かわいいといえばキャット

(2019/08/17)


 フラウロスが、猫になった。
 それも中身だけ。
「にゃーう」
 相変わらずその見た目は二十七歳成人ヴィータ男性のままなのだけれど、アジトのソファに掛ける俺の膝に手をついて、全体重を乗せて喉を鳴らし、俺の首筋に頬を擦り寄せてくるさまはどこからどう見ても猫のそれなのだった。最初はふざけているのかとも思ったけれど、フラウロスがそういう、自分を侮らせるような悪ふざけを好むとも思えなかったし、その理由もない。ソファを占拠したいだけなら、いつもの傍若無人さを遺憾なく発揮して、「アンドラス、退けよオラ」と俺を押し退ければよかったんだから。
 何よりアジトを訪れたグリマルキンが、この状態のフラウロスを一目見るなり「ハッ……ついにこの私にも猫族の弟分がー!?」と言い残して走り去っていったから、つまりはそういうことなんだろう。そのグリマルキンはと言えば、栄えある弟分第一号への餞別のつもりなのか、先程サバ缶をそっと置いていった。フラウロスはそれが気になったようで、無邪気に拾って開けようとしていたが、猫には難しかったのかカリカリ、カリと缶の表面を爪が滑るばかりだ。終いには「…………にゃあ」と不機嫌なんだか切ないんだかな声を出す。仕方なく俺が開けてやると、飛びついて中身をぺろぺろと舐め始めた。口周りに油がつくのを手持ちの布で拭ってやったものだから、俺の手元は今、ものすごく魚臭い。アジトのソファに腰掛けたまま、俺は少し困ってしまった。あーあ、これじゃあ本が読めないじゃないか。
 二人分の体重に、ソファの座面が重く沈む。
「……一体、何がどうなってこうなったんだい……?」
 いつの間に来ていたのか、バルバトスの困惑した声が聞こえた。俺の視界はつややかな銀の髪に覆われていたから、彼の姿は見えなかった。ぺろ、と鼻の先を舐められる。うわ、くすぐったい。
 ソロモンも戻ってきていたようで、目の端に彼の入れ墨と後ろに控えるアリトンが見えた。と、はたと何かに気付いたアリトンが、こちらに寄ってきて手ぬぐいを取り出したかと思うと恭しく俺の両手を拭いてくれた。魚の臭いがマシになる。相変わらず有能なことだ。ありがたい。
 ソロモンが口を開く。
「いや……その。俺が油断してて、向かってきた幻獣の攻撃を飛び出したフラウロスが受けちゃったんだ」
「その幻獣は?」
「倒したんだけど、治らなくて……」
 そのとき、ぴょんとフラウロスが俺の膝から跳んだかと思うと、ソロモンの側にすいと寄っていき、その腕をべしべしと叩き始めた。クソヴィータ、テメェがぼけっとしてっからだろ!という抗議だ。……多分。
「痛! 痛いよフラウロス! 悪かったって!」
 ソロモンの謝罪もどこ吹く風で、心ゆくまでべしべしとソロモンの腕を猫パンチする感触を堪能すると、フラウロスはふいとそっぽを向いてどこかへ行ってしまった。微妙にフラフラしているものの、その歩行はしっかりと二本足で行われていて、猫の意識なのに四足ではないんだな、と興味深くその様子を見守る。その辺りはベヒモスと同じような感覚なのかも知れない。他のメギドより幾分か獣の性質が強い彼でも、完全なヴィータ体のときは二足歩行だ。

「ええーっ!? フラウロス、猫になっちゃったの!?」
「やだーかわいー!」
「ねえ、この猫フラウロス、焼き菓子食べるかしら?」
 しばらくすると、そんな女性陣からの歓声を背負って、フラウロスが食堂から戻ってきた。もぐもぐと口を動かしているところをみると、おやつを貰ったんだろう。それで空腹が満たされたのか、くぁ、と欠伸をしながらまたのそりと俺の膝の上へ戻ってくる。どうやら彼はここを定位置に決めたらしい。
「ちょっとぉ!? 皆、順応が早すぎないか!?」
「それでしたら、混乱なきよう、私が事前に知らせておきましたよ、ソロモン様」
「そ、そっか……ありがとうアリトン……?」
「いえ」
 そんなソロモンとアリトンの会話を尻目に、フラウロスはぐしぐしと丸めた手で獣耳の辺りを擦った。元々彼自身のメギド体もネコ科に近いからその仕草には違和感がない。
「妙にキミに懐いてるね、アンドラス」
 というのは、少し冷静になったバルバトスの言だ。そうかな。そうかもしれない。俺の膝の上でフラウロスの体は完全に弛緩していて、普段の警戒心の欠片もなかった。喉を撫でてやると、目を細めてごろごろときもちよさそうな声を出す。俺も動物にはあまり好かれない質だから、こういうのは新鮮で、悪くない。
 でも事情を知らないと心臓に悪い光景であることに変わりはなく、ちょっと、何の騒ぎ?と顔を見せたウェパルが一瞬言葉を失って、それからアリトンから説明を受けて納得したような顔をしていた。
「ところで、ソロモン様。彼の異常は、幻獣の攻撃によるものなのですよね?」
「ん? ああ」
「それならば、アンドラスの力で回復できるのではないですか」
 アリトンの疑問に、バルバトスも膝を打つ。
「そうか、アンドラスは状態異常を治せるものな! できるかい?」
「そうだね、バルバトス。それは俺も考えたけど……」
 うーん、百聞は一見にしかずかな。そう考えて、俺はさっと縄鏢を取り出した。回復薬を打ち込むためのものだ。途端、不穏な気配を察知したフラウロスがガバリと身を起こしたかと思うと、俺の膝から素早く飛び出して、柱の陰に隠れてしまった。
 ふしゃー……とこちらを覗き見る様子は、もし彼が体も猫だったら、全身の毛が逆立っていただろう警戒ぶりだ。
「……と、いうわけさ」
「そうか……。いや、しかし……これって……」
 バルバトスが何かを言いかけて口籠る。
 いや、言いたいことはよくわかるよ、と頷いた。俺もそう思う。多分、同じ気持ちだ。でも、それを口にすることはしない。
 何故って、俺達は同じ軍団の仲間なのだから。
「ていうか治す必要あるわけ? 正直このままの方が世の為なんじゃない」
「わーーーっウェパル! 思っても言わなかったことをーーー!」
 バルバトスがうわーっと顔を覆う。それを、それを言っちゃあおしまいじゃないか!
 そう、この瞬間、アリトンから事情を聞いたこのアジト内のソロモン以外の全員の心が一つになっていたに違いない。
 ――別に治さなくてもいいんじゃないか?
 多分、ソロモンだけが、純粋にフラウロスのことを心配していた。
「そんなの駄目だ、ウェパル!」
「でも事実でしょ。ソロモン、あんたアイツに先週いくら使い込まれたのか忘れたの?」
「うっ……」
「猫は酒場で散財したりしないわよ」
「暴力沙汰を起こしたりもしないね……」
「善良な人々を恐喝したりもいたしませんね」
「ううっ」
 そのソロモンも、矢継ぎ早に放たれる正論になすすべもなく薬膳メギド鍋を丸呑みしたような顔をして黙った。真っ当な擁護をするには、フラウロスにはあまりに前科がありすぎた。
 でも猫のフラウロスには罪はない。
「フフ、あんなこと言われてるよ、フラウロス」
「うなー……?」
「駄目じゃあないか、勝手に軍資金を使っちゃあ」
「なーお……」
 縄鏢をしまうと、もう危害を加えられることはないと悟ったのか、また俺の元へと戻ってきて体を擦り付けてくる。中身が猫化しても、知能は下がっていないようだった。その好奇心を俺のポーチに向けることにしたのか、しきりにぼすっぼすっと叩いてくる。あっこら。その手を止めて喉を撫でてやっていると、不意にウェパルが振り返る。
「アンドラス、アンタも今のうちに解剖の同意取っておいたら? 今ならジャーキーで釣れば二つ返事で頷くんじゃない」
「いやあ、そうしたいのは山々なんだけど、今の彼に事理弁識能力が備わっているとは思えないからなあ」
 後でフリアエに、その同意は無効だと怒られてしまうよ、と笑うと、ウェパルは気のない風に「アンタ、変なところで律儀よね」と肩を竦めた。
 フラウロスは、そんな会話が聞こえなかったかのように、俺の太腿の上でくぁ、と欠伸をして丸くなった。俺のポーチへの興味は失くしてしまったらしい。ヴィータのときと違って、驚くほど警戒心が薄い。その様子を見ながら、猫の中身も悪くないけど、と俺は思う。それでも、こんなのは彼らしくないな、とどこかで思う自分がいる。

 その異常は夜まで続いて、湯浴みを終えて部屋に戻ると夕食時には姿を消していたフラウロスがいつの間にか部屋にいてベッドを占拠していた。リラックスして、完全に自分がこのベッドの主だとでも言いたげな顔で丸まっている。ヴィータのときはそんなに無防備でいなかったくせに、と思う。彼はいつだって、意識にわずかばかりの警戒を残していた。
 俺はよいしょ、とその細身の体を押しのけてベッドに入る。
「フラウロス、俺はもう寝るよ。窓は開けておくから、好きに出ていってくれ」
 そう言ってシーツをかぶる。その言葉を聞いて、フラウロスが退いてくれることを少しは期待したが、逆にしがみつかれ、ぺろぺろと頬を舐められてしまった。腹を弄られ、全身を擦り付けられてこそばゆい。それに、その熱で少し……性行為のときのことを思い出して、脈が早くなる。……っと、いけない。今、彼の中身は猫なのだ。俺一人がその気になっても虚しいだけだ。
「ちょっと……キミ、わざとかい? いい子だから、おとなしく寝てよ」
 甘える猫の猛攻をかいくぐり、額を押さえてヴィータの子供にするみたいに唇に軽くキスをする。されたフラウロスが、ぱちりと一つ瞬く。
「おやすみ、フラウロス」
 猫の目は、暗闇でもよく光るんだな。そんなことを思いながら眠りについた。

     ◇ ◇ ◇

 ちちち……と爽やかな鳥の鳴き声で目が覚めた。部屋に差し込む柔らかな朝日が温かい、あと、重い……と思えば、俺の腹の上にフラウロスの脚があって少し笑ってしまった。寝相はヴィータのときと一緒なんだな。「起きなよ、フラウロス。キミ、ヴィータの食事は食べられるの?」そう聞くと、ぱちりと目を覚ましたフラウロスは控えめに俺の上から体をずらす。
「……………………にゃーう」
 あれ。
 俺は首を傾げた。こちらに体重を預けるフラウロスの体が、わずかに強張っている。寝起きだからかな? でも、これは……。
「ねえ、フラウロス……」
 その、俺の一声を聞いたフラウロスの反応は早かった。全身に緊張を滲ませると、俺の上から飛び退って逃げようとする。俺は反射で追いすがって、その腰のベルトをなんとか掴んだ。
 必然、二人揃って床へと倒れ込む。
「わッ……」
「のわっ!?」
 バランスを崩して、折り重なるようにして倒れた。彼が俺の下敷きになって、これ幸いとばかりに肩を押さえつけてその瞳を覗き込む。
 目があったのは、ひどく理性的で、冷えた金色。
 俺は確信した。
「フラウロス、キミ……元に戻ってるな?」
 フラウロスは最初、すっとぼけようとして「にゃあにゃあ」と鳴いたが、「さっき普通に『のわっ』って言ったろう」と俺が退かずにいると擬態を諦めたようだった。にやりと悪い笑みを浮かべる。
「チッ、目敏いな。何で気付いた?」
「昨日の猫のときのキミは、もっと俺に体重預けてたよ。理性が勝ちすぎたんじゃない?」
「フーン。あーあ、しばらくタダ飯にありつけると思ったのによ」
「キミ、正気のままにゃんにゃん鳴いてお菓子たかるつもりだったの……」
「あったりめーだろ! なのにテメェの所為でおじゃんだ。ああ、そうだな……」
 ぐるりと首に腕を回される。あ、と思ったときには遅く、俺の体は強い力で抱き寄せられていた。ぴたりと腹と腹が密着して、フラウロスの吐息が首筋に当たる。
 否応なしに体温が上がる。
 アンドラス、と低く呼ぶ声。
「責任とって、甘やかしてくれよ、クソご主人?」
 にゃあ、と耳元で囁かれて甘噛みされて、俺の腰をぞくりと痺れが走った。脈が早くなって、興奮が高まっていることを自覚する。それは、昨日から燻ったままの期待を燃料にして、どんどん膨らんでいくのだ。俺は早々にその制御を放棄して、感情に身を任せることにした。「フラウロス、」呼ぶと唇を塞がれる。
 フラウロスに、猫が到底しないだろう触れ方をされながら、ああ、やっぱりこうでないとな、と俺は意識を熱に沈めた。
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