隙間の感情

(2019/07/21)


 アジトの床に点々と落ちている赤い痕跡を目にして、フラウロスは一瞬、目を眇めるようにしてそれを見た。年季が入って少し煤けたタイルに、乾き切っていない滴下痕。鉄臭い匂いの残滓。間違いない。血だ。
 広間の方を見やる。廊下の向こうからは、特に大きな騒ぎやパニックなんかは見受けられない。聞こえるのは普段どおりのざわめきだ。悲嘆に暮れている空気もないから、フラウロスが自室で寝ている間に幻獣が入り込んで誰かが死んだわけでもなさそうだ。まあそんなことがあったら、俺が何も気付かず寝てた間抜け野郎になっちまうから御免だが。幻獣が入れば流石に起きる。
 ……じゃあ何だってこんなところに血が落ちてやがる。
 周囲を見回す。ここはアジトでもポータルから遠い日陰の場所だ。ソロモンの目の行き届かないことをいいことに、皆そこら中の部屋を好き勝手に使っている。特訓部屋であったり、勉強部屋であったり、フラウロスのように誰にも邪魔されない昼寝の場所の確保であったり。特訓部屋――訓練での怪我か? しかしプルソンなら床を汚せば気付いて掃除くらいはしていくはずだ――多分。うっかり見落としてなけりゃ。
 と、ちょうど横を通り過ぎようとしたメギドを呼び止める。
「おいクソ人魚」
「……何よバカウロス」
 フラウロスに呼び止められたウェパルは、奥の倉庫にでも寄るのか片手に割とデカめの袋を持って、心底面倒そうな顔をした。声もどこか刺々しい。髪を払う仕草にすら「話し掛けないで」と言外の文句を滲ませている。チッ、相変わらず可愛げのねーやつ。けどまあ求めてねえけどよ、とフラウロスはそれを構わず捨て置いて、顎で血痕を指し示す。
「誰だよアジトで怪我した間抜けは? クソヴィータが幻獣でも連れ込んだか?」
「ああ、それ」ウェパルは表情を動かさずにただ淡々と頷いた。「アンドラスよ」
「あァ……」
 眉を顰めてしまったのは、そのときの様子の想像が容易についたからだ。「アハハ、活きのいい幻獣が手に入ってね! 早速解剖したいんだ、ちょっと部屋を借りるよ」――フラウロスには実際にその場にいたかのように、アンドラスの高揚した声を脳裏に再現することができた。それというのも、最近やたらとフラウロスの体を解剖したいと迫られているのだ。記憶に生々しいのはその名残。ぜってえに御免だっての、と思うが中々気持ちが通じることはなくしきりにリジェネレイトへの興味関心を振ってくる。フラウロスにしてみれば鬱陶しいことこの上なかった。だから幻獣に興味が向いているならそれはそれで好都合だったし、そのときにこぼれ落ちた幻獣の血だとすれば、血痕にも何の不自然もない。
 握り締めていた剣の柄から手を離す。ったく、紛らわしいことを。
 しかしウェパルがそんなフラウロスの思考を読み取ったかのように首を振った。高い位置でまとめたツインテールが億劫そうに揺れる。
「違うわ。幻獣じゃない。アイツ、自分で自分の手首を切り落としたのよ」
「ハ? 手首ィ?」
 耳を疑う。ちょっと待て……手首を切り落とす? フラウロスは自分の動作が緩慢になるのを感じた。思考にリソースが回り過ぎている。いや、手首を切り落とすって何だよ。この前面倒なヴィータがやってた所謂リストカットってやつか。いやカットしすぎじゃねえのか? 本体から離れてんじゃねーか。
 言うべき言葉を探して、何も見つからず、結局、口をついて出てきたのはありきたりな疑問だけだった。
「あのバカ、何考えてんだ……?」
「知らないわよ、本人に訊いて。お昼前のことだし、マルファスが医務室に運び込んでたから、まだそこにいるんじゃない? ……用はそれだけ? 私はもう行くけど」
 ウェパルは表情を崩すことなく、すたすたと去っていった。
 最後に一言だけ言い残して。
「……あ、それと。ソロモンはそのことまだ知らないから、アンタ、不用意に口にするんじゃないわよ」
 動揺させたくないから、と優しさなんだか面倒なんだかわからないことを言う。
 手首。一般に、ヴィータに手首を切り落とす風習なんかはないだろう。フラウロスは思わず、自分の手首を握り締めた。浮かぶ骨を親指で押さえ、皮膚の下、細く青い血管を爪でなぞる。ユフィールによれば、ヴィータのこの部位には血管が通っていて、ひどく損傷すれば死に至ることもあると言う。その理屈を医者であるあの男が知らないはずもない。
 すっと血が冷える。思い出すのは暗闇に落ちていく感覚だ。腹を斬った刃の冷たさ。栓を抜いた水のように抜け落ちる力、忍び寄る死の感覚。
 あんなもの、二度と味わいたいと思わない。
 なのに自ら望んでそれを実行するというのは、なんつーか。
「……バカか?」
 理解できねえ、と首を振る。元々理解し辛い男ではあったが、自殺嗜癖でもあったのだろうか。死ぬなら勝手に死ねばいいが、せめてもっと、わかりやすいやり方で死ねよと思う。

     ◇ ◇ ◇

「やあフラウロス! お見舞いに来てくれたのかい、嬉しいな」
 フラウロスを出迎えたのは想定したのよりも五倍は元気なアンドラスの声だった。ベッドから上体を起こしてへらりと笑っている姿を目にして思わず眉根が寄る。大怪我の陰惨さの欠片もない。頭痛がしてきた。来るんじゃあなかったかもしれない。
 ベッド脇のスツールにどかりと座る。医者連中は出払っているらしく、医務室に他に人気はなかった。
「よーお。クソ医者の無様な姿を拝みに来たぜ。ついでに財布も出せねーなら代わりに俺がテメェの金使ってやろうかと思ってな」
「ああ、キミも断面見たかったかい? でも残念、もう縫い合わせてしまってね」
「いや見たかねーよそんなもん」
 アンドラスが手を振る。なるほどいつもしているグローブは外されていて、手首はぐるりと厚く包帯で覆われている。丁寧に処置されているかと思いきや、サイドテーブルには血に塗れた縫合セットが散らかっていて、包帯もそこらに散乱しているところを見ると、どうやら片付けるほどの余裕はなかったらしい。「あのお坊ちゃんは」「ああ、マルファスかい? 俺の容態が安定するまで側にいたがってはいたんだけど、緊急のシャックストラブルが発生してね。どうしても世界平和のためにはそっちの解決を優先しなきゃならないって、まあ俺は放っておいても平気だからさ、体内でフォトンを回せば回復力は少しは上がるし」
 よく見れば顔色だって青を通り越して白い。ぺらぺらとよく動く口は、自分の不調を隠すためだろう。この男の悪癖だ。意識を正常に保つためのおしゃべり。つまり今の状況は不本意だということ。
 なのに自分で切り落とした傷で自分で弱ってやがんのは。
 なんつーか。
「ギャハハ、バッカじゃねえ!? 何自分で死にかけてやがんだよ、オメー仮にも医者だろうが!」
「キミにそれだけ心配してもらえると俺も手首を切り落とした甲斐があるよ」
「いや手首に切り落とし甲斐もクソもあるかっつーの! つーか心配してねえからな」
 笑いながらも釘を刺す。どうもアンドラス相手だと、相手のペースに巻き込まれた会話を展開してしまいがちでやべえなと思う。大抵の相手は口八丁で強引に言い包めれば押し切れるし、納得しなくても実力でボコれば泣いて謝る。そうして終始会話の主導権は握っておくべきだ。それができないほどに調子を狂わされるのは、自分にとっては不利で、命取りだ。
 そんなフラウロスの内心を露ほども知らず、アンドラスは無邪気に首を傾げる。
「キミはさあ。どうやってリジェネレイトしたの」
 ぴたりとフラウロスは笑うのをやめた。不快だったからだ。アンドラスを冷ややかに見据える。何度も言っているが、他人にぺらぺらと明け渡したい内容の話ではない。
「……またその話か。教えねーっつってんだろ」
「そうなんだよね。だから、キミが教えてくれないから、実際にやってみたんだよ」
 やってみた? ――何を。
 フラウロスは、すっと自分の指の先が冷えたのを感じ取った。腹の辺りが急激に重くなる。
 先程の自分の言葉が、妙に耳に刺さる。
 ――あのバカ、何考えてんだ?
 この瞬間、フラウロスは理解した。
 アンドラスが何を考えて、自分の手首を切り落としたのか。
「キミと同じ状況に陥れば、俺もリジェネレイトできるかと思ったんだ。……死にかければね」
 アンドラスの言葉に、まざまざと先日の感覚が蘇る。
 リジェネレイト。忌々しい記憶だ。
 腹を裂かれ、命がこぼれ落ちていく感覚。真っ暗闇に落ちていって、水面まで浮き上がってこられない鉛の重りを飲み込まされたような。
 死ぬなんて御免だった。
 藁を掴むように、必死に願った。
 ――死にたくねえ、と。
「でも、俺はどうしてもキミにはなれないみたいなんだよね」
 アンドラスの声が、無遠慮にフラウロスの泡沫のような記憶に土足で踏み込んでくる。
「このままギリギリまで生死の境を彷徨ってみるとどうなるんだろう、どうやってリジェネレイトするのだろうか、リジェネレイトする瞬間はどんな感覚なんだろうか、と……興味が抑え切れないんだ。キミみたいに、強い欲求を持つことができない」
 囁く声が、ざらついて妙に耳障りだ。
「死にたくない、と」
「テメェ」
 自分でもさっと顔色が変わるのがわかった。アンドラスの呻き声が聞こえる。気づけばフラウロスは、ベッドの上のアンドラスに馬乗りになって、その喉笛を片手で抑え込んでいた。
 鮮やかな色の髪が、シーツの上で乱れる。
 苦痛を訴える、琥珀色の瞳。
 それを冷ややかに見下ろして、呪詛のように言葉を吐き出した。
「そんなに死にたきゃ、今すぐここで殺してやろうか……」
 手に力を込める。
 確かにフラウロスは願った。死にたくない、と。ただそれは、クソヴィータとあのクソな指輪に命を捧げる代償を許してのことではない。他人に縛られる生など死よりもむごい。
 そんな人の気も知らねえで、気軽にリジェネレイトリジェネレイトと。
 だったらマジで死にかけてみろよ。
 ぎりっと奥歯を噛んだ。そうすれば、それがどれだけ愚かな行為かコイツも少しはわかるんじゃねえのか――何に縋っても生きたいなんて、悪魔に魂を売るような行為がいかに愚かか。手の平の中で、どくどくとアンドラスの血管が脈打つ。俺に懇願してみろよ、と思う。フラウロス、頼むからやめてくれ――と。他人に自分の命を握られる、コイツの言っていることはそういうことだ。首を振り、シーツを蹴って、苦しげに呻くアンドラスの瞳と視線を切り結ぶ。
 瞬間、アンドラスの口元が微かに歪んだ。
 ……笑った?
「……あっ興奮してんじゃねえぞクソ医者! テメェ!」
 それに気付いて飛び退いた。アンドラスの頬の紅潮は、苦痛ではなく興奮の所為だ。ベッドの上で向き合うような態勢になると、けほけほと首を押さえて咳き込みながら、へらへらとした笑顔がすぐに形を取り戻す。
 コイツ。
「いや済まない、キミのお誘いがあまりにも魅力的で……。で? 殺してくれないの」
「萎えたっつーの!」
「それは残念」
「うるせー! テメェに好き勝手利用されて堪るかよ!」
 肩を掴んでガクガクと揺さぶるが、「ハハハ」と笑うさまはまるでぬかるみに足を突っ込んだように手応えがない。クソ、なんだってんだよこの野郎。
「キミの繊細な部分に踏み込んだことは謝るよ。お詫びに手首だけじゃなく腹も切ろうか」
「いらねー! なら俺の解剖を企むのをやめろっつーの!」
「ええ……それは嫌かな……」
 唇に指を当ててひっそりと笑う仕草にぞわっと鳥肌が立って、フラウロスは今度こそベッドから飛び退いた。「冗談だよ」とアンドラスは笑っている。けれどその瞳の奥の光が笑っているのかいないのか、フラウロスには判断がつかない。

 さて、そろそろ日課の検体チェックをするのに起きなきゃ……と何事もなく立ち上がろうとしたアンドラスの体が数歩歩いてふらついた。その肩を抱き止めたのは反射だ。アンドラスが素直にフラウロスにしなだれかかって、やっぱ重傷じゃねえかと思う。
「おいおいテメェ自分で死にかけといてふらついてたら世話ねーだろーが」
「ハハ……治癒力を上げるためにフォトンを回してはみたのだけれど、やっぱりソロモンがいないとどうしても自分で体内で巡らせられるフォトン量には限界があってね……フォトンを含有している癒やしの水か何か外から摂取すればまた違うんだろうけど、今アジトには多分在庫はなかったし……」
 アンドラスの口はよく回っていた。まだ本調子ではないんだろう。まあ手首を切り落とせば当たり前だ。遮るように訊く。
「クソヴィータどこいんの」
「さあ。ブネたちもいないからしばらく戻らないんだと思うけど……あ、そうだ、フラウロス」
「あ? んだ」
 よ、と最後まで言えなかった。
 唇を塞がれたからだ。アンドラスの唇で。
 は? と脳内を疑問符が飛ぶ。
 キスだ。と思ったら舌も入れてきやがって、柔らかく舌を食まれた。ぞわりと背筋に走った悪寒に、反射で突き飛ばそうとしたその衝動を理性で押し止める。今の状態のコイツを突き飛ばしたら多分受け身が取れないだろう。頭でも打ち付けて打ちどころが悪かったら今度こそ死ぬ。それでクソヴィータに難癖つけられんのは面倒だ。
 と、ためらっている間に口内を舌でまさぐられる。舌で押し返そうとするが逆効果で、なんか絡ませるような感じになってしまった。間近で見るアンドラスは感じ入ってるような面してやがるし。
 つーか何でコイツのペースに合わせてんだよ俺もよ。
「……っ何なんだよ! どけ!」
 肩を掴んで無理矢理引き剥がす。恍惚とした表情にひどく腹が立った。いやテメェは何勝手に俺の許可なく俺の唇奪ってんだ。
「はァ……ごちそうさま。フォトンを微量だけどもらったからね、これでしばらく大丈夫そうだ。これは俺の私見なんだけど、ヴィータの体液にはフォトンが溶け出している場合が多くて――」
「いや意味わかんねーんだよクソ医者、この、」
 怒りで言葉が詰まる。もうコイツ、何なんだコイツ。
 それもこれもあのクソヴィータがフォトン回しやがらねえ所為だろ都合良く留守にしやがってぜってえ許さねえ。
「テメーさっさと帰ってきて何とかしろやクソヴィータァ!」
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