惰性に澱む
(2020/08/31)
朝を報せる小鳥の声が聞こえる。どこかからうっすらと柔らかく差し込む光。
アンドラスはんん……と呻いて、瞼を撫でる陽光を手の平で遮ろうとした——が、一向に安寧の暗闇が訪れる気配がない。
どころか光は強まるばかりだ。
渋々目を開けて、状況を理解する。光っているのは自身の手だ。恐らく全身。魂まで。
「……ソロモンだ」
ガバリと勢いよく上体を起こした。ソロモンが呼んでいる。行かないと。自身の体を見下ろし、何も身に付けていなかったものだから大慌てで床に散らばった衣服をかき集め袖を通し、パチンと留金を留めていく。あとは道具だ、縄鏢にポシェット、それからええと。
ああ、そうだ。
シーツをかき分けて、隣で眠っていた男を掘り当てる。その前髪をかきあげ、額に軽いキス。
「行ってくるよ」
それだけを告げて、最後に忘れ物がないか確認して部屋の真ん中に立つ。
もう一度ちらと目をやれば、ベッドの中からにょきりと伸びて、面倒そうにひらひらと振られる手が見えた。
ソロモンの指輪が高らかに掲げられる。
「来てくれ! アンドラス——」
いつだって王の呼びかけに応えるのは魂の震えるものだ。視界が一瞬光に包まれ、次にアンドラスの目が捉えたのは自分の部屋からガラリと変わって森の中だ。踏み締める柔らかな土の匂い、風に撫でられた葉のざわめき。アンドラスは辺りに満ちる朝の瑞々しい空気を吸い込んで、自分を呼び出した主に微笑みかけた。
「やあソロモン、おはよう! 俺を呼んでくれるとは、解剖しがいのある幻獣でもいたかな!」
そう告げれば、ソロモンはいつもありがとう、アンドラス!と勝算を得た笑みを浮かべて言う。頼りにしてるよ、とも。今回はどんな事件だろう。アンドラスは少し浮足だった心で指示を待つ。
けれどその日は反応が違った。ソロモンはあれ、と驚いた後、「ごめん、朝早くだったものな」とすまなそうに眉を下げてアンドラスに対して謝る。おや、何だろう。別に、いつだって呼び出してくれてもいいのだけれど。
「構わないよ、ソロモン」
そう告げてもソロモンのバツの悪そうな表情は変わらないままだ。何だろう。慌てて出てきたから何か不備があっただろうか。全身を見下ろすが、例えばズボンを履き忘れたとか、そういったミスをしている様子は特にない。
アンドラスの疑問を解決したのは、見かねたレラジェの一言だった。
「……お前、頭……寝ぐせすごいことになってるぞ」
「ってことが今日あってさあ」
レラジェがクックッと笑いながら愉快そうにジュースを煽る。それを聞いていた他のメンバーもご飯を食べる手を止め、へえ……と釣られてアンドラスの頭を見るものだから、アンドラスはちょこんと自分の髪の端をつまんでみせた。「今は……直ってるかな?」「おう、いいんじゃねえか」言ったのはラウムだ。ロノウェもうん、と頷いている。デカラビアは……我関せずで店員にメニューを見せていた。「この苺のパフェとやらを持ってこい」「あっこら、ズルいだろオマエ!」「自分だけデザート頼んでんじゃねえ、みんなにもメニュー見せやがれコラ!」「知らん。俺が貴様らに合わせる義理などないだろう」フェニックスも呼べればよかったのにな、とアンドラスは思う。残念ながら彼は今日こちらには来てないらしかった。
集まったのは今日偶然王都に来ていた歳の近いメンバーだ。ソロモンと別れた後、レラジェと王都に寄ってみると、他にも王都に来ていた面々と偶然出会したものだから、レラジェが号令をかけて珍しく一緒に食堂なんかに来ている。
サラダの残りをつつくアンドラスに、不意にレラジェがじっとりとした目を向ける。
「て言うかお前……また徹夜で変な実験でもしてたんじゃないだろうな……?」
「いいや? 昨日はぐっすりよく眠ったよ。流石に今日の呼び出しは早朝だったから、顔を洗っていく暇がなかったんだけどさ」
「ふーん……?」
レラジェから向けられるのはあからさまな疑いの目だ。アンドラスは苦笑する。別に嘘は吐いてないし、吐いたこともないんだけどな。何故だか彼女からは信用がない。
けれど半眼になっていたかと思えば、レラジェは急ににかっと笑った。
「まあでもわかるよ! 私も起きたら髪ぐちゃってなってること多いんだよなー。あれ直すの大変でさ」
「クックック、哀れな……自ら己の愚かさを露呈するか」
「な、何だよデカラビア」
意外な男の参戦にレラジェがたじろぐ。デカラビアはパフェの生クリームをスプーンですくいながらフン、と鼻で笑う。
「寝ぐせは髪に残っている水分の所為でつくものだ。おまえ、横着して髪を完全に乾かさないまま寝ているだろう。……なんだ、図星か。顔が赤いぞ」
「う、うるさいな! オマエはちゃんと乾かしてるっていうのか!?」
「クックック……支配者はどんな些事にも手を抜かないものだ」
……やってるんだ。
「確かに、ここ最近はサボってたな」
アンドラスはここ数日の自分の行動を思い出し、デカラビアの言説に頷く。そう言えば彼の言うとおり、髪を乾かさないまま寝ていたなあ。別に少しくらいなら構わないかと思ったんだけど、今日みたいになるとあんまり格好がつかないし、それに乱れた寝ぐせを朝整えるより、夜きちんと乾かして防止した方が手間が少なくて合理的だねえ。それを聞いて、ラウムとロノウェはへえ、とついていけてなさそうな顔で曖昧に頷いている。髪が短いからあまり影響がないのだろうか。ああでも、とラウムが思い出したように、そういやフェニックスのやつは毎回ちゃんと乾かしてた気がするなと呟いた。確かにフェニックスの髪が朝乱れているところは想像がつかない。彼はそういう面で几帳面そうだ。
ロノウェが首を傾げる。
「でもアンドラス、キミが横着するなんて珍しいよな」
「乾かすのが面倒ならよ、確かグラシャラボラスの野郎がいい油持ってたと思うぞコラ。ちょっと貸してもらってもいーんじゃねーか」
「そうだな……いや」
アンドラスは、少し思案してから首を横に振る。
「今日はがんばってみるよ」
バスタブから出て、置いていたタオルで濡れた全身を拭う。ちらと寝室の方を伺うが、別に待たせてもいいだろうと思う。それより、早朝の召喚のたびにソロモンにあんな風に申し訳なさそうな顔をさせるわけにもいかない。明日も呼ばれてもいいように、きちんと整えていかないとな。鏡の中の自分の濡れた髪を覗き込み、念入りにガシガシとタオルで拭って髪の水分を払っていく。本当は夜風にでも当たれればいいんだろうけど、それは多分——。
思考は背後から伸びてきた手に中断された。
するり、と裸の腹部に回される腕。首筋に押し当てられる唇。
思わず彼の名前を呼ぶ。
「……フラウロス」
「遅えぞ」
彼がそう唸るように呟くと、吐息が首の後ろの皮膚を撫でてくすぐったさに思わず身をよじった。じわ、と頬に熱が集まる。……と、いけない。こうして流されるからダメなんだ。
洗面台に手をついて、振り返らずに鏡の中の彼に告げる。
「ねえ、するのさ」
「おう」
「髪が乾くまで待ってくれないか」
「あー……?」
フラウロスが訝しげに声を発した。彼の腕と共に、体にまとわりつく気怠い空気。彼は俺に密着していて、背に彼の腹が触れて熱い。
そして当たっているのは当然腹だけじゃない。期待からの震えに立っていられなくて、体重を洗面台にかけて何とか支えた。
力の抜けた手から、するりとタオルが滑り落ちていく。
笑う気配。
「髪なんざ、オメェが朝しかめっ面で整えてんのがおもしれーんじゃん」
……ああ、今日もダメそうだな。
朝を報せる小鳥の声が聞こえる。どこかからうっすらと柔らかく差し込む光。
アンドラスはんん……と呻いて、瞼を撫でる陽光を手の平で遮ろうとした——が、一向に安寧の暗闇が訪れる気配がない。
どころか光は強まるばかりだ。
渋々目を開けて、状況を理解する。光っているのは自身の手だ。恐らく全身。魂まで。
「……ソロモンだ」
ガバリと勢いよく上体を起こした。ソロモンが呼んでいる。行かないと。自身の体を見下ろし、何も身に付けていなかったものだから大慌てで床に散らばった衣服をかき集め袖を通し、パチンと留金を留めていく。あとは道具だ、縄鏢にポシェット、それからええと。
ああ、そうだ。
シーツをかき分けて、隣で眠っていた男を掘り当てる。その前髪をかきあげ、額に軽いキス。
「行ってくるよ」
それだけを告げて、最後に忘れ物がないか確認して部屋の真ん中に立つ。
もう一度ちらと目をやれば、ベッドの中からにょきりと伸びて、面倒そうにひらひらと振られる手が見えた。
ソロモンの指輪が高らかに掲げられる。
「来てくれ! アンドラス——」
いつだって王の呼びかけに応えるのは魂の震えるものだ。視界が一瞬光に包まれ、次にアンドラスの目が捉えたのは自分の部屋からガラリと変わって森の中だ。踏み締める柔らかな土の匂い、風に撫でられた葉のざわめき。アンドラスは辺りに満ちる朝の瑞々しい空気を吸い込んで、自分を呼び出した主に微笑みかけた。
「やあソロモン、おはよう! 俺を呼んでくれるとは、解剖しがいのある幻獣でもいたかな!」
そう告げれば、ソロモンはいつもありがとう、アンドラス!と勝算を得た笑みを浮かべて言う。頼りにしてるよ、とも。今回はどんな事件だろう。アンドラスは少し浮足だった心で指示を待つ。
けれどその日は反応が違った。ソロモンはあれ、と驚いた後、「ごめん、朝早くだったものな」とすまなそうに眉を下げてアンドラスに対して謝る。おや、何だろう。別に、いつだって呼び出してくれてもいいのだけれど。
「構わないよ、ソロモン」
そう告げてもソロモンのバツの悪そうな表情は変わらないままだ。何だろう。慌てて出てきたから何か不備があっただろうか。全身を見下ろすが、例えばズボンを履き忘れたとか、そういったミスをしている様子は特にない。
アンドラスの疑問を解決したのは、見かねたレラジェの一言だった。
「……お前、頭……寝ぐせすごいことになってるぞ」
「ってことが今日あってさあ」
レラジェがクックッと笑いながら愉快そうにジュースを煽る。それを聞いていた他のメンバーもご飯を食べる手を止め、へえ……と釣られてアンドラスの頭を見るものだから、アンドラスはちょこんと自分の髪の端をつまんでみせた。「今は……直ってるかな?」「おう、いいんじゃねえか」言ったのはラウムだ。ロノウェもうん、と頷いている。デカラビアは……我関せずで店員にメニューを見せていた。「この苺のパフェとやらを持ってこい」「あっこら、ズルいだろオマエ!」「自分だけデザート頼んでんじゃねえ、みんなにもメニュー見せやがれコラ!」「知らん。俺が貴様らに合わせる義理などないだろう」フェニックスも呼べればよかったのにな、とアンドラスは思う。残念ながら彼は今日こちらには来てないらしかった。
集まったのは今日偶然王都に来ていた歳の近いメンバーだ。ソロモンと別れた後、レラジェと王都に寄ってみると、他にも王都に来ていた面々と偶然出会したものだから、レラジェが号令をかけて珍しく一緒に食堂なんかに来ている。
サラダの残りをつつくアンドラスに、不意にレラジェがじっとりとした目を向ける。
「て言うかお前……また徹夜で変な実験でもしてたんじゃないだろうな……?」
「いいや? 昨日はぐっすりよく眠ったよ。流石に今日の呼び出しは早朝だったから、顔を洗っていく暇がなかったんだけどさ」
「ふーん……?」
レラジェから向けられるのはあからさまな疑いの目だ。アンドラスは苦笑する。別に嘘は吐いてないし、吐いたこともないんだけどな。何故だか彼女からは信用がない。
けれど半眼になっていたかと思えば、レラジェは急ににかっと笑った。
「まあでもわかるよ! 私も起きたら髪ぐちゃってなってること多いんだよなー。あれ直すの大変でさ」
「クックック、哀れな……自ら己の愚かさを露呈するか」
「な、何だよデカラビア」
意外な男の参戦にレラジェがたじろぐ。デカラビアはパフェの生クリームをスプーンですくいながらフン、と鼻で笑う。
「寝ぐせは髪に残っている水分の所為でつくものだ。おまえ、横着して髪を完全に乾かさないまま寝ているだろう。……なんだ、図星か。顔が赤いぞ」
「う、うるさいな! オマエはちゃんと乾かしてるっていうのか!?」
「クックック……支配者はどんな些事にも手を抜かないものだ」
……やってるんだ。
「確かに、ここ最近はサボってたな」
アンドラスはここ数日の自分の行動を思い出し、デカラビアの言説に頷く。そう言えば彼の言うとおり、髪を乾かさないまま寝ていたなあ。別に少しくらいなら構わないかと思ったんだけど、今日みたいになるとあんまり格好がつかないし、それに乱れた寝ぐせを朝整えるより、夜きちんと乾かして防止した方が手間が少なくて合理的だねえ。それを聞いて、ラウムとロノウェはへえ、とついていけてなさそうな顔で曖昧に頷いている。髪が短いからあまり影響がないのだろうか。ああでも、とラウムが思い出したように、そういやフェニックスのやつは毎回ちゃんと乾かしてた気がするなと呟いた。確かにフェニックスの髪が朝乱れているところは想像がつかない。彼はそういう面で几帳面そうだ。
ロノウェが首を傾げる。
「でもアンドラス、キミが横着するなんて珍しいよな」
「乾かすのが面倒ならよ、確かグラシャラボラスの野郎がいい油持ってたと思うぞコラ。ちょっと貸してもらってもいーんじゃねーか」
「そうだな……いや」
アンドラスは、少し思案してから首を横に振る。
「今日はがんばってみるよ」
バスタブから出て、置いていたタオルで濡れた全身を拭う。ちらと寝室の方を伺うが、別に待たせてもいいだろうと思う。それより、早朝の召喚のたびにソロモンにあんな風に申し訳なさそうな顔をさせるわけにもいかない。明日も呼ばれてもいいように、きちんと整えていかないとな。鏡の中の自分の濡れた髪を覗き込み、念入りにガシガシとタオルで拭って髪の水分を払っていく。本当は夜風にでも当たれればいいんだろうけど、それは多分——。
思考は背後から伸びてきた手に中断された。
するり、と裸の腹部に回される腕。首筋に押し当てられる唇。
思わず彼の名前を呼ぶ。
「……フラウロス」
「遅えぞ」
彼がそう唸るように呟くと、吐息が首の後ろの皮膚を撫でてくすぐったさに思わず身をよじった。じわ、と頬に熱が集まる。……と、いけない。こうして流されるからダメなんだ。
洗面台に手をついて、振り返らずに鏡の中の彼に告げる。
「ねえ、するのさ」
「おう」
「髪が乾くまで待ってくれないか」
「あー……?」
フラウロスが訝しげに声を発した。彼の腕と共に、体にまとわりつく気怠い空気。彼は俺に密着していて、背に彼の腹が触れて熱い。
そして当たっているのは当然腹だけじゃない。期待からの震えに立っていられなくて、体重を洗面台にかけて何とか支えた。
力の抜けた手から、するりとタオルが滑り落ちていく。
笑う気配。
「髪なんざ、オメェが朝しかめっ面で整えてんのがおもしれーんじゃん」
……ああ、今日もダメそうだな。
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