王都の休日
(2019/12/23)
※27歳×18歳が倫理的に問題ない世界として書いています。
~回想~
「ちょっとフラウロス! アンタ、いーっつもアジトで金せびったりたかったりしてんでしょ! もっと健全に遊びなさいよ、デートに出かけるとか……誰か気になる子いないの!? ほら、おかーさんに言ってみな!」
「うっせーーーいても誰が言うかクソババアァ!」
~回想終わり~
「それでどうして俺がここに呼ばれているのかな」
王都でも一番人気のカフェのテラス席だった。晴れやかな青空が広がり、華やかにはためく白いパラソルの下で大勢の女性客がケーキやパフェやクレープを前に談笑し、そしてフラウロスはぐったりとテーブルにその顔を突っ伏していた。
視線だけを動かして、正面に座る男を恨めしく見やる。
「知らねえよ……テメェもなんで素直に来てんだよ……」
「いやあ、だって『アンタとデートしたいって子がいるの!』なんて言われたら気になっちゃうじゃあないか。へえ、どんな子だろう、とか、俺の何がそんなに気に入ったんだろう、とか……俺にだって人並みの好奇心はあるんだよ」運ばれてきた甘いラテのカップを傾けながら、アンドラスは優雅に微笑んだ。今日はオフだからかあの胡散臭い白衣は着ていない。陽光の下で琥珀色の瞳が柔らかく煌めく。「まさかそれがキミだとは思わなかったけど。相思相愛ってやつかな?」
「うるせえ、俺はテメェだけは絶対に嫌だっつったんだ、『少なくともアンドラス「だ・け・は」絶対に御免だな!』ってなァ、そう言ったぜ……それをあのババア、『アンドラ』の四文字でアジト飛び出しやがった。カルタじゃねんだぞ」
「まあ早合点してアンドロマリウスを連れてこなかっただけ彼女にしては英断かなあ……?」
アンドロマリウス、彼女、キミとデートなんてさせられたら気絶してしまうだろうからね、とアンドラスがクスクスと笑う。フラウロスもそれはまあ確かにな、と思わなくはない。アンドロマリウスっつうと、あのトロ臭い陰気モノクル女だ。この場に連れてこられようものなら開口一番「え、無理ですぅ」「やだ……」「帰らせてぐだざい……」とまるでフラウロスがさも極悪人であるかのように半泣きで嫌がるに違いないのだ。アジトでならともかく、街中でやられると面倒になるのは目に見えていた。それを考えるとまあ、相手がこの男でよかったと、思わなくもない。一ミリくらいは。
「あとはアンドレアルフスとも間違えられなくてよかったねえ、フラウロスとデートだなんて、マルコシアスが卒倒してしまうよ。まあ彼、そもそも面倒臭がってこないだろうけど……フフ」
「あっテメー、面白がってんじゃねーぞ」
「ああ、ごめんごめん、顔に出てた? キミのげんなりした顔が少し愉快で」
「取り繕う気ねーだろ。あーあー、傷付いたからここ奢れよ」
「横暴だなあ。別にいいけど」
今日手持ちあったかな、と財布の中身を確認するアンドラスを横目に、フラウロスは幾らか気を取り直して目の前のコーヒーに手を付けた。少し時間を置いて冷ましていたブラックのブレンドだ。甘いのは性に合わない。「お待たせしましたー」と隣のテーブルにシロップたっぷりのパンケーキが運ばれてきている光景などを目の端に捉えて、思わずウヘェと口を歪ませる。たまにクソヴィータもアジトで同じようなものを作っているが、あんなものを食うやつの気がしれない。
「で?」
「あ?」
何だよ、とアンドラスに視線を戻す。目の前の男は相変わらずケーキの上のホイップのようなふわふわと読めない笑みを浮かべながら、フラウロスに改めて問いかける。
「奢るのはいいんだけど。キミ、俺とデートしたいの?」
「あ? ああ……そうだな。あの魚女、どうせどっかで様子見てんだろうし、フケたらまーたうるせえ気もするしな。どうすっか……」
「フラウロス」
不思議な声音で呼ばれる。フラウロスの視線の先で、いつの間にか立ち上がり、わずかに身を乗り出していたアンドラスの細い指が、すいとフラウロスの頬に触れた。目の前の男の動きをじっと目で追いながら、フラウロスはその動作に碌な反応を示さなかった。しいて言うなら、ああコイツ、今日は珍しく素手なんだな、と思ったことくらい。桜貝のような爪がフラウロスの輪郭をすっとすべってなぞる。
その指先が顎までたどりつき、くい、とつままれ上向かされる。側に立ち、唇を寄せるアンドラスの吐息が触れて。
何だと思っている間にキスされた。
「……!」
反射で舌をぐいと押し込んでねじ込むと、「ん」と甘ったるい声が漏れた。しかしそれで怯むアンドラスではなかったらしく、あろうことか押し返すように舌を絡ませてきた。ざらりと舌の表面を舐め合う感触を味わう。見上げるような形になって上向きの重力がかかる分、フラウロスの方が不利だ。唾液の混ざる音が響く。一瞬、周囲の時間が止まったような感覚があった。隣のテーブルからガチャンとカトラリーの取り落とされるはしたない音が聞こえて、刺さる視線にさすがに居心地の悪さを感じる。
知るかよ文句ならこいつに言えよ。
フラウロスはただ売られた喧嘩を買っただけだ。
しばらく濃厚に唇を重ね合った後、お互いどちらともなくぷは、と解放しあう。フラウロスはわけもわからず唾液で汚れた口元を拭いながら、怒鳴った。
「テメェ、急になんだよ!?」
「いや……だってキミにデートをさせたがってた彼女――リヴァイアサンを満足させなきゃ、キミは帰れないんだろう?」
「あァ!? まあ……そうか? そうだな……?」
確かに、と頷きかけて首をひねる。
だから何だ?
言動の繋がりを見出だせないフラウロスに、アンドラスは今しがたの乱暴極まりないキスなどさしたる問題ではなかったかのようにくちびるに人差し指をあててひそやかに微笑みかけた。勢いを削がれたフラウロスの手が、まるで恋人同士のようにぎゅっと握られる。普段縄鏢を扱っているアンドラスの手は、年相応に柔らかい。
衆人環視の中で、フラウロスにしか聞こえないような声で囁く。
「じゃ、俺達のデートを、後ろのギャラリーに存分に見せつけてやるのはどうかな、と思って」
◇ ◇ ◇
「わあ……」
物陰に隠れていたヒュトギンは、テラス席のど真ん中で熱烈に交わされるキスを目にして思わず手近なソロモン王の目元を手で覆っていた。「いや、ヒュトギン、俺別にそんなに子供じゃないから……」とソロモンが遠慮がちに目隠しを外そうとするが、いやあれは何だか十七歳の純朴なヴィータの青年に見せていい健全な光景とは言えない。ような。気がする。ヒュトギンは、自分はメギドであるためにそういった感覚には疎いと自覚していたが、経験上こういう場面に出くわしたときにブネやバルバトスがよくモラクスを陰に隠していることを知っていた。
というか今手を外したらオレ隣の人魚の彼女に刺されると思う。すごい視線が刺さる。いやオレは悪くないだろウェパル。
「駄目よ、ヒュトギン。いいって言うまで離さないで」
「え!? でも二人ともキスしてるだけだろ、ウェパル!?」
「それは……そうだけど」
ウェパルが口籠る。そうだけど。ヒュトギンには、ウェパルの言いたかったその続きが痛いほどによくわかった。
確かに、キスしているだけなんだけど。
ただの親愛のキスにしてはえらく淫猥すぎる。
その所為か隣ではバティンが静かに額に青筋を立てていて、今にも飛び出さんばかりの勢いだ。手元の注射器がみしみしと音を立てている。
「あのクズ、色気づいてアンドラスに何を……」
「バティンさん、落ち着いて下さい~。今のはアンドラスさんからキスしたように見えましたよ? なら問題ないんじゃないですか?」
冷静なユフィールがこの出歯亀パーティにいてくれたのは僥倖だった、とヒュトギンはソロモンの目元から手を離さないまま胸を撫で下ろした。そうでなければ、今頃バティンがあの場に乗り込んでいってフラウロスをぶん殴っていたに違いない。ヒュトギンの腕は残念ながら二本しかないのだ。そうなっては止める術がなかった。
「それともそれは~、ヴィータで言ういわゆる『嫉妬』というやつですか?」
前言撤回。ヒュトギンは天を仰いだ。これ以上ないくらいに見事な火に油、爆弾投下、アスモデウスにフラカンだった。
というか、この一喜一憂オレの役目かな? いつもはバルバトス辺りがやってくれるはずなんだけど。
ヒュトギンがここにはいない吟遊詩人の姿を探して現実逃避をしている間に、バティンは意外にもユフィールの問いをハッと鼻で笑って一蹴していた。「何を馬鹿な」と白けたように吐き捨てる。
「私はただ、アンドラスが性悪なヴィータのメスに騙されて呼び出されたんじゃないかと……骨抜きにされてしまわないかと見に来ただけですよ。あの子が使い物にならなくなったら、二倍働かないといけなくなって困るのは私ですから。……まあ、あのクズなら大丈夫でしょう。アンドラスを骨抜きにするような甲斐性があるとは思えません」
「あらら、手厳しいねえ」
思わず茶化すように言うと、ウェパルにじとりと睨まれる。
「大体、アンタこそなんでいんのよ、ヒュトギン。私は今日ソロモンの護衛だし、バティンとユフィールは医療チームの同僚が心配でついてきたのはわかるけど」
「だって……水使いのグループをプロデュースするにあたって、彼――フラウロスの交際関係には気を配っておきたいだろう?」肩を竦める。「折角巡業が盛り上がってるのに、行く先々で不純異性交遊でトラブルなんて困るしさ。だからついてきたってわけ」
「じゃあの人をこそ監督してよ。アレもボムでしょ」
ウェパルの言う「あの人」とは、この状況の諸悪の根源だ。
リヴァイアサン。
その彼女はと言うと、つい先程。
『アッハッハ、見なさいおかーさん大正解じゃないのー! やっぱりフラウロスも男の子なんだわ、好きな子といちゃいちゃしたいお年頃よねー! あっ、もしかしてカイルも引きこもりがちだったのその所為!? やだ、気付いてあげられなかったわね! ちょっとおかーさん用事思い出したから帰るわ!』
『ちょっとぉ!?』
帰っていった。
どこまでも自由人であった。
「……いや、オレにもあれはコントロールは無理というか……そう、忘れているかもしれないけど、オレはマラコーダ様の部下だよ? 元大罪同盟の大メギドなんかと、無断での政治的接触は避けたいのさ」
「よく言うわ……」
「ヒュ、ヒュトギン、そろそろ離してくれないか? それともフラウロスとアンドラス、まだキスしてるのか?」
痺れを切らしたソロモンに言われて、ヒュトギンとウェパルははっと物陰からカフェの方を覗き込む。見ると、何事か囁きあいながらフラウロスとアンドラスが同時に席を立ったところだった。時折互いに屈託ない笑みが漏れ出ているところを見ると、剣呑な雰囲気ではないようだ。どころか、店を出るその背中は心なしかいつもより距離が近い。
手の甲が遠慮がちに触れ合うぐらいに。
「……移動するみたいよ」
◇ ◇ ◇
「はー、ここのメシも旨かったな」
「楽しんでもらえたようで何よりだよ」
何軒目かの店を出たところで、フラウロスは満足そうに頷いた。「小洒落た店は性に合わねーんだよな」と言うフラウロスに対して、「じゃあ、あのバーはどうだい。それかあそこの定食屋もいいね。おいしいんだけど、結構料理の量が多いから一人じゃ行きにくくて……ああ、あとこの前新しくできた店もお酒の種類が豊富だし、きっとキミの気に入ると思うよ」とアンドラスがいくつか提案したうちの一つだった。どちらかと言えば賭場を兼業しているような薄暗い酒場を根城とするフラウロスにとっては、どれもあまり馴染みのない店だ。盛況だった店内に籠もった熱気から開放され、日の落ちかけた街のひんやりとした空気を浴びて生き返った心地になる。
満腹で満たされた状態は悪い気分ではなかった。
隣の男を振り返る。
「……さて。じゃ、奢り一回につき、キス一回だったな?」
「ああ」
それがこのデートでのルールだった。「デートするなら、俺がキミに奢ってもいい」と言うアンドラスの、提示した条件がそれだった。
「テメーのメリットは何だよ」
フラウロスにはいまいちわからなかった。好きでもない男にメシを奢ってキスさせて、それでテメーには何の得があんだよと。
アンドラスは首を傾げて言った。
「じゃ、俺がキミのことを好きだからと言ったら問題ないのかな」
「まあ……そうか? そうだな」
本音だったのか誤魔化しだったのか、アンドラスの真意は知らない。でもさせてくれっるっつーならありがたくいただいとくか、というのがフラウロスの信条だ。フラウロスにはメリットしかない。
アンドラスが素直に目を閉じる。フラウロスはその腰を抱いて引き寄せ、唇を触れ合わせるようにキスをした。普段冷静な言葉を紡ぐその口が柔らかくフラウロスの口づけを受け止め、応えようと薄く開き、唾液でほんのりと薄桃色に濡らしているのを見ると、体の奥の方がひどく熱くなるような感覚に襲われた。その錯覚は大抵、「くすぐったい」と笑うアンドラスの声で現実へと引き戻される。だがフラウロスは、どこかで劣情が引き切らない自分を自覚していた。絆されているのだろうか。――いつも解剖解剖言ってるガキ相手に、この一日で? ちょろすぎんだろ俺、と首を振る。
じっと見つめていると、まっすぐな視線と目があった。瞬く榛色の睫毛が光に透けて、妙な空気が流れる。日が落ちてきて、ぽつぽつと軒先のランタンが灯り始めたのも一因だろう。夜は人を開放的にさせる。
「……アジト帰るか? もういい頃合いだろうよ。あの女の気配もねーしな」
「いや……? 一般に、デートというのは"この後"があるんじゃないのかい」
フラウロスは、じっとアンドラスを見た。不思議そうに首を傾げるアンドラスの意図が読めない。
自分が何言ってんのか、わかってんのかコイツ。
「それに、ついてきてる彼らはまだ納得してないんじゃないかな……」
「あー、あいつらな……」
そちらに意識を向けると、一気に面倒臭くなる。リヴァイアサン本人は当にいなくなっているはずだが、残りの連中は何を目当てにまだついてきているのだろうか。多分、心配しているのだ。フラウロスがアンドラスに無茶をさせないかを。
それを考えると、妙にむかむかとした気分になってくる。うるせえ、俺がコイツをどうしようが俺の勝手だろう。
思わずアンドラスの手首を乱暴に掴む。
「? どうしたんだい」
「……行くぞ」
そう告げて、返事も待たず手を引いて早足で歩を進める。「! ああ……!」と頷くアンドラスの声音に嬉しそうな気配が滲んだのは、聞かなかったことにした。
◇ ◇ ◇
「ああ、ソロモンくん。この先は……」
二人を追っていたヒュトギンは、ソロモンの裾を掴んで足を止めた。ソロモンが振り返って「?」と首を傾げるのと、ウェパルが「バカ」という顔をするのが同時だった。ええ、とオレは理不尽な視線に憤慨する。そうは言ったって、このまま乗り込むわけにもいかないだろう。オレがブネに怒られる。
「この先は連れ込み宿が多い区域ですね~」ヒュトギンの言葉を継いで、ずばりユフィールが言う。「駄目ですよ~、ヴィータの生殖は基本的に隠れて行われるものですから~、邪魔しちゃいけません」
「せ、生殖って……」
ソロモンが赤面すべきかどうか迷った末、困惑した顔を見せた。ユフィールの言い方はよくも悪くも直球で露骨だ。
「バカじゃないの。フラウロスがアンドラスをどうこうするとも思えないけど」ウェパルが切り捨てる。「どうせ私達を怯ませて撒こうとしてるんでしょ? じゃ、私達もそろそろ潮時ってことじゃない?」
「そ、そうだな……本当にそういうことするならするで、覗き見はまずいしな……。と言うか、俺たちなんでアイツらのこと追ってたんだっけ」
「まあ元はと言えばあの人が暴走しないようにだけど……」
「リヴァイアサン、帰ってしまったからね。いいんじゃない、あの二人がちゃんとトラブルなく楽しい休日を過ごしていることがわかっただけでも」
パーティは既に、俺たちも帰ろ帰ろ、という雰囲気になっている。ヒュトギンにはあともう少し見ていってもいいかなという好奇心があったが、その場にじっと留まっているとウェパルのジト目が刺さるために諦めた。と、バティンが「……チッ」と舌打ちをし、パーティから外れてくるりと逆方向へ踵を返す。
「バティンさん~?」
「少し鬱憤を晴らしてから帰ります。大丈夫ですよ、あの二人の邪魔はしませんから」
「そうですか~、それはよかったです。なら、私達も帰りましょうね、ソロモンさん」
◇ ◇ ◇
「……今度こそ行ったみてーだな」
身を隠した路地裏から、背後の様子を伺い見た。ぞろぞろとついてきていた気配は、完全に消え去っていた。
「そうだね。途中からリヴァイアサンはいなかったみたいだけど、彼女、満足したのかな?」
「どーせまたどっか別のやつに余計なちょっかいかけてんだろ」
「そうだね。そうかも」
フフ、と笑う吐息が毒のようにじわじわと脳に回っているような心地がして、フラウロスは今自分達がしゃがんでいる路地裏の家の壁にでも頭をぶつけてみようか、と一瞬本気で考えた。そうすれば痛みで正気を取り戻せるかもしれない。
このままこんなガキと、一晩を共にするのも悪くねえか、なんて考えから。
夜になり、通りの軒先に揺れる怪しげなランプの光が、薄暗い、後ろめたい雰囲気にさせる。空気自体が淀んでいるような倦怠感。フラウロスは嫌いではなかったが、今この状況では体にべたりとまとわりつく湿気は鬱陶しいだけだった。
フラウロスは立ち上がり、ちらりと見下ろした目を細める。
「で?」
「俺は『いい』よ」
過程を無視した即答に眉を顰める。随分と簡単に言う。
アンドラスはしゃがんだまま、肘を付いて上目遣いに笑った。
「と言うか、キミにもそういうつもりがあったからここに来たんじゃないのかい」
「……解剖はさせねえぞ」
「今はそういう気分じゃないよ」
「俺がテメーに興味ねーとは思わねーのかよ」
「さあ。でもキミ、キスするとき、俺のことをひどく情熱的に見ていたよ。気付いてないの」
フラウロスは一瞬言葉に詰まった。自覚はあった。アンドラスに気付かれていると、思っていなかっただけで。
「……途中で泣いて謝っても知らねーぞ」
「むしろ、俺が仮にそうしたとしてもやめないでくれると嬉しいね。俺はキミと最後まで性行為をしたいわけだから」
アンドラスも立ち上がる。身長が近い分、視線を交わす距離も近い。そのことに、今日一日で慣れてしまった自分にフラウロスは気付いていた。アンドラスがすっと手を伸ばしてきて、唇に人差し指を押し当てられた。ふに、と柔らかく押された後、その指はアンドラス自身の唇をなぞり、フラウロスを誘う。
「それとも、俺を抱くのは怖いかな?」
「……上等だ」
その手を取り、路地の壁に押し付けてキスをした。触れるだけではなく、吐息ごと食らうような獰猛なやつを。後頭部をゴツと打ち付けたアンドラスの眉根に皺が寄る。舌を差し入れ、口腔を味わうように丹念に貪った。流石に慣れなかったのか、体を硬直させながらん、んん……と必死に息を継ぐ様子がいじらしいとさえ思ってしまう。重症だと冷静な部分が思考するが、止めるつもりはさらさらなかった。糸を引くように放すと、蜜のような瞳が蕩けて、恍惚とした様子でフラウロスを映す。アンドラスはくすぐったい、とは言わなかった。ただうれしそうに笑うだけだ。二人の間の劣情を引き戻すものはなかった。
「……やっぱぜってー泣かしてやるよ」
「フフ。お手柔らかに、頼むよ……」
※27歳×18歳が倫理的に問題ない世界として書いています。
~回想~
「ちょっとフラウロス! アンタ、いーっつもアジトで金せびったりたかったりしてんでしょ! もっと健全に遊びなさいよ、デートに出かけるとか……誰か気になる子いないの!? ほら、おかーさんに言ってみな!」
「うっせーーーいても誰が言うかクソババアァ!」
~回想終わり~
「それでどうして俺がここに呼ばれているのかな」
王都でも一番人気のカフェのテラス席だった。晴れやかな青空が広がり、華やかにはためく白いパラソルの下で大勢の女性客がケーキやパフェやクレープを前に談笑し、そしてフラウロスはぐったりとテーブルにその顔を突っ伏していた。
視線だけを動かして、正面に座る男を恨めしく見やる。
「知らねえよ……テメェもなんで素直に来てんだよ……」
「いやあ、だって『アンタとデートしたいって子がいるの!』なんて言われたら気になっちゃうじゃあないか。へえ、どんな子だろう、とか、俺の何がそんなに気に入ったんだろう、とか……俺にだって人並みの好奇心はあるんだよ」運ばれてきた甘いラテのカップを傾けながら、アンドラスは優雅に微笑んだ。今日はオフだからかあの胡散臭い白衣は着ていない。陽光の下で琥珀色の瞳が柔らかく煌めく。「まさかそれがキミだとは思わなかったけど。相思相愛ってやつかな?」
「うるせえ、俺はテメェだけは絶対に嫌だっつったんだ、『少なくともアンドラス「だ・け・は」絶対に御免だな!』ってなァ、そう言ったぜ……それをあのババア、『アンドラ』の四文字でアジト飛び出しやがった。カルタじゃねんだぞ」
「まあ早合点してアンドロマリウスを連れてこなかっただけ彼女にしては英断かなあ……?」
アンドロマリウス、彼女、キミとデートなんてさせられたら気絶してしまうだろうからね、とアンドラスがクスクスと笑う。フラウロスもそれはまあ確かにな、と思わなくはない。アンドロマリウスっつうと、あのトロ臭い陰気モノクル女だ。この場に連れてこられようものなら開口一番「え、無理ですぅ」「やだ……」「帰らせてぐだざい……」とまるでフラウロスがさも極悪人であるかのように半泣きで嫌がるに違いないのだ。アジトでならともかく、街中でやられると面倒になるのは目に見えていた。それを考えるとまあ、相手がこの男でよかったと、思わなくもない。一ミリくらいは。
「あとはアンドレアルフスとも間違えられなくてよかったねえ、フラウロスとデートだなんて、マルコシアスが卒倒してしまうよ。まあ彼、そもそも面倒臭がってこないだろうけど……フフ」
「あっテメー、面白がってんじゃねーぞ」
「ああ、ごめんごめん、顔に出てた? キミのげんなりした顔が少し愉快で」
「取り繕う気ねーだろ。あーあー、傷付いたからここ奢れよ」
「横暴だなあ。別にいいけど」
今日手持ちあったかな、と財布の中身を確認するアンドラスを横目に、フラウロスは幾らか気を取り直して目の前のコーヒーに手を付けた。少し時間を置いて冷ましていたブラックのブレンドだ。甘いのは性に合わない。「お待たせしましたー」と隣のテーブルにシロップたっぷりのパンケーキが運ばれてきている光景などを目の端に捉えて、思わずウヘェと口を歪ませる。たまにクソヴィータもアジトで同じようなものを作っているが、あんなものを食うやつの気がしれない。
「で?」
「あ?」
何だよ、とアンドラスに視線を戻す。目の前の男は相変わらずケーキの上のホイップのようなふわふわと読めない笑みを浮かべながら、フラウロスに改めて問いかける。
「奢るのはいいんだけど。キミ、俺とデートしたいの?」
「あ? ああ……そうだな。あの魚女、どうせどっかで様子見てんだろうし、フケたらまーたうるせえ気もするしな。どうすっか……」
「フラウロス」
不思議な声音で呼ばれる。フラウロスの視線の先で、いつの間にか立ち上がり、わずかに身を乗り出していたアンドラスの細い指が、すいとフラウロスの頬に触れた。目の前の男の動きをじっと目で追いながら、フラウロスはその動作に碌な反応を示さなかった。しいて言うなら、ああコイツ、今日は珍しく素手なんだな、と思ったことくらい。桜貝のような爪がフラウロスの輪郭をすっとすべってなぞる。
その指先が顎までたどりつき、くい、とつままれ上向かされる。側に立ち、唇を寄せるアンドラスの吐息が触れて。
何だと思っている間にキスされた。
「……!」
反射で舌をぐいと押し込んでねじ込むと、「ん」と甘ったるい声が漏れた。しかしそれで怯むアンドラスではなかったらしく、あろうことか押し返すように舌を絡ませてきた。ざらりと舌の表面を舐め合う感触を味わう。見上げるような形になって上向きの重力がかかる分、フラウロスの方が不利だ。唾液の混ざる音が響く。一瞬、周囲の時間が止まったような感覚があった。隣のテーブルからガチャンとカトラリーの取り落とされるはしたない音が聞こえて、刺さる視線にさすがに居心地の悪さを感じる。
知るかよ文句ならこいつに言えよ。
フラウロスはただ売られた喧嘩を買っただけだ。
しばらく濃厚に唇を重ね合った後、お互いどちらともなくぷは、と解放しあう。フラウロスはわけもわからず唾液で汚れた口元を拭いながら、怒鳴った。
「テメェ、急になんだよ!?」
「いや……だってキミにデートをさせたがってた彼女――リヴァイアサンを満足させなきゃ、キミは帰れないんだろう?」
「あァ!? まあ……そうか? そうだな……?」
確かに、と頷きかけて首をひねる。
だから何だ?
言動の繋がりを見出だせないフラウロスに、アンドラスは今しがたの乱暴極まりないキスなどさしたる問題ではなかったかのようにくちびるに人差し指をあててひそやかに微笑みかけた。勢いを削がれたフラウロスの手が、まるで恋人同士のようにぎゅっと握られる。普段縄鏢を扱っているアンドラスの手は、年相応に柔らかい。
衆人環視の中で、フラウロスにしか聞こえないような声で囁く。
「じゃ、俺達のデートを、後ろのギャラリーに存分に見せつけてやるのはどうかな、と思って」
◇ ◇ ◇
「わあ……」
物陰に隠れていたヒュトギンは、テラス席のど真ん中で熱烈に交わされるキスを目にして思わず手近なソロモン王の目元を手で覆っていた。「いや、ヒュトギン、俺別にそんなに子供じゃないから……」とソロモンが遠慮がちに目隠しを外そうとするが、いやあれは何だか十七歳の純朴なヴィータの青年に見せていい健全な光景とは言えない。ような。気がする。ヒュトギンは、自分はメギドであるためにそういった感覚には疎いと自覚していたが、経験上こういう場面に出くわしたときにブネやバルバトスがよくモラクスを陰に隠していることを知っていた。
というか今手を外したらオレ隣の人魚の彼女に刺されると思う。すごい視線が刺さる。いやオレは悪くないだろウェパル。
「駄目よ、ヒュトギン。いいって言うまで離さないで」
「え!? でも二人ともキスしてるだけだろ、ウェパル!?」
「それは……そうだけど」
ウェパルが口籠る。そうだけど。ヒュトギンには、ウェパルの言いたかったその続きが痛いほどによくわかった。
確かに、キスしているだけなんだけど。
ただの親愛のキスにしてはえらく淫猥すぎる。
その所為か隣ではバティンが静かに額に青筋を立てていて、今にも飛び出さんばかりの勢いだ。手元の注射器がみしみしと音を立てている。
「あのクズ、色気づいてアンドラスに何を……」
「バティンさん、落ち着いて下さい~。今のはアンドラスさんからキスしたように見えましたよ? なら問題ないんじゃないですか?」
冷静なユフィールがこの出歯亀パーティにいてくれたのは僥倖だった、とヒュトギンはソロモンの目元から手を離さないまま胸を撫で下ろした。そうでなければ、今頃バティンがあの場に乗り込んでいってフラウロスをぶん殴っていたに違いない。ヒュトギンの腕は残念ながら二本しかないのだ。そうなっては止める術がなかった。
「それともそれは~、ヴィータで言ういわゆる『嫉妬』というやつですか?」
前言撤回。ヒュトギンは天を仰いだ。これ以上ないくらいに見事な火に油、爆弾投下、アスモデウスにフラカンだった。
というか、この一喜一憂オレの役目かな? いつもはバルバトス辺りがやってくれるはずなんだけど。
ヒュトギンがここにはいない吟遊詩人の姿を探して現実逃避をしている間に、バティンは意外にもユフィールの問いをハッと鼻で笑って一蹴していた。「何を馬鹿な」と白けたように吐き捨てる。
「私はただ、アンドラスが性悪なヴィータのメスに騙されて呼び出されたんじゃないかと……骨抜きにされてしまわないかと見に来ただけですよ。あの子が使い物にならなくなったら、二倍働かないといけなくなって困るのは私ですから。……まあ、あのクズなら大丈夫でしょう。アンドラスを骨抜きにするような甲斐性があるとは思えません」
「あらら、手厳しいねえ」
思わず茶化すように言うと、ウェパルにじとりと睨まれる。
「大体、アンタこそなんでいんのよ、ヒュトギン。私は今日ソロモンの護衛だし、バティンとユフィールは医療チームの同僚が心配でついてきたのはわかるけど」
「だって……水使いのグループをプロデュースするにあたって、彼――フラウロスの交際関係には気を配っておきたいだろう?」肩を竦める。「折角巡業が盛り上がってるのに、行く先々で不純異性交遊でトラブルなんて困るしさ。だからついてきたってわけ」
「じゃあの人をこそ監督してよ。アレもボムでしょ」
ウェパルの言う「あの人」とは、この状況の諸悪の根源だ。
リヴァイアサン。
その彼女はと言うと、つい先程。
『アッハッハ、見なさいおかーさん大正解じゃないのー! やっぱりフラウロスも男の子なんだわ、好きな子といちゃいちゃしたいお年頃よねー! あっ、もしかしてカイルも引きこもりがちだったのその所為!? やだ、気付いてあげられなかったわね! ちょっとおかーさん用事思い出したから帰るわ!』
『ちょっとぉ!?』
帰っていった。
どこまでも自由人であった。
「……いや、オレにもあれはコントロールは無理というか……そう、忘れているかもしれないけど、オレはマラコーダ様の部下だよ? 元大罪同盟の大メギドなんかと、無断での政治的接触は避けたいのさ」
「よく言うわ……」
「ヒュ、ヒュトギン、そろそろ離してくれないか? それともフラウロスとアンドラス、まだキスしてるのか?」
痺れを切らしたソロモンに言われて、ヒュトギンとウェパルははっと物陰からカフェの方を覗き込む。見ると、何事か囁きあいながらフラウロスとアンドラスが同時に席を立ったところだった。時折互いに屈託ない笑みが漏れ出ているところを見ると、剣呑な雰囲気ではないようだ。どころか、店を出るその背中は心なしかいつもより距離が近い。
手の甲が遠慮がちに触れ合うぐらいに。
「……移動するみたいよ」
◇ ◇ ◇
「はー、ここのメシも旨かったな」
「楽しんでもらえたようで何よりだよ」
何軒目かの店を出たところで、フラウロスは満足そうに頷いた。「小洒落た店は性に合わねーんだよな」と言うフラウロスに対して、「じゃあ、あのバーはどうだい。それかあそこの定食屋もいいね。おいしいんだけど、結構料理の量が多いから一人じゃ行きにくくて……ああ、あとこの前新しくできた店もお酒の種類が豊富だし、きっとキミの気に入ると思うよ」とアンドラスがいくつか提案したうちの一つだった。どちらかと言えば賭場を兼業しているような薄暗い酒場を根城とするフラウロスにとっては、どれもあまり馴染みのない店だ。盛況だった店内に籠もった熱気から開放され、日の落ちかけた街のひんやりとした空気を浴びて生き返った心地になる。
満腹で満たされた状態は悪い気分ではなかった。
隣の男を振り返る。
「……さて。じゃ、奢り一回につき、キス一回だったな?」
「ああ」
それがこのデートでのルールだった。「デートするなら、俺がキミに奢ってもいい」と言うアンドラスの、提示した条件がそれだった。
「テメーのメリットは何だよ」
フラウロスにはいまいちわからなかった。好きでもない男にメシを奢ってキスさせて、それでテメーには何の得があんだよと。
アンドラスは首を傾げて言った。
「じゃ、俺がキミのことを好きだからと言ったら問題ないのかな」
「まあ……そうか? そうだな」
本音だったのか誤魔化しだったのか、アンドラスの真意は知らない。でもさせてくれっるっつーならありがたくいただいとくか、というのがフラウロスの信条だ。フラウロスにはメリットしかない。
アンドラスが素直に目を閉じる。フラウロスはその腰を抱いて引き寄せ、唇を触れ合わせるようにキスをした。普段冷静な言葉を紡ぐその口が柔らかくフラウロスの口づけを受け止め、応えようと薄く開き、唾液でほんのりと薄桃色に濡らしているのを見ると、体の奥の方がひどく熱くなるような感覚に襲われた。その錯覚は大抵、「くすぐったい」と笑うアンドラスの声で現実へと引き戻される。だがフラウロスは、どこかで劣情が引き切らない自分を自覚していた。絆されているのだろうか。――いつも解剖解剖言ってるガキ相手に、この一日で? ちょろすぎんだろ俺、と首を振る。
じっと見つめていると、まっすぐな視線と目があった。瞬く榛色の睫毛が光に透けて、妙な空気が流れる。日が落ちてきて、ぽつぽつと軒先のランタンが灯り始めたのも一因だろう。夜は人を開放的にさせる。
「……アジト帰るか? もういい頃合いだろうよ。あの女の気配もねーしな」
「いや……? 一般に、デートというのは"この後"があるんじゃないのかい」
フラウロスは、じっとアンドラスを見た。不思議そうに首を傾げるアンドラスの意図が読めない。
自分が何言ってんのか、わかってんのかコイツ。
「それに、ついてきてる彼らはまだ納得してないんじゃないかな……」
「あー、あいつらな……」
そちらに意識を向けると、一気に面倒臭くなる。リヴァイアサン本人は当にいなくなっているはずだが、残りの連中は何を目当てにまだついてきているのだろうか。多分、心配しているのだ。フラウロスがアンドラスに無茶をさせないかを。
それを考えると、妙にむかむかとした気分になってくる。うるせえ、俺がコイツをどうしようが俺の勝手だろう。
思わずアンドラスの手首を乱暴に掴む。
「? どうしたんだい」
「……行くぞ」
そう告げて、返事も待たず手を引いて早足で歩を進める。「! ああ……!」と頷くアンドラスの声音に嬉しそうな気配が滲んだのは、聞かなかったことにした。
◇ ◇ ◇
「ああ、ソロモンくん。この先は……」
二人を追っていたヒュトギンは、ソロモンの裾を掴んで足を止めた。ソロモンが振り返って「?」と首を傾げるのと、ウェパルが「バカ」という顔をするのが同時だった。ええ、とオレは理不尽な視線に憤慨する。そうは言ったって、このまま乗り込むわけにもいかないだろう。オレがブネに怒られる。
「この先は連れ込み宿が多い区域ですね~」ヒュトギンの言葉を継いで、ずばりユフィールが言う。「駄目ですよ~、ヴィータの生殖は基本的に隠れて行われるものですから~、邪魔しちゃいけません」
「せ、生殖って……」
ソロモンが赤面すべきかどうか迷った末、困惑した顔を見せた。ユフィールの言い方はよくも悪くも直球で露骨だ。
「バカじゃないの。フラウロスがアンドラスをどうこうするとも思えないけど」ウェパルが切り捨てる。「どうせ私達を怯ませて撒こうとしてるんでしょ? じゃ、私達もそろそろ潮時ってことじゃない?」
「そ、そうだな……本当にそういうことするならするで、覗き見はまずいしな……。と言うか、俺たちなんでアイツらのこと追ってたんだっけ」
「まあ元はと言えばあの人が暴走しないようにだけど……」
「リヴァイアサン、帰ってしまったからね。いいんじゃない、あの二人がちゃんとトラブルなく楽しい休日を過ごしていることがわかっただけでも」
パーティは既に、俺たちも帰ろ帰ろ、という雰囲気になっている。ヒュトギンにはあともう少し見ていってもいいかなという好奇心があったが、その場にじっと留まっているとウェパルのジト目が刺さるために諦めた。と、バティンが「……チッ」と舌打ちをし、パーティから外れてくるりと逆方向へ踵を返す。
「バティンさん~?」
「少し鬱憤を晴らしてから帰ります。大丈夫ですよ、あの二人の邪魔はしませんから」
「そうですか~、それはよかったです。なら、私達も帰りましょうね、ソロモンさん」
◇ ◇ ◇
「……今度こそ行ったみてーだな」
身を隠した路地裏から、背後の様子を伺い見た。ぞろぞろとついてきていた気配は、完全に消え去っていた。
「そうだね。途中からリヴァイアサンはいなかったみたいだけど、彼女、満足したのかな?」
「どーせまたどっか別のやつに余計なちょっかいかけてんだろ」
「そうだね。そうかも」
フフ、と笑う吐息が毒のようにじわじわと脳に回っているような心地がして、フラウロスは今自分達がしゃがんでいる路地裏の家の壁にでも頭をぶつけてみようか、と一瞬本気で考えた。そうすれば痛みで正気を取り戻せるかもしれない。
このままこんなガキと、一晩を共にするのも悪くねえか、なんて考えから。
夜になり、通りの軒先に揺れる怪しげなランプの光が、薄暗い、後ろめたい雰囲気にさせる。空気自体が淀んでいるような倦怠感。フラウロスは嫌いではなかったが、今この状況では体にべたりとまとわりつく湿気は鬱陶しいだけだった。
フラウロスは立ち上がり、ちらりと見下ろした目を細める。
「で?」
「俺は『いい』よ」
過程を無視した即答に眉を顰める。随分と簡単に言う。
アンドラスはしゃがんだまま、肘を付いて上目遣いに笑った。
「と言うか、キミにもそういうつもりがあったからここに来たんじゃないのかい」
「……解剖はさせねえぞ」
「今はそういう気分じゃないよ」
「俺がテメーに興味ねーとは思わねーのかよ」
「さあ。でもキミ、キスするとき、俺のことをひどく情熱的に見ていたよ。気付いてないの」
フラウロスは一瞬言葉に詰まった。自覚はあった。アンドラスに気付かれていると、思っていなかっただけで。
「……途中で泣いて謝っても知らねーぞ」
「むしろ、俺が仮にそうしたとしてもやめないでくれると嬉しいね。俺はキミと最後まで性行為をしたいわけだから」
アンドラスも立ち上がる。身長が近い分、視線を交わす距離も近い。そのことに、今日一日で慣れてしまった自分にフラウロスは気付いていた。アンドラスがすっと手を伸ばしてきて、唇に人差し指を押し当てられた。ふに、と柔らかく押された後、その指はアンドラス自身の唇をなぞり、フラウロスを誘う。
「それとも、俺を抱くのは怖いかな?」
「……上等だ」
その手を取り、路地の壁に押し付けてキスをした。触れるだけではなく、吐息ごと食らうような獰猛なやつを。後頭部をゴツと打ち付けたアンドラスの眉根に皺が寄る。舌を差し入れ、口腔を味わうように丹念に貪った。流石に慣れなかったのか、体を硬直させながらん、んん……と必死に息を継ぐ様子がいじらしいとさえ思ってしまう。重症だと冷静な部分が思考するが、止めるつもりはさらさらなかった。糸を引くように放すと、蜜のような瞳が蕩けて、恍惚とした様子でフラウロスを映す。アンドラスはくすぐったい、とは言わなかった。ただうれしそうに笑うだけだ。二人の間の劣情を引き戻すものはなかった。
「……やっぱぜってー泣かしてやるよ」
「フフ。お手柔らかに、頼むよ……」
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