【再録】イオンクロマトグラフィー


1.イフリートリデーカン


 頬が焼けるように熱かった。
 実際には頬だけでなく、全身が焼け焦げていたのかもしれない。熱気の中に立ち込める悪臭に、地面に接した部分の皮膚が爛れている様が脳裏にありありと思い浮かぶ。無造作に放り出されうつ伏せに倒れた体のすぐ耳元で、ぼこぼこと空気が熱を持って弾けていた。マグマが煮え滾るその音は、どれだけ意識を逸らそうとも耳について離れず、遂には体の奥底からも沸き上がる始末だ。皮膚が爛れて肉が焼き切れるのが先か、内蔵が煮えて骨が溶けるのが先かは最早時間の問題だった。このザレッホ火山という名のついた地獄のような場所において、生まれて間もない人間もどきの体がまだ本来の形を留めていることの方が、奇跡のようなものなのだろう。
 目はもう開かなかった。熱に炙られ続けた所為で、目としての機能が極端に衰えていた。ぼやりと周囲の色しか認識できない状態で、痛みを感じながら目を開く意義も見出せず、やがて瞼を開くことをやめた。同様に、呼吸も最小限に留めた。息をする度に気道が焼け、生きるために必要な行為が痛みとなって体を蝕んだ。
 体の状態を確かめようにも、首から下はぶつりと脳との接続が切られたように動かない。いっそ生きながら魔物に喰われた方が楽かもしれなかったが、微かな息遣いこそ聞こえるものの、肝心の魔物たちはこちらを警戒するばかりで、一向に近付いてくる気配はなかった。一思いに救われることもなく、ただただ痛みのみを感じながら密やかに這い寄る死の吐息をすぐ近くに感じていた。

「……おい。おい」
 それが魔物の唸り声ではなく人間の声だと理解するのに、少しの時間を要した。慣れない音を認識し、沈みかけていた意識が徐々に覚醒する。空気の焼ける熱さの中にあって、それは第四音素をまとったかのような涼やかさを持っていた。ここが火山の奥深くでなければあるいは、その声は蒸発せずにこの場に留まり続けたのかもしれない。一瞬の清涼が、熱気の中にかき消える。
 人間の声を聞くのは久しぶりだった。最後に聞いたのはどれくらい前だっただろうか。思考をかき集めようとして、しかしすぐにそれを放棄する。昼も夜もわからない場所で、あれは何日前だったかと考えることなど、およそ馬鹿のすることとしか思えない。 それでも一瞬吹き抜けた風を惜しく感じて、無理矢理に瞼を持ち上げた。
 しばらく闇に閉ざしていた目は、外界からの刺すような光に耐え切れずに反射的に閉じてしまう。瞼の裏に残像が焼き付いて、その痛みの向こうに、二本の、白い、脚、らしきものが見えた。それは己の体についているはずのものとそう変わらない細さのように見えたが、己の体についている棒きれとは比べ物にならないほど小綺麗なようにも見えた。真白の布で上品に包まれたそれは、この地獄のような場所にはまるで似つかわしくない。一体どんな物好きがこんな掃き溜めに降りて来たのかと目玉を脚の付け根の方へと動かそうとしたが、生憎とうつ伏せの体勢のままではその人間の顔まで認識することはできなかった。諦めて、ゆっくりと目を閉じる。
「おい。生きてるか」
 それにしても、どこかで聞いたことのある声だった。どこかと言っても、記憶と呼べるようなものなど、ここと、この火山の奥底に廃棄される前にいた研究施設のものしか持ち合わせていない。こんな場所で人間を見るのはこの物好きが初めてだったので、必然的にここに投げ捨てられる前の話になる。そうして記憶を辿るが、無理に思い出そうとした途端、急激な頭痛と吐き気に襲われ、思わず呻き声が漏れ出た。しかし胃からは何もあがってくる気配はない。胃から戻すべき食糧など、久しく摂取していなかった。



 最後に食事らしきものを摂取したのは、火山の奥底に棄てられる前だ。生まれてからしばらくは、白く無機質な部屋に押し込められ、味のしないパンが配給され、それを貪るように口にしていたことを思い出す。
 生まれた瞬間の記憶は定かでない。足に力が入らず、自立するのが困難であったように思う。あらかじめ植わっていた膨大な知識量に知覚がついていかず、ぺたりとその場に座り込んでいたその体は、乱暴に持ち上げられ検査用の音機関にかけられた。その結果を見た周囲の人間の落胆の溜め息と、冷えた視線。
 ――また出来損ないか。
 それが生まれて初めて認識した人間の声だった。もしかしたら、もう少し汚い言葉だったかもしれない。何にせよ、自分が望まれてそこにいたのでないことだけは、吐き捨てられた言葉からうっすらと読み取ることができた。ぼんやりと周囲を見回すと、同じような外見の体が四体いて、同じように乱雑に扱われていたので、ああ、自分も同じ外見をしているのだろうと、そう思った。
 そうして造り出された自分たちは、選別され、たった一体を除いてはすべて火山の奥底へと廃棄された。何故か、なんて考えるまでもなかった。『出来損ない』。自分たちが呼ばれるその言葉が全てを表していた。火口へ蹴り落とされる瞬間、自分の後に造られた、出来損ないではなかった一体と目が合ったことだけは妙にはっきりと覚えている。ばちりとかち合った緑色の目には何の感情も映っておらず、自分が一体どんな表情を浮かべながら地獄へ蹴り落とされようとしているのかを客観的に眺めることが出来た。



 がっ、と体に衝撃が走った。視界が揺れる。見ると、先程上品と称した細い足が乱暴に離れていくところだった。どうやら蹴られたらしい。蹴りに伴ってあるはずの痛みはなく、それが蹴りが緩やかだったためなのか、痛みを感じる機能が麻痺しているためなのか、今の状態では判断がつかない。
「返事しなよ。それとも言葉を理解する脳がないのか?」
 苛立ちの混ぜられた言葉に、最早反応するだけの力は残っていなかったが、蹴られて黙っているのも癪だった。それにこの人間の声は、第一声こそ清冽さを持っていたものの、聞けば聞くほどうるさくて不快だった。精一杯の力を振り絞って顔を歪めると、「ああ、それだそれ」と今度は何故か嬉しそうな声が降ってきた。「なんだ、ちゃんと生きてるんじゃないか」
「……うる……い……」
 声を、息を絞って口から出す。息を吸う度に喉が熱に焼けるようで、吸った息を吐き出すことすらままならない。何故自分がこんな目に遭わなければならないのか。じわじわと動き出した思考が、幾千と繰り返した問いを再び囁き出す。こんな、痛みを感じるためだけに生まれて死んでいくのなら、生まれてこなければよかったんだ。顔を歪めて口を閉じると、ふと視界に影が落ちた。

 そこから先は、何が起こったのかわからなかった。ひやりとした冷気とともに、「ほら、応急処置で回復してやるからしっかりしろよ」という声が降ってくる。その言葉を聞き、意味を咀嚼し、そうして初めて体の痛みが和らいでいることを認識した。徐々に体に力が戻ってくる。同時に、それまで鈍く疼くのみだった全身の痛みが急激に鋭く増し、悲鳴が漏れた。正常な機能を取り戻した痛覚に、体力が許せばのたうちまわりたい衝動に駆られる。
「な……んで……」
 何故助けるような真似をするのか。自分は不要な存在ではなかったのか。このまま死にゆく存在では。痛みに散り散りになる思考をなんとかかき集めて疑問を投げかけるが、その人間は答えない。確かに聞こえたはずのその問いに、返る言葉はなかった。
「うーん、もうちょっと従順そうなのがよかったけど……。でもお前しかいないしなあ」
 その人間が、辺りを見回した気配がした。ささやかな衣擦れの音に釣られて、ゆっくりと瞼が持ち上がる。不思議なことに、視力も幾分か回復していて、そこで初めて周囲の状況を視覚によって認識することができた。
 そして、目を開いたことを後悔した。

 『それ』を目にした途端、びくりと体が震えた。
 それは人の形をしていた。長く目を閉じていた所為で気付かなかった。体一つ分向こう側に、人間のようなものが倒れていた。ぼんやりとしか周囲を捉えていなかった意識が徐々にはっきりとしてくる。ぐつぐつと煮え滾るマグマの中に、それはいた。
 死体だ。
 灼熱の中で、輝きを失った緑色の瞳とばちりと目が合った。全身の音素が逆立つ。その顔には見覚えがあった。ここに廃棄される前、散々目にした素体。体は半分熱に溶けて原型を留めておらず、目からは光が失われていたが、その外見は間違えようもなかった。自分と同じ顔をした死体。これは、自分だ。
「それか」
 その体は明らかに死んでいたが、第五音素に侵食されすぎた所為か、体から音素が乖離する様子はなかった。死ぬ間際まで体を焼かれる痛みに苦しんだのは相違ない。瞳に残った苦痛と恐怖の色が、それを雄弁に物語っていた。同じ姿、同じ形。一歩間違えれば自分がそうなっていたのだ。
 ざらりとした恐怖が、全身を撫でる。
「それはもう駄目だな。運がいいよ、お前」
 そんな声が、どこか遠くで聞こえた。運がいい。死んでしまった体は運が悪い。死ななかったこの体は運がいい。その言葉を何度も反芻する。目の前の死体のように、死にたくはなかった。
「そうだ。お前、何番目?」
 その単語に、ぐるりと彷徨っていた思考が中断され、遠い記憶が段々と呼び戻される。そう言えばここに廃棄される前、あの白い施設の中では、同じ顔をした自分たちは皆番号で管理されていた。そうだ、ぼくは、ボクは確か。その問いに答える前に、体を乱暴にまさぐられる。
「ええと、タグがこの辺に……と。ああ、あったあった。五番目か。いや、最初のひとりは僕が殺したから、正確には六番目だが、まあ……それは今は、いい」
 独り言のような呟きが聞こえた次の瞬間、体を乱暴に抱え上げられた。膝の裏と背に手を差し込まれ、「よっと」という掛け声とともに体が持ち上がる。
「じゃあ今からお前の名前はシンクだ。五番目」
 古代イスパニア語で五番目を示す言葉だよ、と何のひねりもない愉快そうな声が聞こえた。
 最後に目を開けて見えたのは、見慣れた子供の顔だった。



 この地獄のような場所に棄てられる前、同じ顔をした生き物が六体いた。同じ顔、同じ声、同じ形。そして一番優れたものだけが元の世界に残り、残りの五体はここに廃棄された。ここは腐ったゴミ捨て場だ。
 しかしこの子供は、記憶にあるどの素体よりも活き活きとして、そしてどの素体よりも美しかった。
 胡乱げな視線に気付いたのか、その子供は何故自分のことを知らないのかとでも言いたげに首を傾げて言い放つ。
「僕はイオンだよ。まあ、お前もイオンだし、そこで死んでるのもイオンなんだけど……そうだな、強いて言うなら僕はお前たちのオリジナル。元祖イオンだ」
 そう言って、『イオン』はまるで自分こそが神であるかのようにふてぶてしく笑った。
「敬えよ」
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