しない、できない、やりたくない
(2020/05/03)
「……へえ、それは大変だったねえ! みんな無事でよかった」
ウンガン島から帰ってきたソロモン達を出迎えたアンドラスは、いつもの調子でにこやかにそう言った。動く死体が発生して? 解剖してみたらメギドラル製の特殊なカビが原因で? 島に渡ったらそいつを実験していたやつがいた、と。仮面のメギドか……ううん、心当たりがないなあ。
ソロモンはわけもなく後ろめたい気持ちになる。
目の前のこの青年が無類の解剖好きであることは、アジト内では周知の事実だ。
「俺もバティンもいない日だったから、フラウロスが医者を探してたって聞いて焦ったけど……ユフィールがいてくれたんだな。よかった。でも人手が足りないときは遠慮なく呼んでくれよ、手伝えるからさ」
「あ、ああ……その、アンドラス……?」
「うん。なに?」
いつもどおりの柔らかい笑みを向けられて、ソロモンは固まる。ごめん、呼んでやれなくて――そう一言、謝っておいた方がいいだろうか。でも果たしてその謝罪には意味があるのか? ソロモンは腕を組んで考える。アンドラスはきっと、この態度からすれば小首を傾げて何も謝られる覚えはないと言うだろう。そもそも、解剖が好きだから、呼ばれなかったことを聞けばきっとショックだろうだなんて、こっちが勝手に思っていることだ。本人からそんな申告はない。それに呼ばない判断は間違ってはいなかった。こちらの手落ちもない。
それでも一言謝っておきたいと思うのは、きっとアンドラスに薄情だと思われたくないという気持ちが先行しているんだろう。俺が別に、何も考えず彼を呼ばなかったのではなかったこと。そんな自己保身のためだけに、アンドラスに余計に気を遣わせるわけにはいかない。軍団長としての立場だってあるし。
でも本当に傷つけやしなかっただろうか。
アンドラスの顔をちらりと見やる。負の方面の感情を滅多に表に出さない彼のその内心は、一見しただけではわからない。
一人悶々とするソロモンをよそに、アンドラスがひょいと視線を隣へと向けた。その先には、まさに今ソロモンたちと一緒に帰ってきて、酒とツマミを夕食後の厨房から拝借してきたと思しき薄い鈍色髪の男がいる。「ああ、フラウロス! キミは当分、誰かの恨みを買って刺されるとかしないでくれよ! 菌がまだ体内に残ってるかもしれないんだ、動く死体にはなりたくないだろ?」「うっせ、そうそう死ぬかっつーの!」「アハハ、キミが一番不安だから言ってるんじゃないか!」。そう軽口を叩くくらいには通常運転だ。
「……じゃ、俺は自室に戻るから。何か体に異変とかあったら呼んでくれ。まあ、今日は医務室にバティンがいるから大丈夫だとは思うけどね」
そう言ってくるりと踵を返して去っていくアンドラスの背を見送りながら、ソロモンは思わず「フラウロス」と隣を通り過ぎようとする男を呼び止めていた。フラウロスは心底面倒そうな顔をしながらも「んだよクソヴィータ」と一応は答えてくれる。
「……なあ、フラウロス。どう思う?」
「あー? 何が」
「アンドラスのことだよ……あれ、落ち込んでると思うか? いや、ユフィールがシナズを解剖するって聞いて、真っ先にアンドラスのことは思い浮かんだんだよ……適任だろうとは思った。でも予定があるって言ってたし、あんな危険な状況で呼ぶのは躊躇われて……」
「いや、クソヴィータよぉ」
ハ、とフラウロスの嘲笑がソロモンの言葉を遮る。
「オメェ、それを今俺に言ってどーすんだよ! なんだ、甘やかしてやろうか? アイツそんなことで落ち込まねえだろ~ってよお!」フラウロスの的確な皮肉の言葉は鋭くソロモンの心をえぐった。う、と胸を押さえる。「できるだけ少ねえ人数で動きてえっつったのはテメェじゃねーかクソヴィータ。今更アイツのこと傷つけたかも~とか、ちっと考えんのがおせーんじゃねーの?」
「い、いや傷つけたとまでは……ただ、何か俺がアンドラスにできることってないかなって……」
「じゃオメェがシナズの代わりに解剖材料になってやればぁ?」
「ぐ。そ、それはできない……」
「じゃ、ぐだぐだ悩まねえこった。オメェが悩んでも意味ねーし」
フラウロスは肩を竦める。
「テメェの判断に責任持つってのはそういうことだろ」
と、ソロモンには偉そうに言ったものの、フラウロスにだって負い目はあった。
「おい、アンドラス。いるんだろ」
一応、声をかけて扉を開けたのもその表れだ。普段なら無断で窓から入っている。
部屋は明かりがついておらず真っ暗だった。しかし中に人の気配はある。寝ているのだろうか。そーっと音を立てないように入り込み、記憶と勘と、人よりはよく利く夜目を頼りに机上の燭台に明かりを灯す。
ぼんやりと明るくなった部屋は相変わらず主の几帳面さが表れ出ていて清潔だ。ベッドのシーツは整えられ、瓶なんかの小物類もすべて棚にしまわれて管理されている。机周りだけ、直近で資料を広げていたような形跡があって、木製の椅子は引かれたままだ。
床に敷かれているのは毛足の短い、そこそこいい値のしそうな絨毯。
そしてそこにうつ伏せのアンドラスが縦に伸びていた。
「……いや……何してんのオメェ…………」
思わず声を掛けると、アンドラスの肩がぴくりと動く。
「見てわからないかい。落ち込んでる……」
アンドラスは床に体の前面をべたりとつけたままそう言った。手も足も甲が絨毯の毛を撫でていて、だらんと垂らされた四肢は力ない。くぐもった声を発する後頭部を眺めながら、またアホみたいな落ち込み方してやがるな、と思う。そういえば、こんな様子のコイツは初めてかもしれない。よっこいせ、と転がったアンドラスの体をパンケーキのようにひっくり返す。
ばたん、と無抵抗に仰向けにされたアンドラスは、フラウロスの存在を素通りして、空虚な目で視線を天井のあたりにさまよわせていた。落ち込んでいる――というか、放心している。その中で表情だけは特に普段と変わりなく、その口の端に柔らかい笑みを貼り付けている。
ただ一切瞬きをせず、その目はカッと真っ直ぐに天井を見つめていたが。
いや、怖えよ。
据わった目の前でぶんぶんと手を振ると、段々と焦点が手前の方に合ってくる。数十秒して、ようやくその琥珀色の目がこちらを捉えた。
「……フラウロス?」
「おい無視してんじゃねーぞ! ったく、そんなに解剖できなかったのがショックかよ~?」
「ああ、うん……死体を動かすカビだなんて……どうして呼んでくれなかったんだい……ああ……はあ……見てみたかった……」
ああ……と正気に戻ったアンドラスが両手で顔を覆う。
「ってクソヴィータに直接言やいーじゃねーか。クソヴィータも気にしてたぜ、オメェも呼べばよかったってな」
「だって言ってもどうしようもないだろう、終わったことなんだから……それに動く死体になる条件がはっきりとわかっていなかった時点で、大勢呼んで被害を広げたくないという彼の判断は的確だった。俺が責める理由は……ないだろ…………そう、何も問題ない……でも俺なら、大丈夫だったのに……」
アンドラスは油の足りないブリキ人形のようにギギギ、と上体を起こしたかと思うと、側にしゃがんだフラウロスの腕にすがりついてくる。そのさまがまるで当のシナズのようで、こいつほんとにあの動く死体見なかったんだろーな……と思わず半眼で見てしまう。
が、こういう様子のアンドラスは新鮮で悪くない。
「なあ……どうして呼んでくれなかったんだ……?」
「おーおー、慰めてやろうか?」
常にない様子が愉快で、笑ってキスでもしてやろうかと背に手を回して顔を近づけた。
しかし「あ、ちょっと待って」とぐっと肩を押し戻される。
「キスは駄目だよ」
それまでの落ち込みを忘れたかのようにあっけからんと言われて、フラウロスは思わず「ハ?」と片眉を跳ね上げた。
「いや、そのカビ体内に蓄積されるんだろう? で、死体になったら繁殖する。じゃ、仮にキミの中にまだカビ菌が残ってたら、粘膜接触したらうつるじゃないか。キミから完全に排泄されたとみなされるまで、キスは駄目だろう、さすがに。興味はあるけど……あ、あとセックスもね」
興味はあるけど、とアンドラスは念を押すように言うが、フラウロスには聞こえていない。
フラウロスの中では、理屈よりもアンドラスから「拒絶された」ことへの反発の方が思考の内側で軽く爆発を起こしていた。今駄目だっつったか? クソ医者のくせに生意気だろ。
「は~~~!? いやフザけんな、やらせろよ! 大体んなもん、死体にしか繁殖しねえんだからオメェが死ななきゃいーだけじゃねーか!」
「俺がこれからしばらく死なない保証なんてどこにもないじゃないか」アンドラスもフラウロスの肩に手を添えたままむっとして言う。「それとも、俺が死んだらキミが頭部を破壊してくれるかい」
急に投げつけられた嫌な問いに、フラウロスは顔を歪めた。
と同時に、ウンガン島へ渡った直後のことを思い出す。
ユフィールが町に残んのならその間の回復役はどーすんだよ。ま、道々困るようなら誰か呼びゃいーか? それこそアンドラスとかよ、と楽観していたときのソロモンの言葉。
――あんまり新しいメンバーを呼びたくないんだよ。
――下手したらみんながシナズになってしまう可能性もあるからさ。
「…………」
それを聞いた瞬間、躊躇が生まれた。自分が呼べばいいと思っていた男。
それが、シナズになってしまう可能性がある。
「俺がそのシナズになったら、キミが跡形もなく焼いてくれるかい。それなら、してもいいよ……」
アンドラスが動く死体になってしまったら。
俺は多分焼けるし、焼く。
だがそれは。
アンドラスの手を、思わずぐっと力を込めて握る。
「…………というか、今その前提でするなら島で俺を呼んでくれてもよかったじゃないか。キミがいながら、どうして呼んでくれなかったんだ……ああ……解剖…………」
あっ思い出しやがった。再び目がうつろになってきたアンドラスに、フラウロスは舌打ちをした。恨み言が面倒くせえ方向に表出してやがる。
一瞬よぎった嫌な想像をブンブンと首を振って頭から追い出す。どの道死ななきゃシナズにはならねーんだ。そしてこの頑丈な医者のことだ、そうそう死ぬことはないだろう。
「まあ、俺はキミがうつしてくれるっていうならそれでもいいけど。というか、それがいいな」一方のアンドラスは、うん、と一人で勝手に頷いて納得を得ている。かと思えば、自然な動作で腕をするりとフラウロスの首に回してきた。瞳にお互いの姿を映す距離で、うっとりと微笑む。「なあ、やっぱりエッチしよう。それでうっかり俺が死んだら解剖してみてくれ。どんな風に繁殖するのか、俺も見てみたい」
「いや『俺も』って……それオメェ死んでんじゃねーか!」
「あ、そうか。……なんとか仮死状態でいけないかな?」
「頭切って頭蓋骨割っても生きてたらこえーだろ……」
怪しいことを訥々と言い始めたアンドラスの体をよいせと土嚢を持ち上げるようにして抱え、ベッドの上に放り出す。「ええ、しないのかい」となおも諦め悪く言いすがってくるアンドラスをシーツに押し込みながら「いーからさっさと普通に寝やがれ!」と怒鳴る。
軽い揉み合いの末、フラウロスも一緒になってシーツに潜り込み、ようやくアンドラスはおとなしくなった。
悲しげに眉根を寄せ、天井に向かってぼそぼそと呟くだけになる。
「ああ……動く死体……解剖したかったなあ……」
「ハイハイ。俺で我慢しろー」
「本当に? キミ本当に解剖させてくれる?」
「絶対絶対。何なら念書書いてやるよ」
「本当? 絶対だよ……」
言い聞かせるようにとんとんと胸を叩いて眠りを促してやると、やがてようやく神経が落ち着いてきたのか、フラウロスの手のリズムに合わせてぱち、ぱち……と瞼が落ちていき、素直に眠りに就こうとする。いやガキかよ? 触れ合った部分の体温は温かだ。しばらくして、口元から微かな寝息が聞こえてくる。
ちゃんと呼吸をしていて。
自身の存在を侵されずに生きている。
あの島から帰った直後の今だと、なんだか得難い――ことのような気もする。多分、呼ばなくてよかったんだ。目を閉じる。自分が焼き尽くした仲間たちの、最後に酒を一緒に交わしたときの笑顔が、一瞬瞼の裏に泡のように浮かんで消えた。
さて、コイツが起きたら念書を書かせられねーようにどう言い逃れしてやろうか。あとはそればかりを考えながら、フラウロスもアンドラスの隣で少しだけ眠った。
「……へえ、それは大変だったねえ! みんな無事でよかった」
ウンガン島から帰ってきたソロモン達を出迎えたアンドラスは、いつもの調子でにこやかにそう言った。動く死体が発生して? 解剖してみたらメギドラル製の特殊なカビが原因で? 島に渡ったらそいつを実験していたやつがいた、と。仮面のメギドか……ううん、心当たりがないなあ。
ソロモンはわけもなく後ろめたい気持ちになる。
目の前のこの青年が無類の解剖好きであることは、アジト内では周知の事実だ。
「俺もバティンもいない日だったから、フラウロスが医者を探してたって聞いて焦ったけど……ユフィールがいてくれたんだな。よかった。でも人手が足りないときは遠慮なく呼んでくれよ、手伝えるからさ」
「あ、ああ……その、アンドラス……?」
「うん。なに?」
いつもどおりの柔らかい笑みを向けられて、ソロモンは固まる。ごめん、呼んでやれなくて――そう一言、謝っておいた方がいいだろうか。でも果たしてその謝罪には意味があるのか? ソロモンは腕を組んで考える。アンドラスはきっと、この態度からすれば小首を傾げて何も謝られる覚えはないと言うだろう。そもそも、解剖が好きだから、呼ばれなかったことを聞けばきっとショックだろうだなんて、こっちが勝手に思っていることだ。本人からそんな申告はない。それに呼ばない判断は間違ってはいなかった。こちらの手落ちもない。
それでも一言謝っておきたいと思うのは、きっとアンドラスに薄情だと思われたくないという気持ちが先行しているんだろう。俺が別に、何も考えず彼を呼ばなかったのではなかったこと。そんな自己保身のためだけに、アンドラスに余計に気を遣わせるわけにはいかない。軍団長としての立場だってあるし。
でも本当に傷つけやしなかっただろうか。
アンドラスの顔をちらりと見やる。負の方面の感情を滅多に表に出さない彼のその内心は、一見しただけではわからない。
一人悶々とするソロモンをよそに、アンドラスがひょいと視線を隣へと向けた。その先には、まさに今ソロモンたちと一緒に帰ってきて、酒とツマミを夕食後の厨房から拝借してきたと思しき薄い鈍色髪の男がいる。「ああ、フラウロス! キミは当分、誰かの恨みを買って刺されるとかしないでくれよ! 菌がまだ体内に残ってるかもしれないんだ、動く死体にはなりたくないだろ?」「うっせ、そうそう死ぬかっつーの!」「アハハ、キミが一番不安だから言ってるんじゃないか!」。そう軽口を叩くくらいには通常運転だ。
「……じゃ、俺は自室に戻るから。何か体に異変とかあったら呼んでくれ。まあ、今日は医務室にバティンがいるから大丈夫だとは思うけどね」
そう言ってくるりと踵を返して去っていくアンドラスの背を見送りながら、ソロモンは思わず「フラウロス」と隣を通り過ぎようとする男を呼び止めていた。フラウロスは心底面倒そうな顔をしながらも「んだよクソヴィータ」と一応は答えてくれる。
「……なあ、フラウロス。どう思う?」
「あー? 何が」
「アンドラスのことだよ……あれ、落ち込んでると思うか? いや、ユフィールがシナズを解剖するって聞いて、真っ先にアンドラスのことは思い浮かんだんだよ……適任だろうとは思った。でも予定があるって言ってたし、あんな危険な状況で呼ぶのは躊躇われて……」
「いや、クソヴィータよぉ」
ハ、とフラウロスの嘲笑がソロモンの言葉を遮る。
「オメェ、それを今俺に言ってどーすんだよ! なんだ、甘やかしてやろうか? アイツそんなことで落ち込まねえだろ~ってよお!」フラウロスの的確な皮肉の言葉は鋭くソロモンの心をえぐった。う、と胸を押さえる。「できるだけ少ねえ人数で動きてえっつったのはテメェじゃねーかクソヴィータ。今更アイツのこと傷つけたかも~とか、ちっと考えんのがおせーんじゃねーの?」
「い、いや傷つけたとまでは……ただ、何か俺がアンドラスにできることってないかなって……」
「じゃオメェがシナズの代わりに解剖材料になってやればぁ?」
「ぐ。そ、それはできない……」
「じゃ、ぐだぐだ悩まねえこった。オメェが悩んでも意味ねーし」
フラウロスは肩を竦める。
「テメェの判断に責任持つってのはそういうことだろ」
と、ソロモンには偉そうに言ったものの、フラウロスにだって負い目はあった。
「おい、アンドラス。いるんだろ」
一応、声をかけて扉を開けたのもその表れだ。普段なら無断で窓から入っている。
部屋は明かりがついておらず真っ暗だった。しかし中に人の気配はある。寝ているのだろうか。そーっと音を立てないように入り込み、記憶と勘と、人よりはよく利く夜目を頼りに机上の燭台に明かりを灯す。
ぼんやりと明るくなった部屋は相変わらず主の几帳面さが表れ出ていて清潔だ。ベッドのシーツは整えられ、瓶なんかの小物類もすべて棚にしまわれて管理されている。机周りだけ、直近で資料を広げていたような形跡があって、木製の椅子は引かれたままだ。
床に敷かれているのは毛足の短い、そこそこいい値のしそうな絨毯。
そしてそこにうつ伏せのアンドラスが縦に伸びていた。
「……いや……何してんのオメェ…………」
思わず声を掛けると、アンドラスの肩がぴくりと動く。
「見てわからないかい。落ち込んでる……」
アンドラスは床に体の前面をべたりとつけたままそう言った。手も足も甲が絨毯の毛を撫でていて、だらんと垂らされた四肢は力ない。くぐもった声を発する後頭部を眺めながら、またアホみたいな落ち込み方してやがるな、と思う。そういえば、こんな様子のコイツは初めてかもしれない。よっこいせ、と転がったアンドラスの体をパンケーキのようにひっくり返す。
ばたん、と無抵抗に仰向けにされたアンドラスは、フラウロスの存在を素通りして、空虚な目で視線を天井のあたりにさまよわせていた。落ち込んでいる――というか、放心している。その中で表情だけは特に普段と変わりなく、その口の端に柔らかい笑みを貼り付けている。
ただ一切瞬きをせず、その目はカッと真っ直ぐに天井を見つめていたが。
いや、怖えよ。
据わった目の前でぶんぶんと手を振ると、段々と焦点が手前の方に合ってくる。数十秒して、ようやくその琥珀色の目がこちらを捉えた。
「……フラウロス?」
「おい無視してんじゃねーぞ! ったく、そんなに解剖できなかったのがショックかよ~?」
「ああ、うん……死体を動かすカビだなんて……どうして呼んでくれなかったんだい……ああ……はあ……見てみたかった……」
ああ……と正気に戻ったアンドラスが両手で顔を覆う。
「ってクソヴィータに直接言やいーじゃねーか。クソヴィータも気にしてたぜ、オメェも呼べばよかったってな」
「だって言ってもどうしようもないだろう、終わったことなんだから……それに動く死体になる条件がはっきりとわかっていなかった時点で、大勢呼んで被害を広げたくないという彼の判断は的確だった。俺が責める理由は……ないだろ…………そう、何も問題ない……でも俺なら、大丈夫だったのに……」
アンドラスは油の足りないブリキ人形のようにギギギ、と上体を起こしたかと思うと、側にしゃがんだフラウロスの腕にすがりついてくる。そのさまがまるで当のシナズのようで、こいつほんとにあの動く死体見なかったんだろーな……と思わず半眼で見てしまう。
が、こういう様子のアンドラスは新鮮で悪くない。
「なあ……どうして呼んでくれなかったんだ……?」
「おーおー、慰めてやろうか?」
常にない様子が愉快で、笑ってキスでもしてやろうかと背に手を回して顔を近づけた。
しかし「あ、ちょっと待って」とぐっと肩を押し戻される。
「キスは駄目だよ」
それまでの落ち込みを忘れたかのようにあっけからんと言われて、フラウロスは思わず「ハ?」と片眉を跳ね上げた。
「いや、そのカビ体内に蓄積されるんだろう? で、死体になったら繁殖する。じゃ、仮にキミの中にまだカビ菌が残ってたら、粘膜接触したらうつるじゃないか。キミから完全に排泄されたとみなされるまで、キスは駄目だろう、さすがに。興味はあるけど……あ、あとセックスもね」
興味はあるけど、とアンドラスは念を押すように言うが、フラウロスには聞こえていない。
フラウロスの中では、理屈よりもアンドラスから「拒絶された」ことへの反発の方が思考の内側で軽く爆発を起こしていた。今駄目だっつったか? クソ医者のくせに生意気だろ。
「は~~~!? いやフザけんな、やらせろよ! 大体んなもん、死体にしか繁殖しねえんだからオメェが死ななきゃいーだけじゃねーか!」
「俺がこれからしばらく死なない保証なんてどこにもないじゃないか」アンドラスもフラウロスの肩に手を添えたままむっとして言う。「それとも、俺が死んだらキミが頭部を破壊してくれるかい」
急に投げつけられた嫌な問いに、フラウロスは顔を歪めた。
と同時に、ウンガン島へ渡った直後のことを思い出す。
ユフィールが町に残んのならその間の回復役はどーすんだよ。ま、道々困るようなら誰か呼びゃいーか? それこそアンドラスとかよ、と楽観していたときのソロモンの言葉。
――あんまり新しいメンバーを呼びたくないんだよ。
――下手したらみんながシナズになってしまう可能性もあるからさ。
「…………」
それを聞いた瞬間、躊躇が生まれた。自分が呼べばいいと思っていた男。
それが、シナズになってしまう可能性がある。
「俺がそのシナズになったら、キミが跡形もなく焼いてくれるかい。それなら、してもいいよ……」
アンドラスが動く死体になってしまったら。
俺は多分焼けるし、焼く。
だがそれは。
アンドラスの手を、思わずぐっと力を込めて握る。
「…………というか、今その前提でするなら島で俺を呼んでくれてもよかったじゃないか。キミがいながら、どうして呼んでくれなかったんだ……ああ……解剖…………」
あっ思い出しやがった。再び目がうつろになってきたアンドラスに、フラウロスは舌打ちをした。恨み言が面倒くせえ方向に表出してやがる。
一瞬よぎった嫌な想像をブンブンと首を振って頭から追い出す。どの道死ななきゃシナズにはならねーんだ。そしてこの頑丈な医者のことだ、そうそう死ぬことはないだろう。
「まあ、俺はキミがうつしてくれるっていうならそれでもいいけど。というか、それがいいな」一方のアンドラスは、うん、と一人で勝手に頷いて納得を得ている。かと思えば、自然な動作で腕をするりとフラウロスの首に回してきた。瞳にお互いの姿を映す距離で、うっとりと微笑む。「なあ、やっぱりエッチしよう。それでうっかり俺が死んだら解剖してみてくれ。どんな風に繁殖するのか、俺も見てみたい」
「いや『俺も』って……それオメェ死んでんじゃねーか!」
「あ、そうか。……なんとか仮死状態でいけないかな?」
「頭切って頭蓋骨割っても生きてたらこえーだろ……」
怪しいことを訥々と言い始めたアンドラスの体をよいせと土嚢を持ち上げるようにして抱え、ベッドの上に放り出す。「ええ、しないのかい」となおも諦め悪く言いすがってくるアンドラスをシーツに押し込みながら「いーからさっさと普通に寝やがれ!」と怒鳴る。
軽い揉み合いの末、フラウロスも一緒になってシーツに潜り込み、ようやくアンドラスはおとなしくなった。
悲しげに眉根を寄せ、天井に向かってぼそぼそと呟くだけになる。
「ああ……動く死体……解剖したかったなあ……」
「ハイハイ。俺で我慢しろー」
「本当に? キミ本当に解剖させてくれる?」
「絶対絶対。何なら念書書いてやるよ」
「本当? 絶対だよ……」
言い聞かせるようにとんとんと胸を叩いて眠りを促してやると、やがてようやく神経が落ち着いてきたのか、フラウロスの手のリズムに合わせてぱち、ぱち……と瞼が落ちていき、素直に眠りに就こうとする。いやガキかよ? 触れ合った部分の体温は温かだ。しばらくして、口元から微かな寝息が聞こえてくる。
ちゃんと呼吸をしていて。
自身の存在を侵されずに生きている。
あの島から帰った直後の今だと、なんだか得難い――ことのような気もする。多分、呼ばなくてよかったんだ。目を閉じる。自分が焼き尽くした仲間たちの、最後に酒を一緒に交わしたときの笑顔が、一瞬瞼の裏に泡のように浮かんで消えた。
さて、コイツが起きたら念書を書かせられねーようにどう言い逃れしてやろうか。あとはそればかりを考えながら、フラウロスもアンドラスの隣で少しだけ眠った。
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