鮮やかに苦い
(2021/08/14)
※7章戦争if フラウロス軍団長時代捏造
金属の焼けついたような色の空を見上げる。砕けて雨のように降り注ぐ浮島、濛々と上がる黒煙、響き渡る鬨の声。一つ視線を下げれば、フォトンをあちこちで破裂させ、無数の醜いヴィータ体が群となってぶつかり合っている。メギドラルでの戦争の光景は、いつも俺の胸を優越感で満たした。この場では議席だの何だの、面倒なしがらみは関係ない。この場を支配するのは純粋な力のぶつかり合いだ。メギド体だろうがヴィータ体だろうが、強い者が勝ち弱い者が負ける。その単純な事実が心地良い。そして俺は常に勝者の側だ。
そのはずだった。
そう、あの日、あのクソ野郎に負けるまでは。
戦場に近づくように高度を下げると、誰かの焦げ付く匂いが嗅覚を掠める。今思い出しても忌々しい敗北の記憶だ。普通に考えれば負けるはずはなかった。俺の所属していた軍団は戦歴も華々しく、そこらの弱小チンピラ軍団に遅れを取るような要素はどこにもなかった。
だが負けた。
根こそぎ奪われ壊滅させられ、何人かは仕方なくその軍団に引き入れられた。
それでも、戦力として期待されていたならまだいい。だが、俺達を入れたのは単なる気晴らしの一環のようだった。自分を打ち負かしたメギドの下で、敗者として下働きをさせられるのは屈辱だった。その上ヤツの態度の悪さと傍迷惑さは度が過ぎていた。あの碌でもない軍団長がついには追放されたと聞いたとき、どれだけ俺達が歓喜に吠えたか。
今、俺はあのクズから解放され、まともなメギドとしての再出発の道を歩んでいるはずだった。この戦争で、ソロモン王とやらを見つけてぶっ殺して戦果を上げれば、また強い軍団に入れるはずなのだ。
なのに今、俺の目の前には見知った銀髪のヴィータ姿の背中がある。
音を拾う皮膚の部分が、ざわざわと煩い。
なんでお前がここに。
「フラウロス……ッ!」
ぴく、と獣の耳が動いた。俺が空から飛びかかると同時に、振り向きざまに抜かれた剣が襲い来る。馬鹿が、届くわけが――いや。俺は咄嗟にとんぼ返りをし、弾かれたように宙で背を反らした。目の前で鞭のようにしなって伸びた刃を間一髪で躱し、鼻先を掠めながら地面に着く。再び地を蹴ろうとしたがそれも叶わない。後ろへ飛び退った跡を、凹凸のある剣の歯が鋭く刈る。それ以上の追撃はなかった。間合いの外へと脱した俺の前に立つ、怠そうに二刀を構えるヴィータ体。
距離を取ってまともに対峙して、ようやく顔を上げれば殺気を帯びた視線に射竦められた。それだけで、息は詰まり足は縫い付けられ、俺のヴィータ体は石のように動かなくなる。クソ、だからヴィータ体は不便で嫌なんだ。気圧された程度で使い物にならない。
だが踏み込めば、斬られる。
「クソっ……!」
しかしこの一幕で、ヤツは俺を驚異として認識したはずだ。
今日こそは、この手で決着をつけてやる。
「このときを待ち侘びたぜ……フラウロスよぉ!」
俺の意気込みとは裏腹に、フラウロスは俺を一瞥し、面倒そうに吐き捨てた。
「あァ? 誰だよオメェは」
「……っやっぱり手前はそういうやつだよなァ!」
腹から声を放てば体を硬直させる呪縛が解けた。爆発する怒りを推進力に、ムカつくツラに殴りかかる。
結論から言えば、俺の爪は届かなかった。
「ガッ……」
「おいおい、弱ぇじゃねーか。声かけたんなら名前くらい名乗れよ。そんで死にな」
躱され腹に蹴りを一発喰らい、よろめいたところで頭部を鷲掴みにされた。もがくが額を抑えられてうまく抵抗できない。視界が半分掌で塞がれ、ヤツが攻撃に転じようとしているのかどうかすらわからなかった。締めつけられたこめかみからミシミシと嫌な音がする。
クソ、最悪だ。
なんでよりにもよって、今ここにコイツがいるんだ。
「おい、名前言えってば! 戦果に数えらんねーだろうが。ま、この様子じゃ軍団長クラスじゃあ――」
「フラウロス。あっちは大体終わったみたいだから合流を……おっと。交戦中か」
唐突に、第三者の声が割って入った。誰だ。味方でないことは確かだった。俺を拘束するフラウロスの手の力が緩む。塞がれていない視界の下半分に、二本の脚が見える。
そのヴィータ――いや、当然ヴィータ体を取ったメギドだろう――が、おや、と首を傾げた気配があった。と同時に、フラウロスが乱暴に俺の頭を手放し、腹を蹴り飛ばした。俺の体は地面を二度跳ねて止まった。
「アンドラス。なんでこっちに来てんだ、治療は」
「幸いみんな軽傷だ。俺がこうして出向かなきゃならないほどの傷を負ってなきゃね」
「あんのクソヴィータ……誰かつけろよ」
「じゃキミがついてよ。ちょうどいい」
来たのはフラウロスが新しく作った副官か? 俺はよろよろと上体を起こしながら、新たに現れたそのヴィータ体を見た。果実の身みたいな鮮やかな髪をしたヴィータ体だ。そいつと二人並ぶフラウロスを見ると、新鮮な味の干物を噛むような心地がした。昔は副官など置かなかった。人懐っこそうに見えて、誰かに気を許す素振りは見せないメギドだった。それに、そんな組織統制の必要な行為は行わなかったこともある——俺達の軍団の有り様は、日々気の向くままに戦争をふっかけては嫌がらせついでに資源を奪うだけだった。
気ままに振る舞って、俺達を振り回して挙句に捨てた。
忘れたとは言わせねえ。
「彼、知り合いかい」
「いや」
当のフラウロスにそうあっさりと切り捨てられ、俺は不覚にも再びその場に崩れ落ちそうになった。コイツ、コイツ、マジで碌でもねえ!
「つーかオメェ、襲って来といて腑抜けてんなよ、やんのかやんねえのかはっきりしやがれ!」
苛立ち紛れに放たれた蹴りを、間一髪転がって避けた。苦し紛れに鉤爪を振るうが、こちらは簡単に避けられる。
オレンジ髪のメギドが、首を傾げてフラウロスに尋ねる。
「彼、キミの元部下とかじゃないのか?」
「なんで」
「今までキミに恨みがあって殴りかかってくる人間はごまんと見たけど、彼みたいに感情を押し殺してる様子は珍しいから。随分とキミに思い入れがあるように見える」
「フーン」
そう興味なさげに俺を見るフラウロスの表情が、軍団にいた頃に最後に見た顔と重なる。追放の報を聞いたときの出来事が、つい先日の出来事のようにフラッシュバックする。
軍団長が追放された。
その報せが俺達にもたらされたとき、俺達の反応はうすのろのプーパよりも鈍いものだった。
元々、負けて軍団に無理矢理引き入れられたメギドばかりだ。その上、日頃の傍若三昧がある。クズの指揮の下で気ままに行う、他軍団への嫌がらせとちょっかいと略奪が、楽しくなかったといえば嘘になるが、いつか殴り返してやろうと野心を燃やすメギドばかりで、軍団長への忠誠心なんてものは塵ほどもありはしなかった。誰も嘆く者はいなかった。取り戻そうとする者も。
それに何より、あのクズがただで中央に殺されるはずはないと思っていた。
しかし三日三晩、あのクズのいない夜を過ごしてようやく事態を飲み込んだ俺達は、喝采を上げて全員揃って中央に向かって中指を立てた。
精々苦しんでくたばりやがれ。
クズの居ぬ間の洗濯を満喫していた俺達の輝かしい日々は、しかし長くは続かなかった。どうやら俺達がチンピラと蔑まれながらも軍団として生き残れていたのは、ひたすらにクズの戦略の組み立てとその強さの賜物であったらしく、有能なリーダーを失った俺達はどこかの軍団との小競り合いで呆気なく散り散りになって敗走した。また負け犬に逆戻りだった。そのうえ、素行の悪さで有名だった軍団の一員など、中々拾われるものでもなかった。軍団長が追放された事実も忌避に拍車をかけた。こうなってくると惨めな身の上だ。だがフラウロスの死んだ今、今度は自分の不甲斐ない怒りをぶつける先はどこにもない。なくなってしまったのだ。
それがなんで、こんなところで鉢合わせる。
整理は追いつかないままだった。片腕を折られ羽をもがれ、ゴロリと地面に転がされながら、軍団長だったメギドの顔をまじまじと見る。変わっていない。粗暴な振る舞いも、喧嘩っ早さも強さも。死んだものとばかり思っていた。なのにピンピンしてやがるじゃねえか。らしいといえばらしいが、ならコイツを喪って味わった俺達の塗炭の苦しみは一体何だったんだ。
敗走の日々。戦争にも必要とされない惨めさ。
碌でもない置き土産だけ残して、手前だけのうのうと生き残りやがって。
ギリ、と歯を食い縛るが俺を見下ろす二人は気にする様子もない。
「で? 何だよ、元部下のヨシミで挨拶にでも来たのか?」
「どちらかと言うと『積年の恨みーっ』ってところじゃないのか? キミが部下から人望があったとはとても思えないんだけど」
「どーゆー意味だよ」
「おや、説明が必要かい?」
オレンジ頭が含みを持たせた笑みを浮かべる。副官にしてはやたらとフラウロスと親しげなのが気になったが、どうやらコイツは中々観察眼があるようだった。何一つ間違っているところがない。逆にフラウロスが、自分に人望があったと思っているなら驚きだ。
フラウロスが面倒そうにがしがしと頭をかく。
「ま、仮にコイツが俺の元部下だったとして、だ」
「グ……ッ!」
屈んだその手に髪を掴まれ引き上げられる。覗き込んできたその目には冷ややかな炎が宿っていた。俺は膝立ちにさせられながら、体の制御が効かずに身震いをする。いつもこうだ。人好きのする顔でするりと人の懐に入り込むくせ、どこまでも気を許さず抜け目がない。
ザク、と足下に剣を突き立てられる。
囁くような甘く低い声。
「そんとき俺がテメーを殺さなかったのは、それが『殺し合い』じゃあなかったからだ。ヤんなら殺すぜ、わかってんだろ?」
その目が、より一層苛烈さを増して俺の身を焼く。
だが、気圧されるよりも怒りが勝った。恐らく隠し切れていなかっただろう、殺気を含んだ視線が切り結ぶ。
殺し合いじゃなかった、だと。
全身の毛が逆立つようだった。その、本気の殺し合いにも満たない、コイツにとってはたかだかお遊びの襲撃で、俺は破滅し所属の軍団も失ってこのクズの下で辛酸を嘗める羽目になったのだ。なのにコイツはそれを覚えてすらいない。
俺のメギド生をめちゃくちゃにしたこと。
にもかかわらず、俺に殺されもせずに呆気なく戦場を下りたこと。
勝手に追放されて、いなくなりやがって。
俺を置いて。
「……やるなら殺す、だと? こっちのセリフだぜ、フラウロス」
気付けば、怒りを声の形にして絞り出していた。掠れた声に、けれどフラウロスも犬歯を見せて笑う。
「……へえ」
「あ、やる感じ? なら彼、回復させようか。一方的な殺しは好みじゃないだろ?」
緊迫の中、突如挟まれたのんびりとした言葉に、俺は思わず一瞬睨み合いを忘れて隣に立っていたメギドを二度見した。それはフラウロスも同じだったらしい。いや何言ってんだオメェ、とありありと書かれたツラで自分の連れをまじまじと見やる。
「……もう一回、念入りに殺すためにわざわざ回復すんのか? 悪趣味だろ」
俺が殺される前提なのは気に食わないが、概ねフラウロスと言いたいことは一致していたので黙る。確かに負わされたダメージは大きいが、敵に情けを受けて勝ったところで俺の戦歴には禍根が残る。戦争で手段など選ぶものでもないのでハイそうですかラッキーと申し出を受けてもいいが、とはいえいくら負け犬の俺でもメギドとしてのプライドがある。
二人分の注目を浴びた当の本人は、「あれ?」と首を傾げて「駄目だったかな」「いや、駄目っつーか……」と押し問答を始めた。いいぞフラウロス、もっと言ってやれ! つーかコイツは結局誰なんだよ!
「……つーかクソヴィータいねーから使うなら手持ちのフォトンだろ? ここで余分に資源使ったら注射器女にしばかれんじゃねーの」
「ああ、まあ……確かに携帯フォトンも無駄にはできないし……今の提案はあまり得策ではなかったな」オレンジ頭は素直に自分の非を認めた。はにかむように柔らかく微笑む。「悪いね、こっちに来たからか、何となく血が沸き立つような感覚が抑え切れなくてさ……やっぱり、メギドラルなんて派手に戦争してこそじゃないか? 俺も久しぶりに暴れたい気分だ」
「いや、オメェがそれクソヴィータに聞かせんなよ……」
フラウロスがオレンジ頭の口を封じるように人差し指を押し当てる。呆れたような顔からは、すっかり毒気が抜けている。
確かにそこには隙があった。
戦争では手段など選ぶものではない。
俺は弾かれたように地面を蹴った。折れていない方の手で獲物を拾い、その刃をフラウロスへと突き立てる。
今度こそ、確実にこの手で殺すために。
「…………ッ!」
しかし鉤爪は届かなかった。腕が細い鉄の縄のようなもので絡め取られていたからだ。いつの間に? 俺は急な締め上げにバランスを失って、訳もわからず無様に地面に転んだ。フラウロスは俺の方を見なかった。ただ軽く舌打ちをした。オレンジ頭だけが視線を少し横へ流して、「じゃ、これも余計なお世話だったかな」と呟いて手元のテグスをぐいと引く。俺の体が連動して引き摺られる。コイツ。俺は逃れようとするが既に遅かった。フラウロスはただ無造作に、手にしていた剣を振りかぶった。未だ地面に這い蹲る俺の背へ、その刃が真っ直ぐに振り下ろされる。
「じゃあな、――」
最後に呟いた名前を、フラウロスは果たして俺のものだと正しく理解した上で口にしたのか。それを知ることのないまま、俺の時間は途絶えた。
※7章戦争if フラウロス軍団長時代捏造
金属の焼けついたような色の空を見上げる。砕けて雨のように降り注ぐ浮島、濛々と上がる黒煙、響き渡る鬨の声。一つ視線を下げれば、フォトンをあちこちで破裂させ、無数の醜いヴィータ体が群となってぶつかり合っている。メギドラルでの戦争の光景は、いつも俺の胸を優越感で満たした。この場では議席だの何だの、面倒なしがらみは関係ない。この場を支配するのは純粋な力のぶつかり合いだ。メギド体だろうがヴィータ体だろうが、強い者が勝ち弱い者が負ける。その単純な事実が心地良い。そして俺は常に勝者の側だ。
そのはずだった。
そう、あの日、あのクソ野郎に負けるまでは。
戦場に近づくように高度を下げると、誰かの焦げ付く匂いが嗅覚を掠める。今思い出しても忌々しい敗北の記憶だ。普通に考えれば負けるはずはなかった。俺の所属していた軍団は戦歴も華々しく、そこらの弱小チンピラ軍団に遅れを取るような要素はどこにもなかった。
だが負けた。
根こそぎ奪われ壊滅させられ、何人かは仕方なくその軍団に引き入れられた。
それでも、戦力として期待されていたならまだいい。だが、俺達を入れたのは単なる気晴らしの一環のようだった。自分を打ち負かしたメギドの下で、敗者として下働きをさせられるのは屈辱だった。その上ヤツの態度の悪さと傍迷惑さは度が過ぎていた。あの碌でもない軍団長がついには追放されたと聞いたとき、どれだけ俺達が歓喜に吠えたか。
今、俺はあのクズから解放され、まともなメギドとしての再出発の道を歩んでいるはずだった。この戦争で、ソロモン王とやらを見つけてぶっ殺して戦果を上げれば、また強い軍団に入れるはずなのだ。
なのに今、俺の目の前には見知った銀髪のヴィータ姿の背中がある。
音を拾う皮膚の部分が、ざわざわと煩い。
なんでお前がここに。
「フラウロス……ッ!」
ぴく、と獣の耳が動いた。俺が空から飛びかかると同時に、振り向きざまに抜かれた剣が襲い来る。馬鹿が、届くわけが――いや。俺は咄嗟にとんぼ返りをし、弾かれたように宙で背を反らした。目の前で鞭のようにしなって伸びた刃を間一髪で躱し、鼻先を掠めながら地面に着く。再び地を蹴ろうとしたがそれも叶わない。後ろへ飛び退った跡を、凹凸のある剣の歯が鋭く刈る。それ以上の追撃はなかった。間合いの外へと脱した俺の前に立つ、怠そうに二刀を構えるヴィータ体。
距離を取ってまともに対峙して、ようやく顔を上げれば殺気を帯びた視線に射竦められた。それだけで、息は詰まり足は縫い付けられ、俺のヴィータ体は石のように動かなくなる。クソ、だからヴィータ体は不便で嫌なんだ。気圧された程度で使い物にならない。
だが踏み込めば、斬られる。
「クソっ……!」
しかしこの一幕で、ヤツは俺を驚異として認識したはずだ。
今日こそは、この手で決着をつけてやる。
「このときを待ち侘びたぜ……フラウロスよぉ!」
俺の意気込みとは裏腹に、フラウロスは俺を一瞥し、面倒そうに吐き捨てた。
「あァ? 誰だよオメェは」
「……っやっぱり手前はそういうやつだよなァ!」
腹から声を放てば体を硬直させる呪縛が解けた。爆発する怒りを推進力に、ムカつくツラに殴りかかる。
結論から言えば、俺の爪は届かなかった。
「ガッ……」
「おいおい、弱ぇじゃねーか。声かけたんなら名前くらい名乗れよ。そんで死にな」
躱され腹に蹴りを一発喰らい、よろめいたところで頭部を鷲掴みにされた。もがくが額を抑えられてうまく抵抗できない。視界が半分掌で塞がれ、ヤツが攻撃に転じようとしているのかどうかすらわからなかった。締めつけられたこめかみからミシミシと嫌な音がする。
クソ、最悪だ。
なんでよりにもよって、今ここにコイツがいるんだ。
「おい、名前言えってば! 戦果に数えらんねーだろうが。ま、この様子じゃ軍団長クラスじゃあ――」
「フラウロス。あっちは大体終わったみたいだから合流を……おっと。交戦中か」
唐突に、第三者の声が割って入った。誰だ。味方でないことは確かだった。俺を拘束するフラウロスの手の力が緩む。塞がれていない視界の下半分に、二本の脚が見える。
そのヴィータ――いや、当然ヴィータ体を取ったメギドだろう――が、おや、と首を傾げた気配があった。と同時に、フラウロスが乱暴に俺の頭を手放し、腹を蹴り飛ばした。俺の体は地面を二度跳ねて止まった。
「アンドラス。なんでこっちに来てんだ、治療は」
「幸いみんな軽傷だ。俺がこうして出向かなきゃならないほどの傷を負ってなきゃね」
「あんのクソヴィータ……誰かつけろよ」
「じゃキミがついてよ。ちょうどいい」
来たのはフラウロスが新しく作った副官か? 俺はよろよろと上体を起こしながら、新たに現れたそのヴィータ体を見た。果実の身みたいな鮮やかな髪をしたヴィータ体だ。そいつと二人並ぶフラウロスを見ると、新鮮な味の干物を噛むような心地がした。昔は副官など置かなかった。人懐っこそうに見えて、誰かに気を許す素振りは見せないメギドだった。それに、そんな組織統制の必要な行為は行わなかったこともある——俺達の軍団の有り様は、日々気の向くままに戦争をふっかけては嫌がらせついでに資源を奪うだけだった。
気ままに振る舞って、俺達を振り回して挙句に捨てた。
忘れたとは言わせねえ。
「彼、知り合いかい」
「いや」
当のフラウロスにそうあっさりと切り捨てられ、俺は不覚にも再びその場に崩れ落ちそうになった。コイツ、コイツ、マジで碌でもねえ!
「つーかオメェ、襲って来といて腑抜けてんなよ、やんのかやんねえのかはっきりしやがれ!」
苛立ち紛れに放たれた蹴りを、間一髪転がって避けた。苦し紛れに鉤爪を振るうが、こちらは簡単に避けられる。
オレンジ髪のメギドが、首を傾げてフラウロスに尋ねる。
「彼、キミの元部下とかじゃないのか?」
「なんで」
「今までキミに恨みがあって殴りかかってくる人間はごまんと見たけど、彼みたいに感情を押し殺してる様子は珍しいから。随分とキミに思い入れがあるように見える」
「フーン」
そう興味なさげに俺を見るフラウロスの表情が、軍団にいた頃に最後に見た顔と重なる。追放の報を聞いたときの出来事が、つい先日の出来事のようにフラッシュバックする。
軍団長が追放された。
その報せが俺達にもたらされたとき、俺達の反応はうすのろのプーパよりも鈍いものだった。
元々、負けて軍団に無理矢理引き入れられたメギドばかりだ。その上、日頃の傍若三昧がある。クズの指揮の下で気ままに行う、他軍団への嫌がらせとちょっかいと略奪が、楽しくなかったといえば嘘になるが、いつか殴り返してやろうと野心を燃やすメギドばかりで、軍団長への忠誠心なんてものは塵ほどもありはしなかった。誰も嘆く者はいなかった。取り戻そうとする者も。
それに何より、あのクズがただで中央に殺されるはずはないと思っていた。
しかし三日三晩、あのクズのいない夜を過ごしてようやく事態を飲み込んだ俺達は、喝采を上げて全員揃って中央に向かって中指を立てた。
精々苦しんでくたばりやがれ。
クズの居ぬ間の洗濯を満喫していた俺達の輝かしい日々は、しかし長くは続かなかった。どうやら俺達がチンピラと蔑まれながらも軍団として生き残れていたのは、ひたすらにクズの戦略の組み立てとその強さの賜物であったらしく、有能なリーダーを失った俺達はどこかの軍団との小競り合いで呆気なく散り散りになって敗走した。また負け犬に逆戻りだった。そのうえ、素行の悪さで有名だった軍団の一員など、中々拾われるものでもなかった。軍団長が追放された事実も忌避に拍車をかけた。こうなってくると惨めな身の上だ。だがフラウロスの死んだ今、今度は自分の不甲斐ない怒りをぶつける先はどこにもない。なくなってしまったのだ。
それがなんで、こんなところで鉢合わせる。
整理は追いつかないままだった。片腕を折られ羽をもがれ、ゴロリと地面に転がされながら、軍団長だったメギドの顔をまじまじと見る。変わっていない。粗暴な振る舞いも、喧嘩っ早さも強さも。死んだものとばかり思っていた。なのにピンピンしてやがるじゃねえか。らしいといえばらしいが、ならコイツを喪って味わった俺達の塗炭の苦しみは一体何だったんだ。
敗走の日々。戦争にも必要とされない惨めさ。
碌でもない置き土産だけ残して、手前だけのうのうと生き残りやがって。
ギリ、と歯を食い縛るが俺を見下ろす二人は気にする様子もない。
「で? 何だよ、元部下のヨシミで挨拶にでも来たのか?」
「どちらかと言うと『積年の恨みーっ』ってところじゃないのか? キミが部下から人望があったとはとても思えないんだけど」
「どーゆー意味だよ」
「おや、説明が必要かい?」
オレンジ頭が含みを持たせた笑みを浮かべる。副官にしてはやたらとフラウロスと親しげなのが気になったが、どうやらコイツは中々観察眼があるようだった。何一つ間違っているところがない。逆にフラウロスが、自分に人望があったと思っているなら驚きだ。
フラウロスが面倒そうにがしがしと頭をかく。
「ま、仮にコイツが俺の元部下だったとして、だ」
「グ……ッ!」
屈んだその手に髪を掴まれ引き上げられる。覗き込んできたその目には冷ややかな炎が宿っていた。俺は膝立ちにさせられながら、体の制御が効かずに身震いをする。いつもこうだ。人好きのする顔でするりと人の懐に入り込むくせ、どこまでも気を許さず抜け目がない。
ザク、と足下に剣を突き立てられる。
囁くような甘く低い声。
「そんとき俺がテメーを殺さなかったのは、それが『殺し合い』じゃあなかったからだ。ヤんなら殺すぜ、わかってんだろ?」
その目が、より一層苛烈さを増して俺の身を焼く。
だが、気圧されるよりも怒りが勝った。恐らく隠し切れていなかっただろう、殺気を含んだ視線が切り結ぶ。
殺し合いじゃなかった、だと。
全身の毛が逆立つようだった。その、本気の殺し合いにも満たない、コイツにとってはたかだかお遊びの襲撃で、俺は破滅し所属の軍団も失ってこのクズの下で辛酸を嘗める羽目になったのだ。なのにコイツはそれを覚えてすらいない。
俺のメギド生をめちゃくちゃにしたこと。
にもかかわらず、俺に殺されもせずに呆気なく戦場を下りたこと。
勝手に追放されて、いなくなりやがって。
俺を置いて。
「……やるなら殺す、だと? こっちのセリフだぜ、フラウロス」
気付けば、怒りを声の形にして絞り出していた。掠れた声に、けれどフラウロスも犬歯を見せて笑う。
「……へえ」
「あ、やる感じ? なら彼、回復させようか。一方的な殺しは好みじゃないだろ?」
緊迫の中、突如挟まれたのんびりとした言葉に、俺は思わず一瞬睨み合いを忘れて隣に立っていたメギドを二度見した。それはフラウロスも同じだったらしい。いや何言ってんだオメェ、とありありと書かれたツラで自分の連れをまじまじと見やる。
「……もう一回、念入りに殺すためにわざわざ回復すんのか? 悪趣味だろ」
俺が殺される前提なのは気に食わないが、概ねフラウロスと言いたいことは一致していたので黙る。確かに負わされたダメージは大きいが、敵に情けを受けて勝ったところで俺の戦歴には禍根が残る。戦争で手段など選ぶものでもないのでハイそうですかラッキーと申し出を受けてもいいが、とはいえいくら負け犬の俺でもメギドとしてのプライドがある。
二人分の注目を浴びた当の本人は、「あれ?」と首を傾げて「駄目だったかな」「いや、駄目っつーか……」と押し問答を始めた。いいぞフラウロス、もっと言ってやれ! つーかコイツは結局誰なんだよ!
「……つーかクソヴィータいねーから使うなら手持ちのフォトンだろ? ここで余分に資源使ったら注射器女にしばかれんじゃねーの」
「ああ、まあ……確かに携帯フォトンも無駄にはできないし……今の提案はあまり得策ではなかったな」オレンジ頭は素直に自分の非を認めた。はにかむように柔らかく微笑む。「悪いね、こっちに来たからか、何となく血が沸き立つような感覚が抑え切れなくてさ……やっぱり、メギドラルなんて派手に戦争してこそじゃないか? 俺も久しぶりに暴れたい気分だ」
「いや、オメェがそれクソヴィータに聞かせんなよ……」
フラウロスがオレンジ頭の口を封じるように人差し指を押し当てる。呆れたような顔からは、すっかり毒気が抜けている。
確かにそこには隙があった。
戦争では手段など選ぶものではない。
俺は弾かれたように地面を蹴った。折れていない方の手で獲物を拾い、その刃をフラウロスへと突き立てる。
今度こそ、確実にこの手で殺すために。
「…………ッ!」
しかし鉤爪は届かなかった。腕が細い鉄の縄のようなもので絡め取られていたからだ。いつの間に? 俺は急な締め上げにバランスを失って、訳もわからず無様に地面に転んだ。フラウロスは俺の方を見なかった。ただ軽く舌打ちをした。オレンジ頭だけが視線を少し横へ流して、「じゃ、これも余計なお世話だったかな」と呟いて手元のテグスをぐいと引く。俺の体が連動して引き摺られる。コイツ。俺は逃れようとするが既に遅かった。フラウロスはただ無造作に、手にしていた剣を振りかぶった。未だ地面に這い蹲る俺の背へ、その刃が真っ直ぐに振り下ろされる。
「じゃあな、――」
最後に呟いた名前を、フラウロスは果たして俺のものだと正しく理解した上で口にしたのか。それを知ることのないまま、俺の時間は途絶えた。
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