エルエルフ。砂糖なんかよりずっと甘いあの思考が、エルエルフには未だに理解ができない。
エルエルフが軽くシャツをまとって寝室に戻ると、部屋の明かりがついていた。同居人が起きている。
「どうしたんだよ、エルエルフ。こんな夜中に」
「お前こそ、何故起きている。明日の訓練も早いはずだが」
「そりゃあ、下で銃をかちゃかちゃやられちゃあ」同居人が肩をすくめて苦笑する。「誰だって起きるよ。いつ撃たれるのかって、冷や冷やした」
「そうか? その割には、昨日も一昨日も起きなかったが」
「え、あれ!? 今日だけじゃなかったの!?」
同居人――時縞ハルトが素っ頓狂な声をあげる。死なないのだからいくら撃たれようと構わないのではないかとも思うが、どうやらそう頻繁に殺されるのは嫌らしい。曰く、「制服のスペアがなくなっちゃったらどうするんだよ!」。知ったことか。
その時縞ハルトが、両手に持ったマグカップのうち、片方をこちらに差し出してきた。
「はい」
「……? 何だ、これは」
「何って、ホットミルクだよ。温かい牛乳」
「知っている。俺が聞きたいのは、何故お前が俺にそれを差し出しているのかということだ」
「え? だって、眠れないときはこれが一番なんだよ」
「眠れない? 俺が?」
エルエルフは必要ない、と拒否して寝床に戻ろうとするが、時縞ハルトが自分の寝床に腰掛けていることに気づく。これでは戻れない。しかしマグカップを受け取るまで動かないだろう時縞ハルトの強情さを察して、エルエルフは渋々マグカップを受け取った。
「違った? シーツが汗でぐっしょりなんだけど」
「……少し嫌な夢を見ただけだ」
面倒くさい問答になる前に、適当にあしらって眠ろう。そう判断したはいいが、依然時縞ハルトがベッドの下段から動く気配はなかった。エルエルフは内心、舌打ちをする。
「へえ。君にも『嫌』って感情はあるんだ」
「例えばお前が俺の睡眠を邪魔をしている今がそうだ。そこを退け、時縞ハルト」
「どんな夢だったの?」
時縞ハルトの目が好奇心に輝いているのを見、エルエルフは苛立ちを隠さずに口を開いた。
「昔、同室だった男の夢だ」
「ドルシアの?」
「ああ。そいつを、……この手で、殺す夢だった」
時縞ハルトとの間の空気が、少し揺れた。殺す、という単語に反応したのかもしれない。そうか。なるべく残酷な風に話せば、こいつはきっと嫌がるだろう。そうして話を切り上げよう。
そう算段をつけ、エルエルフは時縞ハルトの隣にゆっくりと腰掛けた。
「殺した、のか?」
「ああ」
ゆるく、持っていたマグカップを揺らす。
「夢の中では、殺した。銃で心臓部を撃ってな。出血量から見て、まず間違いなく死んでいただろうが、念の為に心臓をえぐるくらいはしておけばよかったかと後悔している。……残念ながら、現実では殺せていない。先の戦闘で死んでいなければ、今も俺を連れ戻そうと元気に宇宙を飛び回っているだろうな」
「ふうん」
さて、どう話を切り上げようかと計算していたところで、ふと視線を感じ、隣に座る時縞ハルトに目をやった。部屋の明かりの中に浮かぶ青緑色に、ぱちりと視線がかち合う。
「なんだ」
「……いや」
時縞ハルトは誤魔化すようにマグカップを煽る仕草を見せたが、「空だろう」と指摘すると彼は困ったように笑った。何も言わずにマグカップをデスクに置き、梯子に手をかける。
「……君が浮かべる表情にしては、その、珍しいタイプだと思って。今の顔」
「……?」
「なんていうか……すごい顔してるよ。鏡見てみたら?」
視線も合わせず唐突にそう言い捨てて、「おやすみー」と自分の寝床へと引っ込んだ時縞ハルトに、エルエルフはわけがわからず一瞬言葉を失う。
「……いつもと変わらないだろう」
時縞ハルトへというよりは、自分に言い聞かせるようにその言葉だけを発し、エルエルフはホットミルクを飲み干した。
飲み干す前のミルクの表面には、やはりいつもと変わらない自分の顔が映っていた。
シーツの中へ身を潜める段になって、エルエルフはふと自分が「予知」をしていなかったことに気づく。普段であれば、ありとあらゆる事象を計算に組み込み、これから起こる出来事についての予測を立てて行動していたはずだ。それがこの夜に限っては、まったく何も見えなかった。見ていなかった。感情に乱れがあり、あろうことか計算を怠った。それもこれも、あの妙な夢の所為だった。
エルエルフはゆっくりと深呼吸をし、リモコンに手を伸ばした。
20秒後、俺がこのリモコンのスイッチを押す。すると、部屋の明かりは消える。大丈夫。すべては、計算の内だ。
20秒後、計算通りにふっと部屋の明かりが消えた。
大体、俺の表情が「珍しい」と判断できるほど、時縞ハルトは俺のことを観察していないはずだろう。
そう言い切るには、時縞ハルトの中の俺のデータは不十分なはずだろう。
データを収集できるだけの、十分な時間はなかったはずだろう。
長い時間を共に過ごした、あいつと違って。
暗いベッドの中で、エルエルフは想像する。
今引き金を引けば、確実に銃弾はあいつの心臓を貫くだろう。
そうすることの意味などわからなかった。ただ、そうしなければならないという強迫観念だけがあった。
そうして静かに、目を閉じて。
エルエルフは躊躇いなく、引き金を引いた。
暗いベッドの中で、エルエルフは想像する。
今エルエルフが横たわっている位置は、二段ベッドの下段にあたる。当然、目の前にあるのは上段の床板だ。材質は木材、厚さは約27mm。エルエルフの手元にある銃は軍から支給されたものであり、小型とはいえ軍の装備に正式に採用されるに足る十分な威力がある。目の前の質素な板など、容易に撃ち抜けることだろう。
そして、狙いを外すことはまずない。ベッドの面積が狭い上に、標的は睡眠時ほとんど動くことがなく、急所の位置の特定は非常に容易だった。かちゃり、とエルエルフは銃を真上に構えた。この銃口の、すぐその先が、標的の心臓だ。
下段で着々と自分の暗殺が進められているにも関わらず、標的が起きる気配はない。曲がりなりにも軍人なのだから、殺気を感じて目を覚ますなりすればいいものを、まるで馬鹿みたいにエルエルフに全幅の信頼を寄せて寝ている、その姿が容易に想像できて、エルエルフは――。
ぱん、と短い音が響いて、目の前の板に穴が開いた。
エルエルフがしばらくぼんやりと撃った先を見つめていると、やがて穴の周りにじわじわと染みができはじめた。夜の闇の中でその色ははっきりと視認できないが、板は黒ずんでいるように見える。同時に、不快な匂いが鼻先を掠めた。戦場を思い起こさせる、慣れ親しんだ匂い。
上段の床板に染み出したそれは段々と大きくなり、やがて板が水分を含みきれなくなったのか、粘性の雫を形成していく。適度な大きさを持ったそれは、重力に逆らうことなくエルエルフに向かって加速を始め。
血が、ぴちゃ、とエルエルフの頬を濡らした。
ふと目が覚めた。
エルエルフの目が、ベッドの上段の裏側を捉える。二段ベッドの下段にいることに変わりはなかったが、そもそもベッドの材質が異なっていた。質素な木材ではなく、しっかりとした金属製。とても小型の銃で貫けるものではない。
無意識に頬に手をやっていたことに気づき、ゆっくりとその手の平を視認する。何も付着していない。再度己の頬に触れるが、そこにも何も付着している感触はなかった。
上体を起こしてゆっくりと瞬きし、一つ深い呼吸を置いて、周囲を見渡し――エルエルフは、己のいる場所がドルシア領カルルスタイン機関の施設ではなく、ジオール領モジュール77内、咲森学園の寮の一室であることを思い出した。
「……」
ニ、三度拳を握りこみ、身体が自分のコントロール下にあることを確認する。
確かに身体は問題なく動いたが、体温調節機能が上手く働いていないようだった。昼に確認した気象データや肌の感触から判断して、恐らく現在の気温は摂氏17度前後、湿度が50%前後。人間の身体にとっては適切なコンディションであるはずだ。にも関わらず、自身の身体からはじわりと汗が滲み出ていた。脈拍も、通常時より僅かに速くなっている。
「……風呂に入るか」
エルエルフは、不快感を抱えて眠るよりも、多少睡眠時間を削ってでも質の良い睡眠を取ることを選択した。汗を流せば、不快感は減るはずだ。そう判断した。
冷たい水がエルエルフの身体を伝い、浴室の床を打つ。
思い返せば、実におかしな夢だった。
背景や室内の調度品、それに自身が帯びていた装備から、恐らくカルルスタイン機関での訓練兵時代だったと考えられるが、まず血がベッドの下段にまで染み出すことがありえなかった。いくらあの質素な二段ベッドの床板が薄いからといって、心臓部に一発銃弾を撃ち込んだだけであそこまでの出血量は見込めない。また、確かあの場所にはマットレスもあったはずだ。分厚いマットレスが血を吸いきれないということはまずないだろう。
それに、自分があんな場所で暗殺を実行したことも不可解だ。あの部屋において、同室の人間は自分とあの男の二人だけだった。あの状況下であの男が死亡すれば、自らに容疑がかかることは避けられない。逃亡の手間を考えれば、限りなく愚行であると言えた。おまけにあの銃には消音装置もついていなかった。あれでは、暗殺が発覚するのも時間の問題だろう。
そして、これが一番重要なことだが――それらのリスクを冒してまで、あの男を殺すメリットがなかった。あの男は確かに王族の血を引く者だが、現時点ではあの男の生死が何かの命運を分けるということはない。つまりは、まったくの無駄なのだ。
そこまで考えて、ようやくあの夢は夢であったのだという実感を得ることができたような気がして、エルエルフは操作盤に手を伸ばして水を止めた。この程度のことで冷却が必要など、まるでヴァルヴレイヴのようだ。いっそのこと熱暴走させて、666までカウントしたらハラキリでもしてみるか。そんな自嘲が脳裏にふわりと舞い込んで、……何を馬鹿なことを言っているんだ、と首を振る。
しかしシャワーを浴びても、あの男の息の根を最後に止めるのは自分であるような、そんなねっとりとした予感がまとわりついているような感覚が抜けず、エルエルフは乱暴に自分の身体を拭った。
エルエルフ、エルエルフ。脳裏にそんな声まで蘇ってくる。自分が裏切ったことはとうに自明の理だろうに、恐らくあの男は未だに自分のことを信じきっていて、連れ戻す機会を窺っているのだろう。エルエルフ、エルエルフ。人を疑うことなど、微塵も考えないあの目。エルエルフ、エルエルフ。砂糖なんかよりずっと甘いあの思考が、エルエルフには未だに理解ができない。
エルエルフが軽くシャツをまとって寝室に戻ると、部屋の明かりがついていた。同居人が起きている。
「どうしたんだよ、エルエルフ。こんな夜中に」
「お前こそ、何故起きている。明日の訓練も早いはずだが」
「そりゃあ、下で銃をかちゃかちゃやられちゃあ」同居人が肩をすくめて苦笑する。「誰だって起きるよ。いつ撃たれるのかって、冷や冷やした」
「そうか? その割には、昨日も一昨日も起きなかったが」
「え、あれ!? 今日だけじゃなかったの!?」
同居人――時縞ハルトが素っ頓狂な声をあげる。死なないのだからいくら撃たれようと構わないのではないかとも思うが、どうやらそう頻繁に殺されるのは嫌らしい。曰く、「制服のスペアがなくなっちゃったらどうするんだよ!」。知ったことか。
その時縞ハルトが、両手に持ったマグカップのうち、片方をこちらに差し出してきた。
「はい」
「……? 何だ、これは」
「何って、ホットミルクだよ。温かい牛乳」
「知っている。俺が聞きたいのは、何故お前が俺にそれを差し出しているのかということだ」
「え? だって、眠れないときはこれが一番なんだよ」
「眠れない? 俺が?」
エルエルフは必要ない、と拒否して寝床に戻ろうとするが、時縞ハルトが自分の寝床に腰掛けていることに気づく。これでは戻れない。しかしマグカップを受け取るまで動かないだろう時縞ハルトの強情さを察して、エルエルフは渋々マグカップを受け取った。
「違った? シーツが汗でぐっしょりなんだけど」
「……少し嫌な夢を見ただけだ」
面倒くさい問答になる前に、適当にあしらって眠ろう。そう判断したはいいが、依然時縞ハルトがベッドの下段から動く気配はなかった。エルエルフは内心、舌打ちをする。
「へえ。君にも『嫌』って感情はあるんだ」
「例えばお前が俺の睡眠を邪魔をしている今がそうだ。そこを退け、時縞ハルト」
「どんな夢だったの?」
時縞ハルトの目が好奇心に輝いているのを見、エルエルフは苛立ちを隠さずに口を開いた。
「昔、同室だった男の夢だ」
「ドルシアの?」
「ああ。そいつを、……この手で、殺す夢だった」
時縞ハルトとの間の空気が、少し揺れた。殺す、という単語に反応したのかもしれない。そうか。なるべく残酷な風に話せば、こいつはきっと嫌がるだろう。そうして話を切り上げよう。
そう算段をつけ、エルエルフは時縞ハルトの隣にゆっくりと腰掛けた。
「殺した、のか?」
「ああ」
ゆるく、持っていたマグカップを揺らす。
「夢の中では、殺した。銃で心臓部を撃ってな。出血量から見て、まず間違いなく死んでいただろうが、念の為に心臓をえぐるくらいはしておけばよかったかと後悔している。……残念ながら、現実では殺せていない。先の戦闘で死んでいなければ、今も俺を連れ戻そうと元気に宇宙を飛び回っているだろうな」
「ふうん」
さて、どう話を切り上げようかと計算していたところで、ふと視線を感じ、隣に座る時縞ハルトに目をやった。部屋の明かりの中に浮かぶ青緑色に、ぱちりと視線がかち合う。
「なんだ」
「……いや」
時縞ハルトは誤魔化すようにマグカップを煽る仕草を見せたが、「空だろう」と指摘すると彼は困ったように笑った。何も言わずにマグカップをデスクに置き、梯子に手をかける。
「……君が浮かべる表情にしては、その、珍しいタイプだと思って。今の顔」
「……?」
「なんていうか……すごい顔してるよ。鏡見てみたら?」
視線も合わせず唐突にそう言い捨てて、「おやすみー」と自分の寝床へと引っ込んだ時縞ハルトに、エルエルフはわけがわからず一瞬言葉を失う。
「……いつもと変わらないだろう」
時縞ハルトへというよりは、自分に言い聞かせるようにその言葉だけを発し、エルエルフはホットミルクを飲み干した。
飲み干す前のミルクの表面には、やはりいつもと変わらない自分の顔が映っていた。
シーツの中へ身を潜める段になって、エルエルフはふと自分が「予知」をしていなかったことに気づく。普段であれば、ありとあらゆる事象を計算に組み込み、これから起こる出来事についての予測を立てて行動していたはずだ。それがこの夜に限っては、まったく何も見えなかった。見ていなかった。感情に乱れがあり、あろうことか計算を怠った。それもこれも、あの妙な夢の所為だった。
エルエルフはゆっくりと深呼吸をし、リモコンに手を伸ばした。
20秒後、俺がこのリモコンのスイッチを押す。すると、部屋の明かりは消える。大丈夫。すべては、計算の内だ。
20秒後、計算通りにふっと部屋の明かりが消えた。
大体、俺の表情が「珍しい」と判断できるほど、時縞ハルトは俺のことを観察していないはずだろう。
そう言い切るには、時縞ハルトの中の俺のデータは不十分なはずだろう。
データを収集できるだけの、十分な時間はなかったはずだろう。
長い時間を共に過ごした、あいつと違って。
暗いベッドの中で、エルエルフは想像する。
今引き金を引けば、確実に銃弾はあいつの心臓を貫くだろう。
そうすることの意味などわからなかった。ただ、そうしなければならないという強迫観念だけがあった。
そうして静かに、目を閉じて。
エルエルフは躊躇いなく、引き金を引いた。
1/1ページ