とろける37.2℃

(2021/02/14)


 場違いに小洒落た赤色が、俺の視界の端に引っかかった。
 木棚の奥だ。薔薇の花びらのような鮮烈な色の包み紙に覆われた直方体。それが、部屋の主の性格よろしく几帳面に並べられた試験管やら薬瓶やらの奥に、こっそりと隠れるような形で収まっている。
「おっ……なんだか知らねーがラッキーじゃん」
 と言うのも、ここ最近まるで目ぼしい金品を拝借できていなかったからだ。貴重品を放置しておくと俺が無断で借りていくと学習したのか、近頃アンドラスの野郎が自室に残していくのは見るからに価値の薄そうなものか持ち運びが面倒そうなものばかりだ。中には売っぱらえば金になる薬やら標本やらもあるのだろうが、鑑定だけに金を取られて価値ゼロのゴミじゃ始末に負えない。それにそういう特殊なモンは取り扱う店も限られていて足がつく。いつもの癖で、指が自然と避けていた。
 いや、別にアイツ相手に足がつくもクソもねーが。
 今この部屋に一番出入りしてる他人は俺だろうし。
 だが今はあの怪しげな包み紙がある。
 迷わずズカズカと棚に寄り、少しはみ出た赤色を指を引っ掛けてたぐり寄せる。
「っふぅーーーん……? んだこれ」
 主不在の部屋に俺の独り言だけが響く。それは薄く平べったい、小型の宝石ケースを思わせるサイズの直方体だった。包装紙にきちりと封がされているところを見ると、何かのプレゼントだろうか。軽く振ると、カタカタと中のものが動く音。それと微かに甘い匂い。嗅いで思わず顔を顰める。中身は菓子か。甘いものは嫌いじゃないが、この部屋で嗅ぎたい匂いではない。ヤツからするなら例の消毒液のこもった匂いか血の匂い、変な薬の匂いで十分だ。甘ったるく口の中を溶かす砂糖のコーティングを連想させる香りはどうもこの部屋では浮いている。
 ベッドに勢いよく腰を下ろして箱を撫で回す。よく見ると包み紙には店の名前と思しき文字がサインされていて、見覚えのある綴りに俺は薄目で記憶を辿った。……これ何だっけか。ついこの間も、アジトでこれと同じのを見たような。
 そう、確か。

『ねぇフラウロスっ、今ソロモンが食堂でアレ配ってるけど貰ったー? あのお店のやつ有名なんだってー!』
『はぁー? アレって何だよ』
『えっアレだよほら〜、名前なんて言ったかな!? ええと……チョ……チョコ……』

「……チョコレートじゃねーか」
 奇しくも数日後はそのチョコレートとやらを配り歩く日だ。と、クソヴィータが言っていた。日頃の感謝だの愛だのを伝えるという名目で甘いモンを配り歩いて目当てのヤツとヤる口実にするらしい。確かにこの前王都に寄ったときにはこの売れてるらしい店の行列を目にしたし、何人かのヴィータにブツを押し付けられたりもした。捨てちまってもうねえけど。何入ってるかわかんねーもんなんざ食えるか。クソヴィータのはまあそこそこ旨かった気がしないでもない。
 と、言うことは、だ。
 カサリと箱の表面を撫でる。
 当然、アンドラスが自分用として買ったのではない。アイツの興味の方向は菓子より実験用品だ、買うなら当然そっちだろと想像がつく。誰かからの贈り物、或いは誰かに贈ろうとして置いてあったものである可能性が高い。
 こんな大事そうに。
「っへええええ……。アイツにチョコレートをやろうなんて殊勝なヴィータがな?」
 食べてやろ。
 その考えに至るまでには十秒もかからなかった。
 バリバリと包装紙を乱暴に破いて床に捨てる。シンプルな木箱を開けると中に仕切られて入れられている駱駝色の大粒が八つ。アイツどんな顔しやがんのかな。ワクワクしながら手を伸ばす。どこの誰だか知らねえやつに貰って、せっかく大事に取ってあったチョコレートを、俺に食われたと知りやがったら。
 悔しがるアンドラスの顔を想像しようとするが、脳内のアンドラスはニコリと笑って肩を竦めただけだった。
 ——あらら、残念。そんなに欲しいなら、言ってくれたらあげたのに。
 ——俺の特製○○薬入りでね!
「…………げえ……」
 それはそれで気に食わねえが、こんなところに隠すように置いてあんだ、多少楽しみにしてる部分もあんだろ。
 そこで俺はピタリと手を止めた。
 そう、隠すように置いてあった。
 だがそもそもアイツは俺がこの部屋に出入りすることを知っている。だから最近、貴重品が残されていないのだ。今じゃあ机の引き出しの奥を漁っても、小銭一つ出てきやしねえ。
 なのにこのチョコレートは無造作に放置されていた。
「……なんだ……?」
 不気味さを感じて、無言で並ぶチョコレートを思わずじっと凝視する。
「……見つからねえと思ったか? いや……」
 ぼんやりしているところがあるとはいえ、アンドラスがその警戒を怠るとは思えなかった。俺の行動規範はある程度わかっているはずだ。ヤツが鈍いのはヤツ自身が『善良なヴィータ』と定義した人間に対して警戒心を緩めるからであって、この後に及んで俺をその枠に突っ込んでやがんならテメエのメスで俺より先にテメエの頭かっぴらくべきだろうがというものだ。あるいはどうでもいいチョコレートなのか——大事にしまわれている、と感じたのは俺の勘違いで、取られようが食べられようが構わないチョコレートだったか。
 だが、だったら机の上でも書棚の手前でもよかったのだ。少なくとも、ガラス器具を退けて棚の奥にしまう手間をかけなくていい。
 隠している風を装おうとした?
 俺に食わせようとして。
「………………」
 鼻を近づけてスン、と匂いを嗅ぐ。
 特にヤバそうな臭いはしない。
 だがそうなると何が入っているかわかったものじゃなかった。情事のときでない、解剖を求めて触れてくる手つきを思い出し、体が拒否反応を起こして箱を放り投げそうになる。
 とはいえもう既に破いた後だ。棚に戻したところで破いた袋は元に戻るはずもなく、開封したこと自体はバレる。そして他人の部屋に不法侵入して保管してあるチョコレートを食べようとする人間などアイツにとっての心当たりは一人しかいない。
 もちろん俺だ。
 これを見つかったら「あれ、食べなかったのかい?」「箱を開けたのに?」「もしかして中身が気に入らなかったかな」「怖がらせちゃったかい」とか何とか質問攻めされるに決まっているのだ。
「……あああうっぜえええ!」
 どうする? これが単なる贈り物なら、食っちまってオメェのチョコレートもうねーよざまーみろギャハハ!!!と笑ってやったらいい。だがヤツが俺に食わせようとして置いてあったなら、それは……それはヤツの思う壺じゃねーか。そんなのはごめんだった。
 どちらだった場合でも、やつに吠え面かかせてやる方法。
「いっそ誰か別のやつに食わすか……けど万一毒入ってたら俺が犯人になっちまうしな……」
 いやでも死にはしないだろ、とは思う。多分。
 アイツは俺を殺さないだろう、という自信がある。アレは人死にに積極的には加担しない。
 死んだときに解剖しないかどうかは別だが。
 ——だよな?
 だが万一もある。渡すなら仲間じゃなく、その辺のどうでもいいヴィータだ。幸い、売り切れ必至の有名店の人気商品だ。開封してあったって、賭け金の代わりくらいにはなるだろう。元々、そのためになんかねーかなと無人の部屋に入り込んだのだ。目的達成というわけだ。
 目当てのものが手に入りはしたが、暫く眉間の皺を消せないまま、俺は街に向かった。

   ◇ ◇ ◇


「そういえば、フラウロスさ……」
 それを思い出したのは、時計の針が真夜中を過ぎた当日だ。
 事後の怠い体をぐたりと持ち上げ、隣のアンドラスに視線をやる。
「んだよ……」
「そこの棚にあったチョコレート、食べた?」
 お、そういやそんなこともあったな。
 思ってアンドラスの顔色を注意深く窺う。しかしそこからは何も読み取れない。ベッドサイドのランプの揺れる光の下で、汗で張り付いた前髪を掻き分けて覗き込むが、その瞳に浮かぶのは純然たる疑問だけだ。落胆とか、怒りとか、そういう感情はなんにも表に出てきていない。チッ、相変わらずポーカーフェイスのうまいこと。
 手を取られて指を絡ませられる。できるだけ表情を動かさず、ああ、あれなと気怠く訊く。
「結局何だったんだよ」
「何って……バレンタインデーのチョコレートさ。俺がキミにあげようと思ってたやつ」気負いのない調子だった。アンドラスは手に取った俺の指を一本一本、骨の上から丁寧になぞって観察している。そんなもん見て何が楽しいんだ。「いや、正確には、そこに置いておいたら勝手に食べてくれるかな、と期待してたやつだね」
「………………フーーーン……」
「だから、食べてくれたかなと思って」
 やっぱ罠だったんじゃねーか。
 行動が読まれているようで気に食わなかった。手を振り払ってベッドから這い出すと、背中に興味深げなアンドラスの視線が張り付く。ランプの灯りの届かない暗がりで、床に無造作に脱ぎ捨てられた服の中から埋もれた鞄を拾う。
「あれ、でも反応が薄いな。その様子だと食べてないのか。『食べてねえ』って否定するか、何入れやがったって、もっと不機嫌になるかと思ったのに」
「それわかってんなら入れんじゃねーよ」
「いや、今回は入れてないよ」アンドラスが言う。「そうしないと、キミは食べないだろうと思って」
「は? じゃあなんで俺……」に、食わせようとしたんだよ。という問いは何だか踏み込むとまずい気がして咄嗟に喉の奥に押し込める。「……いや、まあどのみち食ってはねーな」
「そうなのか。キミじゃないとすれば、じゃあ一体誰が……」
 その目の前、枕の上に、鞄から取り出したチョコレートの箱をポンと投げた。
 もちろん中身は欠けていない。
 寝そべったままのアンドラスの目がパチリと驚きに一度瞬く。
「んだよ。食ったとは言ってねーだろ?」
 そのツラを拝めて、俺はフフンと溜飲を下げた。コイツのびっくりした顔を見るのは気分がいい。いや、しかしそんなに愉快な話でもない。誰か適当なやつに食わせてやろうと賭場に顔出して賭けに出したっつーのに、どいつもこいつも腑抜けばかりで、コイツにこんないーモン食わせてやんのかよと思うと無性にむしゃくしゃして——気づけば大勝ちしてしまっていた。処分できなかっただけだ。
 どいつもこいつもクソ間抜け腰抜けヴィータどもがよ。
 だが今の話なら毒は『入っていない』らしい。
 箱を開けると、寝台に広がる甘ったるい匂い。普段は部屋に合わないそれも、今は室内に漂う行為の残滓と交わって、俺の気分をひどく高揚させる一助にすぎない。
 一つを摘んで舌に乗せる。
「あーあ。一個ぐらいなら食ってやってもよかったのによ、毒」
 残念だったなー?と言いながら見せつけるようにチョコレートを唇で挟んでくわえると、アンドラスがゴクリと喉を鳴らした。肩を押さえて覆い被さった拍子にギシリとベッドが軋む。顔の両脇に手をつくと、見下ろしたその目にじわりと期待が灯る。
「おや、それはもったいないことをしたな……」そう告げる呼吸が微かに浅い。「今から取ってきて混ぜるんじゃ……ダメか?」
「ダメ、に……決まってんだろ〜がっ」
 言いながらチョコレートを口に含む。口内の熱でとろけるチョコレートを咀嚼し、味わって甘ったるさを飲み込んだ。俺に押し倒されたまま、体温を上げるアンドラスを眺めながら。段々、俺の口元と喉のあたりにそそがれる視線が熱を帯びてくる。なーに想像してやがんだか。どうせ俺に毒盛ってたら効果が見れたんだろうなとかそういうことを考えてやがるに違いない。機会を逃していい気味だ。
 あと七個。
「ああ、けどよ」
 箱からもう一粒摘む。
「毒じゃなくてよ、精力剤としても人気らしーじゃん? 試してみようぜ」
「それ、単なる宣——」
 言い終わる前にその口にチョコレートを突っ込んで、舐め取るようにキスを仕掛けた。
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