殻をひらく
(2020/05/29)
どうもフォトンがいつも以上にそこかしこに視えやがる、とラウムが気付いたのは麓の街を出立してアジトに着いてからだった。途中何故か道端に立っていた親切な老婆に「おやおやそこのお若い方、これでもお一ついかがかね」と不思議な色をした果実を勧められて購入し、道すがら食べてきたので腹が減りすぎた幻覚というわけでもないだろう。
なのに草の根本、道の端、アジトである砦の窓からそよぐ風にきらきらと大地の恵みが満ちているのがやけに目に入った。
アジトに足を踏み入れ、広間へ向かいながら首を捻る。
どうも今日は様子が違った。
(あーったりィなぁ、またテキトーにどっかで金かっぱらって酒場にシケ込むか……)
それが確信に変わったのは、広間の前でフラウロスと鉢合ったときだ。
ちょうど広間から出てきたフラウロスと目が合って、互いに軽く手を上げて挨拶を交わし、特にそれ以上は視線も合わせずにすれ違った背後でぼやきのような呟きが聞こえた。金をかっぱらうって、コイツがそれをすりゃあ、金を盗られる人間が出てくるんじゃねーか。その金はなけなしの誰かの生活費かもしれねェだろうが。黙っていられず、ラウムは思わず振り返って呼び止める。
「おいテメェ、フラウロスッ!」
「あ? なんだよ、ラウム」
「他人様の金に手つけんじゃねーよコラァ! 酒場にはテメェの金で行きやがれ!」
「……はぁぁ?」
途端、フラウロスの目がすっと剣呑に細められた。ラウムは怯まず正面から受け止める。が、凄んだフラウロスの殺気を流し切れずに微かに息を詰めた。ラウムより小柄とは言え、フラウロスのチンピラらしい挙動は随分と年季が入っていて迫力がある。ラウムの微かな身動ぎを見逃さず、フラウロスはニヤニヤ笑って、(おーおー、お坊ちゃんが何のつもりだよ?)とずいとメンチを切ってくる。
「オイオイ、とんだ言い掛かりだろーがよ。俺がいつ他人の金盗ったって、え? ヘンケンじゃねーのか」
ドスの利いた低い声。だがラウムもこのまま見逃すわけにはいかない。
と、いうか。
「いや、言い掛かりも何も……今テメェが自分でそう言ってただろうが!?」
「は? いや言ってねーし……」
(なんだ? 口に出てたか? いや……顔に出てたとしてもコイツにそんなの読み取る器用さねーだろうし……)
「んだコラ、失礼だろうが!」
ラウムはわけがわからないまま、フラウロスの声に反応を返す。言ったり言ってねェって言ったり何なんだ? 顔ってか、声に出てたろうが?
その様子に、フラウロスの方が先にピン、とくる。
コイツ。
(……俺の考えてることがわかりやがんのか)
「おォ……? そーいやオメェ、口動かさずにしゃべるとか器用な真似しやがんな……?」
(……オイオイオイ、随分と使えるモン持ってんじゃねーか!)
そうとわかったフラウロスの判断は素早かった。混乱するラウムを尻目に、にんまりと口の端を持ち上げたかと思うと不機嫌をあらわにしていた態度を一転、上機嫌にぐっと背伸びして、馴れ馴れしくラウムの肩に手を回してくる。それでもちょっと高さが足りなかったが、フラウロスは嫌な顔ひとつしない。人懐こそうな笑みで「なーなー」とラウムに寄り掛かる。
ラウムはその様子につい、手が届きにくそうじゃねーかコラ…と屈み――掛けて、ハッと我に返る。
いや誤魔化されねーぞ!?
「なーあラウム、ところでこれから街行くんだけどよ、ちょっと酒付き合えよ! ついでに遊んでこーぜ」
(これってつまり相手の手札読み放題ってことじゃねーか! よっし、コイツ前に出して、ちっとこの前の負け見返してやるぜっ……!)
「なっ……ズルは駄目だろうが! それに俺は未成年だコラァ!」
「いーだろ別に、バレやしねーって! オメェもガキどもにやる菓子買うのに小遣い増やしてェだろーが?」
フラウロスにこの、妙に自分が正しい、という堂に入った態度で主張されると、たとえ言い分のすべてが根本的に間違っているとしても少したじろいでしまうのだった。ラウムは縋るように先程から聞こえる彼のもう一つの声にも耳を傾けるが、今度は口から発される声と内容に大差はない。金!酒~っ!とせびるフラウロスの声が二重に聞こえ、妙に頭が痛くなる。だが駄目なものは駄目だ。
「俺は……っ!」
「フラウロス」
そのとき、凛と冷えた声が二人の応酬をばっさりと遮った。振り返って声の主を認めたフラウロスの手が、ラウムの肩から離れる。
「チッ……処刑野郎かよ、間が悪ィ」
「こんな廊下の真ん中で、何を騒いでいるのですか。ラウムは嫌がっているように見えますが」
そう言いながらラウムの視線の先で広間から出てきたのは、長い黒髪をなびかせた同輩の男だった。その目が冷ややかにフラウロスとラウムを捉える。
「フェニックス」
ラウムはその姿に、少しだけ胸を撫で下ろした。どうにも、自分だけではフラウロスの相手は荷が重い。フラウロスもフェニックスがこの場にいると分が悪いと考えたのか、しかし懲りずに「じゃ考えとけよなー!」とこの上ない笑顔で手を振って去っていく。「あっコラ! 他人に迷惑かけんじゃねーぞ!?」「わーかったよ、今回はやめとくって!」その昆虫の羽根のように軽い返答に、どこか腑に落ちないまま、ならいーけどよ、とラウムは無理やり自分を納得させる。ったく、何なんだコラ。混乱が解けないままフラウロスの背中を見送るラウムの隣で、フェニックスが呆れたような顔で溜め息を吐く。
「まったく、あの男にも困ったものですね……大丈夫ですか、ラウム」
(しかし、彼が面倒そうなことに巻き込まれずに済んでよかった。フラウロスには気をつけねば)
聞こえた声に、ラウムは固まった。
恐る恐る隣に立つ男を見る。
「? なんです」
(おや。私の顔に何かついているだろうか……)
「……………………」
ラウムは一度天を仰いだ。手のひらで額を覆って考える。さっきフラウロスが言っていた言葉の意味。自分の今聞いているこの声の正体を。それから――じっとフェニックスを見下ろし、黙って数歩離れてフェニックスとの距離を取った。そうすべきだと思った。
少なくとも、今自分が無意識にしていることは、本人の了承を得ずにしていいことではない。
フェニックスの了解なしには。
「……あの。遠くはありませんか、何故そんなに離れて――」
「近づくんじゃねーよコラァ!!」
その声は思いの外大きく廊下に響いた。
常にない勢いの拒絶の言葉に、フェニックスが歩み寄ろうとしていた足をぴたりと止めた。息を呑む音が聞こえる。違う。ラウムは歯噛みした。フェニックスが一瞬見せた表情に、胸の苦しくなるような罪悪感が渦巻く。違う、傷つけてェわけじゃねーんだ。ただ今は、俺が……。
言葉に詰まっている様子のラウムを見て、フェニックスは鉄の意志を以てそれ以上表情を変えなかった。ただ一言、静かに「何か、わけがあるのですか」と聞く。
ラウムとフェニックスの視線が切り結んだ。
「……いや」次に口を開いたのは、ラウムの方だった。この事実が、フェニックスに拒絶されやしないか――そんな考えがよぎらなかったといえば嘘になる。何をおかしなことを言っているのです、と。言われても仕方がない。他でもない自分自身がそう思っている。だが反面、フェニックスは多分、笑わず聞いてくれるんじゃねーか、とも思う。顔を上げる。「なんか知らねーがよお……近くにいるとオメェの考えてることがわかっちまうんだよ……」
改めて自分で口にすると、どうしてこんなことになっているかわからずにラウムは首を捻る。普段はこんなもの、聞こえねーのに。聞こえなくていいんだ。こんな声。
「他人の心の声を勝手に聞くわけにはいかねーだろコラ。プライバシーってもんがある……」
「それは。……離れていれば聞こえないのですね?」
「おう……」
「なら、その症状が収まるまであなたの部屋に戻っていましょう」
フェニックスの決断は素早かった。コッコッと石造りの床に軽快にブーツのヒールを鳴らす。来るんじゃねェ、と構えるラウムの手首をガッと掴み、問答無用で袖を引いた。
「オイッ……!」
「食堂に行こうとしていましたよね? しかし食堂は今、人が多い。余計なものまで聞こえる今のあなたにとっては、相当なストレスになるでしょう」
なので、自室でゆっくりした方がいい、とフェニックスが淡々と、しかし噛み砕くように告げる。
ラウムは、自分の手を引く背中を眺めながら、そのフェニックスの声に混じった気配を敏感に感じ取っていた。
彼が普段滲ませている、ほんのりと灯る火のような労りと、優しさと。
それとかすかな怯えと。
◇ ◇ ◇
水を取ってきますね、と姿を消したのはわずかの間だ。彼の部屋と、食堂までの往復には十分とかからない。手にグラスを二つ持って、彼の部屋の扉を押し開けて。ソファの上で身を縮こまらせ、ハッ、とこちらを振り返った彼の顔は、随分と心細そうに陰っている。
まるで雨に濡れた大型犬のようだ。
「……どうしたのです? そんな弱りきった顔をして」
「……いや、戻って……こねえと、思ったから……」
「? 私がですか? 水を取りに行っていただけですが……何故です」
「だってこえーだろコラァ……こんな能力よぉ……」
ソファの隣に腰掛け、水の入ったグラスを渡すと、受け取ろうとするラウムの手が微かに震えて表面についた水滴のうえを滑った。指先に伝わるのは怯えだ。何に?
「わかんだよ、オメェが俺を怖えと思ってること……だから……すまねえ」
「!」
フェニックスは僅かに身を固くした。己の失態だった。彼に、自分の恐れを悟らせてしまったこと。表層には出していないつもりだったが、心の声を読まれてしまうのは避けられないということか。
じっと手元のグラスを見る。水面が微かに波を立てている。
それをローテーブルへ置き、居住まいを正す。
腹を決める。
「……あなたは今、私の考えが読めるのですよね」
「……おお」
「ならば隠しても仕方ありませんね。正直に申し上げましょう」
ひた、とラウムを真正面から見据えて、告げる。
「怖いですよ」
「……!」
その言葉にラウムが僅かに怯む気配を見せた。それはそうだ、フェニックスは彼の人となりをそれなりによく知っている。ひどく人のいい彼は、私がそのような無礼な言葉を投げつけるとは思ってもいなかっただろう。
けれどどうか、この恐れを許してほしい。
その一心で、彼の大きな手を取って両手で包み込む。
「……今のあなたは、私の中にあるどんな感情も見透かしてしまうのでしょう。怖いですよ。私の醜い中身を、あなたに見られてしまうのではないかと」フェニックスは、彼に触れている自分の手が震えているのを感じていた。だが、沈黙を貫けば彼を傷つけてしまうのなら、どれほどみっともなくともこの内心を曝け出してしまった方がよほどマシだ。「他でもない、あなたに嫌われてしまうんじゃないかと……私は、それがこわい……」
ギュッと。
不意に手を握り返されて、驚いて顔を上げる。触れ合う手の温度は彼のものが僅かに高い。
「俺が……ッ、オメェを嫌いになるわけねーだろコラァ!」
間髪を入れずに発せられた、切羽詰まったように必死な彼の声が、彼が本気なのだと全身に伝えてくる。こういう人なのだ。安堵につい笑みを漏らしてしまう。
そして彼にそう「言わせたい」自分は卑怯だ。
「卑怯じゃねえ!」
「あなたは人が良すぎるのです」
「それはオメェがいい奴なのとは何の関係もねーだろーがよ!」
「……フフ」
しかし、フェニックスの思惑がどうであれ、彼の言葉がフェニックスを勇気づけたのは事実だった。嫌いになるわけがない。その一言で、もう手は震えなかった。
絡ませ合った、フェニックスの手も、ラウムの手も。
「その能力、うつるのかもしれませんね」
「あァ?」
「いえ」訝しげな視線を向けられ、かぶりを振る。首筋で、髪の束がさらりと揺れる。「私も、あなたの心が読めるような気がして。少なくとも、あなたのそれが嘘ではないとわかるので……」
頬が緩む。
こうして、自分に躊躇いなく触れてくれる彼を。
いつだって、愛おしいなと感じてしまうのだ。
……ラウム。
「…………!」
次の瞬間、目が合った。ラウムの驚いたような顔にはっと我に返る。しまった。「いえ、待ってください、今のは無しで……!」止める前に唇に唇を押し当てられてぎゅっと目を瞑った。恥ずかしさに、カアッと頬が赤く染まっている自覚がある。
考えを読まれた。
「ら、ラウム。ちょっと」
「す、すまねえ……けどよ、今のオメェの声はつまり……そういうことだろうが……?」
「そこは読まないで下さい……ッ!」
恥ずかしいので、と顔を伏せる。まともに目を合わせられない。それでもちらりと横目で見れば、彼も真っ赤になって今にも爆発しそうな顔をしている。
そうして二人でしばらく空気を持て余した後、そろそろとお互い手を伸ばし、ぎゅっと抱き締め、抱き締められた。
そのままソファにゆっくりと倒れ込む。頬や首筋に、ためらいがちに落とされるキスがくすぐったい。
「俺も。……俺もだぞコラ、フェニックス」
何も言っていないのに、ラウムは息の詰まるほどまっすぐな言葉で思いを表してくる。俺もだ、と。心の奥の、やわらかい部分を曝け出すような無防備さで。その言葉に、段々と思考が溶かされてくる。私も、と気づけば声に出して告げていた。言わずとも伝わっただろうが、彼は少し目を見開いた後、本当に嬉しそうにニカッと笑う。
その笑みを目にして、数刻前の愚かな自分を嘲笑ってしまう。
嫌われるんじゃないか、なんて。
「俺がオメェを、嫌いになんかなるわけねーだろ、コラ……!」
どうもフォトンがいつも以上にそこかしこに視えやがる、とラウムが気付いたのは麓の街を出立してアジトに着いてからだった。途中何故か道端に立っていた親切な老婆に「おやおやそこのお若い方、これでもお一ついかがかね」と不思議な色をした果実を勧められて購入し、道すがら食べてきたので腹が減りすぎた幻覚というわけでもないだろう。
なのに草の根本、道の端、アジトである砦の窓からそよぐ風にきらきらと大地の恵みが満ちているのがやけに目に入った。
アジトに足を踏み入れ、広間へ向かいながら首を捻る。
どうも今日は様子が違った。
(あーったりィなぁ、またテキトーにどっかで金かっぱらって酒場にシケ込むか……)
それが確信に変わったのは、広間の前でフラウロスと鉢合ったときだ。
ちょうど広間から出てきたフラウロスと目が合って、互いに軽く手を上げて挨拶を交わし、特にそれ以上は視線も合わせずにすれ違った背後でぼやきのような呟きが聞こえた。金をかっぱらうって、コイツがそれをすりゃあ、金を盗られる人間が出てくるんじゃねーか。その金はなけなしの誰かの生活費かもしれねェだろうが。黙っていられず、ラウムは思わず振り返って呼び止める。
「おいテメェ、フラウロスッ!」
「あ? なんだよ、ラウム」
「他人様の金に手つけんじゃねーよコラァ! 酒場にはテメェの金で行きやがれ!」
「……はぁぁ?」
途端、フラウロスの目がすっと剣呑に細められた。ラウムは怯まず正面から受け止める。が、凄んだフラウロスの殺気を流し切れずに微かに息を詰めた。ラウムより小柄とは言え、フラウロスのチンピラらしい挙動は随分と年季が入っていて迫力がある。ラウムの微かな身動ぎを見逃さず、フラウロスはニヤニヤ笑って、(おーおー、お坊ちゃんが何のつもりだよ?)とずいとメンチを切ってくる。
「オイオイ、とんだ言い掛かりだろーがよ。俺がいつ他人の金盗ったって、え? ヘンケンじゃねーのか」
ドスの利いた低い声。だがラウムもこのまま見逃すわけにはいかない。
と、いうか。
「いや、言い掛かりも何も……今テメェが自分でそう言ってただろうが!?」
「は? いや言ってねーし……」
(なんだ? 口に出てたか? いや……顔に出てたとしてもコイツにそんなの読み取る器用さねーだろうし……)
「んだコラ、失礼だろうが!」
ラウムはわけがわからないまま、フラウロスの声に反応を返す。言ったり言ってねェって言ったり何なんだ? 顔ってか、声に出てたろうが?
その様子に、フラウロスの方が先にピン、とくる。
コイツ。
(……俺の考えてることがわかりやがんのか)
「おォ……? そーいやオメェ、口動かさずにしゃべるとか器用な真似しやがんな……?」
(……オイオイオイ、随分と使えるモン持ってんじゃねーか!)
そうとわかったフラウロスの判断は素早かった。混乱するラウムを尻目に、にんまりと口の端を持ち上げたかと思うと不機嫌をあらわにしていた態度を一転、上機嫌にぐっと背伸びして、馴れ馴れしくラウムの肩に手を回してくる。それでもちょっと高さが足りなかったが、フラウロスは嫌な顔ひとつしない。人懐こそうな笑みで「なーなー」とラウムに寄り掛かる。
ラウムはその様子につい、手が届きにくそうじゃねーかコラ…と屈み――掛けて、ハッと我に返る。
いや誤魔化されねーぞ!?
「なーあラウム、ところでこれから街行くんだけどよ、ちょっと酒付き合えよ! ついでに遊んでこーぜ」
(これってつまり相手の手札読み放題ってことじゃねーか! よっし、コイツ前に出して、ちっとこの前の負け見返してやるぜっ……!)
「なっ……ズルは駄目だろうが! それに俺は未成年だコラァ!」
「いーだろ別に、バレやしねーって! オメェもガキどもにやる菓子買うのに小遣い増やしてェだろーが?」
フラウロスにこの、妙に自分が正しい、という堂に入った態度で主張されると、たとえ言い分のすべてが根本的に間違っているとしても少したじろいでしまうのだった。ラウムは縋るように先程から聞こえる彼のもう一つの声にも耳を傾けるが、今度は口から発される声と内容に大差はない。金!酒~っ!とせびるフラウロスの声が二重に聞こえ、妙に頭が痛くなる。だが駄目なものは駄目だ。
「俺は……っ!」
「フラウロス」
そのとき、凛と冷えた声が二人の応酬をばっさりと遮った。振り返って声の主を認めたフラウロスの手が、ラウムの肩から離れる。
「チッ……処刑野郎かよ、間が悪ィ」
「こんな廊下の真ん中で、何を騒いでいるのですか。ラウムは嫌がっているように見えますが」
そう言いながらラウムの視線の先で広間から出てきたのは、長い黒髪をなびかせた同輩の男だった。その目が冷ややかにフラウロスとラウムを捉える。
「フェニックス」
ラウムはその姿に、少しだけ胸を撫で下ろした。どうにも、自分だけではフラウロスの相手は荷が重い。フラウロスもフェニックスがこの場にいると分が悪いと考えたのか、しかし懲りずに「じゃ考えとけよなー!」とこの上ない笑顔で手を振って去っていく。「あっコラ! 他人に迷惑かけんじゃねーぞ!?」「わーかったよ、今回はやめとくって!」その昆虫の羽根のように軽い返答に、どこか腑に落ちないまま、ならいーけどよ、とラウムは無理やり自分を納得させる。ったく、何なんだコラ。混乱が解けないままフラウロスの背中を見送るラウムの隣で、フェニックスが呆れたような顔で溜め息を吐く。
「まったく、あの男にも困ったものですね……大丈夫ですか、ラウム」
(しかし、彼が面倒そうなことに巻き込まれずに済んでよかった。フラウロスには気をつけねば)
聞こえた声に、ラウムは固まった。
恐る恐る隣に立つ男を見る。
「? なんです」
(おや。私の顔に何かついているだろうか……)
「……………………」
ラウムは一度天を仰いだ。手のひらで額を覆って考える。さっきフラウロスが言っていた言葉の意味。自分の今聞いているこの声の正体を。それから――じっとフェニックスを見下ろし、黙って数歩離れてフェニックスとの距離を取った。そうすべきだと思った。
少なくとも、今自分が無意識にしていることは、本人の了承を得ずにしていいことではない。
フェニックスの了解なしには。
「……あの。遠くはありませんか、何故そんなに離れて――」
「近づくんじゃねーよコラァ!!」
その声は思いの外大きく廊下に響いた。
常にない勢いの拒絶の言葉に、フェニックスが歩み寄ろうとしていた足をぴたりと止めた。息を呑む音が聞こえる。違う。ラウムは歯噛みした。フェニックスが一瞬見せた表情に、胸の苦しくなるような罪悪感が渦巻く。違う、傷つけてェわけじゃねーんだ。ただ今は、俺が……。
言葉に詰まっている様子のラウムを見て、フェニックスは鉄の意志を以てそれ以上表情を変えなかった。ただ一言、静かに「何か、わけがあるのですか」と聞く。
ラウムとフェニックスの視線が切り結んだ。
「……いや」次に口を開いたのは、ラウムの方だった。この事実が、フェニックスに拒絶されやしないか――そんな考えがよぎらなかったといえば嘘になる。何をおかしなことを言っているのです、と。言われても仕方がない。他でもない自分自身がそう思っている。だが反面、フェニックスは多分、笑わず聞いてくれるんじゃねーか、とも思う。顔を上げる。「なんか知らねーがよお……近くにいるとオメェの考えてることがわかっちまうんだよ……」
改めて自分で口にすると、どうしてこんなことになっているかわからずにラウムは首を捻る。普段はこんなもの、聞こえねーのに。聞こえなくていいんだ。こんな声。
「他人の心の声を勝手に聞くわけにはいかねーだろコラ。プライバシーってもんがある……」
「それは。……離れていれば聞こえないのですね?」
「おう……」
「なら、その症状が収まるまであなたの部屋に戻っていましょう」
フェニックスの決断は素早かった。コッコッと石造りの床に軽快にブーツのヒールを鳴らす。来るんじゃねェ、と構えるラウムの手首をガッと掴み、問答無用で袖を引いた。
「オイッ……!」
「食堂に行こうとしていましたよね? しかし食堂は今、人が多い。余計なものまで聞こえる今のあなたにとっては、相当なストレスになるでしょう」
なので、自室でゆっくりした方がいい、とフェニックスが淡々と、しかし噛み砕くように告げる。
ラウムは、自分の手を引く背中を眺めながら、そのフェニックスの声に混じった気配を敏感に感じ取っていた。
彼が普段滲ませている、ほんのりと灯る火のような労りと、優しさと。
それとかすかな怯えと。
◇ ◇ ◇
水を取ってきますね、と姿を消したのはわずかの間だ。彼の部屋と、食堂までの往復には十分とかからない。手にグラスを二つ持って、彼の部屋の扉を押し開けて。ソファの上で身を縮こまらせ、ハッ、とこちらを振り返った彼の顔は、随分と心細そうに陰っている。
まるで雨に濡れた大型犬のようだ。
「……どうしたのです? そんな弱りきった顔をして」
「……いや、戻って……こねえと、思ったから……」
「? 私がですか? 水を取りに行っていただけですが……何故です」
「だってこえーだろコラァ……こんな能力よぉ……」
ソファの隣に腰掛け、水の入ったグラスを渡すと、受け取ろうとするラウムの手が微かに震えて表面についた水滴のうえを滑った。指先に伝わるのは怯えだ。何に?
「わかんだよ、オメェが俺を怖えと思ってること……だから……すまねえ」
「!」
フェニックスは僅かに身を固くした。己の失態だった。彼に、自分の恐れを悟らせてしまったこと。表層には出していないつもりだったが、心の声を読まれてしまうのは避けられないということか。
じっと手元のグラスを見る。水面が微かに波を立てている。
それをローテーブルへ置き、居住まいを正す。
腹を決める。
「……あなたは今、私の考えが読めるのですよね」
「……おお」
「ならば隠しても仕方ありませんね。正直に申し上げましょう」
ひた、とラウムを真正面から見据えて、告げる。
「怖いですよ」
「……!」
その言葉にラウムが僅かに怯む気配を見せた。それはそうだ、フェニックスは彼の人となりをそれなりによく知っている。ひどく人のいい彼は、私がそのような無礼な言葉を投げつけるとは思ってもいなかっただろう。
けれどどうか、この恐れを許してほしい。
その一心で、彼の大きな手を取って両手で包み込む。
「……今のあなたは、私の中にあるどんな感情も見透かしてしまうのでしょう。怖いですよ。私の醜い中身を、あなたに見られてしまうのではないかと」フェニックスは、彼に触れている自分の手が震えているのを感じていた。だが、沈黙を貫けば彼を傷つけてしまうのなら、どれほどみっともなくともこの内心を曝け出してしまった方がよほどマシだ。「他でもない、あなたに嫌われてしまうんじゃないかと……私は、それがこわい……」
ギュッと。
不意に手を握り返されて、驚いて顔を上げる。触れ合う手の温度は彼のものが僅かに高い。
「俺が……ッ、オメェを嫌いになるわけねーだろコラァ!」
間髪を入れずに発せられた、切羽詰まったように必死な彼の声が、彼が本気なのだと全身に伝えてくる。こういう人なのだ。安堵につい笑みを漏らしてしまう。
そして彼にそう「言わせたい」自分は卑怯だ。
「卑怯じゃねえ!」
「あなたは人が良すぎるのです」
「それはオメェがいい奴なのとは何の関係もねーだろーがよ!」
「……フフ」
しかし、フェニックスの思惑がどうであれ、彼の言葉がフェニックスを勇気づけたのは事実だった。嫌いになるわけがない。その一言で、もう手は震えなかった。
絡ませ合った、フェニックスの手も、ラウムの手も。
「その能力、うつるのかもしれませんね」
「あァ?」
「いえ」訝しげな視線を向けられ、かぶりを振る。首筋で、髪の束がさらりと揺れる。「私も、あなたの心が読めるような気がして。少なくとも、あなたのそれが嘘ではないとわかるので……」
頬が緩む。
こうして、自分に躊躇いなく触れてくれる彼を。
いつだって、愛おしいなと感じてしまうのだ。
……ラウム。
「…………!」
次の瞬間、目が合った。ラウムの驚いたような顔にはっと我に返る。しまった。「いえ、待ってください、今のは無しで……!」止める前に唇に唇を押し当てられてぎゅっと目を瞑った。恥ずかしさに、カアッと頬が赤く染まっている自覚がある。
考えを読まれた。
「ら、ラウム。ちょっと」
「す、すまねえ……けどよ、今のオメェの声はつまり……そういうことだろうが……?」
「そこは読まないで下さい……ッ!」
恥ずかしいので、と顔を伏せる。まともに目を合わせられない。それでもちらりと横目で見れば、彼も真っ赤になって今にも爆発しそうな顔をしている。
そうして二人でしばらく空気を持て余した後、そろそろとお互い手を伸ばし、ぎゅっと抱き締め、抱き締められた。
そのままソファにゆっくりと倒れ込む。頬や首筋に、ためらいがちに落とされるキスがくすぐったい。
「俺も。……俺もだぞコラ、フェニックス」
何も言っていないのに、ラウムは息の詰まるほどまっすぐな言葉で思いを表してくる。俺もだ、と。心の奥の、やわらかい部分を曝け出すような無防備さで。その言葉に、段々と思考が溶かされてくる。私も、と気づけば声に出して告げていた。言わずとも伝わっただろうが、彼は少し目を見開いた後、本当に嬉しそうにニカッと笑う。
その笑みを目にして、数刻前の愚かな自分を嘲笑ってしまう。
嫌われるんじゃないか、なんて。
「俺がオメェを、嫌いになんかなるわけねーだろ、コラ……!」
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