第二幕、第二場

(2022/1/3)


 コツン、と何かが窓を鳴らす音が聞こえた気がして、アンドラスはふと目を覚ました。
 ぼんやりと視界を闇に慣らす。だが豪奢な天蓋と天井の境目の区別がつかないくらいにはまだ夜だ。身を固くして耳を澄ますが、空気を燃やして荒れ狂う爆発音だとか、鴉の群れよりも騒々しい幻獣の鳴き声だとかが続く気配はない。聞き間違いだっただろうか。柔らかいベッドに再び身を沈めようとした瞬間に、コツン、ともう一度。今度は明確に耳に残る。
 呼ばれている。
 アンドラスは少し迷って、手探りでベッドサイドのランプに火を灯した。じわ、と夜の中に光が滲む。常ならばこんなことで蝋を消費したくはないが、今は今回の雇い主であるアッズーロ家から借り受けている物なのでその辺りは大目に見てもらえるだろう。シルクの寝間着の上から、ドレッシングガウンを羽織る。もしかしたら、ソロモンたちの人質救出作戦に変更があったのかもしれないし、とアンドラスは少し心配になる。それで、プロデューサーが知らせにきてくれたのかも。確かに、鳥の嘴で窓を叩けばあんな感じの音になる。
 けれど窓を開け、ランプを片手にバルコニーへと出たアンドラスの視界には、プロデューサーの姿はなかった。
 代わりに庭に生える立派な大木の根元にひっそり蠢く影が一つ。
 ここはアッズーロ家の私有地なのでベロナの街の法に照らせば当然不法侵入だ。
「……誰かな。夜に紛れてこんなところにくる不埒者は」
「よーお、お貴族様の屋敷で快適なご滞在とは、いいご身分じゃねーかアンドラス」
「……その声、フラウロスか?」
 アンドラスは、「まあ医者だからね」と返すのも忘れて信じられない思いで大木の影を凝視した。二階の高さからは距離があったが、一筋差す月明かりに段々と目が慣れてくると、そこに寄りかかっているのは確かに軍団の仲間の一人である男だった。ぐたりと樹に寄りかかっているその姿に、一瞬手傷を負わされているのかとバルコニーの手すりを握る手に力が入る。だが声に緊迫感や焦りはない。
 どころか、その全身から滲み出る気配はアルコールのそれじゃあないか?
 思わず咎める声も出るというものだ。
「いや、キミ、一体どういうつもりだい。今俺たち作戦行動中だろう。それとも何か、予定が変わった?」
「ハァ? 知らねーよ作戦なんざ……俺は朝になってから幻獣倒しゃあいいって聞いてるだけなんだからよ」
 それでこんな夜中まで飲んでいたのか、とアンドラスは納得のようなものをする。確かにフラウロスの仕事は明朝人質の監禁場所に向かう際に幻獣を討伐することが主になるのだろうし、実際今仕掛けているのはプロメテウスたちだから、フラウロスに関係ないといえば、ない。
 そもそも、アンドラスにとっては今回のメンバーにフラウロスがいることの方が不可解だったのだ。この街に一攫千金のチャンスが眠っている噂もないのに、彼が進んで同行するような案件とは到底思えない。借りを作ったパイモンに連れ回されていると聞いたときには深く納得したものだ。手伝わされている、という感覚が、彼にとってはかなりのストレスになっているんだろう。
 前後不覚に深酒をするくらい。
 ……でもいいのかなあ。そんな状態で俺の元に来て。
 ランプをバルコニーの淵に置き、頬杖をついてアンドラスは眼下で瓶をラッパ飲みする酔っ払いを眺める。
 当たる夜風が、熱を持った頰に冷たい。
 俺の前で無防備を晒すリスクを、まさか考えないわけでもないだろう。
「……その様子じゃあ明日は二日酔いで使い物にならないんじゃあないか? それとも、俺特製の酔い止め薬をご所望かい」
「飲むかよそんなもん……降りてこいよ、アンドラス。トーリの野郎、もう手持ちの金がねえとか言い出しやがった。やっぱオメェの財布でねえと物足んねえわ……」
 無遠慮な物言いに、甘えるような声音。彼のこういうねだり上手なところに惹かれるヴィータも多いのだろう。アンドラスにとってでさえ、魅力的なお誘いだ。
 けど。
「……行けないよ」
 溜め息と共に小さく告げる。彼の、自由で気ままなところは愛すべき特性だとアンドラスは理解しているが(何せ彼が暴挙を働くたび、うっかり解剖してしまったときのこちらの正当性が増す!)、ソロモンたちの作戦に支障が出るとなれば話は別だ。
 この案件はグレスにもよろしく頼まれているのだし、下手に怪しまれるわけにはいかない。
 だが一方で、アンドラスの”個”がぐずっているのも確かだ。
 本当は今すぐ、下に降りてあの無防備な腹を開いてやりたい。
「……今頃、プロメテウスとマネージャーの彼が、街で一芝居打ってる手筈だろう? 俺もいつ呼ばれるかわからないし……」予定では、マネージャーを刺し殺してしまったプロメテウスが今晩取り乱して屋敷に戻り、そのことをソワレに知らせてからがアンドラスの出番だ。死体の検分をし、プロメテウスから「殺すつもりはなかった」という話を聞く。アンドラスも台本は受け取っている。「……それに、ロッソ側との交流のあるキミが、アッズーロ家に招かれている俺と話しているところを見られるとまずい。キミがアッズーロ側の人間だったならまだしも、ね」
「チッ、オメェまでそんなめんどーなこと言い出すのかよ」
「面倒だけど事実だからさ」
 この街特有の、理解し難い風習だ。そういうこともあるだろうね、とアンドラスは受け止めている。ヴィータは群れを形成すると、時として個ではなし得ない乱暴な判断を群衆心理として下してしまうものだ。アンドラスにとっても身に覚えがありすぎる事象だ。
 しかしどうやらそれも、彼がストレスを溜めている一因であるらしい。
「イエがどうとか関係ねーだろ」苛立ったように、寄りかかっていた大木を蹴りつける。「テメェのしたいようにすればいーじゃねえか、どいつもこいつも、慣習なんざバカらしい。家の名前なんざ捨てちまえ」
「フラウロス。キミってばどうしてそう……」苦笑しながら、この場合の彼をなんと評するのが適切だろうか、と口の中で言葉を探す。クズ、自分勝手、他人やルールに縛られるのが大嫌いな、自由を謳歌する気高いメギド。一言では彼を表し切れない。「……フラウロスなんだろうねえ」
 そう、例え彼がいくらクズと呼ばれようと、孤高の魂の色は変わらない。薔薇を他の名前で呼ぼうと、その香りが変わらないように。
 その自由な生き様を、少し羨ましいと思わせられる。
 ……もうちょっと金銭ルールには縛られてほしいところではあるが。
 アンドラスは嘆息する。それに軍団の方針にも、だ。いくら彼に熱烈に呼びかけられようと、アンドラスが今夜彼と一緒に行けないことに変わりはない。これ以上話していても良くないだろうとアンドラスがバルコニーから離れようとした瞬間、不思議と夜の闇の中で、彼の金の瞳が、ぱち、と蝶の羽のように瞬いたのが見えた。
 それから聞こえる不穏な呟き。
「……そうだな、したいようにすっか」
「うん?」
 アンドラスが首を傾げたその一瞬に、フラウロスはするすると庭の樹木に登ったかと思うと、「よっ……と!」という軽い掛け声と共に、いつもオセがやるようにしなやかにバルコニーに飛び移ってきた。とん、と足のついた音は衝撃音というほどでもない。静謐な夜に、余所者の侵入には誰も気づかない。
 バルコニーに二人、並び立つ。
「……酔っ払いの芸当なら、酒場でやった方がいいんじゃないか」
「んな一ゴルドにもならねーことすっかよ」
 フラウロスはアンドラスの戸惑いなどお構いなしに、上機嫌で首筋に頬を擦り寄せた。急に成人男性一人分の体重をかけられても、支えられる力はアンドラスにはない。よろ、と部屋に縺れ込み、調度品に倒れ込まないよう、二人で壁際に身を寄せた。ランプはバルコニーに置いたままだ。室内を照らすのは、微かな銀の月明かりだけ。
 壁に押し付けられ、腕の中に閉じ込められてみると実際かなり酒臭かったので、アンドラスはトーリという青年の財布の中身を心配した。これはだいぶ飲んでるんじゃないか。苛立っていて致し方ないとはいえ、一体いくら使わせたのか。
 考え込んでいるうちに、フラウロスの熱を持った片手がゴソゴソと寝間着の中に入ってくる。
「——フラウロス。駄目だよ、この部屋が監視されてないとも限らないんだ。誰か来たら本当にどうするんだ」
「いい子ちゃんぶってんじゃねえよ」
 フラウロスの喉を鳴らす音に、アンドラスは微かに瞼を閉じた。こういうときのフラウロスの声は、嫌になるほど甘美にねっとりと腹に響く。
「オメェもさっき、シたくて堪んねえってツラで見てたくせによ」
「……それは、じゃあ、させてくれるってことかな」囁くアンドラスの視線が自然、彼の丸出しの腹部に吸い寄せられる。期待につい胸を高鳴らせてしまう。薄い皮、その下の臓器に想いを馳せながら、そっと指を伸ばした。爪で、浮き上がった筋肉の合間の皮膚を軽く引っ掻く。「解剖……」
「! ……おっと」
 突然、フラウロスが目を鋭く細め、体一つ分距離を空けるようにアンドラスを引き剥がした。続けて腰骨を辿ろうとしたアンドラスの指が空振る。あれ、とアンドラスが瞬くのと、夜の闇を悲鳴のような声が引き裂いたのは同時だった。
 程なくして、階段を登る足音、ドレスの衣擦れの音が近づいてくる。
「先生……先生! アンドラス先生! 起きて下さい、早急に……お願いすることがございますわ!」
「!」
 来た、とアンドラスは顔を上げた。声はこの屋敷の主人、ソワレのものだ。
 話が動いた。
 図を描いたのはフルーレティだ。アンドラスは自分の役割を素早く確認する。まず何食わぬ医者の顔で出て、プロメテウスから話を聞き、路地裏にマネージャーを迎えに行く。
 しかしソワレの呼び掛けに返事をしようとした瞬間、ぐいと胸ぐらを掴まれた。

 アンドラスが見せたのは隙だった。
 それをフラウロスが逃すはずもない。

 気づけば乱暴に唇を塞がれていた。
 舌まで捩じ込まれそうになって、咄嗟にアンドラスは歯で柔くその肉を噛んだ。ばち、と視線が絡み合う。
 しつけのなってない啄みに、キミ、本当に怒るよと睨む。
「…………そんな怒んなよ。冗談だっての」
 フラウロスも、別に本気で事を進めようとは思っていなかったんだろう。ニヤリと笑ってアンドラスを解放する。
 拍子にガタン、と窓に背が当たって、思いの外大きくその音が響いた。
 まずい。
「……はいはい、今行きますよ、ソワレ様!」
「先生、今の音は何か……どうかなさって……!?」
「いえ……ちょっと、小鳥が」
 扉の向こうに答えながら、我ながら下手な言い訳を打った、とアンドラスは内心反省した。柄にもなく焦りが出てしまった。これから俺だって一芝居打たなきゃいけないのに、幸先が良くない。当たり前に、夜に小鳥など飛んでいない。
 フラウロスはその横で、声も立てずに爆笑している。
「小鳥って! もっと他にもあんだろ、マシな言い訳がよ!」
「誰の所為なんだい、まったく」
「だーいじょうぶだって、今オメェ寝てる設定なんだから、すぐ返事する方が不自然だろ」
 アンドラスが怪しまれればまず間違いなくこの男の所為なのに、小生意気にもちょっと一理あるようなことを言う。
「物は言い様だね。……もう行ってくれ、フラウロス。そう囀られると、あんまりかわいくてつい解剖しちゃいそうだ」
「おーこわ。じゃあ退散するかな」
 ひらりとバルコニーに出て手すりの上に身を翻すその手には、いつの間にか部屋の調度品として置かれていた高級そうな銀器が握られていて、というかポケットも少し膨らんでいて、ちゃっかりしているなあとアンドラスは場違いに感心する。
 と言うか俺が窃盗を疑われるんだけどな、それ。
 ……まあ構わないか、とアンドラスは目を閉じた。元より、この街の家同士のゴタゴタに巻き込まれているのは自分たちの方だ。こんな面倒な事件でなければ、今頃俺が彼と夜の街に飛び立っていたのだろうから。
「じゃあな。精々ボロ出さねえよう頑張れよ、アンドラスせんせ」
「キミもね、フラウロス。それじゃあ、おやすみ」
 また明日に、とその背を見送ってから、アンドラスはそっと、医者にはあまり似つかわしくない劣情を顔から引っ込めた。
1/1ページ
    スキ