イン・ザ・コフィン

(2019/12/12)


 頭が痛え、と思った。後頭部が棺桶の硬い底板に接していたからだったが、原因は多分それだけではない。
「……おや。目が覚めたのかい」
 半分ほど閉まっていた蓋を蹴り飛ばして上体を起こすと、それだけでガンガンと脳が揺さぶられて割れるように頭が痛んだ。クソ、とフラウロスは舌打ちしながら額を押さえて髪をかきむしる。何なんだクソ。どうにかこうにか薄目を開けて見渡すと、ベッド代わりにして眠っていた棺桶の周りには無数のカボチャだの酒瓶だのが行儀悪く転がっていて、ああそうだった、アジトの広間で馬鹿騒ぎの末に酔い潰れていたのだったと思い出す。
 ガキどもも寝たことだし、こっからは大人のハロウィンの時間だぜ!とかなんとか言って。
 然しその割には人が居ない。広間はしんと静まって静かだ。わずかに灯された蝋燭の灯だけが無人の室内を照らしていて、周囲に一つの人影も見出さないまま、円卓の影だけを床に色濃く落としていた。メフィストだのパイモンだの、一緒に馬鹿やって飲んでた奴らが数人転がっててもおかしくはねえのに。
 俺の視界にいるのは、壁際のカウンターに腰掛けてひっそりとグラスを揺らしている男だけだ。
 視線に気付いた男がゆるい笑みを浮かべる。
「もうキミだけだよ。後はみんな自室に戻った。自力で這っていったか、誰かに運んでもらったかの差はあったけどね」
「オメーは何なんだよ、アンドラス」
「俺?」
 問いをぶつけられたアンドラスが、ぱちりと瞬いて首を傾げる。相変わらず、すっとぼけたツラが上手いやつだった。こっちの質問の意図を正確に把握しているだろうに、そのくせ慎重にその理解が「正解」かを探ろうとする。まどろっこしいことこのうえない。「オメーは酒盛りにはいなかったろう。なんでここにいやがる」じっとりと見やる。
 アンドラスがグラスに視線を落として笑った。そうしていると、彼の飴色をした髪や、触れるとしっとりと吸い付くような肌や、琥珀色の瞳なんかが、年相応に柔らかく見えた。半透明の液体が、手元のランタンに照らされて光を反射する。
「……さあ。部屋にいても目が冴えちゃってさ。キミの寝顔を肴に飲み直してたところ」
「そりゃあ……さぞかし酒も旨くなったろーな。金払えよ」
「キミのツケから差し引いといて」
「チッ」
 言いながら、棺桶の縁に手を掛けてヨッと中から脱すると、存外しっかりと立つことが出来た。この調子ならアルコールもすぐ抜けるだろう。しかし妙に動き辛えな、と無理に伸びをしようとして、自分の今着ている服がいつもの軽い装備ではなくスーツをアレンジしたものであることを思い出した。吸血鬼の仮装だ。ソロモンが準備した。しかし服もマントも、着たまま寝ていた所為でぐしゃぐしゃに皺が寄ってしまっていた。げ、とフラウロスは素早く思考を巡らせる。あー、これはなんかクリーニング得意な奴に言ったらどうにかなんのか? 後でカスピエルにでも相談してみっか……折角作ったモンが皺くちゃだとクソヴィータ号泣しちまうかもしんねえしな。いや俺は気にしねえけど。そうなったら面倒くせえし。
 裾を掴んでなんとか皺を伸ばそうとしていると、「はい」と目の前にコップが差し出された。こっちの中身は透明だ。「おっウォッカか? 気ィ利くじゃねえか」「そんなわけないよ、水に決まってるだろ。ほら、飲んで」「あそう」フラウロスはそれを無視してアンドラスが先程まで飲んでいたグラスをぶんどった。勢い良く煽って飲み干す。酒飲みたさ半分、この男がどんな酒を飲んでいるのかの興味半分だったが、フラウロスの喉を通ったのはアルコール分などほぼない、ジュースみたいなものだった。
 果実の甘い味が口の中に広がって渋面を浮かべたフラウロスに、アンドラスが少しおかしそうに笑う。
「それ俺の酒だよ」
「ガキは酒は禁止だ。残念だったな」
「意外と硬いこと言うね」
「オメーは意外とワルイ子だな」
「そうだよ。まったく、誰の所為だろう」
 水の方のコップも取り上げて飲み、棺桶の側面を蹴り飛ばした。衝撃で中身の造花がわさわさと揺れる。これは部屋持って帰んのめんどくせーしこのままでいいか。これは、こんなもん本格的に用意しやがったクソヴィータが悪ィし。
 それより、クソ甘えもん飲んだからか喉が渇いた。
「棺桶、置いていっていいの? キミ、それ気に入ってただろう」
「俺が?」
「そう、キミが。みんな起こそうとしたけど、キミが蓋まで閉めて出ようとしなかったから、それで誰もキミを運べなかったのだよね。棺桶ごと運ぼうにも、重かったし……アクィエル、彼はすごいよ。それと同じようなものを軽々背負って戦っているんだから」
「そりゃあ、アイツは……」
 純正メギドだしそうだろ。益体もない世間話に、しかしフラウロスはなんだかどうでもよくなっている自分に気付いた。
 それより喉が渇く。
 ぺろ、と唇を湿らせた拍子に犬歯が舌に引っ掛かる。
 ……もうこの際何でもいいか。
「アンドラス。ちょっと来いよ」
「うん? 何だい」
 こっち、とちょいちょいと招くと、アンドラスはこっちが驚くほど素直に距離を詰めてくる。足元の酒瓶を幾つか転がして道を空ける。内緒話をするように口元に手を寄せると、うん、と横を向いて少しかがむ。
「……オメーさあ」
「うん……?」
 もうちょっと警戒心とか持てよな。
 言わずにガッと足首を蹴って払った。
「っ、わ」
 アンドラスの体がバランスを崩し、一瞬驚いたように目を見開く。その表情の動きはわずかで、けれどフラウロスの欲求を満たすには十分すぎる変化だった。
 手を掴んで反転させ、そのままアンドラスの細身の体を棺桶の中にドサリと放り込む。
 紫の花弁が散って、アンドラスの体を覆った。
 ついでに口にも何枚か入る。
「むぐ……」
「ギャハハ! 引っかかりやがったな! いーいザマだぜ!」
 ゲラゲラとその間抜けなさまを笑い飛ばすと随分と気分はよくなった。腕で閉じ込めるようにして見下ろして、一つキスをすれば尚更。押し倒され、どさくさに紛れて唇を奪われたアンドラスは未だ事態が飲み込めず匣の中できょとんとしている。
 二人を見下ろす蝋燭の灯が、揺れるフラウロスの影をアンドラスの赤みの差した肌に落として、それを目にしたフラウロスに渇きを強く訴えていた。そのまま行為に及ぼうとすると、しかしさすがに胸を強く押されて押し止められる。
「んだよ」
「いや、何って……フラウロス、キミもしかして酔ってる?」
「いいや?」
「寝惚けては?」
「ねぇよ」
 言えばアンドラスは大分疑り深い目を向けた後、ためらいなくフラウロスの片目に手を伸ばし、瞼を指で上下に押し開いて覗き込んできた。じっと視線がかち合う。「瞳孔反応は正常……かな……暗くてよく見えないけど……」。ド失礼だなコイツ。気ィ狂ったからってこんなことするわけねえだろ。
 こんな酔狂な真似。
「じゃ、今キミは明確な意図をもって俺を組み伏せてるわけだ」
「ああ。ちゃんとわかってんじゃねーか」
 そう……と温度のない声で呟いたアンドラスが、これからするフラウロスとの行為にどういう感情を抱いたのかはわからなかった。ただ明確な文句は出なかったから、フラウロスは気にも留めなかった。嫌なら言うだろ。それでやめてやるかは別だが。棺桶の中で覆いかぶさったまま、肌の露出した部分を甘噛みする。耳、首、それから鎖骨。柔らかく食んで肌を吐息で濡らすと、組み敷いた体がくすぐったそうに身をよじろうとするが匣が狭くてどうやら叶わないようだった。碌な抵抗をされないのをいいことに、好きに口付け肌を擦り合わせて熱を押し付けていく。
 少し強く抑え付けて歯を立てると、喉を反らして痛みを殺す気配があって、その仕草に目のくらむような興奮を覚えた。
 皮膚の下を流れる血、波打つ心臓の鼓動。
 アンドラスという男のそれらすべてが今俺の腕の支配下にあるのだという愉悦。
「……フラウロス」
「んだよ。止めんなよ……」
「じゃなくて。場所を変えよう。ここじゃ流石にまずい」
「いーじゃねーか、どうせ誰も起きてこねえよ」
「ん……っ」
 うるさい唇を塞いで下半身に手を這わす。するりと腿を撫でると薄い布越しに熱が伝わってきて、執拗にその触感を追い掛けていると内腿で擦り合わせるように手を挟まれた。見ればアンドラスがかすかに息を上がらせながら、困るような視線を送ってきている。んだよ、もうやっていーのか? フラウロスはその無言の訴えを心優しくも聞き入れてやって、強引に脚を持ち上げ棺桶の縁に引っ掛けさせた。アンドラスの目に剣呑さが増したが気の所為だろう。
「これいいな」
「……キミ、今日は少し意地が悪いな」
「どうとでも言え」
 その意地の悪いのが好きなくせに、と思う。言ってはやらない。自覚があるかは微妙なところだ。
 と、不意にチャリ、とピアスが擦れた音を立てた。フラウロスの耳が微かな物音を拾ったからだ。廊下の方から。誰かの足音と話し声。恐らく二人、こっちに向かってきている。
 アンドラスもフラウロスの不意の静止と表情で察したようだった。ぴた、と動きを止める。
「……まずいね」
「隠れっぞ」
「いいけど、どこに……」
 アンドラスが言い終わる前に匣の外へと手を伸ばした。「足しまえ」「えっちょっと」蓋を拾い、ガタガタとぞんざいに棺桶の上へと乗せる。棺桶はちょうど手近で、身を覆うことができて、隠れるのには好都合だった。
 狭いということを除けば。
 かすかな光が完全に閉ざされ、真っ暗な匣の中でぎゅうとアンドラスと押し込められる。
「……いや、さすがにヴィータ男性二人じゃ無理があるよ。知っているかい、大抵の棺桶は一人用だ」
「我慢しろよ。もしあれが説教野郎だったりしてみろ、見付かったら今度こそ俺の脚があぶねーじゃねーか」
「キミ正座苦手だもんね……じゃなくて。だから場所を変えようって言っただろう……」
 そう、このアジトで夜中に誰も起きてこないなど言い切れるわけがないのだ。夜行性の者だって多いし純正メギドはそもそも眠りが浅い。ポータルの見張りは昼夜交代制だ。
 なのにその事実は見なかったフリをした。
 だって目の前にうまそうな肉がありゃあ食うだろう。むしゃぶりついて何が悪い。
 緊張の満ちる無音の匣の中に、二人分の浅い息の音が響く。外には聞こえていないだろうか。耳をピンと立てながら強張った体をくっつけ合っていると、相手の呼吸、鼓動、瞬きの震えすらピンと張られた糸を通じるように伝わってくる。脚を絡めるとわずかに腰を引き。吐息をこぼすと息を詰めて。
 目を見れば、暗闇の中こちらを捉えてはいないのだろう琥珀色の瞳が堪え切れないように熱を孕んで揺れている。
 なんだ、テメーも存外その気なんじゃねーか。
 フラウロスは知らず獰猛な笑みをこぼした。
 それと同時に肝心なことに気付く。
 続きヤるとして俺これ身動き取れねーんじゃ下脱げねーんじゃね?
「……………………。まあいいか」
「ねえ、キミ今絶対碌でもないこと……っ」
「黙ってろ」
 後頭部に手を差し込んで乱暴にキスをした。舌で中をいじくり、息をつかせる暇もなくじっくりと味わっていると、密着するアンドラスの体が段々と弛緩して息が蕩けていく。
 早くぐちゃぐちゃにしてやりたい。その澄ました顔を歪ませてやりたい、と思う。
 でも俺も挿れらんねーとか聞いてねーんだよな。
 どうしようもなく持て余して腰を揺らす。布越しに皮膚の擦れ合う感覚に耐え切れずにふ、と漏らされた短い吐息にさえ煽られる。早くどっかいけよ。俺が我慢できずにテメーの前でコイツを犯しちまわないうちに。
 願いが通じたのか、ぴんと立てていた耳が人の声を捉える。
「……程々にしろよ」
 それは何かの会話のはずみだったのか、それともこちらに向けられた言葉だったのか、フラウロスには判別はつかなかった。しかしそれを境に足音は遠ざかっていく。熱の籠もった匣の中でそれが完全に聞こえなくなるまで、気の遠くなるような時間が流れた気がした。

 ガタン、と蓋を背で押しのけて、フラウロスはようやっと上体を起こした。「ぷは」と息苦しさから解放される。見回しても誰もいない。薄暗く蝋燭の明かりが揺れているだけだ。誰かが去っていったであろう、広間の扉の方を睨みつけて罵る。「クッソ。こんな時間に起きてんじゃねーよ、なぁ……あ?」
 アンドラスの反応がない。
 見下ろすと、ぼう……と蕩け切った目と目が合った。
 浅い息を漏らす口元からちろりと見える舌の赤さが、妙に鮮烈にフラウロスの瞼に焼き付く。
「……んだよ、もうイッちまったのか? まだ何もしてねーだろ、ガマンが足りねーんじゃねーの?」
「…………そう……だね……………………まったく、誰の所為だろうね……」
「おっし、じゃあ早く続きやんぞ」
「……フラウロス。キミね……」
 脚を押し開こうとするとじっとりと睨まれた。髪をかき分けて汗の滲む額にキスしてやるとむくれた。拗ねてやがる。ウケる。
「……部屋で、したい……」
「馬鹿言え、テメーを気遣ってやってんだろうが? こんな状態で部屋行けんのかよ」
 せせら笑うと、一つ溜め息を吐かれる。「本当、そんな言葉で言い包められてしまうんだから、よくない影響だよ……」アンドラスは諦め切った様子でそうこぼした後、ゆっくりとフラウロスの首に手を回した。
1/1ページ
    スキ