荒野に身を寄せて

(2019/08/16)


 地図にはない道を歩きながら、随分遠くまできた、とアンドラスは思った。照りつける太陽は同じものであるはずなのに、吸い込む空気は王都の近くと違ってひどく乾燥している。まとった白衣もなんだか砂っぽい。水場がないわけではなかったが、周囲の動植物も、少ない水分をやりくりする風な進化を遂げていて、なるほど体内に水分を貯蓄するその仕組みは何かに応用できそうで興味深いなと思う。旅をしていると、新たな発見ばかりだ。できるなら、一つずつ解剖してみたいものだった。葉の先を切り取るとじわりと内側から滲み出す水滴は、ヴィータの血液のようで、その芳醇さが好ましい。
 口を潤しながら振り返る。背後には、先日出立した街はもう見えない。背嚢から地図は出さなかった。意味がなかったからだ。正確には、今歩いている道だけが地図に載っていないのではなく、この一帯が白紙地帯なのだから。王都の地図上では把握し切れない未開の地。ペルペトゥムの周辺よりは人の気配があったが、聞いた限りでは次の街はもう少し歩いたその先のはずだった。
 つまり、今晩は野宿だ。
 と、同行人に伝えればやはり彼は大荒れだった。
「はァー!? 今日もまだ次の街に着かねーのかよおかしーんじゃねーの!?」
 フラウロスの叫びが大空に響き渡って、足元にいた虫が驚いてばたばたと跳ねて逃げていった。少し前までなら、幻獣を呼んでしまうからと激情も抑えていただろうが、今ではそんな懸念もほぼなくなって遠慮なしに叫ぶことができる。ウンウン、いいことだ、とアンドラスはにこやかに微笑んで、少し離れて小さく群生している森のような一帯を指差した。
「俺は着くのは明日だと伝えただろ? いいからあっちで日の落ちないうちに火を起こそう、食糧はあるし、薪には不自由しなさそうだ」
「クッソめんどくせー! オメーが一人でやれよ!」
「構わないけど、この前の街で負けて俺が立て替えたお金今返せるのかな」
 言うと渋々ながらも乾燥した低木の枝を集めてくることに決めたようだった。踏み倒すかと思ったが、ここでサボれば自分も夜は寒いだけだと観念したのかも知れない。この旅では、彼は案外勤勉だった。最初はどうなることかと思ったが、野宿の経験もあるようだったし(事情は深くは聞かない方がいいんだろう)、野山に放り出されても生き抜く知恵を身に着けているらしく、時折どういった植物や木の実が食に適するかを難なく見分けてアンドラスを驚かせた。戦争の終結に伴ってほぼ全滅したとは言え幻獣の生き残りもいて、そういうときに真っ先に飛び出しては鬱憤をぶつけるように叩きのめして帰ってくるから、戦闘向きではないアンドラスとしては、正直非常に助かっているのだ。
 何より一番驚いたのは、この旅に暇だからついていってやってもいいぜと彼が言い出したことだったが。
 乾燥した枝を集めて火を起こしていると、太陽の縁が、ずっと向こうに見える山間に掛かった。火の玉の揺れて燃えるように沈んでいくさまを、目を眇めて眺める。眩しい。いつか見た、彼のメギド体を思い出す。勇猛な獣の形を取った、力強いメギド体。フラウロスもそんな風に感じたりするのだろうか。何かしらの類似を見出したりするのだろうか、と食事の準備をしながら何気なく顔を上げると、当の本人は腹をかきながら木陰の柔らかい草の上に寝転んでいた。特に雄大な自然の光景などには興味はないようだった。
 昼間に狩った肉を調理したものを腹に流し込む。不思議なもので、フラウロスはまずくても食事には一切文句をつけなかった。ただ、酒が飲みたいとは言うし、街に着くたび飲んでいる。そうして暴れて出禁になる。その繰り返しだ。オメーの旅についていけば、知らねー街で酒飲みホーダイじゃん。彼はそう言うし、それ以上は言わない。まあ、嫌になればポータルから帰るだろう、とアンドラスは思っていた。アンドラスの目的は仕事に使うまだ見ぬ素材探しで、ついでにポータルキーを各地へ置いて回ることもしていた。元ソロモン王の軍団の者は、世界を救った特権として今もその恩恵にわずかばかりではあるが預かっている。だから、帰るだけなら簡単なのだ。ポータルを使えばいいから。けれどフラウロスが王都に戻る気配は一向にない。

 温暖な気候とはいえ、夜の荒地は少し冷える。首をすり抜ける風に思わず毛布にくるまると、フラウロスが猫のように寄ってきた。寄りかかると、肩を抱き込むように毛布で二重にくるまれる。彼の体温は存外温かいのだ。夜空の下で、眠るまで肩を寄せ合って二人でぽつぽつと言葉を交わすのが、ここしばらくの日常になっていた。
「今日は珍しい虫の抜け殻を見つけたよ。色が変わってるんだ。黄金虫の亜種だね」
「フーン。金になんの?」
「どうだろう、需要がないわけではないと思うけど。保存も効くし、拾っていこうか」
「持って帰ってベリトの野郎に高く売りつけよーぜ」
「はは、彼のお眼鏡にかなうかなあ」
「見る目で言やオメーも似たようなもんだからな、この前騙されかけてたじゃねーか。俺があの親父ぶっ飛ばしてなきゃ今頃身ぐるみ剥がれて売り飛ばされてるっつーの、ひれ伏すほど感謝しろよ」
「別に、そこまで危機感ないつもりはないけど」
「なら知らねーやつにホイホイついていってんじゃねーし」
「キミだって酒場でほいほい賭け事して毎回負けてるじゃないか。勝ったことある?」
「うるせー」
 不思議とフラウロスとの話は途切れなかった。俺も彼も、どこか似た者同士だからかな、とアンドラスはなんとなく思う。多分、俺達はメギド性とヴィータ性の配分が似ている。そう言ったら、彼は猛然と反対するだろうが。テメェみてーな解剖野郎と一緒にすんな!と毛を逆立てる様が容易に想像できて、少し笑ってしまう。その解剖野郎と一緒にいるのは、君の意志だろうに。
 見つめる薪がパチパチと弾けて、俺達の肌を赤く照らしていた。メギドラルとの戦いが終結して、ソロモンから離れてこうして旅をして。医者としてでもなく、軍団の一員としてでもなく、こうして彼の隣りにいるのは、なんだか不思議な心地だった。
 段々と、眠気が忍び寄ってきて、全身が温かい倦怠感に包まれる。フラウロスが、眠りやすい体勢を求めてわずかに身じろぐ気配がある。
「ねえ、フラウロス……」
「あ? んだよ」
 その声音が、こちらを拒むものではなかったから、アンドラスはつい、ぽろりとこぼしてしまった。
「キミ、本当にどうしてついてきてくれたんだい」
 彼の顔を覗き込むと、吸い寄せられるような金の瞳と目が合った。その内側では、普段の戦闘で見せるような荒々しい気性は鳴りを潜めている。彼も眠いのだろうか。
 なら、聞いてしまえばいいか、と思った。
 アンドラスは、一人で旅をするつもりだったのに。
「どうして、俺と一緒に旅をしてくれてる?」
「……さあな。当ててみろよ」
「俺、勘違いしちゃうけど」
「何を?」
「……キミが、俺に解剖させてくれるつもりなんじゃないかって……」
 唇が触れそうな距離だった。星の瞬きが聞こえてきそうなほどの静寂が、毛布にくるまれた二人の間を満たした。
 フラウロスの口の端が、きれいな弧を描く。
「そんなワケねーだろ、バーカ」
 ああ、そんな声音で言うから、俺が勘違いしてしまうんだよ。眠りに落ちる前に、ひっそりそんなことを思った。
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