ラブコールとアンサー
(2021/06/14)
「90…………、91…………っ」
はっ、と息を吐きながら、片腕で伏せた体を持ち上げる。92、93。流れ落ちる汗が角を伝い、パタパタと床に染みを作る。100まで数え終わったところで、俺はトレーニングを切り上げてストレッチに入った。本当はもっと、戦闘を想定した特訓メニューも組みたいところだったが、ここでそんなことをすれば部屋の壁をぶち抜いた挙句そのまま牢獄に直行してしまいかねない。立場を考えれば、勝手に王宮の外に出られないくらいの制限は我慢すべきだろう。こんな個室を与えられていること自体、罪人相手には破格の高待遇だ。
まだ眠りから覚め切らない、早朝のフォルクシルト宮は静かだ。窓から臨む空には薄く広がる朝靄。遠くに位置する厨房の、慌ただしく炊事のされる音だけがまどろみのように聞こえる。
その静寂の中、一つの足音が部屋に向かってきているのを俺の耳が捉えた。鎧の擦れる音はしない。夜勤明けの兵士ではない。その足音の主は扉の前で立ち止まり、わずかにためらいを見せてから、控えめにノックを響かせる。
「……ラインハルザ、ちょっといいか。今起きてる?」
ここ数日で、随分と聞き慣れた声だった。俺は応と軽く返事をして、汗を拭っていたタオルを首にかける。ズレた眼帯の位置を直す。そのまま戸口まで行って扉を内に開くと、そこにいたのは見知った男だ。この国の将軍の一。イデルバの麒麟児。
当のカインは一瞬目線の高さを見誤ったらしく、俺の火照った胸板を直視することになって「うお」と小さく声を上げた。……しまった。着替えてから開けるべきだったか。まあこいつなら、クルーガーやらベスティエやらに行かされる道中で半裸なんざ幾らでも目にしたしされたから別に今更恥ずかしがる間柄でもないが。
見上げられた視線と目が合う。
「なんだ、カイン。珍しいな、こんな朝早くにお前が起きてるなんて」
「いや、俺だってちゃんと起きるっての! ……今頃、団長たちが修行がんばってるってのに、俺だけ呑気に寝坊なんてしてられないだろ……」
後半の、空気の萎んだように口にされた言葉を聞いて、俺は知らず眉を顰めていた。
この男が言う通り、団長たちは今、この島の端で寝る間も惜しんで修行に勤しんでいるはずだった。教えの最奥とやらに至るために。残念ながら、俺やこいつには白羽の矢は立たなかった。そのことが、俺だって悔しくないわけではない。
ただ、その影響がこの男の行動に表れ出ることは、あまり好ましいとは思わなかった。今その力の習得は奴らに任せるしかないのだから、できることがない人間が神経を擦り減らしたって意味はない。
まあ寝坊はしないに越したことはねぇからいいか?
「あの……あのさ」
迷った末に口を噤むことを選んでいると、改まって向き直られる。
「ああ。そういや、何の用だった」
しかし続く言葉が、カインの口から出てこない。俺を見上げて金魚のようにパクパクと口を動かした後、斜め下に視線を彷徨わせ、悩んだ末に口を噤む。見下ろす頭はフラフラとやじろべえのような動きをする。挙動不審だ。何なんだ。
「なんだよ」先を促す。「まさか愛の告白でもしにきたんじゃないだろうな」
自分の口から、牽制としてその言葉がするりと出てきたことには俺自身が一番驚いた。しかし、言葉にしてみれば、今この場を支配する緊張の糸、そして自分の背をソワソワと這い回る落ち着きのなさはその気配を察してのことだとストンと腑に落ちる。事実、目の前の男が滲ませているのはその類の雰囲気だ。言いづらく、しかし言わなければならないと決めたことを、どう切り出そうか、そもそも口に出すべきか、拒絶されるのではないか——という恐れと迷い。
カインがパチリと青い目を瞬いた。それから、「そうだな。……そうだよ」とバツが悪そうに首肯する。
「ある意味、そういう話だ。……俺より先に、言うなよな」
「……部屋に入って待ってろ。着替える」
どうやら込み入った話らしかった。立ち話で聞くような内容ではない。戸口から招き入れ、タオルをカゴへ放り投げながら「茶を淹れておいてくれ」と頼めば「あっ無理無理、俺全然おいしく淹れられないから」などとのたまう。「はぁ?」「いやぁ、いつもはレオ姉が淹れてくれててさあ」。おい、副官はちょっとこいつを甘やかしすぎじゃないのか。
仕方がないから来客を簡易食卓の椅子に座らせ、ケトルを火にかけながらマグカップの準備をする。それから汗で湿った後ろ髪を手早く縛ってまとめ、適当な服を羽織って将軍殿に向き直る。
カインはその間も、ずっとキョロキョロと落ち着きなく「すげぇ、部屋ちゃんと片付いててえらいんだな」とか「ちょっと暑くねえ? 筋トレ邪魔したか?」とか当たり障りのないことを喋り続けていた。目の前に紅茶を注いだヒューマンサイズのマグカップを差し出すと、ようやく黙ったが今度はカップを見つめてじっと動かなくなった。
俺は待った。
角砂糖を二つ、放り込んだ紅茶は甘い。
口を開いたのは、向かい合って椅子に掛け、たっぷり3分は経った頃だ。
「もし……もしお前さえ良ければ、なんだけどさ」
そう言って、意を決したようにカインは顔を上げる。
「正式に、イデルバ軍属にならないか。それで、俺の部隊に来てほしいんだ」
「……そいつは」
今度は俺が視線を落とす番だった。
いつかは来るだろう、と思っていた提案だった。うぬぼれかもしれないが。俺の能力はこいつやこいつの国に買われていて、関係も悪くない。大罪を犯したものの、処分を免れた人間の処遇について、いつまでも中途半端な客将扱いをしておくわけにもいかないだろう。
選ぶ道は二つに一つ。
軍に引き入れるか、解放するかだ。
だからいつかは、そうなるとわかっていた。……それでもやはり、穏やかでない。
「お前に仕えろ、と?」
低く尋ねる。凄むような形になってしまうが、一度話す決意を固めたカインは動じない。
視線を真正面から切り結ぶ。
「一応、全ての軍人が仕えるのは陛下にだという前提の下でだけど——形式上はそうなる。……でも俺は、お前を他の奴らと同じように扱うつもりはないぜ。これまでお前がしてきたみたいに、俺の隣にいて、俺が間違ったり、道を誤りそうなら、とめてほしい。俺が迷ってたら、背中を押してほしい。……今までやってたそれを、仮の形から正式なものにするだけだ」
流れるように言う。俺は鼻白もうとして、やめた。何故だか、刺々しい気持ちはそう長くは保たずに霧散していたし、俺の根っこの本心は目の前の男の言葉をすんなり受け入れようとしている。
今、こいつは俺に求めている言葉を与えているのだ。
枯れかけた花に水をやるように。
「これからも、俺の隣にいてほしいんだ、ラインハルザ。もちろん、それなりの待遇は用意するつもりだ。……流石に、将軍職とかはくれてやれないんだけどさ」
澄んだ水のように真摯な言葉だった。珍しく、一切の企みもはかりごとも見られない。普段口八丁で丸め込むのが得意なこいつの、衒うことのない真っ直ぐな言葉が、ときに一番効くことを俺は知っていた。こいつの誠実さにこそ、心を打たれる人間は多い。
人を前にしたスピーチが向いているんだろう、と思う。それこそ、為政者がやるような——。
「それで? 断ったら俺はどうなるんだ?」
「別にどうも。これはお前を捕らえている国としてじゃなく、あくまで俺の個人的な頼みだ。断ったってお前に不利益はないよ。陛下にもまだ言ってないし……俺が言えば、陛下は許してくれるだろうと思うけど」
「なんだ、外堀は埋めてこなかったのか」
「だって、そういうのはお前の意志を確認してからだろ」
俺、お前に無理矢理やらせんのはやだよ、嫌われたくねぇし、と口を尖らせて言う、そういう言葉も人の目には好ましく映る。そうだ、今俺はこいつを好ましく思っている。穏やかでなかったのは、俺がこいつにとってのその他大勢と同格と扱われることに対してだ。その可能性を一番に否定され、いつの間にか俺は、笑みさえ自然にこぼしてしまっていた。
窓から降り注ぐ、柔らかな朝日があたたかい。
俺はこの男に、こんなにも絆されている。
だから。
「……答えは保留にさせてくれ」
「あれぇ!?」
ズル、と盛大にカインが椅子からずり落ちた。一瞬、テーブルにマグカップを残してカインの体が俺の視界から消える。なんだそのリアクションは、と思いながら腕を掴み、助け起こして椅子に座らせてやる。いてて、と尻をさすっているが、なんだ、俺が悪いのか?
「あれえって何だよ」
「い、いや……てっきりいい返事をもらえるものとばかり思ってたから……」
「……お前、たまにものすごく傲慢だな?」
「だって俺、一応将軍だし。……なあ、もしかしてダメ……なのか?」
精一杯、上目遣いの小動物のような仕草で哀願をされ、思わず首を振ってしまいそうになる。
ダメじゃない。緩みそうになる頰を引き締める。駄目じゃあ、ない。むしろ良すぎるくらいだ。
だからこそ、俺の都合だけでは頷けない。
「……今すぐには無理だ。悪いが、そんな安い男じゃあないんでね」
「そりゃあ……知ってるけど」
うぐ……とカインが言い淀む。紅茶を口にし、波立ったその表面を眺めながらモゴモゴと呟く。
「でも俺、俺の隣、っていうのが、お前に釣り合わない、そんなに安いポジションだとも思わないぜ……」
ああ、そうだ。この男の隣は特等席だろう。俺にとってはこの上ない条件だ。ここで頷いて、自分の身をこいつに委ねられればどんなにか楽だろう。以前の俺は、その怠慢ゆえに背負ったもの全てを失ったが、これはもう一度居場所を作るチャンスだった。
俺の信じられる居場所を。
……だが、この男にとってはどうだ?
二人の間に落ちた静寂の合間を縫って、部屋の外がにわかに騒がしくなる。どこか遠くで、カイン将軍、カイン将軍!どこですか!と切羽詰まった調子で呼ぶ声が聞こえる。その様子は尋常ではなかった。何かトラブルがあったんだろうか。……ギルベルトの野郎絡みで、ヤバいことが起こってるんじゃなければいいが。
カインも気づき、表情を引き締めて席を立つ。
「……悪ぃ、行くわ。朝から押しかけて悪かった。あと紅茶おいしかったよ、ごちそうさま」
「カイン」
「うん? 何だよ」
振り向いた、その柔らかな笑みに一瞬目を眇める。
俺が隣に立つことが、果たしてこの男の益になるのか?
俺は。
「……保留の間は、俺のやることは変わらねぇからな。なんかあったらちゃんと呼べよ」
「! ああ! ありがとな!」
そう言って、子どものようにパッと表情を輝かせたかと思うと、部屋の外へと駆け出していくカインの背中を見送りながら、俺は残された宿題の大きさに深く溜め息を吐いた。
俺の存在は、果たしてあいつの隣に立つに足るのだろうか。
「……俺は、お前を損ないたくはねぇんだがな……」
最後に数口残った紅茶は、すっかり冷えて苦くなっていた。
「90…………、91…………っ」
はっ、と息を吐きながら、片腕で伏せた体を持ち上げる。92、93。流れ落ちる汗が角を伝い、パタパタと床に染みを作る。100まで数え終わったところで、俺はトレーニングを切り上げてストレッチに入った。本当はもっと、戦闘を想定した特訓メニューも組みたいところだったが、ここでそんなことをすれば部屋の壁をぶち抜いた挙句そのまま牢獄に直行してしまいかねない。立場を考えれば、勝手に王宮の外に出られないくらいの制限は我慢すべきだろう。こんな個室を与えられていること自体、罪人相手には破格の高待遇だ。
まだ眠りから覚め切らない、早朝のフォルクシルト宮は静かだ。窓から臨む空には薄く広がる朝靄。遠くに位置する厨房の、慌ただしく炊事のされる音だけがまどろみのように聞こえる。
その静寂の中、一つの足音が部屋に向かってきているのを俺の耳が捉えた。鎧の擦れる音はしない。夜勤明けの兵士ではない。その足音の主は扉の前で立ち止まり、わずかにためらいを見せてから、控えめにノックを響かせる。
「……ラインハルザ、ちょっといいか。今起きてる?」
ここ数日で、随分と聞き慣れた声だった。俺は応と軽く返事をして、汗を拭っていたタオルを首にかける。ズレた眼帯の位置を直す。そのまま戸口まで行って扉を内に開くと、そこにいたのは見知った男だ。この国の将軍の一。イデルバの麒麟児。
当のカインは一瞬目線の高さを見誤ったらしく、俺の火照った胸板を直視することになって「うお」と小さく声を上げた。……しまった。着替えてから開けるべきだったか。まあこいつなら、クルーガーやらベスティエやらに行かされる道中で半裸なんざ幾らでも目にしたしされたから別に今更恥ずかしがる間柄でもないが。
見上げられた視線と目が合う。
「なんだ、カイン。珍しいな、こんな朝早くにお前が起きてるなんて」
「いや、俺だってちゃんと起きるっての! ……今頃、団長たちが修行がんばってるってのに、俺だけ呑気に寝坊なんてしてられないだろ……」
後半の、空気の萎んだように口にされた言葉を聞いて、俺は知らず眉を顰めていた。
この男が言う通り、団長たちは今、この島の端で寝る間も惜しんで修行に勤しんでいるはずだった。教えの最奥とやらに至るために。残念ながら、俺やこいつには白羽の矢は立たなかった。そのことが、俺だって悔しくないわけではない。
ただ、その影響がこの男の行動に表れ出ることは、あまり好ましいとは思わなかった。今その力の習得は奴らに任せるしかないのだから、できることがない人間が神経を擦り減らしたって意味はない。
まあ寝坊はしないに越したことはねぇからいいか?
「あの……あのさ」
迷った末に口を噤むことを選んでいると、改まって向き直られる。
「ああ。そういや、何の用だった」
しかし続く言葉が、カインの口から出てこない。俺を見上げて金魚のようにパクパクと口を動かした後、斜め下に視線を彷徨わせ、悩んだ末に口を噤む。見下ろす頭はフラフラとやじろべえのような動きをする。挙動不審だ。何なんだ。
「なんだよ」先を促す。「まさか愛の告白でもしにきたんじゃないだろうな」
自分の口から、牽制としてその言葉がするりと出てきたことには俺自身が一番驚いた。しかし、言葉にしてみれば、今この場を支配する緊張の糸、そして自分の背をソワソワと這い回る落ち着きのなさはその気配を察してのことだとストンと腑に落ちる。事実、目の前の男が滲ませているのはその類の雰囲気だ。言いづらく、しかし言わなければならないと決めたことを、どう切り出そうか、そもそも口に出すべきか、拒絶されるのではないか——という恐れと迷い。
カインがパチリと青い目を瞬いた。それから、「そうだな。……そうだよ」とバツが悪そうに首肯する。
「ある意味、そういう話だ。……俺より先に、言うなよな」
「……部屋に入って待ってろ。着替える」
どうやら込み入った話らしかった。立ち話で聞くような内容ではない。戸口から招き入れ、タオルをカゴへ放り投げながら「茶を淹れておいてくれ」と頼めば「あっ無理無理、俺全然おいしく淹れられないから」などとのたまう。「はぁ?」「いやぁ、いつもはレオ姉が淹れてくれててさあ」。おい、副官はちょっとこいつを甘やかしすぎじゃないのか。
仕方がないから来客を簡易食卓の椅子に座らせ、ケトルを火にかけながらマグカップの準備をする。それから汗で湿った後ろ髪を手早く縛ってまとめ、適当な服を羽織って将軍殿に向き直る。
カインはその間も、ずっとキョロキョロと落ち着きなく「すげぇ、部屋ちゃんと片付いててえらいんだな」とか「ちょっと暑くねえ? 筋トレ邪魔したか?」とか当たり障りのないことを喋り続けていた。目の前に紅茶を注いだヒューマンサイズのマグカップを差し出すと、ようやく黙ったが今度はカップを見つめてじっと動かなくなった。
俺は待った。
角砂糖を二つ、放り込んだ紅茶は甘い。
口を開いたのは、向かい合って椅子に掛け、たっぷり3分は経った頃だ。
「もし……もしお前さえ良ければ、なんだけどさ」
そう言って、意を決したようにカインは顔を上げる。
「正式に、イデルバ軍属にならないか。それで、俺の部隊に来てほしいんだ」
「……そいつは」
今度は俺が視線を落とす番だった。
いつかは来るだろう、と思っていた提案だった。うぬぼれかもしれないが。俺の能力はこいつやこいつの国に買われていて、関係も悪くない。大罪を犯したものの、処分を免れた人間の処遇について、いつまでも中途半端な客将扱いをしておくわけにもいかないだろう。
選ぶ道は二つに一つ。
軍に引き入れるか、解放するかだ。
だからいつかは、そうなるとわかっていた。……それでもやはり、穏やかでない。
「お前に仕えろ、と?」
低く尋ねる。凄むような形になってしまうが、一度話す決意を固めたカインは動じない。
視線を真正面から切り結ぶ。
「一応、全ての軍人が仕えるのは陛下にだという前提の下でだけど——形式上はそうなる。……でも俺は、お前を他の奴らと同じように扱うつもりはないぜ。これまでお前がしてきたみたいに、俺の隣にいて、俺が間違ったり、道を誤りそうなら、とめてほしい。俺が迷ってたら、背中を押してほしい。……今までやってたそれを、仮の形から正式なものにするだけだ」
流れるように言う。俺は鼻白もうとして、やめた。何故だか、刺々しい気持ちはそう長くは保たずに霧散していたし、俺の根っこの本心は目の前の男の言葉をすんなり受け入れようとしている。
今、こいつは俺に求めている言葉を与えているのだ。
枯れかけた花に水をやるように。
「これからも、俺の隣にいてほしいんだ、ラインハルザ。もちろん、それなりの待遇は用意するつもりだ。……流石に、将軍職とかはくれてやれないんだけどさ」
澄んだ水のように真摯な言葉だった。珍しく、一切の企みもはかりごとも見られない。普段口八丁で丸め込むのが得意なこいつの、衒うことのない真っ直ぐな言葉が、ときに一番効くことを俺は知っていた。こいつの誠実さにこそ、心を打たれる人間は多い。
人を前にしたスピーチが向いているんだろう、と思う。それこそ、為政者がやるような——。
「それで? 断ったら俺はどうなるんだ?」
「別にどうも。これはお前を捕らえている国としてじゃなく、あくまで俺の個人的な頼みだ。断ったってお前に不利益はないよ。陛下にもまだ言ってないし……俺が言えば、陛下は許してくれるだろうと思うけど」
「なんだ、外堀は埋めてこなかったのか」
「だって、そういうのはお前の意志を確認してからだろ」
俺、お前に無理矢理やらせんのはやだよ、嫌われたくねぇし、と口を尖らせて言う、そういう言葉も人の目には好ましく映る。そうだ、今俺はこいつを好ましく思っている。穏やかでなかったのは、俺がこいつにとってのその他大勢と同格と扱われることに対してだ。その可能性を一番に否定され、いつの間にか俺は、笑みさえ自然にこぼしてしまっていた。
窓から降り注ぐ、柔らかな朝日があたたかい。
俺はこの男に、こんなにも絆されている。
だから。
「……答えは保留にさせてくれ」
「あれぇ!?」
ズル、と盛大にカインが椅子からずり落ちた。一瞬、テーブルにマグカップを残してカインの体が俺の視界から消える。なんだそのリアクションは、と思いながら腕を掴み、助け起こして椅子に座らせてやる。いてて、と尻をさすっているが、なんだ、俺が悪いのか?
「あれえって何だよ」
「い、いや……てっきりいい返事をもらえるものとばかり思ってたから……」
「……お前、たまにものすごく傲慢だな?」
「だって俺、一応将軍だし。……なあ、もしかしてダメ……なのか?」
精一杯、上目遣いの小動物のような仕草で哀願をされ、思わず首を振ってしまいそうになる。
ダメじゃない。緩みそうになる頰を引き締める。駄目じゃあ、ない。むしろ良すぎるくらいだ。
だからこそ、俺の都合だけでは頷けない。
「……今すぐには無理だ。悪いが、そんな安い男じゃあないんでね」
「そりゃあ……知ってるけど」
うぐ……とカインが言い淀む。紅茶を口にし、波立ったその表面を眺めながらモゴモゴと呟く。
「でも俺、俺の隣、っていうのが、お前に釣り合わない、そんなに安いポジションだとも思わないぜ……」
ああ、そうだ。この男の隣は特等席だろう。俺にとってはこの上ない条件だ。ここで頷いて、自分の身をこいつに委ねられればどんなにか楽だろう。以前の俺は、その怠慢ゆえに背負ったもの全てを失ったが、これはもう一度居場所を作るチャンスだった。
俺の信じられる居場所を。
……だが、この男にとってはどうだ?
二人の間に落ちた静寂の合間を縫って、部屋の外がにわかに騒がしくなる。どこか遠くで、カイン将軍、カイン将軍!どこですか!と切羽詰まった調子で呼ぶ声が聞こえる。その様子は尋常ではなかった。何かトラブルがあったんだろうか。……ギルベルトの野郎絡みで、ヤバいことが起こってるんじゃなければいいが。
カインも気づき、表情を引き締めて席を立つ。
「……悪ぃ、行くわ。朝から押しかけて悪かった。あと紅茶おいしかったよ、ごちそうさま」
「カイン」
「うん? 何だよ」
振り向いた、その柔らかな笑みに一瞬目を眇める。
俺が隣に立つことが、果たしてこの男の益になるのか?
俺は。
「……保留の間は、俺のやることは変わらねぇからな。なんかあったらちゃんと呼べよ」
「! ああ! ありがとな!」
そう言って、子どものようにパッと表情を輝かせたかと思うと、部屋の外へと駆け出していくカインの背中を見送りながら、俺は残された宿題の大きさに深く溜め息を吐いた。
俺の存在は、果たしてあいつの隣に立つに足るのだろうか。
「……俺は、お前を損ないたくはねぇんだがな……」
最後に数口残った紅茶は、すっかり冷えて苦くなっていた。
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