寝顔

(2021/10/03)


 閉じた目が陽光の薄い膜に覆われ、漂う朝の気配に意識が眠りから浮上する。寝ぼけながらあと五分……と甘えた声でねだるが、その言葉を拾う人間がいないことに気がついて、俺はやむなく眠い目をこすって身を起こす。
 騎空艇の一室だった。過去に将軍という職に割り当てられていたルクスリエースの自室よりも、格段に手狭で素朴な作りの部屋。二つのベッドヘッドに挟まれた小さな丸い舷窓の向こうでは、朝日を浴びた雲が金色を帯びてぐんぐんと左から右へ流れている。
 今何時だ。
 耳をすませると、騎空艇のエンジンの低く唸るような駆動音が聞こえる。
 それとそこかしこで活動を始めている人の気配。
 ベッドの上で、ブラックコーヒーにミルクを垂らしてかき混ぜるみたいにぼんやりと思考を巡らせる。今日早く起きないといけない用事はなんかあったかな。まあもう思い出しても手遅れかもしれないけど、ええと、軍議はないだろ——とつい昔の癖で予定を思い描いてから、今自分のいる場所を思い出す。そうだ、ここはグランサイファーなんだった。そして、我らが団長から仰せつかっている用事も特にない。暇なら甲板掃除を手伝ってほしい、とは言われていた気がするけど、俺朝弱いんだよな、と断っておいたし大丈夫だろ。うん。
 向かいのベッドは既に空だ。
 眠気からわずかに解放された俺の視線は自然、ルームメイトの姿を探すように部屋中を彷徨ったが、当のドラフの影を見つけ出すことは叶わなかった。
(――ラインハルザのやつ、いつ起きたんだ……?)
 人の気配には敏いつもりが、毎朝こうしてまったく気づくことができないのは不本意だった。一度くらい先に起きて、寝顔を拝んでやりたいもんだよな、と思うが成功した試しはない。寝台はいつも通り、主の几帳面な性格を示すように皺一つなくぴしりと整えられている。
 それこそ、昨夜そこに人がいた痕跡などないみたいに。
 眺めているうちに不安になって、こそこそとシーツに手を差し込んで残ったぬくもりを確かめようとしたが、シーツの中は既にひんやりと冷え切っている。俺はずるずると、そのままラインハルザのベッドの脇にしゃがみ込み、額をシーツに当てるように沈めた。不安が影となって、俺の思考にじわじわと差し込んでくるのを自覚する。いや、と俺は理性でもって首を横に振らないといけなかった。いや、昨夜は確かに消灯まではここにいたし、それにここは団長の艇だ。アイツが団長に断りなくいなくなるなんてことはあり得ない。どうせまた、朝早くに起きて鍛錬でもしてるんだろう。けれどいつも寝る前には外している飾り紐がどこにもないところを見ると、一度部屋へ戻ってきて、更にどこかへ出掛けた可能性すらある。
 となると、俺はいよいよもって朝寝坊の誹りを免れ得ない。
 よろよろと立ち上がり、寝間着を脱ぎ捨て、普段着に袖を通しながらはねた髪を撫でつける。艇が雲の海に入ったらしく、窓の外は真っ白に何も見えなくなった。食堂に行けば、まだ朝食にありつけるだろうか。大勢が寝食を共にする特性上、誰がいつ起きてきてもいいようにという料理長の粋な取り計らいで、朝の時分には彩り豊かなサンドイッチがずらりとビュッフェのように並べられるのがグランサイファーの食堂の常だったが、それでも昼食が出来上がる頃には下げられる。
「……っし!」
 一つ大きく息を吐いて、俺はルームメイトの姿を探しに部屋を出た。

   ◇ ◇ ◇

 まあ、多少強引に同室にしてもらった負い目はちょっとくらい、ないではない。
「一人部屋でいい? 一応、ルームシェアしてたりする人もいるけど……」
 団長が、艇内案内も兼ねてラインハルザに説明しているところに俺はするりと割って入った。こんな絶好の機を逃しちゃあ元イデルバ将軍の名が廃る。
「ハイハイ! ラインハルザ! 俺とルームシェアするよな!」
 な?と同意を促すように振り返れば、ハァ……とこれみよがしに溜め息を吐かれた。なんだよ。
「こっちのセリフだ。なんでそうなる」
「なんでもなにも、その方が楽しいだろ? それにほら、近くにいればわからないことがあっても俺が案内してやれるしさ」
 というのも、俺はラインハルザより数ヶ月ほど先にグランサイファーの世話になっているからだ。言わばここでは先輩だ。
 イデルバを出た俺たちは、以前グレートウォール騒動のときに世話になった団長たちの騎空団に身を置かせてもらうことにした。その合流前、ラインハルザは野暮用があるとか言って、俺とレオ姉とはしばし別行動を取ったのだ。
「野暮用?」
「ああ……。昔の——トリッド王国時代に世話になった知り合いで、手紙で近況をやりとりしてる相手がいる。グロース島を出るついでに、寄って挨拶しておきたい。……お前の手を煩わせるような用じゃねえから、先に行っててくれ」
「……お、おお」
 形だけは頷いたが、気を抜くと口からまろび出そうになる言葉をぐっと飲み込めたのは奇跡に近かった。あるいは、後ろにいたレオ姉の気遣わしげな視線が、それを押し止めてくれていたのかもしれない。
 本当にちゃんと、後で会えるんだな?
「……そっか、わかった。早く追いついてこいよな!」
「ああ」
 ラインハルザは軽く頷いたが、ふと俺の様子をじっと見て、小首を傾げて付け足した。
「……悪いな。必ず合流する。だから……待っててくれ」
 穏やかでない内心を、読まれただろうか。だとしたら、間諜行為で鍛え上げた俺の表情筋も鈍ったものだと思う。
 信じていないわけじゃない。
 でも、なにか保証があるわけでもないのだ。
 ラインハルザが、この先も側にいるという保証。
「……ドラフとヒューマンはいけるのか? 相部屋ってのは、ハーヴィン同士でじゃあなく?」
 ラインハルザの問いに、団長はニコッとかわいい笑顔を作って言う。
「できなくはない」
「無理なときの返事じゃねえか」
「いやいや、いけるときの返事だろ!」
「部屋は空いてる。ただ、据え付けのベッドがヒューマン二人想定だから、ちょっと改造してもらわないといけないかも」
 団長の言葉に、ラインハルザはチラリと俺に視線をよこした。お、DIYか?任せろ!の、つもりで二の腕をまくって力こぶを作ってみせると、ハァともう一度大きな溜め息。何だよぉ。俺だって伊達に将軍やってなかったんだぜ。何せ陛下からの無茶振りに対応するにはそれなりの体力と臨機応変さが必要だ、大抵のことはやれる自信がある。
 ラインハルザは胸を張る俺を置いて団長に向き直り、渋々といった様子で告げた。
「……あー、団長。その、二人部屋の方に案内してくれ」
 こいつと同室で頼む、と。

   ◇ ◇ ◇

「遅かったじゃねえか、寝坊助」
 果たしてラインハルザは甲板にいた。「交代だ」と言いながら、持っていたデッキブラシをこちらへ放る。俺は食堂からここまでくわえてきたローアイン特製サンドイッチの最後の一口を飲み込んで、宙を飛んでくるデッキブラシを受け止めた。掃除といっても、空の上ではそんなに多量の水は使えないから航行中は精々埃を払って汚れを擦り落とす程度だ。それでも甲板は一番人の出入りがあるから、我らが操舵士殿からは皆「大理石かっつーくらい磨き上げてやってくれよ」と厳命を受けている。
 ただ、掃除に参加している年少組が汚れを落としたそばから追いかけっこなりチャンバラごっこなり土足で甲板を蹂躙しているので、あまり意味があるかはわからない。
 それでも、手持ち無沙汰な身に与えられる仕事はありがたいものだ。ついでに今日はアイルストの王子殿のところにでも顔を出してみようか。あるいは錬金術師殿のところ。軍での生活のように朝から晩までひっきりなしに頭の痛い問題が持ち込まれてくるわけではないから、何か手伝えることを探して歩き回るのはこの騎空団で見つけた楽しみの一つだ。
 とりあえず今日の掃除からか、と甲板の泥汚れを気合を入れて擦る。
「……そういやラインハルザ、お前今日は何時に起きたんだよ?」
「さあな。お前が起きるより三時間は早かったんじゃないか」
「で、鍛錬した後、手伝いもしてんの? 掃除するなら俺も起こせよな」
「別に、こんなのはオレとお前が一緒にする必要もねえだろう」
 ラインハルザはいつの間にかもう一本調達してきたデッキブラシを振るって淡々と言う。そういうところ、ラインハルザはドライだ。それとも、俺が距離を詰めすぎているだろうか。ゴシゴシと腕を動かしながら思案する。
 別に、掃除を一緒にやるかどうか自体はどうでもいいことだ。
 ただ、気づくとつい不安に足を止めてしまう自分がいる。
 例えば朝起きて——隣にラインハルザがいないときなんかに。
「それに、お前はぐっすり寝てただろうが。呆れるほど熟睡だったぞ」
「む。俺だって、声かけてくれれば起きたって! ……多分」
「ほぉ……それじゃあ、明日は起こしてやるから、鍛錬にでも付き合ってもらおうか?」
「ああ、いいぜ。むしろ明日は俺がお前を起こしてやろうか? 俺ばっかりお前が必要なんじゃ、フェアじゃないだろ」
 俺は言いながら、そうだ、俺がラインハルザより早く起きれば済む話じゃないか、とはたと膝を打った。根本的な解決が難しくとも、対症療法なら何とでもなる。
 大抵のことはやれる自信があるし。
「……! ラインハルザ!」
 次の日の朝。ガバリと起きた俺を迎えたのは、差し込む朝日ともぬけの殻のベッドだった。
 くそー、と呻きながら起き出す。今日もまたラインハルザは何の痕跡も残さず出掛けたのだろうか、と部屋を見回して、いつもと様子が違うことに気がついた。サイドテーブルに、皿に乗せられたサンドイッチがある。そして添えられたメモ。『これが昼飯になるまでには起きろよ』。言わずもがな、ラインハルザの筆跡だ。鍛錬に出掛け、食堂に寄り、ここに戻ってきてまた出掛けた。
 そしてその間、俺はスヤスヤと眠りこけていたというわけだ。
「……っあー、くっそー!」
 悔しさと、けれどそれ以上にどこか安堵を抱え、俺はトゥナのサンドイッチを口に押し込んだ。

   ◇ ◇ ◇

 ラインハルザがふと「意外だ」と漏らしたのは、グランサイファーに来てしばらくしてのことだった。
 寝室でお互い本を読んでいて、俺はページから目を離さずに少し頭を傾けた。
「何がだよ?」
「お前は側に他人を置かないもんだと思ってたんだがな」
 同室になったことを言っているのだろう。俺もラインハルザも自分のベッドに腰掛け寝そべり、無言でページを捲っていた。俺は少し考えて——この場合の答えはどれが正解かと僅かな時間で吟味して——片眉を上げて戯けてみせた。
「俺が? これでも俺、結構面倒見のいい、人に好かれる将軍やってたんだぜ?」
「それで自分の部屋には侍従を置かねえタイプだろう」
 図星だった。
「部下にやらせりゃいいことをテメェでもやらねえから生活が破綻してレオナにも困られてる」
 まるで見てきたように正確だった。
 俺は反論を諦めて、大人しく本の方に意識を戻した。まあ大体正しい。イデルバでは然程こちらの私生活を見せなかったと思っていたけど、ラインハルザにはお見通しのようだった。俺は気性としては寂しがりだが、それは個人の領域に誰でも彼でも招き入れることと同義ではない。
 あのレオ姉でさえ、ノックなしに踏み入ってくることは稀だ。
 そういう場所に、俺はラインハルザを招き入れている。
「……まあ、お前だからさ」
 言った言葉は、果たして聞こえていただろうか。
 今度はラインハルザが、本の方に意識を戻す番らしかった。



「……。あっやべ」
 そんな、いつかのやりとりを思い出しながら本を読み耽っていたからだろうか、時間の経過に気づかなかったのは不覚だった。顔を上げると店の外は暗く、いつからか吊るされた灯りが店内の古本を煌々と照らしている。
 辺りはすっかり暗い。
「おっちゃん、これとこれ下さい!」
「はいよ」
 会計を済ませた本の包みを抱えて大急ぎで店を出る。今日はグランサイファーはこの街に停泊すると聞いているから、置いていかれることはないだろうが、それでも帰りが遅くになりすぎると見張り当番に不要な警戒を強いてしまう。それに何より心配をかけたくない。自然、港へ向かう速度が早足になる。
 艇に着く頃には、もう艇内はしんと寝静まっていた。今日の見張り番らしいミラオルたちに会釈をし、甲板から降りたところに置かれたカンテラを一つ借りて明かりを灯し、何故か廊下で出くわした夜の王から投げられたウインクをサッと躱しながら自室に戻る。
 ベッドサイドに灯りと本を置いた辺りで、俺はようやくフゥと一つ息をついた。それからそろそろと隣のベッドの様子を窺う。音や明かりで、同居人を起こしていないだろうか。なるべく足音は殺したつもりだったが、盗賊王様に気取られないほど完璧だったかは自信がない。
(…………あ)
 俺の目はそこで釘付けになった。
 特段、異常があるわけではなかった——ラインハルザは起きてはいなかった。カンテラの灯りにゆらゆらと浮かび上がる寝顔は、閉じられた目が開く様子もなく安らかだ。静かな寝息、それに合わせて上下する、薄いシーツの上からでもくっきりとわかるほど筋肉のついた体躯。いつもつけている眼帯が外され、古い傷跡が露わになっている。
(……。寝てる……)
 新鮮な光景だった。思えば夜は同じタイミングで灯りを消すし、朝はラインハルザの方が早いのだ。俺は自分のベッドを離れ、吸い寄せられるようにラインハルザのベッドの端に腰掛けた。
 思考が電気を帯びたように鈍く痺れる。
 普段よりやや険の取れた寝顔をまじまじと覗き込む。ラインハルザの頰に、俺の頭が被さって僅かに影ができる。
 こんなことをしていて、バレたら怒られそうだな、と思う。しかし同室になった時点でこのくらいは織り込み済みでいるんじゃないだろうか。それとも、まったく予想だにしていなかったか?
 俺が、お前の領域に踏み込んだり。
 俺とお前の距離が近づいたりすることを。
 そろりとベッドの端を伝うように身を乗り出す。手を伸ばし——迷った末、肩に流れる髪の端だけをそっと掬うだけに留める。
 ——まあ、お前だからさ。
 いつの間にか、俺の中の一等席を占めてしまったドラフの男。
 確かにここにいるのに、気を許されていると感じるのに、どうしようもなく不安にさせられる。必要とされるってのは、そこに居るには十分過ぎる理由だ、とラインハルザは言った。けれど同時に、俺が独りでも立てるようにと発破をかけたのもこの男だ。
 きっと、と思う。きっと、俺がラインハルザを必要としないと判断すれば、ラインハルザは迷いなく俺の前から姿を消すのだろう。
 俺の気持ちを置いてきぼりに。
(……どうしたら、お前にずっと側にいてくれと伝えられるのかな)
 少し硬い黒髪の先を指に絡めながら思案する。
 キスでもしてしまおうか。
 そうすれば、狂おしいほどにお前が必要だと伝わるだろうか。ずっと側にいてほしいと思っていることが、伝わるだろうか、お前にどこにも行ってほしくないことが。
 じっと寝顔を見つめて考えて——やめた。屈んだ体勢から身を起こす。確かに手っ取り早く伝わるかもしれないが、それこそ本人の意思を置き去りに考えることじゃあない。それに、あんなに言葉では伝えたのだ、しばらく同行してくれるつもりはあるんだろう。これまで何十回と自分に言い聞かせた言葉を反芻する。そう、俺が勝手に不安になってるだけだ。俺が必要だと言えば側にいてくれるのだから、それ以上何かを望む必要はないじゃないか。
 判断力が鈍っている、と思った。深夜の考えごとは、冷めた宵闇の気配に引きずられてしまいがちでよろしくない。
 そうしてそろりとベッドから立ち上がるのと、不意に背後からフ、と微かな笑い声が漏れるのとは同時だった。
「……なんだ。何もしねえのかよ」
「……!」
 振り返ると、ぱちりと瞼を開いたラインハルザと目が合った。獰猛さを秘めた金色の片目が、仄かな明かりを受けてチラチラと光を灯している。だが今まで寝ていたのも本当らしい。俺を捉えるのは、未だ覚醒しきっていない、眠たげに蕩けた視線だ。
 常ではまず見ない無防備さに、俺は一瞬呼吸を忘れる。
「……ラインハルザ」
「てっきり、お前はオレを独り占めしたいんだと思ってたんだが」自分の言っていることがわかっているのかいないのか、ラインハルザは起き抜けの甘さを含む声で笑う。「オレが自惚れてたか?」
 そう言って、口の端を持ち上げる。本人は普段通り悪人面でニヤリとしたつもりだろうが、いささか鋭さが足りず誘惑の色が強い。俺は口から内臓が出そうなほど動揺していた。心臓が早鐘を打つとはこのことだ。思考の痺れが、思い出したように強くなる。
「……何もしないのか、って」努めて冷静を保とうとしたが、声が上擦らなかったかはわからない。頼むぜ、俺の表情筋。そう願いながら挑発的に微笑み返す。「何かしていいのか?」
「そう言ったら、何してくれるんだ、お前は?」
 気づけば誘われるようにラインハルザに覆い被さって、その頰に手を伸ばしていた。くっそ、敵わねえな、と思う。本当は、こうやって俺ばかりお前がほしいと求めたって欠落は埋まらないんだろう。けれど言葉をねだったって仕方がないから、俺にできるのは、ただ俺がどれだけ欲しているのかを全身に巡る熱で伝えることだけだ。
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