禍を糾う

(2020/11/20)


 違和感は、刀の柄を握る指先から伝ってきた。
 冨岡は僅かに片眉を上げながら、カン、と鍔迫り合った木刀の刀身を弾いた。稽古とはいえ手心を加える必要はなかった。切先が夜空に弧を描く。瞬間、流れるような刺突が繰り出され、しかし半歩でそれを躱すとそれ以上は追ってこない。飛び退り、雪駄の底がざっと地面を擦る音。
 向かい合う夜の屋敷の庭は静かだ。
 空気を揺らすのは虫の声の多重奏と雲の流れる気配だけ。
 やはり、と思う。違和感は気の所為ではない。先ほどから、斬り込みが妙に浅いのだ。無駄な鍔迫り合いを繰り返している。普段はこうではないはずだった。女の太刀筋は、攻撃を受けるのには向いていない。単純な力勝負にも。それは誰よりもこの女自身が一番よく知っている。戦略を変えたのか——いや、そうせざるを得なかったのだ。冨岡に肉薄されるのを避けられなかった。
 動きが常より僅かに遅いから。
 冨岡の抱く言いようのない疑念に反して、女の唇は常と変わらず蠱惑的に微笑みを浮かべている。ひらりと翻る翅脈の柄の羽織の裾。
「あらあらどうしたんですか冨岡さん、らしくないですねえ。もう一つ二つ、斬り込んできてもいいんじゃありませんか? それとも息でも切れました? 待ってあげてもいいですよ、ええ」
「…………」
 らしくないのはお前の方だ、と言い返そうかどうか迷い、とりあえず刺突を横にいなした。どうせこの女を真正面から問い質したところでそれあなたに関係あります?とか返ってくるだけだろう。
 それに、と冨岡は思う。
 それに、この女が鍛錬を怠り、体の調子を崩すなどとは到底あり得ない話だった。大きな鬼との戦いがあったとも聞いていない。ならばこの不調は鬼の戦いに向けて何か策を練っている副作用なのだろうし、この女にはこの女なりの考えがあるのだろう。それこそ単なる成り上がり者である自分には及びもつかない、蟲柱肝入りの奇策が。
 だから、冨岡はただ一言告げるだけだった。
「……足を引っ張るようなことになるなよ」
 今はまだ未完成だろうから、万一鬼の奇襲があればそのまま持ち出さざるを得ないだろう。その場合、その策が足を引っ張るようなことになるなよと。
 そう心配した。
 ——だがどうやらそれが逆鱗に触れたらしい、と気付いたのは数秒の後だ。
 瞬間、全身の毛がブワ、と逆立った。浴びせられる殺気に、チリチリと後頭部が焼けるような感覚に襲われる。思わず刀を握り直した。木刀の柄に、冨岡の手のひらの熱と汗がじわりと滲む。
 見れば胡蝶の額に見事な青筋が立っていた。
「……ええ、ええ、随分と舐められたものですね? 足を引っ張る、なるほど、冨岡さんは私のことをそう思っていたんですか」
「待て、胡蝶」
 は、と息を呑み構え直す。まずい。
「水の呼吸——」
「蟲の呼吸、蜂牙ノ舞」
 だが胡蝶の切先が僅かに早い。
「——真靡き!」
 次の瞬間、冨岡は地面に大の字に転がっていた。

     ◇ ◇ ◇

 月夜を背負って、胡蝶の顔がひょこりと覗き込んでくる。冨岡は起き上がれないでいた。
 全身が痛い。
「思い出していただけました? 私、これでも一応柱なんですよー?」
「…………」
「それとも、頭をかち割った方がいいんでしょうかー? 困りましたね、脳につける薬はないんですけど」
「………………」
「そんな困った顔をしてもダメですよ。今回はあなたの負けです、認めてくださいね」
「……………………ああ」
 そこで冨岡はようやく気がついた。よいしょと膝を抱えて隣に座り込む女の、常より僅かに鈍い動き、異なる拍子での呼吸。
 強くかおる藤の花の匂い。
「毒か」
 胡蝶が振り返る。流石に呼吸は乱れない。ただ、パチリと瞬いた後、一度消した笑みを無理矢理貼り付けて、冨岡へと向き直る。
「…………。何のことでしょう?」
「お前が全身に纏っている鬼への対抗策のことだ。毒に浸しているんだろう。己の身を食わせるのか」
 冨岡は数秒、相手の反応を待った。己の発した言葉が一応、質問の体を取ってしまっていたから。
 胡蝶の表情は変わらなかった。いや、見ているとみるみるうちに眉尻が下がってくる。口が窄められ、はぁ……と返ってくるのは特大の溜め息だ。なんだ。「冨岡さん……」「何だ」曰く、「わかってもわざわざ指摘しないでしょう普通。慎みというものがないんですか?」知らん。何だそれは。あったとしても、そんなものは育て手の腕の中にでも置いてきている。
 それに、今更遠慮する仲でもない。
 胡蝶が流し目をよこしてゆるく笑う。
「……まさか、止めるわけでもないでしょう?」
「……俺を何だと思っている」
 言うと胡蝶はニコリと笑った。背に滅の字を背負うもの同士だ。冨岡も胡蝶も。鬼を殺すのが至上の命題だ。
 そして胡蝶はそのために、自分の身を毒薬に変えようという。
 端から見れば馬鹿げた自殺行為なのかも知れなかった。女の姉がいれば、きっとそんなことまでして戦う必要はないと止めるだろう。しかし今女の姉はおらず、姉の死が女を駆り立てていることを知っている冨岡には、胡蝶を止める義理はなかった。それを咎めることのできる人間は、鬼殺隊にはいないだろう。
 冨岡ならばいっそ煽りさえする。生半可な覚悟で鬼に敵うわけがないだろう、だからその程度の策は当然だ、と。ああ、どこか既視感を感じるのは、つい先日似たような戦い方を突きつけられたからだろうか。同じように煽ったばかりだ。弟弟子と連れの妹を思い出す。
 冨岡に斧を放った男。我が身を顧みず、妹を助けるために突っ込んできた男。
 自分が斬られた後で俺を倒そうとした。
 そこにあるのはただまっすぐな覚悟だ。
 だから。
「俺も」
 お前は孤独ではない、と聞かせるための言葉だった。
 お前の姉は止めるだろうが、お前は間違っていやしない。
 己の死を以って、憎い鬼を殺せるならば。
「俺も、そうできるなら、したのかもな……」
「いえ無理ですよ」
 しかしその言葉を間髪入れず胡蝶が遮った。予想外の拒絶に、冨岡は大の字のままムッと顔を顰める。
 人の気遣いを、こいつ。
「だってあなた、男じゃないですか」
 ウフフ、と胡蝶がこちらの気も知らぬ調子でうっそりと笑う気配があった。その目はこちらを見ていない。藍色の夜空にぽかりと浮かんだ月を見上げている。
 冨岡の視界で、蝶の髪飾りがひらりと揺れる。
「男は食べないそうなんですよ、その鬼」
 『その』? どのだ。
 胡蝶は答えない。
 ただ、憎い相手の死を夢見て、うっとりと星に向かって語り掛ける。
「だから、無理なんですよ、冨岡さん。ねえ、残念でしたねえ?」
 表情の見えない、胡蝶の嘲るような声音に、檻に閉じ込められた手負いの猛獣の息遣いを感じ、冨岡は寝転んだまま、やはりまた僅かに片眉を上げるばかりだった。
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